[ 南アルプス(2010年):長野県・静岡県・山梨県の県境]
「国境の長いトンネルと抜けるとそこは雪国だった。夜の底が白くなった。信号所に汽車が止まった。……」
この文章はノーベル賞作家川端康成の『雪国』の冒頭部分ですが、『雪国』を読んだことがなくても知っている人は多いと思います。
「長いトンネル」とは上越線が谷川連峰の下を抜ける清水トンネルのことで、もちろん「国境」とは日本と外国の境ではなく、昔の上野国(こうずけのくに:群馬県)と越後国(えちごのくに:新潟県)との境のことです。
『雪国』の「国境」は“こっきょう”と読むのか“くにざかい”と読むのかは、議論があるのだそうです。
都道府県の形は律令時代から続く『国』が統合・分割されて形づくられ、都道府県境の多くは大きな川であったり、高い山の頂を結んだ線が境になっていました。
新潟県と群馬県の境も急峻な谷川連峰などが境になっていて、トンネルができても天然の城壁のように立ちはだかっています。
[ 下久保ダム(2021年):群馬と埼玉の県境 ]
埼玉県の県境を見てみると、
千葉県(下総国)境 : 江戸川
茨城県(常陸国)境 : 利根川、中川、権現堂川、渡良瀬川
栃木県(下野国)境 : 渡良瀬遊水地(旧・渡良瀬川)
群馬県(上野国)境 : 利根川、烏川、神流川、秩父山地(神流川~三国山)
長野県(信濃国)境 : 秩父山地(三国山~甲武信ヶ岳)
山梨県(甲斐国)境 : 秩父山地(甲武信ヶ岳~雁坂峠~雲取山)
となっていて、大部分は大きな川と高い山が県境になっています。河川が境になっているところは、改修前の蛇行した川に沿って境が定めらたため、境が水面から陸上になったところもあります。
埼玉県と東京都はもともと同じ武蔵国(むさしのくに)だったので、明治になってはじめて境が必要になりました。
柳瀬川、荒川、毛長川、綾瀬川、垳川、大場川、小合溜などが境になっているところもありますが、陸上にある境は見ただけでは分からないところがたくさんあります。
[ 利根川(2017年):赤岩渡船 ]
都県境に何の目印もない場所の一つに、新座市栄町と練馬区大泉学園町にまたがる大泉学園都市があります。
そこは、1891(M24)年に埼玉県新座郡の一部が東京都に併合され豊島郡大泉村となったところで、箱根土地株式会社(後の株式会社コクド)が50万坪の雑木林を開墾し、1924(T13)年から大泉学園都市として宅地分譲を始めました。
箱根土地株式会社は懸命に大学を誘致したのですが、誘致は失敗に終わり“学園”という言葉だけが地名に残りました。
長方形に整備された宅地は坪10円で売り出されましたが、分譲はあまり順調ではなかったようで、挙句の果ては市民農園として使われる始末でした。
その名残としてか、大泉学園通りには「都民農園前」という名の交差点があります。
[ 昭和20年 地理院地図 ]
大泉学園都市として開発された一帯は、道路は格子状に配置され宅地は長方形に整えられました。
道路は行き止まり道路が増え細分化された宅地もありますが、基本的な骨格は昔の形のまま現在まで残り、地図を見ると開発された区域は一目瞭然です。
街区は整えられましたが都県境は昔のままのくねくね曲がった線で残され、都県境の上に家が建っているところもあります。
現地は住宅一軒一軒に住居表示のプレートが付けられているほかに、電柱には簡単な地図が付けれられていて、番地のほかに都県境もわかるようになっています。
[ 新座市側の案内図(2011年) ]
埼玉県側は「新座市栄町」、東京都側は「大泉学園町」と当然のことながら住所は違うのですが、都県境の正確な位置は地図で見ないと判りません。しかしよく探すと、目で都県境が見られるところがあります。
地区を南北に縦断し大泉学園駅に至る大泉学園通りは、練馬区側も新座市側も開発当時のままの同じ幅ですが、歩道の路面が異なり、車道の舗装も都県境をなぞっています。
マンホールの蓋も違います。練馬区側は東京都のマーク、新座市側は新座市のマークが入っていて、東京都と埼玉県の境であることがわかります。
[ 都県境(2012年):左が練馬区、右が新座市 ]
大泉学園通りの練馬区側は、『補135(W=15m)』という都市計画道路が定められていますが、新座市側は都市計画道路になっていません。
いつの日か、練馬区側が都市計画の幅に広がると、更に違いがはっきり分かるようになります。
[ 新芝川(2011年):足立区と川口市 ]
埼玉県川口市と東京都足立区の境の近くには、新芝川が流れていて都県境だと思いがちですが、新芝川は1965(S40)年から水が流れ始めた川(放水路)で、都県境から少々はずれています。 この辺の都県境は、昔の埼玉県北足立郡南平柳村と東京府南足立郡江北村・舎人村の境だった小さな水路がそのまま境界になったようですが、その水路は新芝川の開削や区画整理によって消滅しています。
[ 新芝川(2011年):足立区と川口市 ]
ここも地図を見ないと都県境がわかりませんが、新芝川の堤防上には境がはっきりわかるところがあります。
新芝川左岸にある足立区のサイクリング道路を南に下り川口市に入ると、突然舗装がブッツリと途切れて未舗装になるところがあります。
舗装の途切れ方がすごいのです。
川口市と足立区の境にあわせて斜めに舗装が途切れて、ここが境であることをわざわざ示すように舗装したとした思えません。
[ 川口市市道認定マップから ]
この先、堤防から下りるためには舗装されていない道を10mほど進み、自転車をかついで階段で下りなければなりません。
二つの県の境は線ですが三つの県の境は点になります。
埼玉県の県境には三県または一都二県の境になっているところが七か所あります。
[ 三県境 ]
埼玉・東京・千葉 : 江戸川の中
埼玉・千葉・茨城 : 江戸川の中
埼玉・茨城・栃木 : 渡良瀬川の中
埼玉・栃木・群馬 : 農地の中
埼玉・群馬・長野 : 三国山の山頂
埼玉・長野・山梨 : 甲武信ヶ岳の山頂
埼玉・山梨・東京 : 雲取山の山頂
[ 三県境(2020年) ]
七か所の三県境のうち、三つは水が流れている川の中にあり、地図で確認することはできますが現地で確認するのは簡単ではありません。
また、山の頂上にある三つは、雲取山2017m、甲武信ヶ岳2475m、三国山1834mといずれも標高が高く、山登りの経験がある人でなければ見ることができません。
これらに比べ埼玉・群馬・栃木の三県境は平地にあり、道の駅「かぞわたらせ」や東武日光線柳生駅から案内標識があるので、まず、迷うことなくたどり着けると思います。
[ 三県境(2020年) ]
現地は畑と水田の間を流れる小さな水路の交差部に、三県境を示す真鍮の鋲がついたコンクリート柱が建てられ、埼玉・栃木・群馬の三県を示す手作りの案内板もあり、位置関係が一目でわかるようになっています。
三県境は全国に43か所ありますが多くは川の中や山奥にあり、平地にあるのはとても珍しいそうです。
案内板には、三県境が平地にできのは渡良瀬川の改修工事によると書かれています。
[ 大正11年度直轄工事年報:渡良瀬川の改修状況 ]
三県境の周辺は利根川や渡良瀬川などの河川改修によって大きく姿が変わってきました。
江戸時代に行われた利根川の東遷により新川通(現・利根川)が開削されたため、旧・北川辺町が埼玉県の本体から切り離されました。
明治期になっても1890(M23)年、1896(M29)年など利根川流域では大洪水がたびたび発生したため、国は1900(M33)年から直轄事業として浚渫を中心に工事を進めました。
その後1910(M43)年の大洪水を契機に、中条提(埼玉県にあった巨大な霞堤)に頼らない連続築堤方式へ転換し、川幅を拡げ堤防を築き蛇行している部分は直線化する河川改修が進められました。
さらに、利根川の流量を増やさないために利根川に合流する渡良瀬川と思川の水を溜める渡良瀬遊水地の整備も行われました。
[ 明治迅速測図:旧・渡良瀬川と旧・谷田川の合流部 ]
[ 国土地理院空中写真 CKT20211-C23-23から一部切り抜き ]
蛇行の著しい渡良瀬川は、渡良瀬遊水地の第一調節池(ハート形の池)北側に付け替えられ、昔の河道はほとんどが渡良瀬遊水地に取り込まれ、一部は三日月湖のように取り残されましたが、次第に埋め立てられていきました。
埼玉・栃木・群馬の三県境は、旧・渡良瀬川と旧・谷田川が合流する川の中にありましたが、渡良瀬遊水地に取り込まれなかったため、埋め立てられて陸地に現れました。
河川の改修によって県境と川の位置に差異が生じた茨城県と埼玉県の県境は、1930(S5)年7月1日に当時の茨城県新郷村の一部が埼玉県に編入され改修後の渡良瀬川が県境になりました。
しかし埼玉県と群馬県・栃木県の境はおおむね昔の河川跡のままとなっています。
河川の改修により県境が現在の河川と異なっているところは数多くあり、県境が修正されるほうが稀な出来事です。
<参考資料>