全国各地で市町村の合併が進み、財政力の弱い村や町は隣接する市に吸収されたり、町や村同士が合併したため、その数が少なくなってきました。
明治、昭和、平成のそれぞれの時代に合併が促進され、村は希少な自治体になってしまいましたが、村が意外と多くあるのが東京都で8つもの村が残っていてます。
埼玉県では市町村合併により『村』が減少し、唯一東秩父村だけになってしまいました。
[ 全国の市町村数:村の数が激減 ]
東秩父村は1956(S31)年に大河原村と槻川村が合併して誕生し、合併当時の人口は6,000人を越えていました。
しかし村の80%以上を山林が占め特筆すべき産業がないこともあり、2023(R5)年は2,548人にまで人口が減少しています。
東秩父村は秩父郡に属していますが、東隣の比企郡へは槻川に沿った県道熊谷小川秩父線を通れれば大きな障害なく行き来することができますが、西隣りにある秩父郡の市町へは二本木峠、粥仁田峠(粥新田峠)、定峰峠のいずれかを越えなければなりません。
[ 秩父高原牧場から東秩父村方面(2003年) ]
地形を考えると、山を越えなければ往来できない秩父郡よりも比企郡に含まれるのが自然ではないかと思いますが、もともと秩父盆地の外郭にある町村はどういうわけか秩父郡に含まれていました。
旧・槻川村と旧・大河原村が合併した際にも、これまで“東秩父”、“外秩父”と言い古されていたため、すんなりと「東秩父村」に命名されたようです。
しかし、秩父盆地外側の町村の多くは秩父郡から他の郡に“転出”したため、盆地の外側にあった町村で秩父郡に残っているのは東秩父村だけになってしまいました。
名栗村、吾野村(現・飯能市) → 入間郡
大椚村(現・ときがわ町) → 比企郡
矢納村(現・神川町) → 児玉郡
東秩父村にも比企郡の小川町との合併話が一時期あり、唯一の村のこれからの行方が気になるところです(誰も気にしていない?)。
[ 秩父からの経路:赤色が東秩父村 ]
鉄道のない東秩父村では道路が生活を支える動脈で、秩父地域から小川方面へ抜ける県道が村の大幹線道路になっています。
昔は、秩父地方から東京方面に出る経路として、
・児玉を経て中山道に至る経路
・寄居を経て中山道に至る経路
・粥仁田峠を越え東秩父・小川・川越に至る経路
・正丸峠を越え飯能に至る経路
の4つがありましたが、その中でも粥仁田峠を越える経路が物資を運ぶ主要な路線でした。
しかし、秩父から寄居方面、児玉方面への道路改修が進み1903(M36)年に上武鉄道(秩父鉄道)の熊谷~寄居間が開通すると、粥仁田峠越えの交通は衰退しました。
[ 村内で最初に信号機がついた交差点(2012年) ]
さらに、秩父と小川を結ぶ道路が1920(T9)年に道路法に基づく県道として認定された時には、粥仁田峠越えではなく定峰峠を越えるルートに変更されました。
変更された定峰峠ルートの工事はななかなか始まりませんでしたが、地元町村から出された定峰峠開削の請願が1935(S10)年に可決され、1940年にようやく工事が始まったものの戦争によりすぐに中断となりました。
戦後になって東秩父側からも工事が行われ、1955(S30)年に自動車が通れる道路として定峰峠ルートが開通しました。
自動車が通れる道路と言っても、当時の道路構造令により造られたので山地部の県道は、有効幅員が4.5mしかな道路です。
[ 定峰峠(2012年):秩父市と東秩父村の境の峠 ]
県道認定が行われた1920(T9)年の県議会では、「30か年の見込みで本県の道路・橋りょうを道路法の構造令に則って改良する趣旨の説明があったが、その計画においては幹線を先にするのか、劣悪な県道を先にするのか」との質問に対し、「国道のような幹線、重要停車場線や山間部の山地開発道路、あるいは橋のないところを優先する」という、どこを優先するのか分からない、現代と変わらぬ玉虫色の答弁がありました。
それでも、定峰峠ルートは路線認定から戦争を挟み35年で開通したことを考えれば、30か年の見込みはあながち嘘ではなかったようです。
[ 定峰峠(2012年):秩父側に少し下ったところ ]
東秩父村の行方を示す「第5次東秩父村総合振興計画(2011~2020)」には、
①花の名所づくりプロジェクト
②和紙の里パワーアップ・プロジェクト
③元気な地域づくりプロジェクト
が取り上げられていていました。
「和紙の里」には、和紙の手漉き体験や伝統工芸品を紹介・販売する施設があり、ローカル的には結構有名な施設です。
和紙の生産は昔からある東秩父の産業で、第二次大戦中はここで造られる和紙は軍需用に優先され、アメリカ本土を攻撃する風船爆弾用の気球紙に使われたそうです。
東秩父の和紙が武器として使われたことは悲しいことですが、紙の丈夫さを示す出来事でもありました
[ 大内沢地区(2014年):花桃と桜が咲いている ]
この総合振興計画では一番に「花の名所づくりプロジェクト」が掲げられ、これからは観光を主要産業に育てようとする村の意気込みが表れています。
既にいくつが事業が進められ、その中でも大内沢地区で進められている「花桃の郷」の整備は一見の価値があります。
大内沢地区は切り花として出荷する花桃を生産している地域で、花が咲く3、4月には斜面一帯が桃色に染まり、その間に民家が点在する風景は桃源郷のようです。
山梨県の一宮・御坂地区と比べれば小さなものですが、箱庭のような可愛らしさがあります。
[ 大内地区(2012年):桜と桃に囲まれた家 ]
しかしこの風景は、普段生活しているところから見ることはできません。
ある程度小高い所からでないと見ることができないので、2011年に一般の観光客がこの風景を容易に楽しめるように、斜面の反対側の小山に展望台が造られました。
展望台に立つまでは少し急な坂道を登りますが、展望台に立った時は大きな感動が味わえます。
展望台のまわりは視界を遮る樹木が伐採され、大内沢の斜面一帯を見渡せるようになっています。
[ 展望台(2012年):標高324mの大内山に造られた ]
芝桜で有名になった秩父の羊山公園も、平らなところに芝桜が植えられているだけでは、人を集めることはできなかったと思います。
芝桜が植えられている場所が凹型の地形で、低くなった部分を挟み反対側から芝桜を面として広く見ることができるので、美しい風景を楽しめるのです。
富良野のラベンダー畑も適度に褶曲した地形があったからこそ、今の地位を獲得できたのです。
[ 秩父羊山公園(2012年):芝桜が咲く凹型の斜面 ]
「花桃の郷」も「羊山公園の芝桜」も地形を生かし、観る人が立つ場所からの視野と観られる対象物の位置を考慮して作り上げられた景観です。
東秩父村では「花桃の郷」の他にも、採石場の跡地に桜を植え将来の花の名所を創ろうと、未来への投資が行われています。
頑張れ!東秩父村!
[ 採石場跡地の桜(2012年):これからが楽しみ ]
2014(H26)年に小川町、東秩父村の手漉き和紙「細川紙」がユネスコ無形文化遺産に登録されました。
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[ 和紙の里(2016年) ]
東秩父村に待望の道の駅「和紙の里 ひがしちちぶ」が誕生しました。
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東秩父和紙の里などの施設をリニューアルし、さらに人気の高い農産物直売所を移転して、2016(H28)年10月30日に埼玉県内で20番目の道の駅としてオープンしました。
そのほかに、路線バスの乗り継ぎターミナルとして使えるきれいな待合所とバス停を併設し、バス路線も道の駅を通るように再編されました。
先進的な取り組みです。
<参考資料>