[ 熊谷駅北口(2024年)]
太平洋戦争では米軍の空襲により、国内の主要都市が被災し多くの人命と財産が失われました。
1942(S17)年4月18日のドゥーリットル中佐率いるB25による初空襲以来、終戦の1945(S20)年8月15日まで、東京、大阪、名古屋などの大都市をはじめ軍事施設や生産施設がある都市が空襲を受けました。太平洋側を通る東海道は、五十三次といわれる江戸時代の宿場から発展した都市が多くありますが、戦争中の空襲や艦砲射撃によって大きく姿を変えてしまいました。
空襲と言えばこのような大都市での出来事と思いがちですが、埼玉県の北部にある熊谷市にも空襲があったのです。
[ 空襲による被災状況 ]
熊谷市は、終戦前日の8月14日午後11時30分頃から82機のB29よる空襲を受けました。高度3000~5000mから8,084発、593.4トンの爆弾が投下され、罹災面積は市街地の7割以上にあたる358,000坪(約118ヘクタール)に及び、234名が亡くなり3,630戸が被災したのです。
爆撃された理由は、熊谷市に中島飛行機(株)の飛行機部品製造地や製品の分配センターがある、とされたためですが、空襲された地域は住宅が建ち並ぶ普通の市街地でした。『人間の証明』『野生の証明』の作者である森村誠一氏の一家も、この空襲に遭遇し焼け出されました。
県内では熊谷市のほか川口市、浦和市なども罹災しましたが熊谷市の被害が最も大きく、1946(S21)年10月9日に県内で唯一、戦災地復興のための特別都市計画法に基づく指定(いわゆる戦災指定都市)を受けました。
川口市は東京初空襲のドゥーリットル中佐隊による初空襲時の被害です。
[ 名古屋市久屋大通(2015年):戦災復興で造られた100m道路 ]
終戦後直ちに設置された戦災対策審議会は、1945(S20)年11月5日に戦災復興院(初代総裁は阪急を育てた小林一三)となり、同年12月30日に『戦災地復興計画基本方針』が閣議決定され、戦災都市で復興計画の立案が始められました。
基本方針には『… …復興計画は産業の立地、都市農村の人口配分等に関する合理的な方策により過大都市の抑制並びに地方中小都市の振興を図る… …』とあり、大都市への産業や人口の集中に対する反省がみられます。さらに、土地利用計画を策定して計画実現のため地域・地区をできる限り精密に指定し、土地利用計画に応じた街路網を構成することなど、理想的な都市を造り上げようとしています。たとえば街路は『将来の自動車交通及び建築の様式、規模に適応させ、防災、保健及び美観に資すること』『主要幹線街路の幅員は中小都市において36m以上、大都市においては50m以上』『必要な箇所には幅員50m以上ないし100mの広路又は広場を配置し防災及び美観の構成を兼ねさせる』など、都市の防災や景観にも配慮した高い水準を掲げていました。
[ 戦災概況図 熊谷:復員帰還者に被災状況を知らせるため ]
熊谷市は1946(S21)年2月に戦災復興院から係官が派遣され、被災地を視察したその日の夜に熊谷戦災復興計画基本方針案が樹立されました。この基本方針案に沿って市内部で議論が重ねられ、戦災復興計画が決定されましたが、被災地が点在していたため計画立案では苦労があったようです。
[ 昭和21年度竣功図 ]
復興計画の骨格である街路計画は、東西方向の幹線となる中仙道(国道17号)は幅員25m(駅前通~桜町通は28m)、南北方向の幹線となる市役所通は50mの幅員とし、通過交通を排除するための北大通(幅員24m)と鉄道沿線路線(弥生文化町線 幅員20m)を設け、カメの甲羅のような形でした。区画街路は格子型を取り入れていました。旧・東海道と鉄道が並行している神奈川県平塚市の復興計画を参考に立案されたそうです。
最初の復興計画は、戦前の1940(S15)年3月14日に決定されたものの着手に至らなかった計画街路(12・15・16m)に比べ格段に広い道路空間を確保していました。交通の処理だけでなく防火帯の機能を併せ持ち、そのほかの幹線街路も18m以上の幅員が確保されていました。
[ 昭和21年度竣功図 蛇行する星川 ]
熊谷の復興計画の特色として、星渓園から流れ出る星川を取り込んだ『星川通線』を、地方都市における美観の形成のための観光道路としています。蛇行してどぶ川の様相を呈し市民から見捨てられた星川を蘇らせようとするもので、計画幅員22mの星川通線の中央に幅4mの星川を配し、水源である星渓園側には1,000㎡の広場が計画されていました。
街路の計画は1946(S21)年10月5日に戦災復興院告示第108号によって決定しました。広幅員の街路の配置、観光道路を担う星川通など、熊谷市の最初の街路計画は戦災地復興基本方針に沿って立案・計画されていました。
[ 旧・中仙道(2024年):国道17号からはずれたところ ]
[ 国道17号(2024年):旧・中山道が拡幅された ]
[ 昭和28年度国庫補助申請:赤が28年度の事業予定 ]
復興計画実現の基礎的手法となる戦災復興土地区画整理は、1946(S21)年9月4日戦災復興院告示第130号で決定され、同月10日付けで当時の吉田茂内閣総理大臣から知事あて、都市計画事業として県が施行し昭和25年度までに完了させるよう指令されました。
区画整理の区域は罹災区域352,718坪を上回る502,200坪で決定され、罹災を免れた地区や付近の農地も一部含まれていました。当初の計画では、区域面積のうち道路面積は26.3%、公園緑地は6.2%が確保され、区画街路も多くは6m以上とする水準の高い計画でした。
1947(S22)年6月28日に総理大臣認の事業認可、8月5日に施行規定の認可を受け事業が動き始めます。
[ 502,200坪の区画整理計画 ]
ところが、いざ事業に着手すると市民から様々な意見が出はじめます。
熊谷復興計画の特色である星川通線は、国民生活が安定するまで工事延期を申し入れる陳情が出されたのです。「国民は飢餓に直面している」「このような工事により不足する物資の状況はさらに悪化する」「広すぎる星川通により換地先が遠くになる」などの理由を挙げ、このような川に莫大な工事費を使うのは金を川に捨てるこになるという陳情です。星川通線の工事では罹災していない家屋を含め100戸を超える移転があり、しかも食糧不足の時期にあって移転先の農地を潰すことになる、という戦後特有の食糧問題もありました。
[ 星川通 22m区間 ]
しかし他方では「自分の身のまわり又家のまわり3尺位の所を片づけて満足する」という古い日本人的悪習を打破し、熊谷市全体の復興を進めるべきである、との工事促進の声明も出されました。
個々の要望に対応していては事業が進まないと考えた県は、百年先の熊谷を夢見て推進派の後押しを受け計画を変えることなく、1948(S23)年2月27日に星川の掘削工事に着手し、観光道路として星川街路中央に抱き込んだ区間1,080mが1953(S28)年3月に完成しました。ただし、1950(S25)年の事業縮小により駅前通線の東側は幅員16mに狭められたため、歩道が設けられず「観光道路」とは言い難い形状です。
[ 星川通 16m区間 ]
星川の工事のほか幅50mで計画した市役所通線にも幅員縮小の陳情が出されました。「市民が貧乏忍耐の極みに達しているのに、莫大な経費と市民の犠牲を払ってまで幅50mもの道路が必要なのか」「28mで整備された国道でさえ両側の店舗は道路の広さを嘆いている」「市役所通線は25m以内とすべきである」という内容の陳情です。
[ 1950年7月10日告示の都市計画変更 ]
そのころの政府は、国及び地方の財政の困窮に加え、1948(S23)年12月にGHQが発令した財政の均衡、徴税の促進、融資制限などの『経済9原則』を実施するためには、既定の復興計画の保持は困難と判断し、1949(S24)年6月24日に『戦災復興都市計画の再検討に関する基本方針』を閣議決定し計画の見直しを進めたのです。再検討に関する基本方針には、概ね30m以上の広幅員街路の見直し、公園緑地の縮小、戦災の少ない都市または復興事業の実施困難な都市での事業縮小が掲げられました。
この見直しにより全国で約594平方kmの事業面積は284平方kmに縮小され国庫補助率も引き下げられました。
[ 市役所通:幅50mが36mに狭められた ]
事業反対の声が上がっていた熊谷市では、市議会議員と土地区画整理委員会の代表による戦災復興委員会によって計画の再検討が進められました。事業が苦況に直面していたため、国の見直し方針はまさに渡りに船だったようで、広すぎると陳情が出されている都市計画街路の幅員が主な見直し対象とされました。
見直しの結果、街路は大きなルートの変更こそありませんでしたが、市役所通、熊谷駅前線、星川通、北大通など幅員が広すぎるとやり玉にあげられていた路線は、1950(S25)年7月に幅員の縮小変更が行われ、さらに2路線が廃止されました。この時点では、都市計画街路の多くが18m以上の幅員であり、現在の基準に照らしても遜色のない計画でした。
[ 都市計画道路の変遷 ]
戦災復興で決定された都市計画街路は、とりあえず罹災区域の復興を早急に図ることをに主眼を置いていたため、ほぼ復興土地区画整理内の道路が主体で広域的な地域の連絡を踏まえた計画とは言えません。しかし、熊谷ではその後も街路幅員の縮小が続いたのです。1954(S29)年8月の都市計画変更では、新規に2路線の追加決定があったものの、前回の変更で縮小されなかった路線の幅員が縮小されました。
[ 1950年7月10日告示都市計画変更:黄色が廃止・縮小部分 ]
その後の経済成長とともに自動車交通は増加し、混雑する国道17号の全線にわたるバイパスの一部として、熊谷バイパスが1967(S42)年に決定されました。これを契機に、市街地と熊谷バイパスを結ぶ都市計画道路が延長・新規決定され、市街地の混雑解消のため熊谷バイパスと北大通線の間に第2北大通線が追加されるなど、市域全体を考慮した広域的な都市計画道路網が見え始めました。
一度は縮小された路線が広げられるケースもありました。熊谷羽生線は幅員が18mから11mに、延長は1460mが370mに縮小されましたが、17号熊谷バイパスと国道125号バイパスに接続する幹線道路として、延長2.66km、幅員25m4車線に広げられました(名称は熊谷谷郷線に変更)。
[ 都市計画道路 熊谷谷郷線(2003年):埼玉国体の前年 ]
都市計画道路を整備するためには、多大な費用と用地取得が必要でありどこの自治体も苦労しています。熊谷市は市街地北部にある熊谷スポーツ文化公園が、1988(S63)年のさいたま博覧会、2004(H16)年の埼玉国体、2019(R1)年ラグビーワルドカップなどの大きなイベント会場となったため、これに合わせて第2北大通線や熊谷谷郷線の整備が進められました。オリンピック開催で基盤整備が進んだ都市のように、熊谷市は整備のきっかけがあったことは幸運でした。
戦災復興の区画整理区域からはずれた幅員18mの石原駅前通線は、現在でも幅6mほどしかない道路ですが長期未整備のうえ必要性が低くなったとして、2008(H20)年11月に都市計画が廃止されています。
[ 石原駅前の道(2024年):都市計画道路は廃止された ]
縮小されたのは街路だけではなく、復興土地区画整理の区域も縮小されました。
1946(S21)年9月4日に502,200坪(約166ヘクタール)の区域で、県知事による戦災復興土地区画整理が都市計画事業として始まりましたが、苦しい財政状況や国の見直し方針を踏まえ再検討の結果、罹災を免れた地区や農耕地などを除外し1955(S30)年3月26日に約382,400坪に縮小されました。
また、進捗状況に応じて3工区に区分し、事業の進捗している114.5ヘクタールを第1工区、途中から都市改造事業(道路整備特別会計による補助)となる駅周辺12.5ヘクタールを第2工区
、中仙道の拡幅のために西端の5.3ヘクタールを3工区(石原地区)として進めることとなりました。1工区、2工区、3工区(石原地区)の3地区あわせて当初認可の8割にあたる132.3ヘクタールで区画整理を進めることができたのですから、全国の戦災復興都市に比べれば面積の縮小は比較的小規模な部類でした。
[ 戦災復興区画整理の区域 ]
面積 事業認可 換地処分 事業完了 施行主体
第1工区 114.5ヘクタール_S22.06.28 S46.06.30 S46年度 埼玉県知事、S30から熊谷市長
第2工区 12.5ヘクタール__S36.06.06 S48.06.30 S56年度 熊谷市長
石原工区 5.3ヘクタール___S30.02.23 S32.11.15 S32年度 埼玉県
[ 左 2024年時点 右 区画整理計画:南北方向の幅4m、10mの区画街路は造られず ]
事業区域内でも計画されていた区画街路が変更され、既存の狭小な道路が入り組んだまま今日に至った地区も見受けられます。国から示された実施要領によると減歩率15%までは地権者の負担としそれを上回る部分を事業で補償する方針でした。
1946(S21)年度の502,200坪に及ぶ区域の事業計画では21.2%の公共減歩率でしたが、9,104坪の先行買収などにより、最終的に減歩率は1工区16.8%、2工区13.6%と低く抑えられました。事業費の縮減には大金のかかる移転補償を減らす必要があり、家屋が当たらないように都市計画道路の幅員を狭くするほか区画街路の見直しなど、様々な苦難があったようです。
[ 4m未満の道路(2024年):セットバックが必要 ]
高崎線の南側で行われ熊谷第一土地区画整理(S11~S16)や荒川土地区画整理(S29~S34)に比べると区画街路の配置、換地の形状・接道状況などに粗さが見られますが、既存の市街地で行われた戦災復興土地区画整理であることを考えれば、骨格となる幹線道路が整備され、ある程度の区画街路も設けられるなど、戦後の熊谷市の発展に必要な整備は行われました。
[ 熊谷駅前線(2024年):駅前~星川通の間だけ幅25mが残った ]
戦後、熊谷市は熊谷駅や籠原駅の周辺市街地整備に力を注いできましたが、2005年に妻沼町、大里村、2007年に江南町と合併し市域が広がりました。
中山道の熊谷宿を基礎に発展してきた市街地のほかにも気を配らなければならない地域が増えました。
さらに、熊谷市は都心から直線でも60㎞以上離れているため、東京通勤圏から外れ人口は減少傾向にあります。
これからのまちづくりも大変そうです。
<参考資料>