chapter-070 海が欲しい

[ 2013.10~ ]

■夏のレジャー・・・・・



[ 海(2008年):海水浴は夏のレジャーの代表格 ]


埼玉県がどんなに努力をしても、どんなにお金を積んでも手にすることができないのが海です。
海がないのは、全国47都道府県のうち、栃木、群馬、埼玉、長野、山梨、岐阜、滋賀、奈良の8県だけなので、全国的には海がない県のほうが珍しいのです。
海がなければ津波や高潮に襲われることはないので、自然災害の危険性は低くなりますが、きらきらと輝く水面や、太陽の光が燦々と降り注ぐ海辺もないので、派手さや明るさに欠けるのは確かです。
夏休みの宿題に出される絵日記の定番と言えば海水浴でしたが、海なし県では海水浴に行くのにも一苦労があります。
埼玉県の北部では首都圏の渋滞を嫌い、距離はあるのですが日本海側まで海水浴に足を延ばす人も多いようです。



[ 水上公園(2003年):海なし県に海を!! ]


そんな苦労をなくすためか、埼玉県は水上公園と言われるレジャープールの建設に励み、さいたま水上公園(上尾市)、しらこばと水上公園(越谷市・さいたま市)、加須はなさき水上公園(加須市)、川越水上公園(川越市)の四つの県営公園を造りました。
「海なし県に海を!!」のキャッチフレーズの下に造られたこともあり、どのプールにも波の出るプールを備え、多くの人が海の気分を少しでも味わえるようになってます。
海水浴を楽しむ人が減少する中でも、水上公園利用者は大きく変動していないのですが、施設の老朽化が進み、さいたま水上公園はプールが閉鎖され陸上施設のみの上尾運動公園になりました。
海水浴は海のレジャーの一例ですが、釣り、サーフィン、ダイビング、ヨットなど、海があると余暇の楽しみ方は格段にバリエーションが増えるので、海なし県からみれば海がある県が羨ましいのは確かです。


■地面創造・・・・・



[ 日比谷公園(2012年):日比谷入江を埋立てたところ ]


このほかに、もっと羨ましいことがあります。
海があれば、海面を埋立てて土地を創り出すことができるのです。
埋立・干拓の歴史は古く、7世紀初頭には有明海に面している佐賀県杵島郡において干拓がなされたことが知られています。
その後も、豊臣秀吉により大阪で、徳川家康により江戸で市街地整備のため、海面・砂州・低湿地などが埋立てられ陸地が造り出されました。
横浜では1656年~1667年にかけて江戸の材木商吉田勘兵衛が、大岡川河口部の入江を埋立てて新田を開発し、その後も中区、西区などで埋立が進められました。



[ 日本丸メモリアルパーク(2013年):1893年竣功の第一号ドック ]


明治に入ると、工業用地や港の埠頭用地の創出を目的とした埋立が盛んに行われようになりました。
横浜の日本丸メモリアルパークやドックヤードガーデンは、明治時代に埋立地に造られたドック(船を建造・修理するための船渠)を、みなと横浜のシンボル的な施設として再生したものです。
戦後まもなくは、食糧増産のための農業用地を造り出す埋立が多かったのですが、昭和30年代以降は重化学工業化政策に沿って臨海工業地帯の建設のため埋立てが行われました。
社会科の教科書に載っていた「太平洋ベルト地帯」は、臨海工業地帯を中心に産業基盤の強化を図る地域の呼称として使われていました。
近頃は、何でもかんでも“均衡”ある国土形成が優先され、成長力が分散してしまったようです。



[ 川崎市浮島町(2010年):1957~1963年に神奈川県が約38haを埋め立て ]


■海に広がる都市・・・・・



[ みなとみらい21(2013年):横浜駅周辺と関内・伊勢佐木町をつなぐ ]


近年では新たな都市用地の確保のために埋立てが行われ、そこには新しい街が造られています。
東京港ではレインボーブリッジを渡った先に、フジテレビや東京ビックサイトがある面積442ヘクタールの臨海副都心、横浜港では三菱重工(株)横浜造船所や旧・国鉄高島ヤード付近を埋立てて誕生した面積186ヘクタールのみなとみらい21地区に、ランドマークタワーやパシフィコ横浜が建設されました。
埋立てには長い時間がかかります。
日本経済が好調な時期は、埋立造成した土地の売却が順調に進み事業としてうまく成立していましたが、経済の調子が悪くなった昨今では、土地の売却が進まず事業が中断していたり、負債を抱えたままの地区もあります。



[ みなとみらい21:2013年現在、開発事業者公募中!! ]


みなとみらい21は、横浜市が行う臨海部土地造成事業(埋立事業)、国と市が行う港湾整備事業、旧・住宅都市整備公団(現・都市再生機構)が行う土地区画整理事業によって街づくりが進められました。
1983(S58)年の事業開始から2006(H18)年の区画整理事業竣功まで23年の歳月をかけ基盤整備は完了しましたが、30年を経た2013年でも開発事業者の公募が行われていました。
埋立地に造られる新たな市街地は、まちづくりのプランに基づき道路や公園が配置され上下水道完備の電線や電柱のない都市基盤が造られ、そこに建つ建物は景観形成の方針などに沿ったデザインでまとめられ、近未来的な景観を造り出しています。



[ みなとみらい21(2013年):近未来的な市街地の景観 ]


みなとみらい21は高層で大規模な建物が建っていますが、敷地が広く道路も十分な幅があるので、地上部には草木を植えられる空間を確保することができます。
しかし、ガラス、コンクリート、アルミやスチール主体で造られたビルは、安全性・快適性では最上級の建物ですが、田舎者には冷たい感じを強く受けてしまいます。
街並みは雑多な感じにはなりますが、間口の狭い小さなビルがごちょごちょ建っている街並みのほうが、親近感とぬくもりを感じられます。


■夢の島・・・・・



[ ゴミはごみ箱に ]


人が生活していると必ずゴミが出ます。
その量は高度経済成長・大量消費型生活の浸透とともに増え続けましたが、2000(H12)年をピークに減少に転じ、2021(R3)年度は一人一日当たりの排出量は890gでわずかずつですが減少しています。
大した量ではないように感じますが、年間の総排出量にすると4000万トンにのぼり、戦艦大和(6.9万トン)580隻に相当する量です。



[ 大和 1/10サイズ(2010年):呉の大和ミュージアム ]


処分に困るゴミですが、ゴミで海を埋立て土地を創り出すこともできます。
ゴミの埋立地は深く掘ればゴミが出てしまうので、土砂で埋立てた土地より使い勝手は悪いのですが、ゴミで土地が創られるので、まさに夢のような話です。
ゴミによる埋立地として有名なのは東京都江東区の夢の島ですが、東京では江戸時代からゴミで埋立てを行っていました。
1590年に徳川家康が江戸に入ると江戸の人口は急激に増え、屋敷内・空き地・川などに捨てらたゴミによって江戸市中の衛生状況が悪化したので、幕府は1655年に永代浦(永代橋東側)をごみ投棄場とするお達しを出したのです。




[ 旧・永代浦(2007年):橋の東(写真右)側は江戸時代の埋立地 ]


その後も永代島新田、砂村新田、越中島などで埋立てが進み、隅田川河口部東側の低湿地帯は江戸市民のごみ処理場となり、ゴミにより陸地が造られていきました。
ゴミと言っても今日のゴミとは大きく異なり、生ごみや灰がほとんどで1年もすれば自然に分解してしまうもので、プラスチックやビニールのように便利ですが処分に困る物はなかったのです。
また、江戸の名物であった火事の後にで出る燃えがらや残土も一緒に捨てられていたようですが、土と木でできた家屋にも有害なものはありません。



[ ゲートブリッジ(2017年):ゴミの埋立地をつなぐ橋 ]


ゴミで有名になった夢の島は、1957(S32)年から1966(S41)年にかけて面積45ヘクタールの海面に1,034万トンのゴミが埋立てられ、現在では公園や清掃工場が立地しています。
東京ではその後もゴミによる埋立が進められ、新夢の島(現・若洲 ゴルフ場やキャンプ場がある)、中央防波堤内側・外側さらには新海面処分場へと沖合に向けて埋立が進められています。
2020年東京オリンピックは晴海の選手村を中心に行われますが、競技施設の多くは臨海部の埋立地に造られ、ゴミ埋立地に造られる競技施設もありました。


■ゴミの移動・・・・・



[ 新海面処分場(2013年):東京最後のゴミ埋立地 ]


ゴミ埋立ての先進自治体東京都も、「新海面処分場の埋立が終わったら、ゴミはどこに持っていくの?」の問いに対し、「新海面処分場が一日でも長く使えるように、延命化に取り組む必要があります。」と担当する東京都環境局が答えているように、先行きは明るくないようです。
人間が生活する以上、ゴミ処分の問題は続きます。
埋立てに代わる処分方法が開発できれば大儲け間違いなしです。



■おまけ・・・・・


[ 晴海埠頭(2013年) ]

晴海埠頭は船旅を楽しむクルーズ客船が寄航する埠頭ですが、Voyager of the Seas号(高さ63m)が2013年5月に東京港に寄港した時は、手前にあるレインボーブリッジ(海面~桁下50m)をくぐることができないため、大井埠頭に接岸しました。
客船以外にも南極観測船も使うそうですが、海上自衛隊の艦船が接岸していることもあります。





<参考資料>