chapter-022  熊谷の戦災復興

[ 2007.03~ ]

■埼玉にも空襲があった・・・・・


太平洋戦争では米軍の空襲により、国内の主要都市が被災し多くの人命と財産が失われました。
1942(S17)年4月18日のドゥーリットル中佐率いるB25による初空襲以来、終戦の1945(S20)年8月15日まで、東京、大阪、名古屋などの大都市をはじめ軍事施設や生産施設がある都市が空襲を受けました。
空襲と言えばこのような大都市での出来事と思いがちですが、埼玉県の北部にある熊谷市にも空襲があったのです。



[ 熊谷駅(2007年):空襲を知らない市民も増えた ]


熊谷市は、終戦前日の8月14日午後11時30分頃から82機のB29よる空襲を受けました。
高度約5000mから投下された油脂焼夷弾、エレクトロン焼夷弾により熊谷市街では266名が亡くなり3,630戸が焼失したのです。
8,084発、593.4トンの爆弾が投下され、罹災面積は市街地の7割以上にあたる35万8千坪(約118ヘクタール)に及びました。
爆撃された理由は、熊谷市が中島飛行機(株)の飛行機部品製造地や製品の分配センターがある、とされたためですが、空襲された地域は住宅が建ち並ぶ普通の市街地でした。
『人間の証明』『野生の証明』の作者である森村誠一氏の一家も、この空襲に遭遇し焼け出されました。
県内では熊谷市のほか川口市、浦和市なども罹災しましたが、熊谷市の被害が最も大きく1946(S21)年10月に県内で唯一戦災地復興特別都市計画法に基づく指定(いわゆる戦災指定都市)を受けました。
川口市は東京初空襲のドゥーリットル中佐隊による初空襲時の被害です。



[ 県内の罹災:熊谷は桁違い ]


■戦災地復興基本方針・・・・・


終戦後直ちに設置された戦災対策審議会は、1945(S20)年11月5日に戦災復興院(初代総裁は阪急を育てた小林一三)となり、同年12月30日に『戦災地復興計画基本方針』が閣議決定され、戦災都市で復興計画の立案が始められました。
基本方針には『… …復興計画は産業の立地、都市農村の人口配分等に関する合理的な方策により過大都市の抑制並びに地方中小都市の振興を図る… …』とあり、大都市への産業や人口の集中に対する反省がみられます。
さらに、土地利用計画を策定して計画実現のため地域・地区をできる限り精密に指定し、土地利用計画に応じた街路網を構成することなど、理想的な都市を造り上げようとしています。
たとえば街路は『街路は将来の自動車交通及び建築の様式、規模に適応させ、防災、保健及び美観に資すること』『主要幹線街路の幅員は中小都市において36m以上、大都市においては50m以上』『必要な箇所には幅員50m以上ないし100mの広路又は広場を配置し防災及び美観の構成を兼ねさせる』など、都市の防災や景観にも配慮した高い水準を掲げていました。



[ 広島市平和大通り(2013年):戦災復興で造られた100m道路 ]


■熊谷の復興計画・・・・・


熊谷市は1946(S21)年2月に戦災復興院から係官が派遣され、同年10月5日に基本方針に沿って戦災復興計画が決定されましたが、被災地が点在していたため計画立案では苦労があったようです。
復興計画の骨格となる街路計画は、東西方向の中仙道(現国道17号)と南北方向の市役所通りを主軸とし、通過交通を排除するため北大通と鉄道沿線路線を設け、区画街路は格子型を取り入れていました。
しかし計画の中には、鉄道沿線路線に該当する都市計画道路『弥生文化町線』のように、事業の途中で廃止され実現しなかったものもあります。
(“北大通”は“きたおおどうり”と読み、“ほくだいどうり”とは読みません。念のため。)



[ 戦災概況図 熊谷:復員帰還者に被災状況を知らせるため ]


熊谷の復興計画の特色として、地方都市における美観の形成のための観光道路とされた、星渓園から流れ出る星川を取り込んだ『星川通線』があります。
星川通線は道路の中央に幅4mの星川を配し、水源である星渓園側には1,000㎡の広場が計画されていました。
このほか、市役所から南に伸びる『市役所通線』は、交通処理のほか防火帯の機能を併せて持つ道路として幅員50mで計画され、その他の街路も18m以上の幅員が確保されていました。
いずれも戦災地復興基本方針に沿って立案・計画されていました。



[ 昭和21年度街路事業:決定当初の街路網と事業箇所 ]


熊谷市は、戦前の1940(S15)年3月14日に駅前通線など6路線の都市計画街路が決定されていましたが、最も広い道路でも幅員16mと貧弱な計画でした。
これらの計画は、間もなく戦時体制に入り事業化されなかったこともあり、1946(S21)年10月5日戦災復興院告示第108号による復興都市計画街路の決定と同時に廃止されました。



[ 都市計画道路幅員の変遷(単位:m) ]


■生活vs.復興・・・・・


復興計画実現の基礎的手法となる戦災復興土地区画整理は、1946(S21)年9月4日戦災復興院告示第130号で決定されました。
その後、同年9月10日付けで当時の吉田茂内閣総理大臣から知事あて、都市計画事業として県が施行し昭和25年度までに完了させるよう指令されました。
ところが、いざ事業に着手すると市民から様々な意見が出はじめます。
熊谷復興計画の特色である星川通線は、国民生活が安定するまで工事延期を申し入れる陳情が出されたのです。
国民が飢餓に直面しているのに星川を改修し観光道路を造るのは、金を川に捨てるようなものだ、市民生活を第一に考えるべき、との意見です。
しかし他方では「自分の身のまわり又家のまわり3尺位の所を片づけて満足する」という古い日本人的悪習を打破し、熊谷市全体の復興を進めるべきである、との工事促進の声明も出されました。
個々の要望に対応していては事業が進まないと考えた県は、推進派の後押しを受け計画を変えることなく1948(S23)年2月27日に星川の掘削工事に着手し、1953(S28)年3月に完了させることができました。
(区画整理事業者は昭和30年度に埼玉県知事から熊谷市長に替わる)



[ 星川と星川通(2007年):川の両側に遊歩道が設けられている ]


[ 星川通り(2016年):紅葉している ]


星川の工事には着手できましたが、幅50mで計画した市役所通線にも幅員縮小の陳情が出されました。
「市民が貧乏忍耐の極みに達しているのに、莫大な経費と市民の犠牲を払ってまで幅50mもの道路が必要なのか」「28mで整備された国道でさえ両側の店舗は道路の広さを嘆いている」「市役所通線は25m以内とすべきである」という内容の陳情です。



[ 市役所通(2016年):防火帯機能を持たせた幅36mの街路 ]


■復興計画の縮小・・・・・


そのころの政府は、国及び地方の財政の困窮に加え、1948(S23)年12月にGHQが発令した財政の均衡、徴税の促進、融資制限などの『経済9原則』を実施するためには、既定の復興計画の保持は困難と判断し、1949(S24)年6月24日に『戦災復興都市計画の再検討に関する基本方針』を閣議決定し計画の見直しを進めたのです。
再検討に関する基本方針には、広幅員街路の見直しや公園緑地の縮小、戦災の少ない都市や事業が実施困難な復興事業の縮小が掲げられました。
この見直しにより全国で約594平方kmの事業面積は284平方kmに縮小され国庫補助率も引き下げられました。



[ 駅前通線(2007年):横断歩道手前が25mから18mに縮小された ]


事業反対の声が上がっていた熊谷市では、市議会議員と土地区画整理委員会の代表による戦災復興委員会によって計画の再検討が進められました。
事業が苦況に直面していたため、国の見直し方針はまさに渡りに船だったようで、主な見直し対象は広すぎると陳情が出されている都市計画街路の幅員でした。
見直しの結果2路線が廃止され、そのほかの街路は大きなルートの変更こそありませんでしたが、市役所通線、星川通線、北大通線など幅員が広すぎるとやり玉にあげられていた路線は、1950(S25)年7月に幅員の縮小変更が行われました。
この時点では、都市計画街路の多くがまだ18m以上の幅員であり、現在の基準に照らしても遜色のない計画でした。



[ 1950年7月の都市計画変更:市役所通の幅員縮小が分かる ]


しかし、熊谷ではその後も街路幅員の縮小が続いたのです。1954(S29)年8月の都市計画変更では、新規に2路線の追加決定があったものの、前回の変更で縮小されなかった路線の幅員が縮小されました。
11mに縮小された道路では、両側に満足な歩道を設けることができません。
縮小されたのは街路の幅だけではなく、復興土地区画整理の規模も縮小されました。
当初502,200坪(約166ヘクタール)で認可を受けていましたが、再検討の結果、罹災を免れた地区や農耕地などを除外した区域に縮小されたのです。
幅員18mで計画決定されていた石原駅前通線は区域縮小により区画整理区域から外れ、現在でも幅6mほどしかない道路ですが、2008(H20)年11月には長期未整備のうえ必要性が低くなったとして、都市計画が廃止されてしまったのです。



[ 石原駅前通線(2007年):18mに拡げる都市計画は廃止 ]


■戦災復興土地区画整理事業・・・・・


戦災復興土地区画整理として区画整理事業が行われたのは132.3ヘクタール(1工区 114.5ヘクタール、2工区 12.5ヘクタール、3工区 5.3ヘクタール)です。
1工区は1946(S21)年から始まりましたが、2工区は1961(S36)年、3工区は1955(S30)年から区画整理が始められました。
1工区、2工区、3工区(石原地区)の3地区あわせて当初認可の8割にあたる132.3ヘクタールで区画整理を進めることができたのですから、面積の縮小としては比較的小規模な部類でした。



[ 土地区画整理事業区域 ]


戦災復興の土地区画整理では、区域内すべての道路が拡げられ、整形にされたわけではありません。
1割5分の減歩とわずかな先行買収地を使って、道路などの公共施設を造りだすのですから限界があります。
このため、格子状の街路網で造り出された比較的大きめな街区の内側には、昔からの道路がほぼそのまま残されました。
特に建物が張り付いていた道路は、拡げられることなく今日に至っているものが多くあり、おかげで今でも静かな住宅として残っているところもあります。
拡幅するためには移転費用など多額の費用がかかるほか、罹災していない家屋をわざわざ移転してまで拡幅する必要性が認められなかったようです。
それでも区画整理施行前は12%しかなかった道路面積を2倍以上の25%まで増やし、熊谷の戦後成長の礎を築くことができました。



[ 拡幅されなかった道路(2007年) ]


■現在の熊谷・・・・・


熊谷の戦災復興土地区画整理事業が完了したのは1973(S48)年です。
復興計画の特色であった星川通は、星川の水源である星渓園の『玉の池』の湧水が枯渇したため「星川に蓋をかけて駐車場として利用しては」との意見も一時ありました。
しかし、熊谷市は、市の玄関としてふさわしい顔づくり、文化の香り漂う市民のオアシスとするため、流水の減った星川に農業用水を導入して流れを再生し、新たに設けた広場には彫刻を置き「水と彫刻のプロムナード」として再整備を行いました。
星川通は、季節によってはイルミネーションによる装飾やライトアップもされ、再び“観光道路”としての期待を背負っています。



[ 星渓園内の「玉の池」(2007年):かつては星川の水源 ]


熊谷の復興計画は、市域全体を見渡して立案されたものではなく、罹災区域の復興を早急に行うため区域内に主眼をおいて計画立案されたと言われています。
その後市域の拡大に伴って、戦災復興で造られた道路に郊外からの道路が接続され、中山道を中心とする戦災復興の区域に人や車が集中しています。
市街地を通過する交通を迂回させ混雑を緩和するため、北大通の外側に第2北大通が都市計画決定され、いたちごっこのように今も道路整備があちこちで進められています。



■おまけ・・・・・


[ 秀萬 (2007年) ]

熊谷駅北口にある海産物の料理屋です。
刺身、焼き物などシンプルな調理が主体ですが、おいしくて量も多いと有名なお店です。
店内は座敷にテーブルが並んだだけといった感じですが、夕方になるとお客さんでいっぱいになります。
不思議なことにお土産にパイナップルがもらえることがあるのです。




<参考資料>