[ 関越道 新座市(2012年):高速道路の一車線は3.5mが普通 ]
車道の幅は、自動車の幅を基準に決められています。
普通の乗用車は幅1.7m前後ですが、車の幅は車両制限令という法律によって制限されているため、バスやトラックなどの大型車といえども無制限に幅を広くすることはできず、最大でも2.5mが限度です。
2.5mよりも幅の大きな荷物を運ばなければならない場合は、その都度、通りたい経路の通行可否について申請し許可を得ることが必要になります。
市街地の一般的な道路は自動車の速度が低く、車と車の間隔を大きくとらなくてもすれ違いできるので、一車線の幅は2.75、3.00、3.25mになっていることが多いようです。
車の速度が上がるにしたがって車線の幅も広くなり、高速道路では一車線の幅は3.5mまたは3.75mが標準で、交通量が増えると車線の数が増えていきます。
[ 首都高1号羽田線 港区(2011年):高速道路に比べれば狭い ]
ところで、世の中には首都高速道路を、中央道、関越道、東北道と同じ高速自動車国道と勘違いしている人もいるようです。
首都高速道路は都道、県道、市道の自動車専用道路で、高速自動車国道よりも低い規格で造られ、一車線の幅が3.25mで設計速度は規制速度も60km/hとなっている区間が大半です。
設計速度が低いと、合流に必要な長さは短くカーブもきついのですが、この道路を多くの車が100km/h前後で走行しているのですから、事故が起こらないわけがありません。
「首都高速道路」という名称が高速走行を誘っているようです。
道路幅のうち車道部分の幅はこのように、車の速度で一車線の幅が決まり、交通量で車線の数が決められています。
公共事業を存続させるために、人口が減るにもかかわらず将来に向け交通量が伸び続けるようなお手盛りで交通量が予測されていなければ、合理的な決め方になっています。
[ 狭すぎる歩道(2012年):ひとり通るのが精一杯 ]
歩道の幅はどうやって決まるのでしょうか。
法令に歩行者一人の幅は決められていませんが、解説書などによると歩行者の幅は50cmとし、すれ違いなど実際の歩行実態を想定して、歩行者の占有幅は75cm(車いす1.0m)を想定しています。
道路構造令では歩道の幅は最低でも2m以上なので大人が楽にすれ違うことができる幅があり、さらに歩行者の交通量が多い場合は3.5m以上とされているので、計算の上では2人連れ(0.75+0.75=1.5m)どうしが容易にすれ違うことができるはずです。
[ お台場のお昼(2013年):OLがお食事のようです ]
しかし、現実の歩行者を見ると歩く位置はまちまちで、歩きながらおしゃべりが伴うため数人が横に並び堂々と歩く姿も見かけます。
一つの団体が歩道の全幅を占拠するケースは、街を歩くおばさま達の専売特許のように思えますが、よく観察すると昼休みや仕事帰りのサラリーマンやOL、学生が横一列で歩く姿も見かけます。
歩道は、ショッピングとおしゃべりを楽しみながら歩くグループ、行き先も決めず一緒に過ごす時間を楽しみながら歩く恋人達、商談先へ向かう途中で作戦を練りながら歩くビジネスマン、目的地に向けてただひたすら歩くだけの人など、目的、速度、人数が異なる集団、個人が歩いています。
[ 表参道(2008年):二人連れで歩く姿が多い ]
自動車は車線の中を縦に並んで走らなければならないので、少ない交通量であれば少ない車線数ですみますが、歩道は歩く人が少なくても横に並んで歩くこともあるので、歩道はある程度の幅が欲しいものです。
道路構造令で定められいる歩道の幅は、自動車が道路を通る際に邪魔になる歩行者を収容するための空間として考えられている程度なので、最低限の幅と考えるのが妥当なようです。
ビジネス街、商店街、飲食街など、道路がある地域の性格によって歩き方にもある程度の特徴はありますが、「○○地域は一時間当たり○○人以上が通る場合、歩道は幅△m以上」といった基準をつくるのは難しそうです。
[ 幸手駅前通り(2011年):最低限の幅で十分 ]
では、歩道の幅はどれくらいあればいいのでしょうか。
歩行者は歩く方向も速度も人数も一定ではないので、歩道は広ければ広いほど良いのでしょうが、広い歩道を造るために道路全体の幅は広くなり用地も多く必要になります。
また、広すぎる歩道は歩行者が散在することになるので、街の賑わいや活気がないように見えてしまいます。
どこの道にどれくらいの幅の歩道がふさわしいのか簡単に結論が出そうもないので、現存する道路をみて感覚的に考えてみたいと思います。
[ 銀座通り(2013年):日曜日の歩行者天国 ]
まずは、東京都中央区の銀座通り(日本橋~横浜市を結ぶ国道15号)です。
江戸時代にたびたび大火に見舞われた東京は、明治に入っても1869(M2)年、1872(M5)年と大火が発生し、1872年の大火は外国人居留地を含む広い範囲に大きな被害を出しました。
近代化を目指す明治政府は、燃えない西洋的な街を目指して煉瓦造りの街並みを整え、これと同時に銀座通りは江戸時代の幅7間(約13m)から15間(約27m)に広げられ、ほぼ現在の幅になりました。
江戸時代の道は、広くても市街地部では8間、地方部の街道は4間の幅が一般的だったので、15間幅の道路でもかつてないとても広い道路だったのです。
[ 煉瓦銀座の碑(2013年):明治時代の煉瓦が敷かれている ]
銀座通りの幅を決める時に東京府知事だった由利公正の伝記には、次のような話が載ってます。
『ロンドンの道は25間、ニューヨークは24間、ワシントンも24間なので、銀座通りは25間がよいといったところ、そんなに広い道幅は必要なし、との意見が多く12間となった。 しかし12間の幅に満足できず、馬車が往来するようになり道幅を広げようとしても、建物は容易に建て直せないから20間は欲しいと、議論を重ね15間(約27m)が許された。 今となってはもっと広ければよかったと思う。』
銀座通りは15間のうち8間が車道、両側に3間半(約6.3m)の歩道を備えた近代的な街路として、1874(M7)年1月5日に完成しました。
[ 明治の銀座煉瓦街(2013年):江戸東京博物館のジオラマ ]
竣工当時は、松、桜、楓といった和風の街路樹が植えられていましたが、風で倒れたり枯れる木が相次ぎ、明治12,3年頃にはほとんどがヤナギに植え替えられ、東京行進曲で有名な「昔恋しい 銀座の柳♪♪~」が誕生したのです。
路面は煉瓦によって国内最初の舗装がされていましたが、京橋~銀座五丁目の間は1888(M21)年に、残る銀座五丁目~新橋の間も1934(S9)年にコンクリート平板(一辺45cm、厚さ7.5cm)の舗装に代えられ、煉瓦舗装は消え去りました。
煉瓦舗装は砂の基礎の上に煉瓦を小端立てに並べた構造でしたが、摩耗が激しいところは2寸(約6cm)の凹凸があったそうです
[ 他の商店街では見られない『ハイヤーのりば』(2013年) ]
銀座通りの歩道は、1921(T10)年11月の路面改良により3間(約5.4m)に狭められ、同時にヤナギが撤去されイチョウが植えられましたが、以前のヤナギを慕う人が多くまた東京行進曲の流行もあり再びヤナギが植えられたのです。
その後、1968(S43)年に都電が廃止され歩道が元の6.3mに戻された際にヤナギは再び撤去され、路面電車の軌道部分に敷かれていた石畳が歩道に使われているそうです。
今の銀座通りの街路樹は、帯状の連続したものではなく街路樹用のマスがところどころにおかれ、通りの半分以上は歩道の全幅が歩行空間として使えるようになっているので、とても広く感じます。
街路樹が小さく腰かけられる柵もないので、立ち止まっておしゃべりをするような雰囲気ではなく、自然と歩きながらのおしゃべりになるような造りになっています。
[ 街路樹(2013年):歩道の半分以上の区間は街路樹がない ]
それでも歩行者天国が催されている銀座通りの人出を見ていると、これだけの歩行者を約6m×2=12mの歩道に押し込めると、たいへん窮屈になると誰もが感じると思います。
明治期の煉瓦造りの街並みを造る時に道路幅員を25間(約45m)として広い歩道が確保されていれば、街路樹も木陰を作り出すような大きさに成長できたのかもしれません。
今の銀座通りは高級ブランド店や由緒ある老舗店が並ぶ日本一の商業地ですが、コンクリートとガラスの建物に囲まれたちょっと冷たい感じのする通りです。
[ 元町(2013年):一階部分が後退し歩道を生み出している ]
JR根岸線石川町駅から港の見える丘公園に向かう経路に元町通りがあります。
1859年に横浜港が開港したあと山手居留地には外国人が住むようになり、元町は外国人相手の商売が増え、異国情緒漂うハイカラ(今では死語?)な商店街が形成されました。
しかし横浜は関東大震災で壊滅的被害を受け、山手地区や元町地区を含む950haが火災により焼失しました。
[ 左図の赤色が焼失区域 右図の黄色は国、青色は市の区画整理 ]
震災により居住外国人は1920(T9)年の7,839人から2,060人に激減し、東京に移転する外国商店も増えたため、元町商店街は不振に陥り活気に乏しい状態が続きました。
横浜も東京と同様に復興には土地区画整理事業が取り入れられ、焼失区域の1/3に当たる330haで事業が実施されましたが、元町地区は区画整理が行われなかったため、道路が拡げられることなく建物が再建されていきます。
1937(S12)年に横浜商工会議所が行った調査では、1934(S9)年に居住外国人は4,711人にまで戻り、元町商店街の顧客は『居住外人、市内及び東京方面の洋式生活者』が中心で『国際都市の異色が窺われる』と特色が記述されています。
[ 山下公園(2013年):関東大震災の瓦礫で埋め立てた ]
第二次大戦後は米軍が進駐し、1946年9月時点で921haの土地が接収され多くの軍人が横浜に居留していたため、元町は一時的に過去の隆盛を取り戻しました。
が、それも束の間、進駐軍が撤退し、米軍が市中心部から郊外に移転すると危機的な状態に逆戻りしてしまいました。
これを打開するため、外国人に限らず多くの人に来てもらえるような街づくりが始められたのです。
[ 官民境界(2013年):真鍮の鋲の店舗側はお店の土地 ]
元町通りは歩道のない幅8m程の道です。
横浜市が提案した、道路境界から1.8m後退して建物の一階部分を造ることを商店組合が受け入れ、歩行者の空間を生み出したのです。
現在の歩道の幅は3m程度で、上空には店舗の二階部分が張り出しているので、雨の日でも傘をささずにお買い物が楽しめる利点もあります。
建築基準法第46条による告示 横浜市公告第28号(昭和30年11月25日)
中区元町1丁目19番地先から同5丁目196番地先に至る道路(市道元町中村線)の両側の道路境界線から1.8m後退した位置において高さ3mまでの部分に壁面線を指定する。
[ 石畳の路面(2013年):速度を抑えるようなデザイン ]
後退した部分を含めても道路の幅は12m程しかありませんが、車道は一方通行の一車線で速度抑制のため所々で蛇行させているので、車が通行していても圧迫はあまり感じません。
平日の歩行者を見ている分には歩道が狭いとは感じませんが、人出の多い土曜、日曜、祝日は歩行者天国にして対応しているようです。
元町通りの歩道は決して広くありませんが、小規模な店舗と広すぎない道幅がいい感じでバランスし、歩行者を包み込むような落ち着いた雰囲気を作り出しています。
昨今、屋内型のショッピングモールが増えていますが、元町通りはヒューマンスケールのちょうどいい幅の道に面した本来のショッピングモールではないでしょうか。
[ 表参道(2013年):青山通りから見るケヤキ並木 ]
表参道は明治神宮の参道のひとつとして1920(T9)年9月に完成した道で、JR原宿駅付近の神宮橋から青山通り(国道246号)交差点までの都道赤坂杉並線が『表参道』と呼ばれています。
沿道には高級ブランド店などが並ぶファッション・カルチャーの発信地であり、ケヤキの並木が続くことでも有名です。
このケヤキ並木による良好な景観をより魅力的なものにするため、青山通り交差点付近を除く沿道(渋谷区の部分)は建物の高さが30mに制限されています(港区は50m)。
一昔前に、同潤会青山アパート跡が森ビルによって再開発され、建築家安藤忠雄氏が設計した『表参道ヒルズ』が誕生したことで話題を呼びましたが、この建物もケヤキに遠慮した高さになっています。
[ 道の幅と建物の高さ:どちらがお好み? ]
表参道は幅約36mの道路で、4車線の車道に加えてパーキングメーター付の停車帯もある広い道路ですが、幅員が決まるまでには紆余曲折がありました。
表参道は明治神宮の造営にあわせて東京府が築造を依頼されたのですが、府知事と市長が熟議の結果(押し付け合い?)、東京市が築造することになったのです。
当時の東京市は15区の時代で、表参道は東京市赤坂区(現・港区)と豊多摩郡渋谷町を通る予定でしたが、大部分は東京市外の渋谷町にあったのです(下図の二点鎖線が東京市境)。
[ 1924年の地図:表参道は既に完成 当初は赤のルート ]
最初に神社奉祀調査会が決定したのは青山4丁目から代々木練兵場に向かうルートで、現在の青山通り(国道246号)外苑前交差点からJR山手線に架かる水無橋へ至るルート(上図の赤線)でした。
青山通りからほぼ直線で明治神宮に至るので、皇居方面からの御参拝、代々木練兵場行幸の一挙両得が実現できるメリットの高いルートとされていました。
このルートで表参道ができていれば、外苑前交差点からほぼ真っ直ぐに山手線の外側に出られ車にとっては使い勝手のよいルートです。
しかし、集中する自動車をスムースに流すために広い植樹帯の確保は難しく、大木の並木にはならなかったかもしれません。
[ 外苑前交差点(2014年):表参道がこの先を直進していたかも ]
東京市は1916(T5)年1月になっても表参道の築造に着手せず、この期に及んで参道の幅員を表参道、裏参道ともに12間(約21.6m)とし裏参道は当分延期の旨を市区改正委員会に提出したのです。
しかし委員会ではその幅員は狭いと反対され、明治神宮造営局には表参道の幅員は17間(約30.6m)は必要と主張され、提案は否決されました。
その後、東京市は1918(T7)年2月に折衷案として、青山6丁目から神宮橋に至る現在のルート、幅員15間、大正7年~8年の2ヶ年事業、で内務大臣と大蔵大臣の認可を受けたのです。
ところが5月になり東京市会議長・中野武営(なかのたけなか)が内務大臣に対し、表参道は神宮に至る唯一の道路であり完成後は人馬の輻輳が甚だしいとして、幅員を20間(約36m)に変更することを要請したのです。
[ 平日の夕方(2013年):若者の通行が多い ]
内務大臣はその可否を市区改正委員会に諮問し、委員会は東京市の意見を徴取したのですが市の回答は、目下財源について調査中とのこと。
明治神宮の造営は進み、鎮座祭(1920年11月1日)が切迫した明治神宮造営局は、東京市区改正委員会に至急着工するよう要請したのです。
急かされた東京市は1919(T8)年6月、市区改正委員会に幅員を20間とする設計変更を提出し、12月には買収の協議にこぎつけ、翌年1月から設計、5月から工事に着手し、なんと9月には完成させ、鎮座祭をむかえることができました。
[ 表参道:歩道が造られる前の姿 ]
しかし、その後の交通は日増しに激しくなり、砂利道では通行に不便で美観を損なうため、更に手を加えることになったのです。
両側の各4間(約7.2m)にアスファルトで舗装した歩道を設けて、歩道には直径40cm程のケヤキ201本が植えられて、1921(T10)年11月30日に今日の表参道の原形が完成したのです。
怪我の功名でしょうか、東京市が速やかに着工しなかったおかげ?で、表参道は現在の位置に幅20間の街路として誕生することができたのです。
[ 参道橋の親柱(2013年):渋谷川を渡る3間8分の橋 ]
現在の表参道は、8mの歩道のうち表参道の象徴であるケヤキ並木があるので、歩行者が通行できる幅は5~6mです。
歩道にはケヤキの木陰があり、連続する街路樹によって車道から隔てられているので、街路樹を囲む柵に腰かけておしゃべをしたり待合せをする人も結構います。
表参道は、明治神宮や代々木公園が近くにあるほか、ブランド店や飲食店が並び、平日でも多くの人が集まり買い物や飲食を楽しんでいます。
いまでは、参道というより流行の最先端をいく日本を代表する観光地の様相を呈し、歩いている人は明治神宮へのお参りなど全く頭にないようです。
休日になるとさらに人出は多く、5~6mもある歩道が狭く感じてしまいます。
[ 表参道ヒルズ前(2013年):街路樹の柵は腰かけにも使われる ]
折角、立派なケヤキの並木があるのですから、木陰にオープンカフェでもあれば更に人が集い憩える雰囲気のある街路になるのですが、歩行者が多いのでオープンカフェを置くには少々厳しいものがあります。
停車帯をつぶして歩道にできれば、テーブルといすを置いてオープンカフェを開いたり大道芸を行うこともできそうです。
これも東京市会議長・中野武営が主張した20間(約36m)の幅員があるからこそ考えられることであって、12間(約22m)の道路では人と車を通すことさえ満足にできなかったでしょう。
[ 大宮駅西口(2012年):ペデストリアンデッキがある ]
では埼玉県内どうでしょうか?
埼玉県の商業地といえば、さいたま市の大宮駅周辺がもっとも賑やかで人出も多いところです。
大宮駅は東口と西口がありますが、西口に比べ中山道のある東口のほうが物販店・飲食店が多く町を歩いている人も大勢います。
西口は駅前区画整理のあとに比較的大きなビルが建ち、ビルの2階部分を結ぶペデストリアンデッキが主な建物を結んでいるので、地上部分の歩道はあえて広くする必要はないのですが、地上の駅前道路は幅30mで歩道も4~5mと十分な幅があります。
ただ、駅から直接アプローチできるデッキの方が便利で利用者が多く、デッキの下の地上部は人通りが少なく、賑わいに欠けます。
[ 大宮駅東口:計画幅がまちまち ]
東口は、駅前から大宮中央通線という名称の都市計画道路が4車線で決定されていますが、計画幅員は40、30、27、30mと区間によってまちまちになっています。
中山道~区役所通り~氷川神社参道の間は、現在の道路幅員と同じですが、そのほかの区間は建物を移転させ道路を拡げることになります。
さいたま市は『大宮駅周辺地域戦略ビジョン』を定め、その中でこの道路を東西シンボル都市軸に、南北に通る氷川神社の参道を氷川参道歴史文化軸に位置づけて、大宮駅周辺のシンボルにふさわしい沿道空間の整備を進めようとしています。
[ 駅前から中山道(2013年):現在は幅25mの殺風景な空間 ]
特に駅周辺では再開発事業の見直しも含めて、いろいろな検討がされているようで、事業が始まってから完成するまでは長い時間がかかりそうです。
下図がリーフレットに載っている大宮中央通線のイメージ図です。
中央帯と歩道に街路樹を植えて3列の並木を作り出し、大きな木々の緑が氷川参道の並木と一体になって、壮大な緑の空間の創出を目論んでいます。
また、昨今、歩道走行が危険だと指摘されている自転車のために専用の空間を設けるなど、車・自転車・歩行者の分離を進め、どのような利用者にも快適で安全な空間を目指しています。
[ 『大宮駅周辺地域戦略ビジョン』:シンボル都市軸イメージ ]
さらに、この計画では道路に面する民地を含めて、都市計画より幅の広い歩道にしようとと考えているようです。
駅前~中山道までの計画幅員40mの区間は、表参道よりも広い幅員がある、さらに道路に面する民地に歩行空間が確保されれば、歩道というより広場に近い空間を確保することができます。
今の大宮は、駅コンコースにある『豆の木』といわれるモニュメントが待合せのメッカで、週末は改札を出るといきなり人混みに遭遇しますが、東口に広い歩道と目印となるモニュメントができれば、『豆の木』付近の混雑解消にも役立ちます。
幅40mの区間はそんなに長くないのですが、駅を出て最初に目にする場所なのでインパクトは大きいはずです。
[ 区役所通り~氷川神社参道(2013年):27mで整備済みの区間 ]
計画幅員27mと30mの区間は整備が終わっているようですが、現在は、路上パーキングのスペースとベンチ状の縁石があるため歩ける幅3mは程度しかなく、店の看板や駐輪があるとさらに狭くなってしまいます。
まずは不必要な施設を取り除いて、歩道を物理的に広くする必要がありそうです。
[ 27m区間(2013年):ベンチなど過剰な設備が邪魔 ]
いくら幅の広い道を造っても、両側に並ぶ建物が高すぎると息苦しい空間になってしまうので、建替え誘導のためいたずらに容積率を緩和するだけでなく、道路の幅と沿道の建物の高さ、街路樹の高さとの調和は欲しいものです。
さらに出っ張ったり引っ込んだりしている壁面の位置を揃え、雑多な色遣いの看板を処理できれば統一感が生まれます。
駅前から氷川神社参道と交差する付近までの沿道は、「見てみたい」「食べてみたい」「行ってみたい」と思える施設や店舗・飲食店が少なく、中央通りを歩いている人は通り過ぎる人ばかりです。
人を引き付けるお店の出店も欠かせません。
[ 氷川神社参道(2013年):両側に車道がある ]
表参道は今でこそ東京を代表する街路になりましたが、小・中・高校生などの若年層が集まる竹下通りが原宿の代名詞だった時代もあります。
しかし、完成してから一世紀の歴史をかけて成長した表参道は、最近は沿道みならず、奥や裏の小路にも個性的なショップや飲食店が出店し、表参道の隆盛の余波が広い範囲に及んでいます。
大宮中央通線にもいつの日か、気の利いた愛称がつけられ、東京のコピーとは一味違った魅力を持つ街路に育ち、その魅力が地域一帯に及ぶようになることを祈っています。
[ いづみや ]
大宮駅の東口にある大衆居酒屋でかなり昔からあります。
店内は数列の細長いテーブルに丸イスが並び、空いている席に適当に座ってくつろぎながら飲んでいます。
夕方は多くの勤め人が一日の疲れを癒しに来る店ですが、このお店は朝から開いていて、お昼を食べることもできます。
腹が減った、喉が渇いたらいつでもどうーぞ、と言った感じのお店です。
再開発の新しいビルには似合いませんが、サラリーマンの憩いの場としていつまでも続いて欲しいお店です。
<参考資料>