chapter-076 日光御成街道の並木

[ 2014.05~ ]

■日光御成街道・・・・・



[ 日光東照宮(2005年):雨の日の陽明門 ]


埼玉県内を通る国道4号と17号のあいだに『日光御成街道』と呼ばれる道があります。
「御成」とは、皇族・摂家・将軍などの貴人の外出や訪問・臨席のことを言い、日光御成街道は徳川幕府の将軍が日光東照宮に「御成」するための道です。
徳川幕府を開いた家康は、1616年に75歳で亡くなり静岡県の久能山に葬られましたが、遺言により翌年日光に改葬されました。
日光東照宮は家康公を祭神とする神社で、現在の建築物は1636(寛永13)年に三代将軍家光によって建替えられたものです。
日光の社寺が世界遺産に登録され観光客が絶えませんが、登録される前も東照宮や華厳の滝などがある日光方面は、関東地方の小学校にとっては修学旅行の定番コースでした。



[ 幸手(2014年):日光御成街道が日光街道に合流 ]


日光御成街道は、五街道のひとつである日光街道の脇街道として造られたものです。
日光街道は起点である日本橋から千住、草加、越ケ谷、粕壁、杉戸、幸手、栗橋を経て茨城県、栃木県に入る街道でしたが、日光御成街道は日本橋から中山道を通り途中の追分本郷(文京区)で分岐し、岩淵、川口、鳩ヶ谷、大門、岩槻を経て幸手で日光街道に合流する五宿十二里の街道でした(王子宿を入れ六宿十二里ともいわれることもあるようです)。
日光御成街道の多くの部分は、今も立派に道路として使われていて、現在の路線でたどるとほぼ次のようになります。




日光御成街道は部分的に新しく道が造られて付替えられた区間もあります。
国道122号が荒川を渡る新荒川大橋は、日光御成街道の東側に架けられたため、川口宿があった通りは拡げられることなく昔の幅のまま残っています。



[ 川口市内の日光御成街道(2012年) ]


■一里塚・・・・・



[ 西ヶ原一里塚(2010年):本郷通りに残る一里塚 ]


江戸時代の街道と言えば、旅人に距離を知らせるための一里塚が設けられ、木陰を提供する並木が街道沿いに立ち並ぶ風景が浮世絵に描かれています。
一里塚は日光御成街道沿いにもいくつか現存しています。都内では北区西ヶ原の滝野川警察署の隣に、日本橋から二つ目になる西ヶ原一里塚が残っています。
西ヶ原一里塚は、大きな木が幅広い中央分離帯にあるので本郷通りを車で走っていても目立つ存在です。
地価の高い都内にあって道路が4車線に拡幅されても一里塚を残していることに、東京都の財政の豊かさがうかがえます。



[ さいたま市岩槻区相野原(2014年):一里塚の名残(東側の塚) ]


可哀そうな形で残っているのは岩槻区相野原にある一里塚(跡)で、東西の塚は個人の土地にあり、昔は土地所有者が管理をしていたようです。
東側の塚(跡)は三方を鋼製の塀に囲まれて、花でも咲いていれば花壇にしか見えません。
一里塚であったことを示す案内板もなく、形も四角形なのでここに一里塚があったとは思えませんが、一里塚のあった記憶としてこれだけの空間が提供されただけでも幸運でした。
対になる西側の塚は、雑木に覆われていてどのような状況になっているのか全く分かりません。



[ 白岡市の一里塚(2012年):日本橋から11番目の一里塚 ]


もっとも一里塚らしい形で残っているのは、白岡市下野田にある一里塚です。
周囲は起伏のない平坦な畑なので、道の両側にある塚は人の手で造られたことが一目瞭然で、案内板がなくても一里塚と分かる存在です。
塚の高さは1.5m程でその上に榎木が枝を広げ一里塚らしい雰囲気を出しています。
裾の部分は石積みが取り囲み崩れるのを防いでいます。
1928(S3)年の『埼玉県史蹟名勝天然紀念物調査報告 第四集 史蹟及び天然紀念物の部』によれば、この一里塚は「東の塚は高さ7尺(約2m)、径は5間半(約10m)で頂上に榎木が植えられている。西の塚は高さ7尺(約2m)、径は6間(約11m)、榎木は植えられていない」とあり、現在の塚よりもすこし大きかったようです。
西側の榎木は大きく枝が張り年季が感じられますが、この調査の後に植えられたものです。


■並木・・・・・



[ 日光市の日光杉並木街道(2005年):上今市付近 ]


並木といえば、日光市の日光杉並木街道が有名です。
日光街道、例幣使街道、会津西街道の並木を合わせると総延長は約37kmに及び、江戸時代に植えられた杉は高さ30mを超える巨木になっています。
約12,500本の杉による並木道は、世界で最も長い並木道としてギネスブックに掲載され、全国的にも知名度が高い並木道です。
日光市の日光杉並木街道は、並木の間を自動車が通行する区間や、石畳が敷かれ歩行者専用になっている区間もあります。
杉並木の間を車で走っていると、日光に近づいて来たと感じるのですが、自動車の排気ガスや振動が並木を痛める原因になっているそうなので、並木を眺めつつ静かに走りたいものです。



[ 草加松並木(2006年):県道と綾瀬川に挟まれている ]


日光街道は、埼玉県草加市にも綾瀬川沿いに松並木が残っています。
以前は松並木の間に車道がありましたが、現在は並木の西側に車道が移設され、松並木の間は遊歩道になっています。
松尾芭蕉が『奥の細道』に草加宿を通ったと書いているので、そんな所以もあり草加松並木は芭蕉が通ったころの風景を思わせるような遊歩道になっています。
ところで、日光御成街道には並木がなかったのでしょうか?。
現在の日光御成街道にはほとんど並木といえるものはありませんが、並木をつくりだしていた杉が現在も僅かながら残っています。
明治になったころは道路を維持修繕する費用ための制度が整っておらず、街道を管理していた埼玉県は大蔵省に伺い出て、川口町から幸手町までの間の並木8,352本のうち3,410本の伐採を1873(M6)年までに許され、その代金3,000円を路面の修繕に当てました。
この伐採の後でも4,942本の並木が残っていたはずですが、大正時代までに激減しました。


■日光御成街道の並木 1923年『並木調』・・・・・



[ さいたま市岩槻区鹿室(2014年):切り株も残っている ]


日光御成街道の並木について記載がある資料は、1923(T12)年と1944(S19)年に並木の状況を調査した『並木調』と、大正14年度から昭和2年度にかけて史蹟、天然紀念物とすべきものを調査し、1928(S3)年に出された『埼玉県史蹟名勝天然紀念物調査報告 第四集 史蹟及び天然紀念物の部』があります。
これらの資料によると、日光御成街道の岩槻宿~幸手宿の間には立派な並木があったようです。
1923(T12)年に行われた『並木調』は県の土木課が行ったもので、立木を一本ずつ品目、目通(周長)、全長、材積、金額を調書に記載し、立木の位置を1200分の1の平面図に示すように各工区(出先機関)あて指示しています。



[ 1923年『並木調』:1200分の1の平面図 ]


また、調書に記載した番号を、立木の樹皮を削り日本数字で墨書きし、上部に「A」印をつけるようにも指示されていました(「A」印を付けた理由は分かりません)。
この調査は9月1日に発生した関東大震災直後の9月17日に各工区長に発送され、至急調査し9月30日までに報告するよう求めていました。
立木の本数が多い道を抱える工区長は苦労したようで、岩槻工区長は9月29日付けで回答し期限に間に合いましたが、最も立木の本数が多かった川越工区長の回答は11月12日でした。
関東大震災では、埼玉県内でも死者316人、行方不明者95人、負傷者497人、家屋全壊9,268軒、家屋半壊7,577軒の被害が出ていたにもかかわらず、一見悠長とも思えるこのような調査を行ったのは、震災の復旧資材として並木を使用することを考えて、急ぎ実施したものと思われます。



[ 1923年『並木調』の調書:慈恩寺村のNo130~139 ]


当時の岩槻工区長の管轄内では、四号国道、岩槻幸手線、岩槻越ヶ谷線、岩槻鳩ヶ谷線の4路線に並木があり合計1,709本の立木がありました。
その中で、最も立木の多いのが日光御成街道だった岩槻幸手線(現・県道さいたま幸手線)で、日勝村(現・白岡市)に552本、慈恩寺村(現・さいたま市岩槻区)に481本、両村の本数を合わせると1,033本ありました。
樹種はほとんどが杉で稀に松が混じっています。
目通(周長)から直径を換算すると十数cm~80cm程度でばらついています。この頃までは、伐採・補植のサイクルが辛うじて残っていたのかもしれません。
この調書には、立木を伐採した場合は、その日付がハンコで押されていますが、岩槻幸手線の慈恩寺村分481本のうち伐採日のハンコが押されているのは12本だけです。
伐採の状況から見て、関東大震災の復旧資材としては使われなかったようです。



[ 1923年『並木調』:昭和2年8月19日伐採 昭和6年6月9日伐採 ]


[ 慈恩寺村と日勝村の並木 ]


慈恩寺村と日勝村にあった並木の用材・薪炭材としての価値は、当時の金額で2万円を超える程度でした。
米の価格を用いて現在の価格に換算すると(米10kg 3500円[2004年]/2.18円[1923年]=約1600倍)、およそ3,350万円ほどの値打ちになります。
また、2010(H22)年のスギ正角の価格60,100円/立方mで換算すると3,450万円になるので、慈恩寺村と日勝村にあった並木の木材としての現在価値は3,400万円程度と考えて良いようです。
『並木調』に付けられた平面図は、立木一本づつに番号を付けておおよその位置が記載されています。
しかし平面図が余りにも大雑把なので、現在のどの位置に当たるのか見当をつけるのが大変です。
交差する道路は追加されたり消滅したものもあるので、字名、河川・水路、社寺などを頼りにして、ほぼ同じ位置の道路台帳、空中写真と並べてみました。
下の写真は、慈恩寺村(現・さいたま市岩槻区)相野原付近で、写っている杉は、『並木調』の調書・平面図の130~148番のいずれかが今日まで残ったものです。



[ さいたま市岩槻区相野原(2014年):数本の杉が並木の面影を残す ]


[ 1923(T12)年『並木調』:相野原付近の1/1200平面図 ]


[ 1933(S8)年道路台帳:道路両側にある青色は並木敷 ]


[2007(H19)年空中写真:至 岩槻 ←→ 至 幸手)]
(国土地理院 航空写真 CKT20071-C16-5から一部切取り


1933(S8)年の道路台帳は凡例に並木敷が掲げられているところをみると、当時の道路には並木がポピュラーな存在だったことがわかります。
この頃は自動車の通行は稀で、道路を通るのは歩行者と荷車が主役だったので、風を防ぎ木陰を作り出す並木は道路にとって必要性の高い施設でした。



[ 1933(S8)年道路台帳:凡例に「並木敷」や「砂利置場」がある ]


■日光御成街道の並木 1928年『埼玉県市史跡名勝天然紀念物調査報告』・・・・・


『埼玉県史蹟名勝天然紀念物調査報告 第四集 史蹟及び天然紀念物の部』は、並木を用材・薪炭としてとらえた土木課の調査に比べれば、並木の由来も調べてあり、少しは学術的な雰囲気があります。
岩槻幸手線の並木については、「慈恩寺村南辻(現・さいたま市岩槻区)から日勝村(現・白岡市)にかけて、二里余りの両側に一列の並木があり、樹木の大きさから樹齢二,三百年は経過し、並木としての風致があり天然物として保存の価値が認められるが、枯損・伐採した後に補植されていないのが遺憾である。」と書かれています。



[ 埼玉県史蹟名勝天然紀念物調査報告 第4集 史蹟及び天然紀念物の部』の概略図 ]


また、「日勝村の並木が、慈恩寺村に比べ立木が小さいのは明治初年に大木が伐採され、さらに明治25年頃の日勝村小学校校舎新築のために多くが伐採され、今の立木はその後に植えられたため小さい。」と父老の話を聞き取り報告しています。
並木は杉のほかに松が少数あり、慈恩寺村と日勝村あわせて1,047本、高さは3,4間~16間(5m~29m程度)と立派な杉並木が両側にあったようです。
並木の間隔を単純に計算すると16mに1本の間隔で木が植えられていたことになり、決して低い密度ではなかったようです(2里÷500本=約16m)。



[ 1928(S3)年『埼玉県史蹟名勝天然紀念物調査報告』 ]


■日光御成街道の並木 1944年『並木調』・・・・


その後に行われた1944(S19)年の『並木調』も本数と材積を調べていますが、立木の位置を記入した図面は作られていません。



[ 1944年『並木調』:10年で7割に減少した ]


1944(S19)年の『並木調』によると岩槻幸手線の慈恩寺村と日勝村にある並木は、枯損木を加えて合計740本で、1923(T12)年の1,033本に比べると約7割に減少しています。
枯損木を除くと半分にまで減少していました。20年程度の間に約300本の並木が伐採されましたが、伐採後に補植はされなかったようです。
1944年(S19)年といえば、太平洋の島々で日本軍の玉砕が続き敗色が濃厚になりつつある時期です。
物資が不足する状況にあって、並木も戦争物資として使うつもりだったのでしょうか。
関東大震災の直後、敗戦が濃厚になる頃、いずれも国難と言える時期に遭遇すると、並木も存亡の危機に晒されるようです。



[ 1944(S19)年『並木調』:使われている用紙はまさに戦時中そのもの ]


■消える日光御成街道の並木・・・・・


戦後の1948(S23)年9月になると、1944(S19)年『並木調』を基に『官有並木払下調』が行われ、並木を材木・用材として払い下げようとしていました。
この調査では、県内の並木の材積合計が1944年『並木調』の9,931石から約6割の6,286石に減少しています。
戦中戦後の混乱期に伐採された並木が相当数あったものと思われます。同じ時期の1948(S23)年11月17日の読売新聞には、「岩槻城堤の杉競売」の見出しで岩槻町が旧岩槻城堤の杉百余本を競売する、との記事があり、燃料不足を解消するため様々なところで樹木が伐採されてました。
この調査によると総額4,594,557円が県の懐に入る目論見でしたが、払下げの状況は不明です。
以後、並木について公開されている資料は見当たらず、調査が行われたか否かも不明です。



[ 岩槻市南辻付近:昭和34年の舗装工事の直前 ]


戦後の復興が進むと、自動車の交通量が増え路面は凸凹、沿道は道路の砂ぼこりに閉口し、舗装の要望があちこちで出されます。
岩槻幸手線(現・さいたま幸手線)も例外ではなく、1955(S30)年9月22日の埼玉新聞には、待望の舗装が岩槻市内で2500m行われることが記事になっているほどです。
1959(S34)年の岩槻市内舗装工事の書類には、昭和28年の交通量が320台、昭和33年が480台と記載されています。
現在の交通量1万台に比べれば極めて少ない交通量ですが、凸凹や砂ぼこりは耐え難いものだったのでしょう。
工事着手前の写真には、荷車を引く人、原付に乗る人はいるものの、自動車は一台も走っていないのどかな沿道の風景が写っています。



[ 昭和40年舗装工事:白岡町下野田の工事 ]


その後、舗装工事は北(幸手方面)に向けて順次進められ、白岡町(旧・日勝村)下野田付近は1965(S40)年に舗装工事が行われました。
その時の工事図面を見ると、車道を幅6.5mで舗装し片側に排水用の溝を掘るだけの内容です。
舗装する部分の両側が昔の並木敷に当たりますが、横断図に立木の表示はなく、工事内容に立木を伐採する項目もありません。
このころまでに多くの並木が伐採されて姿を消してしまったようです。



[ さいたま市岩槻区鹿室付近(2014年):曲げられた側溝 ]


それでも、わずかながら残っていた立木は、その後、道路を拡げ歩道を付加する工事では立木を避けるためコンクリートの側溝が曲げて設けられるなど、温情が施され伐採は免れていました。
しかし、立木の老齢化が原因なのか、虫食いが原因なのか、はたまた他に原因があったのか分かりませんが、伐採が進み現在は十数本を残すのみです。
立木がなくなった後は、曲げて設けられた側溝が、かつて杉並木が存在したことを教えてくれます。
さいたま幸手線(旧・岩槻幸手線)の旧・慈恩寺村、旧・日勝村に当たるところには、このように曲げられた側溝を所々で見ることができます。



[ 白岡市の杉(2014年):歩道の真ん中にあるが幸運にも残った一本 ]



[ 1923(T12)年『並木調』平面図:154番の立木が残った ]


道路の主役が歩行者と荷車から自動車に代わると並木の必要性は低くなり、その代わりに自動車から歩行者を守るための歩道が並木敷に狭いながらも造られました。
時代の流れとともに道路に必要とされる施設も変わっていくので、並木敷が歩道に使われることは自然な変化です。
ただ、ここに杉並木が残っていれば、日光街道の杉並木ほど大規模ではありませんが、長さ2里、約8kmに及ぶ並木道を、都心から30~40kmという近さで見ることができたと思うと、とても残念です。



[ 昭和28年日勝村の杉並木:『白岡町史資料13 写真で見る白岡町の近現代』 ]


■おまけ・・・・・


[ そば一茶(これは宮代店のもりそば 2012年) ]

日光御成街道だったさいたま幸手線を走っていると、「昔の味 純手打ちそば 一茶」の看板があります。
店は道から外れた東武和戸駅の近くに本店があり、東武動物公園駅前に宮代店があります。 
そばの太さはうどんと言っても差し支えないほどで、しかも、まちまちの太さです。
さすがに長さは短めです。
昔の味とはこういうものか、と体感することがでるそばです。お値段は消費税UPの影響で少々上がりましたが、それでももりそばが380円(税込:2014年)と超庶民価格です。
高価少量の気取ったそば屋とは一線を画しています。





<参考資料>