chapter-055 道路構造令と街路構造令

[ 2012.04~ ]

■道路と街路・・・・・


言うまでもありませんが 「道路」とは人、自転車、自動車などが通るところで、幼稚園児でも知っている言葉です。
「道」、「路」、「途」、「径」、「通り」も道路とほぼ同じ意味で使われますが、「道路」は「道」、「径」などよりも自動車が多く通り、幅の広い人為的に造られたものといった感じがします。



[ さいたま市内の国道463号(2012年) ]


これらを国語辞典で調べてみると、いずれの言葉も人やモノが通るための機能を持つ施設として説明されています。
 < 広辞苑(岩波書店) >
  道路 = 一般公衆の交通のために設けられた地上の通路。みち。往来。
  道、路、途、径 = 人や車が往来するための所。通行する所。道路。通路。

英語の世界では、和英辞典で「道路」を調べるとroad、streetが出てきますが、類似した単語にpath、way、avenueなどもあります。
avenue:並木道。側面に沿って一定の間隔で木が並ぶ都市または町の広い道路。
path: 踏まれてできた路。小道。歩くために敷設された道。
road:道路、街路。車両が使用する路面を備えたある場所から別の場所へ続く道。
street:両側に建物の並ぶ街路。片側または両側に家屋や建物が並ぶ都市や町の公道。
way:移動するための道路、線路、道、小道。



[ street(2018年):ローマ市街 ]


日本語の「道路」や「道」は周りの状況にかかわらず使えますが、avenueは街中にあり並木がある道、streetは街中にあり沿道に建物がある道、でないと使えそうにありません(アメリカでは都市内の道路名をつける際に、東西方向は〇〇street、南北方向は△△avenueとするそうです)。
avenueは日本語にすると並木道となりそうですが、streetにうまく当てはまる言葉は強いて言えば「街路(市街の道路)」でしょうか。
街路は、「街路樹」「街路灯」として使うことはありますが単独で使うことはあまりありません。
都市計画、建設の業界では道路とならび使われますが、一般の人にはあまりなじみのない言葉です。



[ いかにも街路(2012年):三井本館と三越の間 ]


「街路」という言葉を耳で聞いてもイメージがわきませんが、文字を見れば街中の道路のことだろう、と想像はつきます。
しかし道路と街路には大きな違いがありました。


■2つの構造令・・・・・


道路や街路のほとんどは国、都道府県、市町村が造りますが、その際に一般的技術基準となるのが道路法に基づき定められた『道路構造令』という政令です。
地方分権や地域主権の流れによって、一部の条項は地方公共団体の条例に委ねられていますが、根本的な部分はこの構造令の規定に基づいています。
したがって、全国の道路・街路は道路構造令の規定によって造られていると考えて差し支えありません。



[ 山間地の道路(2002年):道路構造令に基づく ]


現在の道路構造令は、東京のような都市部の道路も人口の少ない地方部の道路も対象にしていますが、旧・道路法の時代(1919~1952年)には『道路構造令』と『街路構造令』の2つの構造令が存在していました。
道路構造令[1919年]の対象となる道路は、「一般の交通の用に供する道路にして行政庁において第二章による認定をなしたるもの」で、大臣、知事、郡長、市長、町村長が認定した路線(国道・府県道・郡道・市道・町村道)が対象でした。



[ 大阪御堂筋(2017年):街路構造令に基づく ]


一方、街路構造令は、道路構造令[1919年]の第19条「街路の構造については特別の定めをなすことを得」という条文に基づいた政令で、対象となるのは街路構造令第1条に「街路と称するは地方長官の指定する市内及び市に準ずべき地域内における道路」と定められ、道路構造令に比べると限定された地域に適用されていました。


■街路構造令の特徴・・・・・



[ 御茶ノ水橋の軌道跡(2020年):橋の修繕で見つかった ]


街路構造令は車道と歩道を区別し、各側の歩道幅は全幅の1/6を下回ってはならない、とされていました。
車道と歩道を区別しないことが許されるのは、一等小路(4間以上)と二等小路(1間半以上)に限られ、幅の広い広路(24間以上)と大路(6間以上)には必ず歩道が造られます。
一方、道路構造令[1919年]は、国道の有効幅員は4間以上、府県道の有効幅員は3間以上であり、街路は断然に広い幅を確保していました。
道路構造令の幅は車(当時は馬車や荷車)がすれ違うことはできますが、歩行者に配慮した空間はありません。



[ 日本帝国統計年鑑の諸車:黒数字は自動車台数 ]


ふたつの構造令が制定された1919(T8)年は、自動車5,553台に対し馬車25万台、荷車208万台、自転車161万台の時代です。
自動車同士がすれ違うのが稀な時代でありながら、街路構造令は人や車を通す最低限の機能のほかに、広い空間を確保し街並みを整え質の高い都市空間を創り出そうとする意図がうかがえます。
また、広路(24間以上)と一等大路(12間以上)は、当時公共交通の主流だった路面電車を収容できるような幅で設定されていました。



[ 復興事業の内訳:道路が過半を占める ]


1923(T12)年9月に起きた関東大震災後の復興事業では、短い事業期間に多くの街路の築造が必要だったため、街路構造令を定型化した「歩車道幅員標準図」がつくられました。
これに基づき多くの街路が迅速に整備され、路面電車が通行できる幅22m以上の街路が119Km生み出されました。
しかし、震災を機に郊外へ住宅地が広がり、路線バスやタクシーが路面電車と競合するようになり、皮肉にも東京の路面電車は利用者が減少していきました。
当時の人々の努力により震災復興事業は1923~1929年度で完了し、1930(S5)年3月26日に帝都復興完成祝賀会が挙行されました。
遅々として進まない東日本大震災後の復興と比べると、帝都復興事業の驚異的な速さが際立ちます。



[ 昭和通り(2012年):江戸橋1丁目付近 ]


震災復興で整備された街路の中でも有名なのは、銀座の東側を通る「昭和通り」です。
復興計画の当初案では、東京駅と皇居を結ぶ行幸通りと同じ40間約72mという規模でしたが、復興予算の縮小に伴い幅員が大幅に削られました。
それでも幅44mの幹線道路として整備され、中央には広い緑地帯があり、車道と歩道の間にも並木を設けたゆとりのある道路でした。
昭和通りはその後、1964(S39)年の東京オリンピック開催時の交通対策として、中央の緑地帯は交差道路との立体交差に使われ、街路樹は歩道部の2列のみになり自動車交通のための道路になりましたが、現在でも幹線道路として十分な機能を果たしています。



[ 昭和通りと首都高(2012年):江戸橋付近 ]


さらに街路構造令は第二次世界大戦の空襲で焼き尽された都市の戦災復興の際も、戦災復興都市計画街路標準横断図の基礎となり各都市の復興計画に用いられました。
しかし戦災復興事業は財政難のため、昭和24年6月24日に『戦災復興都市計画の再検討に関する基本方針』が閣議決定され、その方針のひとつ「幅員のはなはだ大なる街路(概ね30メートル以上)は、その実現性並びに緊要度を勘案して適当に変更する。」に沿って、残念ながら多くの都市で街路の計画が縮小されました。
戦災復興による街路整備が計画を縮小することなく進んだのは、名古屋などごく少数の都市のみで東京では大幅な縮小・削減となったことは有名なお話です。



[ 市役所通り(2007年):熊谷市役所~国道17号 ]


埼玉県内で唯一戦災復興事業を行った熊谷市も計画縮小の例外ではなく、幅50mで計画していた市役所前通りは1950(S25)年に36mに縮小され現在に至っています。
現在は幅50mの17号熊谷バイパスが市街地外縁部にありますが、幅36mの道路は熊谷の市街では最も広い通りです。
熊谷市役所~国道17号の間は中央に広い植樹帯と両側に街路樹のある広い歩道が造られ、国道17号~JR高崎線の間は4車線の車道と停車帯、歩道は街路樹とベンチを備えたゆとりある空間になっています。



[ 市役所通り(2007年):国道17号~JR高崎線 ]


■交通事故と自動車の激増・・・・・


街路構造令は歩道を設ける旨の規定がありましたが、道路構造令[1919年]には歩道に関する条項がなかったため、街路構造令が適用される地域を除くと、全国に広がる国道や府県道で歩道が造られたところは多くはありませんでした。
道路構造令[1919年]が制定された当時、自動車は極めて少なく交通事故も少ないように思えますが、それなりに事故なあったようです。
大正15年の警察統計報告第1回を見ると、交通事故の総数は約4.5万件、1933人が亡くなっています。
このうち、道路を走らない”汽車”によるものを除いて1013人が道路で亡くなっています。
死者は電車393人、自動車251人、牛馬車136人の順に多く、搭乗中と轢死を含む数のようです。



[ さいたま市内の産業道路(2011年) ]


牛馬車主体の交通から自動車主体の交通に対応するため、1935(S10)年に道路構造令並細則改正案要項が出されました。
国道の有効幅員は7.5m又は6.0m以上、指定府県道は6.0m、5.5m以上、その他の府県道は5.5m、4.5m以上とされ、必要な場合は6.0m、7.5m、9.0m、11.0mにすることができましたが、歩道を設ける規定はありませんでした。
実際の道路幅は有効幅員に路肩50㎝×両側=1mを加えたものですが、その他の府県道の場合は路肩を加えても5.5mしかなく全幅を使ってようやく車両がすれ違える程度でした。
改正案の解説が翌年に土木学会から出ていますが、その中で「歩道のある場合はここでは取扱って居りません。それは全部街路の方で考えることに致しました。」とあり、街路構造令が適用される地域でないと、国道や府県道に歩道が造れない体系でした。
第二次大戦後もこの規定がしばらく続いたのです。
経済企画庁が「もはや戦後ではない」と経済白書(1956年7月)に記述した頃になると自動車は200万台を超え、10年後の1968年には5倍の1000万台を突破する増加ぶりでした。



[ 交通事故と自動車台数 ]


また、交通事故は自動車の増加を上回る勢いで増え、1955(S30)年に6,379人だった交通事故死者数は年々増加し、1960(S35)年にはほぼ倍の12,055人となり大きな社会問題になりました。
ピーク時の1970(S45)年には16,765人が交通事故により亡くなっています。
交通事故の原因はドライバーの運転や歩行者の通行の仕方にも問題はありましたが、歩行中の死者が最も多くなっていました。


■道路構造令[1958年]・・・・・


激変する道路交通の状況に対応するため、1958(S33)年に新しい道路構造令が制定されました。
旧道路法に基づく道路構造令と街路構造令は廃止され、道路も街路も統一された『道路構造令』を基準に造られることになります。
新たな構造令では最新の道路工学の知見を取り入れ、概ね20年後の交通量と自転車混入率に関連させて車道の幅員を決定する規定になりました。
自転車混入率が高くなると車道を走れる自動車数が減り、同数の自動車を通すためには幅を広げるようになっていて、自動車走行への配慮がなされていました。
自転車は車道か自転車や荷車等のための緩速車道を通行することになりますが、緩速車道が設けられることは稀でした。



[ 県道練馬川口線 旧大和町:1963(S38)年の工事図面 ]


また『街路構造令』の対象となっていた道路は「市街部:市街地を形成している地域又は市街地を形成する見込みの多い地域」にある道路として、「第4種」または「第5種」の規格を適用することになりました。
改正された構造令の第9条には「第4種の道路には、その各側に歩道を設けるものとする。」とされていたので、「第4種」の規格が適用されれば国道でも都道府県道でも市町村道でも歩道付きの道路整備が進むはずでした。
しかし「市街部」の定義のうち、「市街地を形成している地域」は判別が容易ですが、高度成長期にあって「市街地を形成する見込みの多い地域」の捉え方は難しかったと思われます。



[ 県道練馬川口線(旧浦和田無線):1964(S39)年の開通式 ]


和光市内の県道練馬川口線は、東京オリンピックにあわせ1964(S39)年8月に開通した道路ですが、開通式典の写真(東輝橋歩道橋下)では歩道が設けられていません。
この区間は板橋区と練馬区に接していて、開通直後は畑の中を走る道路でしたが、現在は店舗、倉庫、戸建住宅、マンション、畑が混在する地域に変貌しました。
沿道の変化に合わせて歩道のない4車線の道路となり、その後、幅を拡げずに16mの道路幅の中に4車線の車道と歩道を詰め込んだ道路になりました。
「市街地を形成する見込みの多い地域」の捉え方が難しいうえ、歩道のない「第2種」や「第3種」の方が用地買収費も工事費も少ないため、歩道付きの「第4種」の適用は消極的にならざるを得ません。



[ 開通委から50年後の県道練馬川口線(2015年):歩道の幅は1m前後 ]


■道路構造令[1970年]・・・・・


改正を重ねながら現在も使われている道路構造令で、自転車道と自転車歩行者道の規定が新たに設けられました。
しかし時代は自動車優先の道路整備が急務であったため、自転車道がつくられることはほとんどなく、自転車と歩行者が混在する自転車歩行者道による整備が進みました。
自転車の大勢を占めるいわゆるママチャリ(前にかご、後ろに荷台)は老若男女が使いスピードも出ないので、車両より歩行者に近いと考える人も多かったのでしょう。
この結果、交通安全の御旗のもとに自転車の歩道通行が進み、世界的に見ると特異な状況になりました。



[ 中山道桶川市街(2015年):ママチャリが歩道を走る ]


この構造令[1970年]になってようやく「市街地」以外の「地方部」でも必要に応じて歩道を造ることができる規定が設けられました。
日本は欧米と違って土地利用規制が甘く土地所有者の権利が絶大なので、道路ができればどんなところでも建物が建ち、人が住めば道路を歩く人がいます。
ある程度の交通量がある道路では歩道を造らない訳にはいきません。
日本では土地利用規制の甘さとそれに便乗する開発や建築が、道路の整備に余計な負担をかけています。



[ 狭山市(2005年):住宅、倉庫、畑が混在 ]


未来に残るストックとして良質な都市空間や安全な道路を造り出すためには、「全幅の1/6以上の歩道を各側に設ける」のように、単純で誰にでも理解できる基準があっても良かったのではないかと思えてなりません。



■おまけ・・・・・


[ 陸上自衛隊広報センター ]

国道254号沿いの陸上自衛隊朝霞駐屯地にある広報センターです。
民主党の事業仕分けで有料化が提案され、実施したものの来場者が激減したため無料に戻りました。
陸上自衛隊の本物の兵器に触れることができるのでマニアには垂涎の施設です。
兵器の他に隊員が使っている本物の鉄かぶとを試着することができ、その重さに戦争の恐ろしさ・怖さを体感できます。





<参考資料>