コンクリートという材料は引っ張る力に弱いため、石橋と同様に昔はアーチ形式で造られるコンクリート橋が多かったようです。
その後、鉄筋と組み合わせて造られるRC(Reinforced
Concrete)橋や鋼製ケーブルなどと組み合わせて造るPC(Prestressed Concrete)橋の技術が進歩し、多くのコンクリート橋が造られるようになりました。
近年多く使われているPC橋は、桁橋といわれるシンプルな形で造られることが多く、景観的には物足りない平凡なものが多いような気がします。
[ 御茶ノ水駅と聖橋(2012年) ]
コンクリート橋としては、お茶の水駅の横を流れる神田川に架かるアーチ形式の聖橋が有名で、橋の下を流れる神田川と中央線が一緒に写っている映像を一度は見たことがあると思います。
聖橋は震災復興事業により造られた橋の一つで、橋名は神田川北側の湯島聖堂と南側のニコライ堂を結ぶことに由来しています。
お茶の水付近の神田川は、江戸時代に切開かれた川ですが斜面には樹木が生い茂り緑が多くなっているので、昔からある川のように思えます。
上流に架かる御茶ノ水橋から見ると、半円形のコンクリートのアーチがきれいに見えます。
最近は御茶ノ水駅の改修工事のため、川の中に桟橋が造られちょっと騒々しい姿になっていますが、完成すればきれいな新しい風景が見られそうです。
[ 音無橋(2010年):音無公園の上にある橋 ]
王子駅の北側を流れていた石神井川(今の石神井川は地下を通っている)の上空を通る音無橋もコンクリート製の美しいアーチ橋です。
床版とアーチ部材をつなぐ鉛直支柱は、アーチ型にくり抜かれていて橋の軽量化に一役買っています。聖橋は中央径間のみがコンクリートアーチですが、音無橋は側径間もアーチ形式の美しい三連アーチ橋です。
しかしアーチのひとつは北区の自転車置き場の屋根になっているのが残念です。
[ 旧・秩父橋(2016年) ]
県内にもコンクリート橋は多数ありますが、秩父地域を流れる荒川に架かる旧・秩父橋や皆野橋が代表的です。
いずれも3連のアーチ橋で100mを超える長さがあり、桁下の空間も大きく壮観な風景を作り出しています。
旧・秩父橋は1931(S6)年に竣工した橋ですが、幅員6.0mでは大型車のすれ違いが困難で老朽化もあり隣接して3代目の橋が隣接して造られたため、現在は人道橋として公園的に使われています。
[ 皆野橋(2017年) ]
一方、皆野橋は1935(S10)年に竣工し、旧・秩父橋より狭い幅員5.5mしかなく大型車のすれ違いが非常に困難な橋で、現在でも車両が通行する現役の橋として頑張っています。 旧・秩父橋が現役だったのは1985年までの54年間に対し、皆野橋は2024年時点で89年間も働いています。 大型車の交通量が橋の寿命を左右しているようです。
旧・秩父橋も皆野橋も高齢ですが、さらに高齢で現役のコンクリートアーチ橋があります。ときがわ町にある玉川橋は、規模こそ小さい橋ですが1921(T10)年に竣工し、すでに100歳を超える現役の長寿橋です。
都幾川に架かる玉川橋は、県道ときがわ熊谷線のコンクリートアーチ橋で幅員が狭いため乗用車ですらすれ違いが困難ですが、大型車の通行も制限されず現役として活躍しています。
[ 玉川橋(2024年):歩道部と高欄が竣工時と異なる ]
明治時代に完成した先代の橋は地元の寄付金で造られましたが、通行料(橋銭)を徴収するのが当時の常であったにもかかわらず、橋銭なしで通れる橋だったそうです。
先代の橋が老朽化して危険となったため、県は19,048円の予算を計上し1921(T10)年1月5日に起工、同年12月8日にアーチ橋としては県内第1号となる玉川橋が竣工しました。
当時の書類には橋の概要として
「橋長 百六尺」(32.1m) 「橋幅 十五尺」(4.5m)
「径間 八十尺」(24.2m) 「拱形 抛物線」(アーチ 放物線)
などの記載があります。
[ 玉川橋側面図 ]
玉川橋の架替えに当たっては、県と内務省土木局でやり取りがあり、橋の構造や使用材料に様々な指示が与えられています。すでに工事が始まっている1921(T10)年3月28日には、内務省土木局長から知事あてに9項目の再調査が指示されています。
1 鉄筋コンクリート構造は拡築できないので構造令に規定する有効幅員3間とすること
2 橋梁(橋台とも)の耐力計算に関する図書を提出すること
3 高欄の高さは3尺から3尺5寸とし、1尺当り30ポンドの群集推力に耐えること
4 橋梁と両側道路の関係を示す縦断面図を提出すること
5 橋床は防水を施すること
6 図面には精細な寸法を記入すること
7 コンクリート部材の接合部はハンチを設け、角は面取りをすること
8 異なる配合のコンクリートで砂利・砂の配合を同一としているのは不当
9 セメントは種類を限定することなく最も適宜なものを使用すること
見積価格は時価に比べ高価である
橋梁の強度に関係のないところは軟鋼鉄線ではなく普通のもので可
[ 玉川橋横断図:床版には鉄筋が使われている ]
これに対して県は、高欄は2尺9寸に変更し、橋床の防水として2寸のアスファルト舗装を設けるなど、追加・変更・訂正を行っていますが、さすがに工事が始まっているため橋の幅を広げることができず、「将来改修に際しても15尺(2.5間)幅とする予定なので承認してほしい」と言い逃れています。
玉川橋の改築は1921(T10)年11月28日付けで内務大臣が認可をしていますが、同日付の土木局長の通牒で「交通上ノ危険ニ基キ既ニ竣功済ナルニヨリ特ニ追認セラレタル次第ニ付御了知ノ上将来御注意相成度」とお叱りを受けています。
堂々と事後承認で済ませてしまった、当時の県のお役人は太っ腹だったようです。
[ アーチ部のメラン材:フレートは幅6cm厚さ9mm ]
玉川橋は『鐡筋混凝土構造』(鉄筋コンクリート構造)とされていますが、設計図書を見る限り鉄筋が使われているのは人や車が載る床版部分だけです。そのほかのアーチ本体、横桁、鉛直支柱には鉄筋が使われず、代りに山形鋼や平鋼をリベットで接合した鋼材がコンクリートで包まれています。この形式は『メラン式』といわれ、仮設材として予め鋼材でアーチを架設し、これを支えとして型枠を設置しコンクリートを打設する工法ですが、戦前は単に鉄筋に代えて鉄骨を使用していたため『鉄筋コンクリート』に分類されていたそうです。お茶の水の聖橋もメラン式コンクリートアーチ橋です。
[ アーチ部断面図:鉄筋に代わり鉄骨が使われている ]
玉川橋の構造計算書でも鉄骨があたかも鉄筋のように扱われており、ところどころで『鉄筋ノ断面』に鉄骨の断面が含まれて計算されています。現在の鉄筋構造物では異形鉄筋が使われますが、当時は異形鉄筋の入手が困難で玉川橋で使われている鉄筋は『中鋼丸鉄』となっています。
架換工事設計書では、鍛冶工767人、木工258人、左官89人、人夫2174人の延べ3,288人の労力を見込んでいて、鉄骨を組み上げる鍛冶工が多いこと、モルタルを上塗りをする左官が計上されていること、などが玉川橋の特徴です。
[ 上から見た玉川橋(2024年):歩道部分は別の橋 ]
内務省の指示に従わず橋幅15尺(≒4.5m)で造られた玉川橋は、車が通るには幅が狭く軽自動車のすれ違いが精いっぱいの橋です。せめて内務省の指示に従っていれば3間(5.4m)の幅員があるので、大型車は無理でも乗用車のすれ違いはできたはずです。
1919(T8)年に道路法が制定され、それに基づく道路構造令には
「第2条 府県道の有効幅員は3間以上となすべし 山地其の他の特殊の箇所に限りその幅員を3尺以内縮小することを得」
と定められているにもかかわらず、15尺=2.5間の幅員としたのはなぜなのでしょうか?
[ 下から見た玉川橋(2012年):歩道と車道は全く別の橋 ]
狭い橋を歩行者が通行するときは、逃げる場所もなく危険極まりない状況です。橋の近くには幼稚園や小学校もあるので、歩道設置の要望もあったと思われます。1970(S45)年、下流側に歩行者用の橋が継ぎ足されるように架けられました。
現在は上から見ると歩道のある橋のように見えますが、橋の下から見上げると全く別の橋が平行して架けられているのが分かります。この歩行者用の橋は、玉川橋竣工当時の太いコンクリートアーチ、細い支柱、薄い床版がつくりだす美しい側面を隠してしまい、下流からの景観を台無しにしています。
[ 現在の高欄(2012年) ]
現在の高欄は、鋳物のパネルがはめ込まれたコンクリート製で重々しい感じがしますが、竣工当時の高欄は直径3寸(≒12cm)のガス管と鋼板(140cm×6cm×0.9cm)を組み合わせたものでした。高欄の支柱は鋼板に90度の捻りを加え、支柱を補強する補助部材は360度の捻りが加えられた珍しい装飾が施されています。
この高欄では車の逸脱を防止する効果は期待できず、人の転落を防ぐための高欄でした。現在の高欄は1987(S62)年度に、通行する車の安全のためにアーチをデザインした丈夫な高欄に造り変えたと思われますが、継ぎ足された歩道部とともにスレンダーな玉川橋本来の姿から遠ざける要因となっています。
[ 後年の改変:歩道、高欄、水道管がつけられた ]
[ 竣工時の高欄 ]
[ アーチ部のコンクリート(2012年):手間がかかっている ]
一般にコンクリートの表面は、型枠の面が平らであれば模様のない平滑な仕上がりになりますが、玉川橋のコンクリート面はデザイン?が施されています。平面部は自然石のような仕上がりとなっていますが、コーナー部は平滑な仕上げとして構造物のエッジが際立って見えるようにデザインされています。
橋を渡る人からは見えない部分なので、玉川橋が跨ぐ都幾川から見上げられた時の見栄え、景観を考えて施工されたものと思われます。
[ 橋の下(2024年):川に下りる道がない ]
玉川橋が架かる都幾川は50mほど下流に堰があるため、流れが緩やかで水も見た目はきれいなので、夏には水遊びができそうな所なのですが、川に下りる道がなく水に触れることができません。橋の上流側は河岸に繁茂する樹木によって遮られ、玉川橋の側面を見ることができません。
玉川橋は完成してから1世紀が経過するものの、今でも現役で活躍している土木遺産であり、質素ながら美しい装飾も施されています。また、ときがわ町は「ときがわ水辺の道」と名付けた遊歩道の整備を行っています。
水辺のそばにコンクリートアーチを見上げられる場所がぜひとも欲しいものです。
玉川橋とほぼ同形のコンクリートアーチ橋が飯能市の名栗川に架かっています。
1924(T13)年に完成した長さ31.4m、幅3.9mの名栗川橋は大きさは玉川橋とほぼ同じですが、上流側に水道管が添架されただけで高欄などはほぼ完成時の姿をとどめています。
名栗川橋は村道橋として造られたので、県道橋である玉川橋に比べて交通量が少なかったことが幸いし、完成時の姿をほぼ残すことができたのでしょう。
[ 名栗川橋(2012年):玉川橋の2年後に架けられた ]
現在の名栗川橋は車止めが設けられ、軽自動車程度しか通行できないようになってますが、玉川橋と同様に現役の橋です。
橋のたもとには『土木学会選奨土木遺産』として登録された記念プレートと、埼玉県指定有形文化財であることを示す由緒書きがあり、名栗川橋は鉄筋コンクリートのアーチ橋と説明されていますが、ひょっとすると玉川橋と同じメラン構造かもしれません。
玉川橋と名栗川橋は大きさ、形がそっくりで、完成した時期もほぼ同じ、まるで双子のようです。
[ 新佐賀橋(2012年):高欄はほぼ無傷 ]
コンクリートのアーチ橋は山間部だけでなく平地にもあります。
鴻巣市(旧・吹上町)を流れる元荒川に架かる新佐賀橋は1933(S8)年6月の竣工で、橋本体や高欄にいろいろな模様が施されている、コテコテの橋です。この橋は下を流れる元荒川に遊歩道が整備されているのですが、橋の両脇に水道管が添架されていて遊歩道からコテコテ模様の橋を楽しむのを邪魔しています。
[ 新佐賀橋(2012年):ここでも水道管が邪魔 ]
さらに、親柱も高欄もほぼ無傷で残っているのですが、親柱を隠すように電柱やカーブミラーが立っているので銘板の文字を読むのが一苦労です。
コテコテ模様の橋なので『いー仕事、してますね』と言うには賛否両論あるかもしれませんが、今ではこんなにたくさんの模様のある橋を造ることはできませんので『是非、大切に使ってください』といったところででしょうか。
これらの橋は旧・秩父橋や皆野橋に比べると格段に小さな橋ですが、それだけに身近なところに隠れています。
<参考資料>