伊奈町【ニューシャトル】

chapter-073 2014.02 2025.2

■新幹線建設に反対・・・・・・



[ 大宮駅(2025年)]


1982(S57)年6月23日に大宮駅~盛岡駅を結ぶ東北新幹線が開業し、11月15日には大宮駅~新潟駅を結ぶ上越新幹線が開業しました。 その後、1985(S60)年3月14日に大宮駅から上野駅まで、1991(H3)年6月20日には東京駅まで乗り入れました。 今では北陸新幹線が高崎駅で上越新幹線から分岐し福井県敦賀駅まで運行しています。
この3路線は、東京駅から大宮駅までは同じ線路を走っていますが、大宮駅を出ると埼玉県伊奈町付近で東北方面と上越・北陸方面に向け立体構造で線路が分岐します。 大宮駅のすぐ北側に国鉄大宮工場、国道16号、17号があり住宅や学校も多く、これらを完全に避けて大宮駅付近で東北方面と上越方面への分岐を設けることは不可能でした。
このため、国鉄大宮工場を過ぎてからカーブを入れ、学校、国際電電受信所、伊奈氏屋敷跡などに極力支障のないように、上尾市原市付近にかけて約4kmの直線区間を設け伊奈町で分岐することになったのです。



[ 大宮工場(2025年):新幹線高架下も工場 ]


分岐が設けられる伊奈町は在来線の高崎線と東北線の谷間にあり、これまで国鉄の恩恵を全く受けていないうえに、新幹線によって町域が三つに分断されるという、1970(S45)年に村から町になった直後の大問題でした。
1971(S46)年10月上旬に国鉄が工事実施計画の認可を申請し新幹線計画の内容が明らかになると、伊奈町は町の基本計画に著しく支障を来たし将来の発展を阻害する恐れが大きいとして、分岐通過に反対、路線の変更を要求する陳情書を国鉄総裁、鉄道建設公団総裁らに提出しました。
さらに、計画が認可された2日後の16日には、臨時の伊奈町議会において「上越・東北新幹線の伊奈町内分岐及び通過反対に対する意見書」が採択され、内閣総理大臣、運輸大臣、衆参両院議長、国鉄総裁などに意見書を提出し、町を挙げて反対運動に立ち上がったのです。
11月28日に国鉄大宮工場内で鍬入れ式と起工式が行われましたが、騒音・振動問題で反対する地域の住民ら6,000人が押しかけ、決起大会を開きデモ行進のあと反対決議を申し入れるなど、波乱の幕開けでした。



[ 東北新幹線(左)と上越新幹線(右)の分岐(2023年)]


そもそも1971(S46)年10月14日に認可された東北・上越新幹線の計画は、東京側から荒川渡河までが高架構造、戸田市から大宮駅までがトンネル構造、大宮駅以北が高架構造の計画で、新幹線が高架を走行する大宮以南の自治体では建設反対の運動が展開されていました。
このような中、1973(S48)年3月10日に行われた畑知事、小林北区長と運輸政務次官、国鉄総裁らの会談は、地元自治体の要求に対し国側の回答は下記の通りで、反対運動に火に油を注ぐ回答もありました。

① 県南三市(戸田市、浦和市、与野市)の地下構造 ➡ 地盤沈下が甚だしいので全面高架構造
② 通勤新線の併設 ➡ 通勤新線は併設
③ 万全な公害対策 ➡ 騒音振動については防止施設を設置
④ 東北・上越新幹線の同時着工と北陸新幹線建設への慎重な対応 ➡ 東北・上越新幹線は同時着工。北陸新幹線を含め大宮以南は3本の新幹線が通過するため最低2路線が必要、もう1路線は在来線の貨物線を利用
⑤ 伊奈町へのバスなどの運行の考慮 ➡ 伊奈町の交通については前向きに対処
⑥ 両側に6.5m以上の側道を設け無料払下げ ➡ 側道は片側4m、これ以上は地元負担

この会談の日に新幹線の工事実施計画は全面高架構造に正式に変更されたのです。 これまでトンネル構造だったため目立った反対のなかった浦和市・与野市でも新幹線建設に対し強い反対が起きました。

※④の補足
当時の新幹線の計画は、上越新幹線は当面、東京・大宮間は東北新幹線とルートを共用し大宮から分岐して別ルートとなりますが、将来は新宿がその起点となり両新幹線はそれぞれ完全に別ルートとなる予定でした。予定通りであれば大宮駅が上越・東北両新幹線が接続する唯一の駅でした。


■新幹線建設の見返り・・・・・



[ 1976(S51)年の東北新幹線用地買収状況 伊奈町は0% ]
 (第13回東北新幹線建設関係県連絡会議概要)


当時の栗原埼玉県知事は基本的には新幹線計画に賛成の意向で、その後1972(S47)年6月に埼玉知事となった革新系の畑知事も決して反対一本やりではなく「もともと新幹線が通るのには賛成」「住民の生活環境を守ることはもちろん県全体のメリットも考えなければならない」との姿勢でした。
反対運動は沈静化の動きが見られず、国鉄は大宮駅を臨時ターミナルとして使うことを検討せざるを得ない状況で、現実に大宮駅以南の開業は遅れることになりました。



[ 新幹線と埼京線(2025年):大宮以南の新幹線は110km/h以下 ]


しかし、伊奈町の北にある桶川市、蓮田市などから新幹線の建設が急ピッチで進められ、1975(S50)年10月に大宮市議会は「大宮駅に全列車停車」の要望を決議し、11月には住民側の大宮新幹線対策特別協議会が騒音防止を前提に用地買収受入れの方針を固めたこともあり、伊奈町でも建設反対・路線変更の全面反対から条件闘争への動きが大きくなりました。
伊奈町は高崎線と東北線の谷間にあり、地域交通が悪く発展が阻害されてきたとの意識が根底にあるため、何よりも地域交通事情の改善が悲願でした。1976(S51)年6月の町議会では「見返り施設を要求し伊奈町民の足を確保し、公害問題等の解決を迫る方向へ戦術転換せざるを得ない」と町長が答えるに至ったのです。翌年3月30日の町議会で「新交通システムの導入促進決議」が賛成多数で可決、12月23日には埼玉県議会で「伊奈―大宮間の新交通システム導入に関する意見書」が採択され、県も新交通システムの導入に取り組むことになったのです。



[ 都市施設帯(2025年):騒音・振動の緩衝帯 ]


その後、埼玉県選出の福永健司衆院議員が運輸大臣になると、新交通システムの話はとんとん拍子に進み、1978(S53)年7月17日の記者会見で大臣は「東北・上越新幹線建設の見返りとして大宮-伊奈町間に導入を検討していた新交通システムを新幹線と同時併設することで、国と市町の間でほぼ合意に達した」と明らかにしたのです。
東北新幹線工事誌には「実現の見通しはまったく不明であったが、新交通システムを導入しない限り新幹線建設の促進ができない現実に鑑み運輸省、国鉄は大局的な判断で導入を決断した。」と当時の状況が記されています。
同年11月10日に新交通システムの建設に関する協定書、確認書が締結され、12月16日森山欽司運輸大臣が通勤新線の建設を認可すると、畑知事はこれらを踏まえ建設同意の条件が整ったと判断し、1979(S54)年6月7日に新幹線の建設促進の態度を表明するに至ったのです。


■伊奈町には新交通システム・・・・・



[ 東北、上越・北陸との分岐(2025年):原市沼を渡る ]


新交通システムの建設に関する確認書は、埼玉県・大宮市・上尾市・伊奈町を甲、国鉄を乙、鉄建公団を丙とし、その内容は次の通りでした。
◆新都市交通システムは大宮駅から伊奈町小針地区まで12.9kmとする
◆新都市交通システムの運営は甲及び乙が主体となって出資する第三セクターが行う
◆駅(用地を含む)については甲の負担とし、車両を除くその他の施設については乙及び丙の負担で建設し、丙が建設したものは乙に引き渡し、第三セクターに貸し付ける
◆施設の貸し付けは有償とし、健全経営に資するよう一定期間の猶予を配慮する
◆甲は伊奈町その他周辺地域の都市整備を積極的に進めることにより第三セクターの健全経営に資するよう努める
◆新都市交通システム建設と関連都市整備は相互に調和を保ち新幹線開業を目途に進める
◆本確認書をもって乙及び丙は当地域の新幹線建設に着手する
これをもって上尾市、伊奈町で新幹線建設が始まったのですが、上尾市ガス団地(上尾市原市北の分譲団地)と伊奈町丸山で用地買収が最後まで難航しましたが、国鉄は短期間施工の新技術(PC桁押出し工法?)を開発し予定工期内に完成させることができたそうです。



[ 新交通システム(2025年):大宮駅を出て最初のカーブ ]


新交通システムの建設費は総額約250億円、そのうち国鉄と鉄建公団が190億円、第三セクター新会社が約40億円、地元自治体が約20億円の負担でしたが、鉄道免許申請時には総額363億円(キロ当たり28億円)に膨らんでいました。
また、運営主体となる第三セクターは、1980(S55)年4月の会社設立時から免許申請の準備をしていたにもかかわらず、12月になっても申請は宙に浮いていました。 新交通システムに地方鉄道法(現・鉄道事業法)と軌道法のどちらを適用させるかで運輸省と建設省に対立があり、12月3日に運輸省と建設省との間で覚書を締結しようやく適用する法規が決まったのです。 覚書は省庁間の縄張り争いの象徴のような内容で「当該新都市交通システムの適用法規は、新幹線に添架し一体として建設されること、延長のほとんどが道路外に敷設されることに鑑み、特例として地方鉄道事業法(現・鉄道事業法)とする」ことになったのです。



[ ゆりかもめ(2019年)]


新交通システムやモノレールは「路面電車の高架」と考えて軌道法が適用されることが一般的らしいのですが、大宮~伊奈間の新交通システムは、新幹線建設に付随し新幹線高架を利用するため道路上に架かるのはわずかで、全てに地方鉄道事業法を適用する特例となったようです。
東京の新橋-お台場を結ぶ『ゆりかもめ』は一本の路線ですが、免許の上では軌道法に基づく軌道区間と鉄道事業法に基づく鉄道区間が混在してるそうです。



[ 反対運動の看板(2025年):断固反対 ]


難産の末、新交通システムの工事が始められたのですが、羽貫駅~内宿駅に用地買収に応じない地権者がいたため2か所で寸断され、新幹線と同時開通は実現できず、しかも大宮~羽貫間の部分開業とせざるを得ませんでした。
新交通システムが部分的に開業できたのは新幹線開業から約1年遅れの1983(S58)年12月22日で、起点の大宮駅と終点の内宿駅を織機の梭(ひ:英語でshuttleシャトル)のように往復することから『ニューシャトル』という愛称が付けられました。
その後、残る2名の地権者のうち1名とは契約に至りましたが、最後の1名は過激派が加わり契約の見通しが立たないため、土地収用法の行政代執行により空中権を収用したのです。 当時、反対運動で使われていた看板と小屋が今でも高架下にあり、雑草の隙間から「断固反対」の文字を見ることができます。
難航していた用地の収用を終え、ニューシャトルが全線開業できたのは新幹線開業から8年後の1990(H2)年8月2日でした。



[ 空中権を行政代執行したところ(2025年)]


■バスのようなニューシャトル・・・・・



[ ニューシャトルのゴム車輪(2025年)]


新幹線建設と引き換えに造られた通勤新線は『埼京線』という通称が付けられた鉄の車輪が鉄のレールの上を走る狭軌鉄道ですが、ニューシャトルはゴムタイヤが車体を支え、側方の案内軌条によって車体が誘導されコンクリートの上を走ります。 ゴムタイヤでコンクリート版の上を走行するのですが、札幌の地下鉄同様に立派な『鉄道』です。ゴムタイヤはパンクが心配ですが、ニューシャトルのゴムタイヤは、中空タイヤの中に鉄輪があるので、万一パンクしても走行できるそうです。



[ ビルに沿って走るためR=25m(2025年)]


ニューシャトルの車体は普通の鉄道車両に比べ長さ、高さ、幅ともに小さく、幅は2.3m、1両の長さは7.55mと路線バスよりも小さい車両が6両1編成で走っています。 利用者は埼京線と比べ桁違いに少ないため小さな車両でも十分で、最少半径25mのきついカーブを曲がることができるのも、小さな車両のおかげです。
ゴムタイヤで走ることや車両の大きさ(小ささ?)のほかに、営業キロ12.7kmの間に13もの駅があるので平均駅間距離は約1kmとバス停なみに短く、鉄道と言うよりはバスと言った感じもします。



[ ニューシャトル路線図 : JRや東武に比べ駅間がとても短い ]


ニューシャトルの駅乗降者数(2024年度)は、大宮駅を除けば鉄道博物館(大成)駅が最も多く一日9,267人で、そのほかの駅は2,000人~5,000人程度です。
大宮駅の乗降者数が約4.4万人あるのに比べ、他の駅の乗降者数を合わせても約5.1万人なので、行きは「大宮駅で降りる」、帰りは「大宮駅で乗る」の利用形態が大勢を占め、伊奈町や上尾市、大宮市郊外から大宮中心部へ人を吸い寄せるストローような鉄道です。


■沿線の整備・・・・・



[ ニューシャトルの終点(2025年)]


これまで鉄道の恩恵を受けていなかった伊奈町に、新幹線建設の見返りではありますがニューシャトルという“鉄道”が伊奈町小針の内宿駅まで通ることになったのです。
しかし沿線は新幹線の分岐が設けられるくらいですから、土地利用の主体は農業で人口密度は低く、鉄道営業上は好ましい状況とは言えません。 確認書にあるように第三セクターの健全経営に資するため、県は伊奈町などの協力を得て『新交通システム関連地域環境整序計画(S56.3)』を策定し、乱開発の防止、計画的なまちづくりの推進、旅客の増大を目指すのです。



[ 畑が残るニューシャトル沿線(2025年)]


計画の対象地域は、新交通システムの整備に伴って直接的に影響を受ける区域(駅から概ね1km)とし、その面積は3,210ヘクタールに及ぶものでした。 1980(S55)年を基準年とし20年後の2000(S75)年を目標年次に掲げ、人口の増加は次のように目論んでいました。


この計画通りに人口が増加していれば、伊奈町は2000(H12)年には『伊奈市』に昇格していたはずですが、実際には2000年は32,216人、2020年でも44,830人と『伊奈市』の実現にはもう少し時間がかかりそうです。


■『新交通システム関連地域環境整序計画』のその後・・・・・


『新交通システム関連地域環境整序計画』に掲げられた主な事業は次の通りですが、実現しなかったものもあります。
①文化拠点、情報拠点、モデル・タウンの形成:伊奈町北部地区 ➡ 職住近接の文教都市
②農業地域整備:伊奈町を中心とする地域 ➡ 変化に対応した地域農業地の推進
③都市森林整備:伊奈町東部地区・上尾市西南部地区 ➡ レクリエーション機能を持つ森林の創造
④環境空間整備:新幹線沿線 ➡ 緩衝帯を設置
⑤グリーンウェイ整備:大宮公園→上尾運動公園→都市森林 ➡ 広域公園等を結ぶグリーンウェイの建設
⑥大宮駅西口地区整備:大宮駅西口 ➡ 文化機能・業務機能を導入
⑦上尾市原市地区整備:上尾市原市 ➡ 住宅地を整備
⑧伊奈町中心地区整備:伊奈町中央 ➡ 町の拡大発展に伴う中心地区の整備
 これらの事業のどうなったのでしょうか。



[ ニューシャトルの車両基地(2025年) ]


①文化拠点、情報拠点、モデル・タウンの形成・・・・・
 
伊奈町北部では面積225.4ヘクタール(住居系184.9ヘクタール、工業系40.5ヘクタール)の伊奈特定土地区画整理事業が埼玉県により施行されました。1985(S60)年11月15日都市計画決定され、1988(S63)年3月27日の事業計画決定から2010(H22)年7月26日の換地処分まで、事業には22年の期間と約348億円がかかりました。
また、標準的な高校の3倍の規模(生徒数2400人)を持つ伊奈学園総合高校が1984(S59)年開校し、生涯学習のための県民活動総合センターが1990(H2)年に開設されるなど、埼玉県は伊奈町北部に相当な力を注ぎ込んできました。



[ 伊奈学園総合高校(2025年):全国初の選択制総合高校 ]


土地区画整理事業で整備された工業系区域の40.5ヘクタールには既に工場が立ち並んでいるのですが、住居系の区域は未だに空き地があったり農地として使われているところも多くあります。
計画人口は11,000人の土地区画整理事業のなので、予定通りに人口定着が進めば、『伊奈市』の実現に大きく貢献するはずです。



[ 羽貫駅付近(2025年):戸建て住宅と保存樹林 ]


②農業地域整備、③都市森林整備、グリーンウェイ整備・・・・・
 
②③④は実施・実現しなかったようです。特に都市森林の一部になるはずだった『伊奈氏屋敷跡』は県指定史跡ですが、 ほとんどが私有地で地域内に『丸ノ内の85パーセント以上は私有地につき立入禁止 住民一同』と書かれた看板が掲げられていました。 都市住民のレクリエーションの場などとんでもないと言わんばかりの雰囲気がありました。
今は伊奈町が遊歩道の整備を行い散策できるようになっています。



[ 伊奈氏屋敷跡(2013年):こんな看板があった ]


⑥大宮駅西口地区整備・・・・・
 
該当する整備事業は、大宮駅西口に建設された産業文化センター「ソニックシティ」のようです。 オフィス、ホール、ホテル等を備えた施設で1988(S63)年4月にオープンし、オフィス棟は県内で初めて100mを超える超高層建築で、都市計画法の特定街区を活用して建築されました。 地上部には鐘塚公園が広がり、大宮駅からはペデストリアンデッキで結ばれています。
ソニックシティのSONICは、S-埼玉県、O-大宮市、N-日本生命(共同開発者)、I-産業、C-文化の頭文字から取ったもので、ホテル棟にはパレスホテルが入っています。



[ ソニックシティ(2013年)]


⑦上尾市原市地区整備、⑧伊奈町中心地区整備・・・・・
 
上尾市が原市駅前、沼南駅前でそれぞれ4ヘクタール、14ヘクタールの土地区画整理事業を実施し、伊奈町が伊奈中央駅の周辺で73.3ヘクタールの土地区画整理事業を実施しました。 しかし、いずれの土地区画整理事業も環境整序計画で予定していた整備面積よりも小なものでした。



[ 沼南駅(2013年):駅前に戸建て住宅]


■その後の伊奈町は・・・・・


ニューシャトル開業から30年以上が経過しましたが、新幹線で3つの地域に分断された伊奈町はどうなったのでしょうか。 伊奈町にできた”駅”のまわりを覗いてみます。


<< 丸山駅 >>


[ 丸山駅(2025年):新幹線高架下にある駅 ]


原野のような原市沼を境に伊奈町に入り、新幹線が東北方面と上越方面に分岐して最初の駅が丸山駅です。 分岐した新幹線の間にニューシャトルの車両基地があり、ニューシャトルの軌道が高架の高さから地上近くに下りて来るので、丸山駅は他の駅と異なり新幹線の高架下にホームがあります。 駅の横にある車両基地は、ニューシャトルの軌道やゴムタイヤの車両を間近に見ることがでる唯一の場所です。



[  伊奈氏屋敷跡(2025年):林の中の畑と民家 ]


丸山駅の南東にある木々のこんもりとした山が県指定史跡の伊奈氏屋敷跡です。畑の中に住宅が点在し南北に走る道を南に向かうと原市沼の南端に出ます。
伊奈氏屋敷跡はまわりを木々に囲まれた閉ざされた空間で、地区内の道を通る人も少なくニューシャトルが開通しても風景はあまり変わっていないようです。 伊奈屋敷跡の南にある原市沼は河川調節池として整備が進められているので、これから風景が変わっていきそうです。


<< 志久駅 >>


[ 志久駅(2013年):無線山の雑木林と日本薬科大学 ]


ニューシャトルの13ある駅の中で最も寂しいところにある駅です(あくまでも個人的感想です)。それでも近くに薬科大学や高校があるので利用者数はそこそこあります。
駅の西側に無線山と呼ばれる雑木林が広がっていて、深夜に駅周辺を歩くときには懐中電灯とともに度胸が必要で、場末の繁華街を歩くときとは違う怖さがあります。 無線山の言われは、1933(S8)年からKDDIの前身である国際電信電話(株)が、国際短波通信の小室受信所として1987(S62)年まで運用していたためです。 その後は遊休地となっていましたが、2013(H25)年に無線山の一部約3.5ヘクタールが埼玉県と伊奈町に譲渡され、トラスト地として無線山の雑木林風景が残されるそうです。



[ 無線山(2025年):日本薬科大学入口付近 ]


ニューシャトルの開業後無線山には、1988(S63)年に国際学院高等学校、2004(H16)年に日本薬科大学が開学しました。 最近では県立がんセンターが雑木林を切り開いて建替えられ、町役場近くにあった病院が移転してくるなど、少しづつ変化してます。


<< 伊奈中央駅 >>


[ 伊奈中央駅前(2025年):立派な駅前広場 ]


駅名のとおり伊奈町のほぼ中央部にあるのですが、ニューシャトルの13駅の中で最も乗降者数が少く、土地区画整理事業によって生み出された東側の立派な駅前広場は、閑散とした状況です。
伊奈中央駅の前後にある志久駅や羽貫駅は、近くに高校や大学があるため、学生・生徒が乗降者数に貢献しているようですが、伊奈中央駅のまわりにある施設は町役場と戸建て住宅程度で、乗降客数の大幅な伸びはあまり期待できません。



[ 伊奈中央駅付近(2025年):分譲中 ]


環境整序計画では「町の中心地区として商業、文化、行政施設等の中枢施設の機能を高める」方針でしたが、商業施設で目に付くのはドラッグストア程度で、文化施設は皆無、行政施設は伊奈町役場のみといった現状です。 土地区画整理事業は伊奈町の手で行われましたが、残念ながら住宅、それも戸建て住宅主体の地域になりそうです。


<< 羽貫駅 >>


[ 県民活動総合センター前(2025年):生コン工場と戸建て住宅 ]


環境整序計画で配置するとしていた「総合選択制高校、県民活動総合センター等の教育文化施設」は実現し箱モノは揃いましたが、これらの施設を核とした街づくりの動きははないようです。
選択制の伊奈学園高校は、吹奏楽部が全国トップクラスの水準にあるだけでなく、生徒数は一般的な高校の3倍もあるため、普通の住宅地に”賑やかさ”と”騒がしさ”をもたらしています。 これらの教育文化施設に関連した施設の立地が進めばよかったのですが、企業にとっては少々不便な地域のようで周辺にできたのは住宅がほとんどです。



[ ショッピングセンター(2025年):大駐車場が不可欠 ]


地域の住民が日常品を購入するお店は、駅から少し離れた交通量の多い交差点の近くにあります。 県南部に比べれば格段に人口密度が低いため、集客数確保のためには徒歩圏を超える地域の住民にも来てもらわなければならず、広い駐車場は欠かせません。
環境整序計画では、県民総合活動センタ―周辺の既存住宅が少ない地区は計画集合住宅地を想定し、イメージパースには中層の団地が描かれていましたが、現実は戸建て住宅が並んでいます。


<< 内宿駅 >>


[ 内宿駅(2025年):駅前に貸農園 ]


ニューシャトルの終点である内宿駅は大宮駅から約25分で着きます。13駅のなかで最も立派な駅前広場がありますが、駅前広場を取り囲んでいるのは住宅と畑で、お店は駅の売店のみです。
それでも駅周辺は近隣商業地域が指定され商業地の形成を目指していますが、まだまだ空き地や農地が多く、駅のそばには町民向けの貸農園もあります。駅前の道路は土地区画整理事業で造られた歩道の広い立派なものですが、地区外からの交通は少なく静かな通りで、幅が広すぎるようにさえ思えます。



[ 駅前の都市計画道路(2025年) ]


環境整序計画に掲げられていた事業はすべてが計画どおりには進展しなかったようです。 それでも日本の人口が減少する近年でも、伊奈町は少しづつですが増加しています。 もしニューシャトルがなかったら人口減少の自治体になっていたかもしれません。
町にとって 新幹線による地域分断は大問題でしたが、地上を走る鉄道に比べれば高架の下は横断できる道が多く確保されているので、地図で見るほど地域が分断された実感はないようです。
先人の苦労のおかげで、伊奈町にとって新幹線の建設は「災い転じて福となす」だったように思えます。




<参考資料>