chapter-053 都市再生整備計画

[ 2012.02~ ]

■バブルの跡・・・・・


不動産や株への投機が過熱し、地価・株価が驚異的な高値を付けた1986(S61)年頃から1991(H3)年にかけてのいわゆるバブル景気が過ぎ去り、その後の日本は「失われた10年」とも「失われた20年」ともいわれる先の見えない経済不況に陥りました。
バブル期に3万8918円の最高値を付けた日経平均株価は7021円の最低値を記録し、1平方メートルで1億4000万円を超えた銀座の土地は、2000~3000万円まで値下がりした時期もありました(と言っても庶民にはとても手の出ない価格ですが)。



[ コインパーキング(2011年):暫定的な利用 ]


バブル景気の頃は、不動産屋が小さな区画の土地を買い漁り、使いやすい大きな区画にして転売する「地上げ」が横行し、土地を手放さない地主の家にはダンプが突っ込むといった物騒な事件も起こっていました。
バブル景気が過ぎ去り中途半端な状態で地上げが中断した所では、使えない土地がコインパーキングなどに変身し、まわりには昔ながらの木造家屋が点在しているところもあります。


■都市再生特別措置法・・・・・



[ 構造改革なくして景気回復なし! ]


こんなことでは日本の都市に明るい将来はないと考えた日本のリーダーは、経済社会の構造的な変化や国際化の進展等に対応し、都市の再生を図るため2002(H4)年に「都市再生特別措置法」という法律をつくりました。
この法律で創られた「都市再生緊急整備地域」として政府が指定した地域では、民間主導で都市再生を促すため、容積率などの建築規制を適用しない事実上の特区を設定することもできます。
このため一部では、都心部にミニ・バブルを再び起こし景気の上昇を公に目論むための法律だ、という声もあります。



[ 高層化した明治生命館と三菱一号館(2011年) ]


東京都千代田区の丸の内で進むビルの建て替えには、都市再生特別措置法で創られた整備手法で再開発された地区が数多くあります。
丸の内の大地主である三菱は、一号館があった土地に都市再生特別地区の適用を受けて、「先進のフォルムと伝統あるシルエットの美しき融合」をコンセプトに、一号館の再現と近代的なオフィスビルが融合した再開発を進めました。
高度経済成長期には企業戦士の街だった武骨な丸の内も、若い女性にも楽しんでもらえるおしゃれな街に変身しつつあります。
しかし、そんな変身ができるのは東京など大都市のごく一部の地区だけです。



[ 丸の内ブリックスクエア(2011年) ]


2023(R5)年9月現在で都市再生緊急整備地域が指定されているのは52地域、その面積は約9,539ヘクタールありますが、埼玉県内で指定されているのは「さいたま新都心駅周辺地区」と「川口駅周辺地区」の2地区だけです。
ところが都市再生緊急措置法には、どんな市町村でもつくることができる「都市再生整備計画」というメニューも用意されています。
大都市だけに肩入れをしては申し訳ないという配慮なのでしょうか。


■都市再生整備計画・・・・・


都市再生整備計画は「市町村が都市の再生に必要な公共公益施設の整備等を重点的に実施すべき土地の区域において、当該公共公益施設の整備等に関する計画」として作成するものです。
この計画は県内でも川越市を筆頭に、多くの市町で策定されています。
“都市”とは言い難いところで何故都市再生整備計画を定めるのかというと、この計画を定めると国からまちづくりの交付金をもらうことができるのです。



[ 小鹿野町のメインストリート(2011年) ]


都市再生整備計画を策定した町のひとつに埼玉県秩父地方にある小鹿野町がありました。
小鹿野町は、役者・義太夫・裏方にいたるまでスタッフのすべてが地元住民による歌舞伎が有名で、江戸時代の中ごろから今日まで続いています。
しかし御多分にもれず小鹿野町も過疎化が進み、1960(S35)年に18,723人だった人口は50年後の2010(H22)年には3割減少し13,436人になっています。



[ 夢鹿蔵(2011年):1896年に建てられた銀行の蔵を改装 ]


小鹿野町はかつて江戸と信州を結ぶ主要な街道(現在の国道299号)沿いに発達した町でしたが、海から遠く鉄道のない町では第一次産業からの産業構造の転換に追随できませんでした。
さらに自動車の普及が進むと人口減少に拍車がかかり、商店は廃れ、町の中心部にあった食品スーパーも閉店しました。



[ お茶屋(2011年):ここは案内の立札がある ]


■小鹿野町の都市再生整備計画・・・・・


小鹿野町の都市再生整備計画では「地域の歴史・文化資源を活かした観光まちづくりの推進による中心市街地の活力創造」を目標に掲げ都市再生に取り組んでいました。
中心部には昔ながらの商家がいくつか残っていて、今でも店舗として立派に使われているいるものもあり、これらを観光資源として最大限活用しようとするものです。
「醤油店」の看板が出ているこのお店は、現在は酒屋として使われています。
しっかりと手入れされていて保存状態もよく、小ざっぱりとした構えは抵抗なく店内に入ることができます。



[ 醤油屋(2011年):今は酒屋 ]


警備詰所とは何のことなのでしょうか。
交番と言わずわざわざ警備詰所と掲げているのは、何か理由があるのでしょう。
残念ながら解説板がないので何のための建物なのか全く分かりませんが、ちょっと昔は地域に必要不可欠な施設だったようです。
これらの建物が面する道路は国道299号の旧道で、バイパスができたため車の交通量が減り、歩道こそありませんが安心して建物を眺めながら歩くことができます。



[ 警備詰所(2011年):交番とは違うようです ]


また、小鹿野町はオートバイ・ライダーにやさしいまちづくりを進めていて、オートバイ専用の駐車場を整備したり、ライダー歓迎のロゴマークを掲げているお店では特典を受けることができるそうです。
しかし、冬の秩父地方はバイクで走るには厳しい寒さかもしれません。



[ 街中の民宿(2011年):ライダー歓迎の看板 ]


■計画にないもの・・・・・


都市再生整備計画に記載はありませんが、小鹿野町を含む秩父地域は日本ジオパーク委員会によって2011(H23)年9月にジオパーク秩父として認定されました。
ジオパークとは地球活動の遺産を主な見所とする自然の中の公園だそうで、2023年現在日本国内には日本ジオパーク46地域、そのうち10地域が世界ジオパークです。



[ ようばけ(2011年):褶曲した地層がわかる ]


小鹿野町にもジオパークの見どころが点在していて、その中で誰が見てもうなずけるジオサイトが、市街地からは少々外れますが赤平川の右岸にある「ようばけ」(陽のあたる崖(ハケ))といわれる断層でしょう。
高さ100m、幅400mにわたり、理科の教科書に載っているような褶曲した断層を見ることができます。
大昔は海底にあった砂岩と泥岩の互層が、隆起したため地上したもので、国道299号を秩父方面へ走っていても見ることができる大きな褶曲ですと



[ わらじかつ丼(2011年):味かつが2枚のっただけ ]


この他に忘れてはならない名物があります。
『わらじかつ丼』と呼ばれるかつ丼です。
ご飯の上に甘辛いたれにくぐらせた味カツを2枚のせただけのシンプルなかつ丼で、2枚のカツがわらじのようなのでこのように言われています。
秩父の人から聞いた話では、一枚はどんぶりの蓋に取り酒のつまみにして、そのあとに残った一枚のカツでご飯を食べるのだそうです。
嘘か本当か定かではありませんが、結婚披露宴が夜通し続く地方なので、あながち嘘ではないかもしれません。



[ 安田屋(2011年):電柱にある看板が目印 ]


『わらじかつ丼』で有名なのが安田屋です。
旧国道299号の一本南側にある狭い通りに店を構えていますが、名の知られたかつ丼屋であることを知る人以外は、まず入ることはないでしょう。
メニューにあるのはかつ丼と単品のカツだけです。
カツが2枚のふつうのかつ丼は800円、カツが1枚の子供用は700円ですが、味カツは1枚300円するので子供用はコストパフォーマンスに優れません。


 
[ 安田屋のめにゅー(2011年):シンプルで複雑 ]


小鹿野町は都内の丸の内や有楽町とは比べ物にならない『都市』ですが意外と面白いところです。



■おまけ・・・・・


[ 毘沙門水 ]

小鹿野町の北部、県道藤倉吉田線沿いにある天然水。
平成の名水100選に選ばれたおいしい水です。
カルシウム分とミネラルが豊富な自然水で1日の湧水量は1000トンもあるそうです。
普通の蛇口から水が出るようになっているので、ペットボトルでもあればお土産に持って帰ることもできます。
車で来る人は大きなタンクに毘沙門水を満タンにして持ち帰っています。





<参考資料>