「市」の名称については、『新たに市となる普通地方公共団体の名称は、既存の市の名称と同一となり、または類似することとならないよう十分配慮すること』(昭和45年3月12日自治振第32号 自治事務次官通知)というお触れがあり、同じ名称の市は、広島県と東京都にある府中市、北海道と福島県にある伊達市だけだそうです。
このお触れに従って、埼玉県内では本家の「市」に遠慮して「東松山市」や「上福岡市(現在は合併してふじみ野市)」という名称の「市」が誕生しました。
[ 東松山駅前(2005年):鳥居は2008年に撤去された ]
東松山市は市制施行の際に「松山市」で申請したそうですが、愛媛県の「松山市」が既に存在していることを理由に名称変更を指導されたため「東松山市」になったそうです。
今では、みそだれの焼き鳥(本当は豚のカシラ肉)がマスコミでも取り上げられ、その名が知られるようになった東松山市ですが、このほかにもローカル的に有名だったのが、駅前にあった大鳥居です。
観光協会が観光振興のために1959年に造り、2008年まで約半世紀にわたり駅東口に鎮座していましたが、駅前再開発に伴い撤去されてしまいました。
地元では馴染みの存在であり撤去を惜しむ声もあったとのことです。
一方、「町」や「村」は昔からの名称が使われていることが多いので、同じものが全国各地でみられましたが、これまでの市町村合併により同名は随分と減りました。
現在、埼玉県内の町村では、「美里町」だけが宮城県、熊本県で同じ名称で存在しているのみです。
「町」や「村」の住所を記載するときには「○×郡△□町(村)」と書きますが、埼玉県内には合併により「郡」内の町村がすべて「市」になったため、北埼玉郡のように「郡」が消滅したところもあります。
[ 平成の合併が始まる前(2001年):92市町村あり全国で最多の都府県 ]
「郡」は古代律令制の時代には役所が設置されていましたが、中世以降は機能を失い単に地域の呼び名として存在するような状況でした。
明治時代になると中央集権国家としての体制を整えるため、どこの教科書にも書かれている廃藩置県が行われ、
末端の行政組織は戸籍編成のために設定した区(大区小区制)で対応しようとしましたが、これまでの町・村を無視した画一的な区では十分に機能することができませんでした。
このため明治政府は1878(M11)年に大区小区制を廃止して郡区町村編成法を制定し、府県と町村の間に「郡」が復活することになりました。
[ 1880(Ⅿ13)年地形図:県庁、郡役所の位置が分かる ]
埼玉県では1879(M12)年に郡区町村編成法が施行され、大小18の郡が誕生し「郡役所」も置かれましたが、小さな郡は単独で役所を置かず、大きな郡の役所に併せて置かれました。
北足立郡と新座郡(1896年に北足立郡に併合)のケースを見ると『新座郡は幅員狭隘戸口寡少にして独立一役所を設くるに足らず 依って地利その他便利を謀り足立郡と合わせて一役所を置く… 』(置郡分合趣意書)との理由から新座郡役場は設けられず、足立郡浦和宿に置かれた北足立郡役所が併せて事務を執ることになりました。
[ 玉蔵院(2011年):平安時代に創建された由緒あるお寺 ]
最初に北足立郡役所が置かれた場所は「玉蔵院」というお寺でしたが、1897(M12)年3月17日から8月18日までの5か月間という短い期間でした。
その後、浦和宿180番にあった旧第22区の区務所跡に移転しました。
[ 1896(M29)年当時の郡役所:木造二階建て ]
北足立郡役所は、1888(M21)年に中山道から少し入った場所に新しく造られました。
面積 : 3段8畝14歩(約3800㎡)
庁舎 : 木造瓦葺二階建 建坪135坪7合5勺(約450㎡)
建築費 : 6,438円25銭9厘(うち敷地買上費775円)
中山道沿いは宿場町特有の街道と直角に細長い土地が多くあり、役所を構えられるようなまとまった土地の確保ができなかったようです。
現在県庁の南側にある浦和地方裁判所も移転する前は中山道から少し入った場所(現在は常盤公園になっている)にありました。
[ 1923(T12)年郡制廃止時の郡役所:木造平屋建て ]
北足立郡役所が置かれた1879(M12)年の職員は、埼玉県士族の郡長のほか士族の書記が2名、平民の書記が15名、計18名が郡役所の総員でした。
電話もメールも存在しない当時は、北足立郡内の11の町、335の村に対して県からの指示を伝達するだけでも大変な作業です。
1896(M29)年になると仕事の中身かだんだんと役所らしくなっていきます。
[ 1919(T8)年に建てられた北足立郡役所:洋風の瀟洒な建物 ]
新しい建物に建て替えられる直前の1918(T7)年になると政府の体制はさらに充実し、郡役所の業務もかなり増えています。
「御真影」(天皇・皇后の公式肖像写真のこと)や「教育勅語」などの言葉に、戦前という時代が感じられます。
業務の中身はよくわかりませんが、業務の項目数だけは30年の間に数倍になっているので、建物が手狭になって建て替えられたのでしょうか。
1919(T8)年に建てられた郡役所は、1923(T12)年に郡制が廃止された後は北足立地方事務所として使われていましたが、浦和市市制35周年記念事業として「浦和市民会館」が建てられることになり、1969(S44)年に取り壊されました。
郡役所として使われた期間こそ短かったものの、関東大震災、太平洋戦争を経て半世紀にわたり残されてきた建物で、現存していれば大正・昭和時代のレトロ建築としての価値があったかもしれません。
[1961(S36):旧郡役所と中山道に至る道がある時代]
(国土地理院空中写真MKT613-C17-18 一部切り抜き)
中山道から郡役所に至る通りは、旧郡役所が取り壊され浦和市民会館が完成してからもしばらくは存在していましたが、隣接する市役所跡地をタネ地にした開発が持ち上がり、市役所跡地南側の土地も含めて開発が行われることになりました。
このため中山道から郡役所前に至る道は廃止され、開発で造られた浦和センチュリーシティビルの敷地になってしまいました。
道路があった頃の利便性を確保するため、ビルの敷地内は自由に通行できるように配慮されています。
しかし、旧浦和地方裁判所前の道が、両側に歩道のある立派な道路になったのに比べると、旧郡役所前の道は悲しい末路でした。
[ 浦和センチュリーシティビルと仲町平和通り(2011年) ]
中山道よりも東側の道は、『仲町平和通り』という名前で今でも残っています。
この通りから中山道方面を見ると、浦和センチュリーシティビルが真正面に威圧的に立ちはだかっています。
それに比べると仲町平和通りの両側にある建物はこじんまりとしていて、何気なく歩いて見ていると二階建ての建物のようですが、よーく見ると三階建て四階建ての建物もあります。
建築基準法で定められた道路斜線制限によって、三階、四階部分がより後ろに下がっているため、二階建の建物が並んでいるように見えるのです。
[ 道路斜線制限 ]
建築基準法には道路斜線制限のほかに、隣地斜線制限と北側斜線制限があります。
いずれの斜線制限も採光・通風などを確保するための規制ですが、建物が斜めに切り取られた形状になったり、階段状の階層になるため建築物が見苦しくなるなどの意見もあります。
外国に斜線制限のような建築規制があるかどうか知りませんが、斜線制限は太陽の日差しをこよなく愛する日本独特の制限なのかもしれません。
[ 華月(2007年) ]
中山道沿い、調神社の南側にあるラーメン屋さんです。
昔ながらのラーメン屋さんでご近所の皆さんからの支持は高いものがありますが、グルメ雑誌などに載っているのを見たことはありません。
店内には4人掛けのテーブルが4つだけ。しかも入口近くのテーブルは3人しか座れません。
おばちゃんが注文を取る時は、「へい、旦那! 何にするね」。
ラーメン470円、タンメン520円だったかな?
<参考資料>