川越市 【県道1号浦和川越線】

chapter-028 2008.03 2024.10

■埼玉県内の国道・・・・・



[ 国道16号(2012年):16号と17号の重用区間 ]


4、16、17、122、125、140、254、298、299、354、407、462、463、468
これらの数字は埼玉県内を通る国道の番号です。 国道354号のように埼玉県のごく一部しか通らないため、埼玉県民にあまり馴染みのない国道も含め、2023年現在で14路線の国道が埼玉県内を通っています。



[ 1920(T9)年4月1日内務省告示第28号の抜粋 ]


1920(T9)年4月1日の旧・道路法の施行と同時に、内務省告示第28号により国道が認定されました。 この告示で認定された国道は全国で38路線と少なく、埼玉県内を通過する国道は4号と9号(現・17号)の2路線だけでした。
旧・道路法の国道は、東京と神宮、府県庁所在地のほか師団司令部や鎮守府所在地などを結ぶ路線であり、軍事目的を中心に定められた軍用道路の感が強い道路でした。
旧道路法による最後の国道は1945(S20)年1月8日に認定された国道41号でした。


■追加される国道・・・・・



[ 昭和27年政令第477号、昭和28年政令第96号で指定された埼玉県を通る国道 ]


戦後の民主化・非軍国化の流れの中で、これまでの道路法は廃止され新たな道路法が制定されると、国道の指定要件も軍事目的から幹線道路網の形成に変わっています。
1952(S27)年の政令第477号で一級国道40路線、1953(S28)年の政令第96号で二級国道144路線が指定されました。この時点で埼玉県内を通過する国道は5路線になりました。



[ 国道の追加指定:14路線に増えた(起点、終点は2024年時点)]


新・道路法は1965(S40)年に大きな改正があり、国道は高速自動車国道と一般国道に分けられることになりました。 同時に一級・二級の区分が廃止されたため、これまでの国道はいったん廃止され、新たに228路線が一般国道として指定されました。
一般国道は、高速自動車国道と併せて全国的な幹線道路網を構成し、県庁所在地や重要都市などを連絡する道路で、埼玉県を通る国道は7路線に増えました。



[ 川越市小仙波(2024年):国道16号と254号の交差部 ]


その後も1970(S45)年、1982(S57)年、1993(H5)年に国道の追加指定があり、今では14路線が埼玉県内を通っています。
国道番号は途中欠番がありますが、2024年現在、全国に507号まである国道の数から見れば、14路線は決して多いとは言えません。 それでも大正時代の2路線に比べれば桁違いに増えました。
一般国道の路線数が最も多いのは北海道の48路線ですが、都府県では新潟県と長野県が26路線と多く、最も少ないのは香川県と沖縄県の10路線です。


■格上げされた浦和川越線・・・・・


増えた国道のうち298号は東京外郭環状道路の高架下を走る道路、468号は首都圏中央連絡自動車道、いわゆる圏央道のことです。 この2路線は道路のないところに新しく造られた道路です。
このほかの国道には、もともとは県道だった道路が「昇格」して国道になったものが多くあります。



[ 1920(T9)年の県道認定 ]


今では首都圏の大動脈になっている国道16号は、1953(S28)年にいくつかの県道がまとめられ国道に格上げされた道路です。 国道になった当時は二級国道129号東京環状線でしたが、道路法改正に伴う1965(S40)年の指定で一般国道16号になりました。
県道から国道129号に、そして国道16号に格上げされた県道の一つに旧・浦和川越線があります。 旧・浦和川越線は、旧・道路法の制定による最初の国道認定と時を同じくして、埼玉県が認定した211路線の県道の1番目に掲げられていました。 しかし、国道に昇格したことにより1955(S30)年4月1日に廃止されたので、1920(T9)年の誕生から35年の短命に終わりました。



[ 旧・浦和川越線の起点(2012年):道路元標はレプリカです ]


旧・浦和川越線の起点だった浦和町大字稲荷丸は、浦和駅東口の中山道から県庁周辺にかけての一帯で、今ではさくら草通りと中山道交差点付近に復元された道路元標があります。 旧・浦和川越線は浦和町の起点から大宮駅付近までは、当時の国道9号に重なっていましたが、大宮駅を過ぎたあたりで旧・国道9号から西へ分岐し、荒川に架かる上江橋を通って川越に至ります。



[ 1927(T2)年管内図:川越~大宮は西武大宮線が並行していた ]


荒川を渡ると、旧・浦和川越線は拡幅された国道16号の下敷きになっていますが、ところどころショートカットにより取り込まれなかった道路が今も残っています。
さらに川越市街に近づくと、現在の国道16号は川越の市街地を大きく南に迂回しますが、旧・浦和川越線はそのまま市街地に入り、今では「喜多院門前通り」と言われる道路を通っていました。
川越市街地は家屋が多かったためか、旧・浦和川越線は拡幅されずそのままの姿が残っているところが多くあります。


■大正時代の道路台帳・・・・・


埼玉県文書館は様々な地図や図面が保管されていて、その中に道路台帳と言われる平面図も数多くあります。
道路台帳とは道路を管理するための図面で、旧・道路法の第30条に「管理者は其の管理に属する道路の台帳を調整すべし」と定められ、道路管理者が作らなければならない図面でした。 旧・浦和川越線の道路台帳は、県道に認定された3年後の1923(T12)年に作られ、文書館に残っているのは三分冊のうちの1枚で、当時の古谷村と川越市の部分のみです。



[ 旧・浦和川越線 道路台帳 ]


台帳は幅70cm、 長さ5mほどの大きな厚紙に、黒、灰、赤、青、黄など数色を使って1000分の1の縮尺で描かれ、道路の形状や沿道の建物の形がはっきりと判ります。
台帳のところどころに、曲がりくねっている部分を改良するために描き入れたと思われる鉛筆書きの計画線が残っています。 コピー機などの複写技術がない時代に、このような図面に線を入れることができるのは、相当な技術を持つエライ人に限られていたはずです。
当時は高い技術を持つ人が役所にもいたようです。 



[ 鉛筆で計画線が描かれている ]


[ 計画線が国道16号になった(赤点線は旧・浦和川越線) ]


[ 九十川に架かる旧・浦和川越線の橋 左は国道16号(2024年) ]


旧・浦和川越線が九十川を渡る橋の親柱には「大正十三年八月竣功」とあるので、道路台帳が作成された後に竣功しています。大正12年9月の関東大震災で被災し急ぎ復旧したのかもしれません。


■道路台帳でたどる旧・浦和川越線・・・・・



[ 国道16号~国道254号(2023年):拡幅されて様変わり ]


旧・浦和川越線のうち荒川から川越市街地の手前までは、拡幅された国道16号の下敷きになったので昔の道路が残っている部分はわずかです。
国道16号から分かれて国道254号小仙波交差点までの間も、幅20m程度の立派な道路に拡げられて交通量も多く、まわりにはいわゆる沿道型店舗と言われる施設が並び、大正時代の面影は全くありません。
国道254号と新河岸川を越えると川越市街地に入り、ここからは昔の姿で残っているところが見られます。それでは、旧・浦和川越線の道路台帳をガイドマップ代わりにして、現在の川越市街を歩いてみましょう。

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[ 小仙波交差点付近:国道254号と県道川越日高線は後から造られた道 ]


[ 赤点線が旧・浦和川越線 ]


[ 川越市小仙波(2024年):手前の道は国道254号 ]


川越市街地への入り口は、国道254号の小仙波交差点が大きすぎるので少々わかりにくくなっています。 大きなアーチを持つ小仙波歩道橋の南側にある、幅6mほどの道路が旧・浦和川越線です。 道路台帳にはもちろん国道254号は描かれていませんが、当時まだ営業していた西武鉄道大宮線の線路が入っています。
西武鉄道大宮線は、現在の西武鉄道に吸収合併された川越電気鉄道で、開業当初は川越市三久保町(現在は東京電力川越支店がある)にあった石炭火力発電所で作られる電気で走っていました。 川越久保町~大宮駅でチンチン電車と呼ばれる鉄道を営業していましたが1940(S16)年に廃止になりました。廃止後の線路敷きは市道や県道につかわれています。

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[ 閻魔堂に突き当たる ]


[ 現在は直進すると喜多院に突き当たる ]


[ 旧・浦和川越線は蕎麦屋の角を右に曲がる(2024年) ]


川越を有名にした蔵造りの建物が広まるきっかけとなった1893(M23)年の川越大火は、ここまで及ばなかったため蔵造りの建物はほとんどなく、「札の辻」付近とは雰囲気が大いに異なった街並みです。 道路沿いは塀のある住宅が多いので、住宅地でありながら人々の生活が感じられない閑散とした通りです。



[ 昭和四年三月再建 閻魔堂記念碑(2024年) ]


川越の中心に向かって進むと、現在は正面に喜多院の山門があり喜多院の参道のように思えますが、大正時代はその手前に「閻魔堂」が鎮座し、真っ直ぐ喜多院へ行くことはできませんでした。 川越総合高校の北側の一角にある南院跡に置かれている石塔や石碑のなかに、焔魔堂記念碑という石碑があります。 碑文によると「大正十五年十月十二日本堂庫裡全焼」「昭和三年九月十一日再建築起工」とあるので、その際に閻魔堂が移転し喜多院へ向かう真っ直ぐな道ができたのかもしれません。 現在の閻魔堂は立派なコンクリート造りの喜多院斎霊殿になっています。
道路台帳で閻魔堂に突き当たり右に曲がったあたりは茶畑が表示されていますが、今では住宅が建ち並び畑を見ることはできません。 道路は車のすれ違いに不自由のない幅ですが通る車は少なく、この道が昔は県道であったとは思えない静かな空間になっています。

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[ 県道川越日高線のルートが鉛筆描きされている ]


[ 形の悪い交差点が増えた ]


[ 左が成田山、交差点の先に久保町駅があった(2024年) ]


県道川越日高線の喜多院入口交差点付近は、道路が大きく様変わりしました。
川越の中心から大宮方面に向けて新しく造られた道路と、喜多院から北に伸びてきた道路が交差してできたのが喜多院入口交差点です。 道路台帳には大宮方面への道路計画が鉛筆で薄く描かれていて、ここに新しい道路が計画されていたことや、喜多院入口交差点付近が水田だったことが判ります。
新しく造られた道路は、川越市街を東西に貫く主要な道路である県道川越日高線で、平日、休日を問わず交通量が多く混雑しています。 このあたりは元々あった道路に手を加えずに新しい道路を造り、旧・西武大宮線の線路跡もそのまま道路にしたため、ところどころに形の悪い交差点が出来てしまいました。 さらに道幅は狭く一方通行もあるので、車で迷い込むと悲惨な目にあいます。

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[ 松江町交差点はまだ丁字路 ]


[ 十字路になっている松江町交差点 ]


[ 現在は県道川越日高線 もう少し広ければ(2024年) ]


旧・浦和川越線は成田山川越別院の角を左に曲がります。旧・浦和川越線は現在の県道川越日高線となり、狭いながらも両側に歩道を持つ幅12m程の道路になっています。 道路台帳に描かれている道路は6~7m程度で両側に建物がびっしりと張り付いていますが、昭和初年に北側を拡幅し現在の幅になりました。その時にもう少し広い歩道を造っておけば、観光地になった川越でも十分に機能する道路になれたはずですが、歩道が造られただけでも良しとしなければなりません。道路の北側にはその際に建てられた看板建築が今も残っています。
成田山川越別院とは、千葉県の成田山新勝寺の川越別院のことで、目の病に効能があるといわれています。



[ 拡幅後に建てられた看板建築が残っている(2024年) ]


県道川越日高線を中心部に向かって進むと松江町交差点があります。昔は丁字路の交差点でしたが、1960年代に日高方面に抜ける道が造られ今では十字路になっています。 松江町より先の道路は都市計画決定の幅員15mで造られているので、成田山川越別院付近より広い道路になっています。
城下町の名残を残す川越は丁字路やクランク型の道が多く、松江町や仲町など丁字の交差点を十字路に改修して、車が市街地を通り抜けられるように道路が造られてきました。 しかし、自動車の増える勢いから見れば微々たる整備で、いたずらに中心部に交通混雑を招き入れる結果になってしまいました。 今ではその反省から、中心市街地を迂回する環状道路が整備されつつあります。



[ 松江町交差点(2024年) ]


松江町交差点は、直進すると秩父・日高方面、左折すると県道川越坂戸毛呂山線に入り、新宿(あらじゅく)交差点で国道16号と交差しその先は国道254号に入ります。 今では松江町交差点は狭いながらも幹線道路の交差点です。
旧・浦和川越線は松江町交差点を上尾方面に、うなぎの「いちのや」の角を右折します。 右折した先の県道は今でも歩道がついていません。おそらく道路台帳が作られた大正時代の状態がそのまま保存?されているようです。



[ 元祖芋十(2024年) ]


松江町交差点から上尾方向へ少し行くと、サツマイモを薄く切って作る芋せんべいで有名な「芋十」があります。 看板には葵の御紋とともに「天皇皇后様 献上銘菓 元祖芋十」と書かれていますが、蔵づくりで有名になった一番街に比べるとちょっと寂しそうです。

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[ 商工会議所の場所だけ空き地 ]


[ 川越教会~仲町交差点も歩道はない ]



[ 解体中の佐久間旅館とレンガ造りの川越教会(2024年) ]


旧・浦和川越線は川越教会と佐久間旅館がある丁字路で左に曲がります。
川越教会は1921(T10)年に建築されたレンガ造りのカトリック教会で、道路台帳にその形が描かれています。 佐久間旅館は1894(M27)年創業の老舗旅館ですが、残念ながら廃業し2024年時点ではシートに覆われ解体工事が行われていました。
佐久間旅館と川越教会に挟まれた道路は、3.4.5東京川越線という都市計画道路になっていて佐久間旅館側に拡がる計画のため、ところどころに移転したと思われる空地ができています。
川越市は観光地となった蔵造りの街並みがある一番街の交通対策として、2009(H21)年に一番街を通行止めにした歩行者天国化、北から南行きにした一方通行化の社会実験を行いました。 その結果は、観光対策のための交通規制に反対、条件付き歩行者天国に賛成など賛否両論があり、現時点では一番街の交通規制は行われていません。 しかし一番街の混雑緩和は観光地となった川越に突き付けられた課題なので、一番街と並行する3.4.5東京川越線を整備し、一番街を通過する交通を分散させようとしているようです。 3.4.5東京川越線が都市計画幅に広げられると、芋十も佐久間旅館も移転しなければなりません。



[ 川越商工会議所(2024年):武州銀行として造られた ]


川越教会を背にして進むと、大正浪漫夢通りの入口に川越商工会議所が見えます。 
川越商工会議所は1928(S3)年に旧・武州銀行として建築された、重厚感のある鉄筋コンクリートの建物です。 道路台帳は旧・武州銀行の部分だけが空き地になっていますが、沿道の建て込み状況をみると、ずっと空き地であったとは思えません。 旧・武州銀行を建てるため今まであった建物を壊した時期が、たまたま台帳の測量時期に重なったのでしょう。
川越商工会議所からさらに30m程進むと、川越を観光地に担ぎ上げた蔵造りの街並みが始まる仲町交差点に至ります。



[ 仲町交差点(2024年):この先は昭和に造られた道 ]


城下町川越は、敵勢からの防御のため真っ直ぐな道は少なく、丁字路や鈎形の道路が多くありました。 仲町の交差点もその一つで、十字路になったのは本川越駅方面に向けて道路が切り開かれた1933(S8)年になってからです。 中町交差点を境に「札の辻」のある北側に向けて蔵造りの建物は建ち並んでいますが、川越大火から40年も後に造られた南側の沿道には見当たりません。道路が新設された当時は銀杏並木があったそうで、戦前は浅草を彷彿とさせる繁華な街並みでした。その名残か昭和50年代までキャバレーも営業していました。
仲町交差点の南側は昭和の街並みで、建物を見ていると道路が造られた時代が感じられます。



[ 蔵造りの街並み一番街の路面(2024年):バスの幅は2.5m ]


蔵造りの街並みがある一番街の道は、以前は幅20mの都市計画道路でしたが、拡幅すると蔵造りの建物を壊さなければならないので現状幅の9~11mに縮小変更されました。 縮小前は両側に歩道を造ることができる計画幅でしたが、現状の幅では車道と歩道を完全に分離できないため、道路の両端は歩行者用であることと示す石畳風に化粧されました。 これだけでも車が遠慮して進入しないうえ、道路の端というより歩道を歩いている気分になれます。
残念なのは、沿道のお店が節操なく出している看板やのぼりですが、最近は少なくなりました。 その代わり都心から近いこともありTV、SNSなどで川越が紹介されると、有名店の前には多くのお客さんがたむろするので、まっすぐ歩けません。 こんなこともあり、歩行者が石畳風の部分から車道に大きくはみ出しているので、休日ともなると車の速度は歩行者と変わりがありません。

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[ 八角形の塔が道路台帳でもわかる ]


[ 旧・八十五銀行(2024年):内部は商業施設に ]


仲町と札の辻の中ほどに、道路から少し離れて建てられている建物が道路台帳に描かれています。 これは1918(T7)年に旧・八十五銀行が本店として建てた建物で、川越教会と同様に大正期の川越を代表する洋風建築です。 最近まで埼玉りそな銀行川越支店として使われていたのですが、近年の窓口集約のあおりで銀行機能は駅南側の支店に移転し、内外ともに改装され「りそなコエドテラス」という産業創出や育成支援の施設として使われています。 道路側に張り出していた無粋なATMコーナーは、改装により周りに溶け込んだカフェに変身し違和感はなくなりました。 本体の1階は近隣産品の物販、2階はレストランとバー、頭取室があり観光客も見学できます。
埼玉りそな銀行は地元にいいことしてます。



[ 田中屋ビルと旧・山吉デパート(2023年) ]


一番街には旧・八十五銀行のほかにも洋風の建物があります。
旧・山吉デパートは昭和11年に呉服店として建てられた洋風建築を譲り受け1951(S26)年に開店しましたが、中心地の南下に伴い1964(S39)年に移転し現在は丸広百貨店として頑張っています。 この建物は旧・八十五銀行本店を設計した保岡勝也氏が手がけました。 左隣の田中屋ビルはどう見ても石造りに見えますが、本体は木造だそうです。
蔵造りの建物のほかに、ハイカラな洋風建物に憧れた大正・昭和初期の建物も残っていて、重厚な蔵造りの街並みの中でアクセントになっています。

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[ 「札の辻」交差点:旧・浦和川越線の終点だが3つの県道の起点 ]


[ 札の辻(2024年):川越には珍しい江戸時代からの十字路 ]


いよいよ旧・浦和川越線の終点である「札の辻」交差点ですが、 菓子屋横丁が近いこともあり平日でも観光客がたくさん闊歩しています。
「札の辻」は旧・浦和川越線の終点ですが、県道川越上尾線、川越越生線、川越松山線の起点でもありました。たまたま浦和に県庁が置かれたため、浦和が旧・浦和川越線の起点になり川越が終点になりました。 が、当時の川越はすでに「市」、浦和はまだ「町」だったことを考えれば、実質的には「札の辻」交差点が旧・浦和川越線など4本の県道の起点であり、川越が当時の埼玉県の中心だったのでしょう。
歴史に「もし」はあり得ませんが、川越が県庁所在地だったら埼玉県のイメージは今とは大きく違ったものになっていたかもしれません。



<参考資料>