chapter-037 お城のある街

[ 2009.10~ ]

■目印になるもの・・・・・



[ マンションの波(2005年) ]


埼玉に住んで思うのは、市街地に特徴がないうえに地形に起伏が少なく、山が見えても同じような山ばかりで、これといった目印がないことです。
街中くらいは目印となる建物・建造物が欲しいと思うのですが、まわりを見回してまず目につくのはマンションで、駅から少し離れれば戸建の住宅です。
マンションは採算性重視のためか、目印になるようなデザインの建物は見当たりません。
かといって、統一感のあるデザインで造られているわけでもありません。



[ 新幹線の高架(2006年):単調な形の連続 ]


郊外に行くと目立つのが、視界を横切る新幹線や高速道路の高架橋で、コンクリートの柱と梁が単調な形の繰り返しで延々と続いています。
山手線のように煉瓦で造られた高架部分でもあれば、単調な構造物の中に変化が生まれて面白いかもしれません。



[ 山手線の高架(2009年):煉瓦で模様入り ]


■埋もれる目印・・・・・



[ 札幌の時計台(2006年):周囲はビルだらけ ]


街で目印になる有名な建物・建造物といっても、札幌の時計台や東京の日本橋のように建物の波に埋もれてしまっているものもあります。
札幌の時計台は周りをビルに囲まれ、すぐそばまで近寄らないと建物を見ることができません。
時計台のまわりには北海道らしい風景は何一つなく、記念写真にはもれなく周りのビルも写ってしまいます。



[ 日本橋(2020年):首都高が覆いかぶさる ]


道路の起点として名高い日本橋は、日本橋川の上空に造られた首都高速道路が横切り、高欄につけられている照明灯は首都高の橋げたに挟み込まれています。
この照明灯は首都高からも見ることができ、ご丁寧なことに日本橋の照明灯であることを知らせる看板までついています。
日本橋の景観を壊した首都高の罪滅ぼしでしょうか。



[ 首都高から見える日本橋の街路灯(2012年) ]


街中で目印になるものとしては城、特に天守閣が残っている、または再建されたお城は、周囲に堀が残っていたり公園などの公共施設として使われているので、天守閣自体が大きくなくてもまわりに空間的余裕があるため、お城が結構目立ちます。
埼玉県内では川越や行田、岩槻が城下町といわれていますが、目印になるような天守閣はなく、堀や石垣などもほとんど残っていません(石垣は元々なかったようです)。
近くを流れる河川と周りの沼地が堀の役割を果たしていたので、人工的に造られた堀が少なかったのかもしれません。



[ 岩槻城:本丸は川と沼地に囲まれていた ]


■お気に入りの街・・・・・


子供のころの記憶は年齢を重ねるとともに美化され、小さい頃に住んでいたところの良い印象だけが残り、懐古的になるとともに“お気に入りの街”になってしまいます。
そんな街の一つが松本です。
子供の交通手段は徒歩か自転車なので、自転車で動き回れる範囲が街のすべてで、松本市内をくまなく知っていた訳ではありません。
しかし、その中でもいい記憶として残っているのが小学年のころに遊びまわっていた、松本城の周りでした。



[ 松本城(2020年):5層の天守閣は国宝 ]


松本城は平地にあるお城で、今では天守閣を取り囲む内堀しか残っていないため、周辺からすんなりと近寄れます。
天守閣のある本丸一体は昔も有料の区域だったので、入り込んで遊んだ記憶はありませんが、天守閣を囲む堀の外側は自転車に乗って駆け回ることができました。
よく遊んでいた割には、お城の周りにどんな建物があったのか全く記憶にありませんが、いつも天守閣が見えていたことだけは覚えています。



[ 天守閣からの眺め(2020年):建築物の高さは15m以下 ]


現在、松本市はお城の周りの建築物の高さに都市計画で制限をかけています。
お城に隣接する地区は15~20m、そのほかの地区でも最高の高さはお城と同じ29.4mに制限されているのです。
お城とアルプスの山並みの眺望を守るための計らいです。
建物に高さ制限を設けようとすると制限値の設定が難しいのですが、松本市は誰もが納得する理由をお城の高さに求めたようです。


■開智小学校・・・・・


それともう一つ記憶にあるのが、一時期通っていた開智小学校です。
今は博物館として使われている旧開智小学校の建物(1873年建築)が有名ですが、記憶にあるのは現在の校舎のではなく、先代の1964年~1998年に使われていた校舎です。
当時すでに床暖房を備えており、石炭ストーブの学校から転校してきた人間にとっては夢のような学校でした。



[1975年の開智小学校:現在の校舎と配置が全く違う]
(国土画像情報(カラー空中写真)国土交通省 CCB-75-15より)


現在の校舎の配置とは大きく異なり、正門を入ると校舎が「工」の字のように左右対称に建てられ、その校舎の北側に校庭があったのです。
校庭は校舎の陰になるので、冬になると校庭に畦を造り水を張ってスケートリンクにしていました。
当然、冬の体育の授業はスケートです。それも狭いリンクでスピードスケートの靴を履いて滑っていたのです。
冬の寒さは厳しく、300mほどの通学で足のつま先が痛くなり、家に帰ればすぐにストーブの前で足を温めていました。



[ 開智小学校(2009年):奥に明治期の校舎が見える ]


校舎の配置が変わったので、現在はお城と学校を結ぶ道路から旧開智小学校が見通せるようになりました。
松本城を見て旧開智小学校に足を伸ばそうとする観光客には、目的地が見えるので道に迷うことはないでしょう。 
お城と学校を結ぶ道路は、市街地から住宅地に向かう方向になるため、昔と変わらず少々さみしい街並みで、両側は普通の家が並んでいます。
派手な通りになる必要はないと思いますが、土産屋の一軒でもあれば流行るような気がします(人が入るのは休日だけでしょうが)。


■今も変わらぬ静けさ・・・・・


松本市の人口変動は埼玉県内の都市とくらべればとても小さなものです。
1970(S45)年が約20万人、2005(H17)年で約23万人なので、ほとんど増えていません(合併で増えた程度?)。
小学校の校舎のようだった松本駅や周辺の建物は近代的になりましたが、住宅地には大きな変化はないようです。
ちょっと変わったのが、大手町にしかなかった「開運堂」という地元では有名な和菓子屋が住宅地の中に進出したことくらいでしょうか。
お城のある静かな街の雰囲気は、「開運堂」の和菓子「真味糖」と同じで今も昔も変わりません。



[ お堀の白鳥(2020年) ]



■おまけ・・・・・


[ 旧開智小学校 ]

1876(M9)年に建てられた校舎で、1963年まで小学校として使用されていました。
当初は女鳥羽川沿いに建っていましたが、小学校としての役目を終えた後、現在の場所に移築して、現在は教育資料館として公開されています。
校舎の上にある八角形の望楼は、懲罰のために使われたこともあるそうです。





<参考資料>