江戸時代の埼玉県には川越藩、岩槻藩、忍藩などがありましたが、その中でもよく知られているのが川越です。
川越は五代将軍綱吉の側用人として重用された柳沢吉保が城主だったり、現在も鍵形に曲がった道路や「郭」「大手」などの城下町らしい地名が残り、さらに明治期の蔵造りの街並も保全され、多くの観光客を集めています。
しかし、行田(ぎょうだ)市の礎となった忍(おし)藩も10万石を拝する阿部氏、松平氏が城主として長く君臨し、石高では決して川越に劣るものではありません。居城となっていた忍城は沼沢地に造られた城で、1590年石田三成を総大将とする豊臣軍勢の水攻めにも落城せず、守りの堅固な城であったと言われ「忍の浮き城」として名城に数えられる所以になっています。野村萬斎が主演、榮倉奈々、佐藤浩市が共演し2012年に公開された映画「のぼうの城」の舞台がこの忍城です。
[ 1823(文政6)年の忍城:堀が広い ]
忍城は東京湾から60kmほど入り込んだ内陸にあり、利根川と荒川に挟まれた標高20m前後の平坦な地形で、一面が沼沢や深田の湿地帯で沼地を掻き上げて築城されたと考えられています。
忍城は広い堀や沼地によって周辺から隔てられ、樹木がうっそうと茂っていましたが、1700年頃元禄年間になると、三層櫓、二層櫓などが造られ大名の居城としての体裁が整ってきました。
江戸時代が終わり明治に入ると、多くの城郭は県庁などの役所として使われたり、陸軍省が鎮台などとして利用していましたが、それ以外の不用となった城郭は大蔵省に引き継がれました。
忍城は、1871(M4)年7月14日の廃藩置県から11月14日の第一次府県統合までの三ヶ月間だけ存在した忍県の県庁が二の丸に置かれていました。その後、忍県は埼玉県に統合されたため忍城を県庁舎として使うことはなくなりました。陸軍省でも忍城は湿地が多く水難のおそれがあるため不用とされたのです。
使うあてがなくなり廃城が決定した忍城は、入札による売却が進められました。入札は1873(M6)年に行われ、総額2095円余りで忍城内の建物は売却され、落札者により建物はすべて解体されました。
1883(M16)年には、秩禄処分などで困窮した士族授産にあてるため、残っていた堀が埋め立てられ湿地が開墾され共有地が設置されました。埋め立てには埼玉(さきたま)古墳群の古墳盛り土も使われ、本丸、二の丸、三の丸周辺の堀がほとんど姿を消しました。
[ 1883(M16)年:埋め立ては進むが堀・土塁はまだ存在 ]
堀の埋め立てによって隔たりのなくなった本丸と諏訪曲輪は、1875(M8)年に成田公園となり、1894(M30)年には忍公園と改称され、桜の植樹、土塁の補修などが行われました。しかし、国道125号(当時は県道熊谷忍線)の整備により再び分断されてしまいます。
戦後になると忍町体育会関係者により、公園の拡張計画がもちあがります。1947(S22)年、県に「忍公園拡張許可申請」が提出され国道125号南側の土塁を崩して堀の埋め立てがさらに進められ、1949(S24)年、本丸には市営球場が造られ忍城址は大きく様変わりしました。公園拡張の理由は、国道125号により分断され狭隘となったため「堤塘を切り崩し池沼を埋め立て公園を拡張し、体位向上のため種々の競技等のできる広場を設けたい。」というものでした。“体位向上”という言葉に敗戦後の世相が伺えます。
[ 1967(S42)年:中央の野球場が本丸付近 ]
(国土地理院空中写真 MKT676-C7-5)
沼地や堀が埋められ細長く残った水路には市街地の生活排水が流れ込み、悪臭を放ち蚊や蝿の発生源ともなりました。さらに、降雨により汚水が井戸に染みこみ伝染病を発生させることもありました。
このような事態を改善するため、外務官僚として海外生活経験のあった当時の奥貫市長は、下水道事業に着手し1950(S25)年から工事を始めほぼ10年で市街地の下水道工事を終えます。この結果、衛生状態は改善されましたが、市街地に残されていた水路の多くが埋め立てられ、その上は道路などに変わりました。
「忍の浮き城」が浮かんでいた“水面”は、ほとんど見ることができなくなり、街の景観は大きく変わりました。
[ 忍城を分断した旧125号(2024年) ]
本丸付近で野球場建設のための埋め立てが進められていましたが、市街地の南部には大きな沼が残っていました。この沼を利用した公園計画が「文化衛生都市の建設」のスローガンの下に進められます。
現在の水城公園です。
[ 1953(S28)年の行田都市計画水城公園設計 ]
水城公園は1954(S29)年2月18日に総合公園として都市計画決定され、計画面積18.32ヘクタールのうちほぼ半分の10.30ヘクタールが1964(S39)年までに開設されました。都市計画決定の際に建設省に提出した説明書によれば、基本的な方針は「恵まれた水郷的風物を保存し… …中国江南水郷式造園手法を加味して、新機軸を案出する。」とされていました。
また、池はできる限り現況を保存し、特殊橋として新設される2橋は、鉄筋コンクリート造で外装は「支那風」と計画されていました。水城公園は、湖畔の柳、石造り風の太鼓橋などが作り出す景観に大陸的な雰囲気があります。
忍城は関東七大名城に数えられているとの自負もあるのに、城跡の一部に造られる公園を「支那風」としたのは、単に関係者の好みだったのでしょうか。
[ 現在の水城公園(2024年):なんとなく中国的風情が漂う ]
さて、開設された10.3ヘクタール以外の部分はどうなったのでしょうか?
公園設計図で陸上競技場が計画されていた場所は、市役所、産業文化会館などの建物が建っています。このため既に建物が立っている部分を、公園の区域から除外する都市計画変更が2012(H24)年3月2日に告示されました。
陸上競技などの運動施設は、125号バイパス沿いに整備された行田市総合公園に集約したことが変更の理由です。
都市計画は変更されましたが、博物館のある本丸付近と水城公園の間には文化会館や小学校、さらに多くの住宅があり、残念ながら公園の一体性を損ねているのが現状です。
[ 再建された御三階櫓(2012年) ]
忍城本丸跡付近には、1988 (S63)年に行田市郷土博物館のシンボルとして御三階櫓が再建されました。
櫓は4階建で内部は忍城や行田市の歴史に関する資料が展示され、4階は展望室も兼ねていますが開口部(窓?)には太い縦格子があるため市街を一望する訳にはいきません。
御三階櫓は1702年に建てられた実質的に天守閣としての機能をもつ建物であり、平和な江戸時代にあっては城主の威厳を示す建物でした。現在のように高い建物がない江戸時代では、三層しかない御三階櫓でもかなり離れた場所からも見ることができたはずです。
[ 御三階櫓の位置:赤丸が再建場所、黒丸が御三階櫓 ]
御三階櫓は天守閣の機能は持つもののあくまでも櫓のひとつで、実際にあった場所は本丸から南に300m以上離れたところでしたが、再建されたのは本丸の隣にある諏訪曲輪付近です。
「明治六年調製忍城図」を見ると、御三階櫓が再建された本丸や諏訪曲輪付近は樹木が茂っているだけの所で、建物らしきものは見えません。御三階櫓と思しき建物は本丸南側の飛地のようなところに描かれています。
二の丸には藩主のすまいだった建物があり、これが忍県の庁舎として3ヶ月だけ使われました。
[ 御三階櫓跡(2024年):このあたりに櫓があった ]
博物館として使われている御三階櫓の建設は、埼玉古墳で発掘された鉄剣から115文字の銘文が発見されたことにより建設気運が高まり、建設位置は市民アンケートにより野球場が移転した忍城址になりました。土地確保の問題もなく、市の中心部にある忍城址であれば博物館の建設には絶好の土地だと考えられますが、シンボルとはいえ史実と異なった場所に御三階櫓がいかにもそれらしく再建されてしまいました。
詳しい歴史を知らない人は、昔この場所に御三階櫓があった、と思いこんでしまうに違いありません。
[ 忍城ジオラマ(2024年):樹木が茂る場所が本丸 ]
忍城周辺は、堀の埋め立てによって新たに土地が造り出され、その上に道路が造られたところが多くあります。
堀や水路は姿を消しましたが、武家屋敷があったところや町人町では昔の形のまま道路が残っているところがあります。
[ 鈎形の道路(2024年):昔のままの姿 ]
特に町人町は建物が密集していたため新たに造られた道路は少なく、狭い間口で長い奥行きの敷地が現在の地図でもよく分かります。さらに、埋め立てられて宅地や道路になった堀や水路の痕跡を市内で見ることができます。
行田市天満にある市道には、高欄だけが残っている『新兵衛橋』という昭和7年5月竣工の橋があります。水路は埋め立てられ宅地になっていますが、令和の時代になっても高欄は残されています。
橋の名となった『新兵衛』は行田市の名誉市民である宮澤龍次郎の父で、龍次郎は父新兵衛の意志を継いで、天文年間(1532~55)から天保年間(1830~44)の約300年間の無縁仏を奉安する『新兵衛地蔵塚』を橋の西にある清善寺内に造りました。
地蔵塚は1931(S6)年5月8日に落慶供養が行われているので、それに併せて『新兵衛橋』も架けられたと思われます。
[ 新兵衛橋(2024年):高欄だけが残っている橋 ]
行田市の隣、鴻巣市には石田三成が忍城を水攻めにした時の「石田堤」が残っています。
映画「のぼうの城」では、水攻めのために高い堤が造られ堰が開かれると溜められた水が一気に流れ込み、津波のように家々を流すシーンがありましたが、残っている堤は数十cmから高いところでも2、3m程度です。
石垣のような構造物であれば見応えがありますが、土の堤なので案内板でもない限り見過ごしてしまいます。
[ 石田堤(2013年):鴻巣市内に残る堤 ]
足袋づくりで栄えていた行田ですが、これといった産業がない今、人口減を止める手立ては見当たりません。 川越市のように観光が新たな産業になれるのでしょうか?
<参考資料>