[ 地下鉄の駅(2015年) シェルターになり得る? ]
ウクライナ、イスラエル、南シナ海など世界各地で戦争や紛争が勃発し、世界情勢が不安定になりつつある近年、シェルターといえば核戦争による放射線から身を守る施設が連想されます。核シェルターに避難することで被災時は助かるかもしれませんが、その後放射能で汚染された世界で食料と飲料水が尽きたそのあとはどんな生活が待っているのでしょうか?。核シェルターのほかに東日本大震災の経験やから今後起こりうる南海トラフ地震に備え、津波などの水害時に船(潜水艦?)のように浮かぶシェルターもあるようです。
道路を注意して通っていると、沿道の自然環境を保全するためにトンネル状になっていたり、ネットで覆われている区間があります。これらの施設もシェルターと呼ばれています。
「シェルター(shelter):風雨や危険を避ける避難所、保護する、避難する」
[ 圏央道(2024年)猛禽類のためのシェルター ]
開発事業や公共事業が行われる際に、個体数減少の著しい猛禽類に関しては保護団体が工事の中止を求め、中止できない場合は最大限の保護対策を要求し、事業者もそれに応じて様々なシェルターを造らされています。一時期、希少野生動植物種に指定されたていたオオタカが、「開発VS環境保護」の対立構図によく取り上げられ、埼玉県内でもオオタカの生息地付近では道路の上にシェルターが造られたことがあります。
[ 所沢堀兼狭山線(2002年)]
雑木林が多かった埼玉県の県南西部を通る県道所沢堀兼狭山線が部分開通した2002(H14)年11月25日の埼玉新聞には、次のような記事が載っていました。
『……所沢堀兼狭山線は、平行して約3キロ西を走る県道所沢狭山線の慢性的な渋滞の緩和を目指し、片側2車線の道路として着工。今回の開通で6.5キロが開通したことになる。しかし県の「ふるさと緑の景観地」に指定された狭山市分の道路構造などが決まらず、全線開通の見通しは立っていない。今回の開通区間にある雑木林にはオオタカが生息することから、道路上に長さ50~70mの金網のシェルターを設置したほか、小動物の生息域を分断しないよう22ヵ所に暗渠を設けた。……』
記事にある「ふるさと緑の景観地」には、オオタカから下を走る車が見えないようにするため、中央分離帯と両側の歩道に高木が植えられ、落枝・落葉が通行車両支障を来たさないようシェルターが設けられ、開通に至りました。
[ 所沢堀兼狭山線(2013年) ]
そのオオタカは2017(H29)年8月29日の「絶滅のおそれのある野生動植物の種の保存に関する法律施行令の一部を改正する政令」により国内希少野生動植物種から解除されました。オオタカの個体数が増えた理由は、昨今の環境に順応したのか、シェルターなど保護対策の効果があったのか、環境省のホームページを見ても説明されていません。
オオタカが国内希少野生動植物種から解除されたあとも、このシェルターを存続させなければならないのでしょうか?
[ 大宮栗橋線 ]
自然環境を保護するシェルターが盛んになる以前に、埼玉県上尾市では人間の生活環境を保全するためのシェルターが着工寸前で取りやめになった騒動がありました。
さいたま市内の国道17号から久喜市内の国道4号を結ぶ県道大宮栗橋線の新設とほぼ同時に、沿道の上尾市原市に当時の日本住宅公団が原市団地を造ったことが発端でした。現在は大宮市がさいたま市となり、国道16号東大宮バイパスが造られ国道125号も整備されたので、大宮栗橋線は実質的には国道16号と国道125号を結ぶ県道で、名称はさいたま栗橋線に変わっています。(以後も、旧名称の大宮栗橋線で記述)
[ 原市団地付近の大宮栗橋線(2024年)]
大宮栗橋線は、東北線沿線の市町村から蓮田~久喜間の交通不便を解消するために、1950年頃から国道として整備が要望されていました。当時は蓮田から久喜への陸路は、岩槻に出て御成街道を経て幸手から久喜へと大回りしていました。
戦後の国土開発に向けて1953(S28)年に「道路整備費の財源等に関する臨時措置法」が成立し、翌年度から揮発油税が道路特定財となり第一次道路整備五箇年計画が開始されました。1958(S33)年には「道路整備緊急措置法」となり、国を挙げて道路整備が進められるようになりました。
埼玉県でも道路網の検討が行われ、大宮栗橋線は1962(S37)年4月1日に県道認定され、幅員17~21mの4車線道路として事業が始められました。用地買収は順調に進んだようで1964(s39)年には工事に着手し、上尾市原市団地付近を除き暫定2車線で、昭和42年の埼玉国体開催時に供用できるように工事が進められました。全延長18.8kmもある道路ですが、予定通り1967(s42)年9月に開通しました。
[ 原市団地(1967 05 05) ]
(国土地理院 MKT672-C7-13抜粋)
一方、道路工事とほぼ同じ時期に、日本住宅公団が上尾市原市に住居棟46棟、管理事務所など6棟からなる総戸数1,583戸、総面積約137,000㎡の原市団地を造り始めました。1963(S38)年に着工され、大宮栗橋線が開通する前年の1966(S41)年11月15日には入居が始まるという、超ハイスピードで工事が行われました。原市団地は最寄りの東大宮駅から2.5kmもあったため、新たに開通する大宮栗橋線は団地からも期待される道路でした。
埼玉県内では1960年台はじめから、草加松原(草加市)、新所沢(所沢市)、霞ヶ丘・上野台(ふじみ野市)など大規模な公団団地で入居が進んでいましたが、駅前か徒歩数分の立地条件でした。人口集中が進み駅周辺で団地建設用のまとまった土地の入手が困難になりつつあったようです。
[ 交通量の推移 ]
大宮栗橋線が開通した頃は原市団地の区間のみが4車線でしたが、それ以外は暫定的に2車線だったため交通量は1万台未満で、一般的な2車線の道路と変わらない状況でした。しかし、1970(S45)年から1972(S47)にかけて交通量はほぼ倍増し、12時間で2万5000台前後の車が通過するようになりました。暫定的に2車線で開通した区間が4車線の道路に整備され、急激に交通量が増えたと思われます。
2021(R3)年の交通量調査によると、大宮栗橋線の久喜市内ではありますが2万4000台/12hrなので、現在と同じ程度の交通量に達しています。
[ 騒音測定 ]
原市団地自治会では、大宮栗橋線開通1年後の1968(S43)年9月に「騒音防止対策委員会」が発足しているので、開通時から騒音が大きな問題となっていたようです。同年には団地自治会による騒音測定も行なわれています。交通量の増大とともに騒音も大きくなり、交通量が2万5000台/12hr前後となった1972(S47)年は、時間帯によっては70ホンを大きく上回ようになりました。70ホンは在来線の車内や蝉の声が目安となるそうです。
高度経済成長の裏側で生じた様々な「公害」が社会問題として取り上げられるようになり、後追いではありますが生活環境を保全する法律が制定され基準が設けられるようになりました。
・騒音規制法:1968(S43)年6月11日公布 1968(S43)年12月1日施行
・公害対策基本法(環境基本法の制定により1993年廃止):1967(S42)年8月3日 公布・施行
自動車騒音に関しては、騒音規制法により自動車単体の騒音の許容限度及び道路沿道の騒音に関する要請限度、公害対策基本法により騒音の環境基準が1971(S46)年に定められました。
大宮栗橋線が開通した頃は法による規制がなかったので、自動車が大きなエンジン音や排気音を出して走っていたと思われます。近年では車両の性能が向上するとともにハイブリッド車などが増え、乗用車はタイヤが路面に接することで生じるロードノイズだけが感じられるくらいです。
[ 1971年の騒音に関する基準 ]
騒音対策を求める団地住民の活動は、1968(S43)年の知事あて要望書提出に始まり、日本住宅公団、埼玉県、上尾市へ陳情が行われました。1971(S46)年5月19日には第65回国会の衆議院建設委員会で原市団地の騒音問題が取り上げられ、答弁に立った高橋道路局長は次のように答えています。
『…昭和三十七年に、…大宮−栗橋線の開発を開始したわけであります。…当時はまだ全くの原っぱでございまして、…そういう道路の建設を見込んで住宅計画があとからなされたように聞いておりますが、…こういう幹線道路のことでございますので、御指摘のように多大の交通量がございます。…住宅にお住まいの方はたいへん困っておいでになるというふうなことを聞きましたので、さっそく県当局に命じまして、道路管理者として住宅公団との間に十分に対策を講ずるように最近指示したわけであります。その対策につきましては、…でき上がった道路につきましては、防音の壁をつくるという方法しか実は残されていないわけでございますが、…壁の高さに問題がございまして、完全に音を遮断するというふうな防音の効果を発揮することがなかなか困難な状況にございます。…道路管理者である県と住宅公団との間にただいま協議を開始させておる状態でございます。』
大宮栗橋線も原市団地も用地買収をしているので、県も公団もそれぞれの事業は計画時点で承知していたはずです。ただ、事業に着手した時点では、騒音公害が社会問題になる前であり騒音に対する基準すらない時代なので、このような問題が生じるとは想定できなかったのでしょう。
[ 防音壁と成長した樹木(2024年)]
建設省道路局の指示があったためか、県と公団が騒音対策をはじめます。
1971(S46)年6月から公団が沿道に275本の植樹を行うとともに、道路側の15棟について他の公団団地への移転希望を受け付け、122戸の希望のうち約半数の58戸が原市団地内、西上尾団地、尾山台団地などへ移転しました。この時の状況を朝日新聞は「122世帯が希望 上尾市原市 団地の”騒音疎開”」と報じていました。また、公安委員会は1972(S47)年2月に、団地内を通る500m区間の速度規制を40km/hに引き下げましたが、効果はほとんどなかったようです。規制速度が守られないのはいつの時代も同じです。
これまでの対策では効果がないため、団地住民は「県道の地下道化」「大型車の通行禁止」を住民大会で決議し、1972(S47)年12月には上尾市長が県に対して地下道化を陳情します。騒音規制法の要請限度を上回る状態なので、法に基づき上尾市長が道路管理者に対し道路の改善について意見を行ったようです。県道は地下を通し上部は公園等にする案です。
[ 地下道化案 ]
地下道化は騒音対策としては大きな効果が見込まれますが、左右を団地に挟まれた道路では通行させながらの施工が困難であり、斜路となる取り付け部分を含め交差道路が県道に接続できないなど大きな課題があり、現実的な対策ではありませんでした。その後も県関係者による現地視察や県議会でも一般質問が行われました。騒音問題は国道16号東大宮バイパスにも飛び火し、地下化を要望する「国道16号問題対策協議会」が発足し協議に時間を費やしたため、原市・瓦葺地区は約4年遅れの1976(S52)年にようやく着工できました。
大宮栗橋線の道路構造による対策については、1974(S49)年2月22日に知事と自治会代表者との会談が設けられ、県の対策としてシェルター案が提示されます。シェルター案は地下道化に比べコストは下がりますが、6億円近い工事費が必要となります。道路局長が国会の委員会答弁で防音壁しか方法がないと言っているにもかかわらず、このような大胆な案が県から出されたのは、1972(S47)年に革新系の畑知事が初当選したことも影響していたのでしょうか。
[ シェルター案 ]
大宮栗橋線の車道部分を覆うシェルター案は、地下道化と同様に騒音対策には大きな効果が見込まれ、団地自治会でもシェルター案を受け入れる方向で検討が進められました。路線バスのルート変更と折り返し地点の移設などのデメリットがあるものの、1974(S49)年5月6日の住民大会の決定として条件付きではありますが「原市団地自治会は、シェルター案について県知事案を基本的に受け入れる」と最終回答します。
県は同年8月22日に条件に対する最終回答を行い、昭和49年9月県議会で予算を確保、翌年3月には日本住宅公団と建設費用負担協定を締結し、工事に向けて前進します。工事は49~50年度の2か年の予定でした。
[ 穴あきシェルター案 ]
ところが、バスルートの変更など団地以外の周辺住民への説明に入ると、騒音対策の検討の場に加えられず具体的なシェルター案すら知らされていなかった周辺住民から不満の声が上がったようです。すべての排気ガスが両端に集中するうえ、県道がふさがれることで生活環境が悪化する、との反対意見です。
周辺住民の意見を踏まえ県は、1975(S50)年4月11日、まず団地自治会にシェルター両端に排気ガス抜き穴を設けた改良案を提示します。同月28日に団地自治会から「周辺住民の立場も考慮し、不満ながら受け入れる」との回答を得た県は、すぐさま30日に周辺住民にシェルター改良案を提示します。
しかし、シェルター改良案に対して、騒音対策に重点を置くばかりでシェルター案と同じ問題が解決されていない、と周辺住民からは5月16日に不満回答。
地域住民の意見の対立は激しさを増し、団地自治会からは昭和50年5月21日に「県道大宮栗橋線のシェルター工事早期施工等について」の請願が、5月31日には周辺住民から「上尾市原市団地シェルター設置案白紙撤回について」の請願が県議会に出されます。それぞれ6月、9月の県議会で審議されましたが審議未了で結論は出ません。
双方の意見が対立したままで対策を講じることができない県は、1976(S51)年7月21日に埼玉県・上尾市・団地自治会・周辺住民の四者会談を行います。内容は不明ですが、シェルター以外の対策検討を進めるといった内容だと思われます。
[ 7m防音壁案 ]
県は1976(S51)年11月21日に団地住民に、歩道と車道の間および中央分離帯に7mの防音壁を設ける案を提示。翌年1月20日には周辺住民にも説明を行います。
騒音予測では、7mの防音壁を設ければ昭和60年の推定交通量4万8000台/日でも、1~3階は当時の環境基準(夜間50ホン)を超過しない効果があるというものです。排気ガスを減らすことはできませんが、排気ガスの集中についてはシェルターを設けない状況と同じです。
7mの防音壁は戸建て住宅とほぼ同じ高さになり、団地内の通風、日照に支障が生じるうえ、4・5階は防音サッシが必要でありバスルートも変更となるため、団地自治会からさらなる改善要望が出されます。周辺住民が意見していた排気ガスの集中はなくなりますが、バスルートが変更になるため生活環境では問題は残ります。
[ 3m防音壁案 ]
さらなる改善策は、防音壁の高さは通風・日照等の改善のため3mに、大宮栗橋線に路線バスが出入りできるように防音壁を設置しない区間を設け、出入りの際の見通しを確保するため位置は官民境界とし、環境基準を超える住戸は防音サッシは設ける、という案です。道路構造で騒音を減少させる割合は下がり、住宅構造での対応が多くなりました。
排気ガスの総量を減らすことは県も公団が対応できない要求事項ですが、騒音対策については団地自治会、周辺住民の意向を最大限取り入れ、県と公団が対策を実施することとなりました。
1977(S52)年3月8日に埼玉県、上尾市、団地自治会、周辺住民の四者会談をおこない、翌日同意確認書を受け、道路構造による騒音対策は3mの防音壁に決定しました。
騒音防止に最大の効果がある対策ではありませんが、地域にとって最良の対策に落ち着いたと思われます。
大宮栗橋線の開通から10年後の1977(S52)年7月29日に防音壁は完成、防音サッシの設置は県から公団に依頼し道路側の棟について昭和52年度内に行われたようです。
団地住民と周辺住民の間に激しい対立があったことを知っている人はどのくらい残っているのでしょうか?
[ 高さ3mの防音壁(2024年) ]
今日、防音壁は景観上の問題はありますが各地の道路で設置され、原市団地の防音壁も珍しいものではなくなりました。東京外環道とその高架下を走る国道298号は防音壁が多用された最たる道路で、巨大な蛇がのたうちまわっているようで、その内側を走るとトンネルの中を走っているようです。
[ 東京外環道と国道298号(2012年) ]
現在では、環境影響評価(環境アセスメント)の制度が確立され、大規模な開発事業や公共事業を実施する前の段階で、事業者自らが事業の実施による環境への影響を調査・予測・評価し、環境に配慮した事業の計画・実施が事業者に求められています。
大宮栗橋線の建設時にはこのような制度がなく、道路側、住宅側が特段の配慮をせずにそれぞれの事業が進められました。また、騒音問題が表面化した後の対策検討が団地住民にのみを対象に行われ、悪影響を被ることが想定される周辺住民を加えていなかったことも、対策決定までに長い時間を費やさざるを得ない大きな原因の一つでした。
旧公団住宅は建設から相当年数が経過し建て替えが進められていますが、原市団地が建て替えられる際には交通量の多い4車線道路があることを前提にして、防音壁の必要がない建物の配置や構造で建て替えられるのでしょうか。
<参考資料>