戸田市 【五差路】

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■陸の孤島・・・・・



[ 2024年 戸田市の位置 ]


埼玉県南部にある戸田市は荒川を挟み東京都板橋区に接し、国道17号(戸田橋)、17号新大宮バイパス(笹目橋)が市内を通っています。また、市内を通る首都高速道路と東京外郭環状道路には『戸田』の名がついたランプがあり、両者が交わるところは美女木ジャンクションという信号機がある高速道路として知られています。



[ 戸田公園駅(2024年):新幹線高架に併設された駅 ]


現在の戸田市には、埼京線の戸田公園駅、戸田駅、北戸田駅の三駅がありますが、埼京線が開通する前は東京に隣接するものの鉄道は通っておらず、不便なところでした。
転機が訪れたのは、東北上越新幹線の構造変更です。東北上越新幹線は、1971(S46)年10月14日に工事実施計画が認可された時点では戸田~大宮は地下構造とする計画でした。しかし地盤条件が悪いことを理由に、当時の国鉄は1973(S48)年に全面高架構造に計画変更し、高架化により生じる騒音問題などの見返り条件の一つとして造られた通勤新線が埼京線なのです。



[ 戸田市の人口:埼京線の開通後は右肩上がり ]


1985(S60)年3月14日に東北上越新幹線の上野駅~大宮駅が開通し、同じ年の9月30日埼京線の開通と同時に戸田市内に念願の鉄道駅が3つ誕生しました。陸の孤島だった戸田市は、埼京線の開通により池袋駅まで20分前後と劇的に交通の便が改善され、駅周辺はマンションの建設が進んでいます。
埼京線が開通する以前、戸田市の人口は7万5千人前後で頭打ち状態でしたが、その後は右肩上がりで増加が続き2020(R4)年には14万人を超えました。


■『五差路』交差点は六差路・・・・・



[ 現在の『五差路』交差点 ]


戸田公園駅と戸田駅の間、新幹線高架の近くに『五差路』という名の交差点がありますが、交差する道路を数えると6本もあり実態は六差路になっています。交差している6本の道路はどれも上下2車線のしっかりした道なので『五差路』交差点は大きく、この辺の地理に不案内な人が交差点を通る際は注意が必要です。交差点の名前と実態が違うのは、五差路だった交差点に道路が1本突っ込んできたため六差路になったのですが、昔は交差点といえる形態ではありませんでした。
『五差路』に交差する『中央通り』は、現在は戸田市道ですが1971(S46)年までは県道川口白子線でした。戸田土地区画整理が始まる前の1930(S5)年に作成された県道川口白子線の道路台帳をみると、県道に畦道のような道が交差していますが交差点と言えるような状態ではありませんでした。



[ 県道川口白子線道路台帳:ここが『五差路』交差点に成長 ]


その後に行われた戸田土地区画整理事業の計画図には、東西方向に通る『中央通り』の南側に三本の道路(『新曽小通り』、南側の『五差路通り』、『電話局通り』)が計画され、そのとおりに工事が行われ『五差路』交差点が誕生しました。
戸田土地区画整理は、幹線道路の交差点であっても三差路が用いられるなど個性的な道路配置となっていますが、その中でも『五差路』交差点はひときわ目立つ存在です。



[ 戸田土地区画整理:五差路は目立つ存在 ]


■五差路から六差路へ・・・・・


『五差路』交差点を造った戸田土地区画整理事業は太平洋戦争中の1944(S19)年に工事が完了しましたが、戦中戦後の混乱により換地処分は1955(S30)年、土地区画整理組合の解散は1960(S35)年3月1日でした。
そのころ、すでに世の中は戦後の高度成長期に突入しており、1960(S35)年8月27日には戸田土地区画整理の北側を区域とする中部土地区画整理事業が認可され工事が始まりました。この事業により北側から『五差路』交差点に向かう都市計画道路が整備され、交差する道路が一本増えて六差路の交差点に成長?することになりました。



[ 1965(S40)年空中写真:整備中だがすでに六差路 ]
(国土地理院 空中写真 KT657Y-C1B-3より一部切り抜き)


六差路になった時期は不明ですが、1965(S40)年8月の航空写真ではすでに六差路になっているのがわかります。その後、東北上越新幹線の工事のため『電話局通り』が高架を避けるように付け替えられ、現在の六差路の交差点形態になりました。
交差点が五差路だった期間は1944年頃から1965年頃までの約20年間、一方、六差路になってからは50年以上が経過しているのに、相変わらず『五差路』の名称が使われているのは、地元に愛着があるからなのか、他に代わる名称がないのか真相は不明です。



[ 『五差路』交差点の案内標識(2012年) ]


■戸田土地区画整理組合の設立・・・・・


『五差路』交差点を造り出した戸田土地区画整理事業は、施行面積が459.2ヘクタール(東京ドーム100個分)もある埼玉県内で行われた最大の土地区画整理事業で、1937(S12)年4月10日に組合の設立が認可されました。
鉄道駅周辺のように住宅地の造成・供給に適した地域であれば土地区画整理事業が行われるのは自然な動きですが、鉄道駅のなかった戸田で大規模な土地区画整理事業が進められたのは、荒川の改修工事と戸田橋の架け換えが大きく影響したようです。



[ 荒川改修計画:太い赤線が新堤防、黒実線が旧堤防 ]


荒川はたびたび氾濫を起こしていましたが、1910(M43)年に発生した大洪水は東京府・埼玉県に大きな被害をもらたし、明治政府は翌年から荒川改修に向けた調査・測量に着手しました。
新荒川大橋(現・国道122号)より下流は、延長22km、幅500mの荒川放水路の築造が1911(M41)年着手され、1924(T13)年に通水、1930(S5)年に完成を迎えました。荒川放水路ができる前は隅田川が荒川の下流部でした。
荒川大橋から熊谷にかけての上流部は1920(T9)年に用地買収に着手し、堤防を造る工事が行われるとともに、川の流れを直線的にする低水路の掘削も進められました。途中で関東大震災の影響による予算の減少もありましたが、1933(S8)年までに古谷村(現・川越市)より下流はほぼ完成しました。



[ 堤防の位置:旧堤防+ + + + + 新堤防- - - - - ]


この荒川上流改修によって戸田市内にも新しい堤防が造られましたが、市内の荒川は幅が広かったため旧堤防より川側に新堤防が造られたのです。新堤防と旧堤防の間は、新たに宅地として利用できる土地に変わったものの、河川敷だったため道路などが未整備だったことは言うまでもありません。
さらに、浦和から川口に及ぶ3,300町歩の地域からの排水を荒川に流すため旧堤防には9箇所の樋管がありましたが、新堤防の築造によって遮断されてしまいました。このため新たな排水路を整備し、従来の9箇所の樋管をまとめ最下流の川口市横曽根付近で荒川に放出する三領排水路工事が、内務省の手で進められることになりました。
地元としては、この工事に協力し促進するためには土地区画整理の実施が最善の方策と考えたのが、土地区画整理組合の設立に至った第一の動機でした。



[ 三代目戸田橋の親柱(2024年):戸田公園に保存 ]

[ 三代目戸田橋の親柱(2012年):板橋区小豆沢公園に保存 ]


東京と埼玉を結ぶ国道9号(現・17号)の戸田橋は、関東大震災による損傷もあり1932(S7)年10月10日に架け換えが完了しました。新しくなった戸田橋は三代目の橋で、橋長528.6m、有効幅員11mと先代よりも幅が広く、木橋から鋼鉄製の橋となり、交通量の増大や車両の大型化に耐えられる幹線道路に相応しい橋に生まれ変わりました。現在の戸田橋は四代目の橋です。
この時期の東京は西部方面への膨張が勢いを増し、戸田橋南側の中山道上板橋町を中心とする市街化の波が荒川を渡り戸田にも及ぶ状況でした。この地域を旧態依然の状態で放置することは、将来に著しい不便・不利益が生じると考えたのが、土地区画整理組合設立の第二の動機でした。



[ 戸田土地区画整理:計画図1/6,000 ]


この事業の推進は地主だけでは難しいので、内務省や県の指導・協力があったことは言うまでなく、土地区画整理についての説明のため県都市計画課の吏員や内務省の金森技師が足を運んでいます。
1936(S11)年6月に組合設立委員会が結成され、1937(S12)年4月10日には戸田土地区画整理組合の設立が認可となりました。

埼玉県告示第277号
北足立郡戸田村金子志郎外42名の申請に係る戸田土地区画整理組合設立の件本月10日認可せり
                        昭和12年4月16日  埼玉県知事 川西實三


■戸田土地区画整理の特徴Ⅰ ロータリー・・・・・



[ 土地区画整理計画図:ロータリー、船溜りがわかる ]


戸田土地区画整理は3箇所にロータリーが計画され、1936(S11)年8月の設立委員会でも計画の概要に取り上げられています。計画されていた場所は、現在の国道17号と県道練馬川口線の交差点、17号戸田橋北側の堤防上交差点、さらにボートコースの東側入口付近の3箇所です。
ロータリーはいずれも実現しませんでしたが、国道17号に計画された2箇所のロータリーは土地区画整理事業で用地が確保されており、1955(S30)年の換地処分認可時に埼玉県計画観光課長が出した文書では、用地の処分についての記載があります。

中山道字河岸、字曲尺手地先のロータリー廃止に伴う不用地処分については剪除幅5mを残し戸田土地区画整理組合において処理すること

計画されていたロータリーは、環状交通と流入交通のどちらを優先するつもりだったのか不明です。この交差方式は、信号がなく左折のみで交通を処理するので一目見るとスムースに車が流れそうですが、実際は一時停止や徐行が必要になるため、信号機のある十字路に比べ通過できる車は少なくなります。現在の国道17号の渋滞を見ると、ロータリーが造られなくて幸いだったようです。
しかし、戸田公園東入口付近は17号に比べれば格段に交通量が少ないので、シンボル的にロータリーがあっても良かった場所です。


■戸田土地区画整理の特徴Ⅱ 運河と船溜り・・・・・



[ 運河として整備された区間(2012年):現在は一級河川菖蒲川 ]


三領排水は、荒川に排水しきれない洪水を貯めるとともに、船が通れるような幅の運河に広げられ、共同荷揚場として国道9号(現・17号)の東側に船溜りが計画されていました。しかし運河が広くても運河と荒川を結ぶ三領水門の幅は9mと小舟が通れるほどしかなく、しかもすでに内陸の貨物輸送は鉄道や車の時代になっていました。
水路を拡げて運河としたのは貯水池として活用することが主目的で、船による物流機能は副産物として付け足されたようなものです。



[1956年3月空中写真:船溜りの周りに家が建つ]
(国土地理院 空中写真 USA-M318-299より一部切り抜き)


土地区画整理事業が終了した後、運河は洪水の際に役立つ貯水機能があるため、コンクリートの護岸が施されほぼそのままの形で残っているのに対し、船溜りは一度は造られたものの埋め立てられてしまいました。
その後、開発業者により宅地分譲が行われ、敷地規模の小さな住宅が多く建て込んだため(118.5戸/ヘクタール)、環境改善を目的とした地区計画が定められ整備事業が進められています。


■戸田土地区画整理の特徴Ⅲ 不足しているもの・・・・・



[ 国道17号(2024年):都内は4車線、この先は2車線 ]


戸田土地区画整理事業の清算書によると、土地区画整理の施行区域は川口市部分を含め502haに及び、市が公表している459.2ヘクタールを大きく上回っています。道路率(面積)は整理前の6%から14.2%に倍増したものの、近年の区画整理事業と比較すると極めて低い値で、しかも幹線道路である国道9号(現・17号)でさえ2車線の道路で幅は15mしかありませんでした。
戦後になって第18回オリンピック東京大会に間に合わせるように、1964(S39)年8月に荒川に架かっていた笹目橋が冠水橋から4車線の橋に架け替えられ、ようやく戸田市内に4車線の国道17号バイパスが通ることになったのです。



[ 地区中央の25m道路(2024年):長さは100mもない ]


戸田土地区画整理は道路の量は低かったものの配置には特徴があります。
耕地整地で見られる格子状の道路配置が主流だった時代にあって、曲線を多用し幹線道路でも三差路を配置しています。また、国道9号(現・17)、地区中央、中央排水路付近の3か所は、地区センターとしての土地利用を考えていたようで、そこに向かうように道路が配置されています。
中央の地区センターらしきところは、短いながらも幅25mの道路が造られたところをみると、地域の中心となる施設の配置を想定していたと思われます。地区センターに育て上げようとした場所は、いずれもこの地域の平均的な土地利用がなされ、残念ながらセンターには育ちませんでした。しかも、土地区画整理の計画時点では想像さえできなかった、17号新大宮バイパスや戸田公園駅が区域内に造られ、これからも土地利用が大きく変わりそうです。



[ 曲線の区画街路(2024年) ]


道路より少ないのは公園です。戸田土地区画整理の組合設立が認可される以前の1933(S8)年に内務省から『土地区画整理設計標準』が通達され、公園面積は地区面積の3%以上を留保することとされました。それにもかかわらず、児童公園(現・街区公園)や近隣公園は計画されないまま、土地区画整理が始められました。
のちにボートコース含め荒川沿いが県営戸田公園になりましたが、気軽に憩える身近な街区公園や近隣公園は数か所しかなく、まだまだ足りていません。
地区内は整然としているものの殺伐とした感じがするのは、こんなところに原因があるのかもしれません。



[ 区画整理計画の凡例:公園は予定されていない ]


■水路からボートコースへ・・・・・


戸田土地区画整理の組合設立に向け準備が進められている頃、第12回オリンピック開催地の選定が行われていました。1936(S11)年7月31日のベルリンIOC総会においてヘルシンキ、東京の2都市による投票の結果、東京が開催地に決定したのです。
オリンピック開催が決まると競技場の適地とされた地域は激しい誘致合戦を繰り広げます。荒川上流改修の附帯として行われる三領排水工事では、荒川堤防沿いに2,700mに及ぶ直線の排水路が国道9号(現・17号)の上流側に計画されており、地元戸田ではこれを拡幅してボートコースとするとともに、ボート競技の招致運動が熱心に行われました。



[ 戸田ボートコース(2012年):川口方面を望む ]


1936(S11)年6月11日に土地区画整理の組合設立委員会で協議された規約には、ボートコースを設ける場合の対応が次のとおり記されていました。

本地区内ニ漕艇場ヲ設置スル場合ニ於テハ組合員ハ第四十条ニ依ル土地台帳地積ノ百分ノ四以内ヲ限リ平均一坪弐円ノ補償金ヲ以テ組合ニ提供スルモノトス

強敵であった横浜鶴見川の辞退もあり、東京オリンピック大会競技場選定小委員会は1937(S12)年2月8日に戸田をボートコースの第一候補と決定しました。



[ 戸田ボートコース(2024年):両側に艇庫が並ぶ ]


しかしボートコース整備に要する費用負担が大きな問題となり、組合設立委員会で協議された際の坪2円での土地の提供に比べ、地元が大幅に譲歩することになったのです。
1937(S12)年5月17日に開かれた戸田土地区画整理組合の設立総会では関係地主501人中391人が出席し、ボートコース用地として区画整理地積の100分の3に当たる29,325坪をオリンピック組織委員会に寄付することを可決しました。
三領排水工事を行う内務省にとって、計画幅7mの三領排水路を拡げボートコースにすることは洪水時に有効な貯水池(潴水池)として使えるため、1937(S12)年5月28日に設計変更が認可されました。



[ 1955年換地処分時:水路が拡げられボートコースに ]


翌年2月に作成された土地区画整理計画図には、荒川堤防の北側に長さ2,400m、幅80mのボートコースと艇庫用の区画が描かれています。ボートコースの工事は1937(S12)年5月31日に起工式を行い、工事に使用する機械は内務省所有のものが無償で提供されましたが、不足する労働力は浦和刑務所の受刑者を工事に強制徴発するという強引な方法も使い進められました。



■オリンピックの開催・・・・・


ボートコースの工事が進められる中、1937(S12)年7月7日の盧溝橋事件を発端に日本は日中戦争の泥沼に突入し、オリンピックの東京開催に対し国内外から反対意見が沸きあがりました。政府は1938(S13)年7月15日の閣議で正式に開催権を返上し、第12回オリンピック東京大会は幻のオリンピックとなったのです(東京に代わりヘルシンキが第12回開催地となりましたが、1939年の第二次世界大戦により中止になりました。)。
オリンピック競技施設の建設が中止となる世の中で戸田も工事中止かと思われましたが、戸田ボートコースは水害から地域を守る排水路の機能も担うため、オリンピック返上にもかかわらず内務省は工事を続行する方針を決定したのです。ただしボートコースの設計は簡略化することとなり、幅を80mから70mに縮小し、防波装置(放物線護岸)は取止め、鉄筋の護岸は芝に、ボートハウスの建築を中止するなどの変更が加えられました。
紆余曲折はありましたが、1940(S15)年10月27日には通水式を行い、31日の竣工式にひき続き第二回明治神宮体育大会漕艇会が開催され、戸田にボートを浮かべることができたのです。



[ 戸田ボートコース(2012年):全日本大学選手権の様子 ]


第二次世界大戦前に完成していたボートコースは、戦時中は食糧増産のため養魚場として使われた時期もありました。
戦争で荒廃した国土の復興が進み、もはや戦後ではなくなった日本では、第18回オリンピック大会が1964(S39)年に東京で開催されることになり、戸田ボートコースでも念願のオリンピック競技が行われました。
戸田ボートコースはオリンピック開催に先立って幅90mに広げられ、国立競技場から運ばれた聖火が1964(S39)年10月11日に戸田の聖火台に灯されました。



[ 戸田の聖火台(2012年):国立競技場聖火台の2/3の大きさ ]


荒川の改修では、パナマ運河の建設に携わった青山士氏が内務省技師として荒川放水路、岩淵水門の建設を指揮したことで有名ですが、戸田土地区画整理、三領排水工事、ボートコースの整備には、内務省技師の金森誠之氏が中心的な役割を果たしています。
戸田土地区画整理の記念碑には金森氏の名があり、『荒川上流改修60年史』に収録されている歴代職員名簿には、昭和9年9月10日から昭和12年10月1日時点まで、主任技師として金森氏の名があります。
金森氏は和歌山県出身で、ダンスをはじめ多彩な趣味を持ち独創的でアイデアの豊かな技術者であり、退官後は金森研究所を開設し土木技術の研究に力を注いだそうです。
戸田市内で行われた三つの大事業を立ち上げ短い期間で完成に導いたのは、金森氏の力に負うところが大きかったと思われます。



[ 川崎港水門(2019年):金森氏の設計 ]


川崎港水門は多摩川改修事務所長だった金森誠之氏の設計による水門です。タワーの頭頂部には川崎氏の名産だったブドウ、桃、梨をあしらった装飾が施されています。1928(S3)年に完成し、国の登録有形文化財に登録されいます。



[ 戸田土地区画整理・三領排水工事・戸田ボートコース の年表 ]




<参考資料>