chapter-078 中山道のバイパス

[ 2014.09~ ]

■街道から国道へ・・・・・



[ 渓斎英泉 (保永堂) 木曽街道六拾九次:浦和宿 ]


中山道は、東海道、日光街道、甲州街道、奥羽街道と並ぶ江戸時代の五街道のひとつです。
現在の東京都から埼玉県、群馬県、長野県、岐阜県、滋賀県を経て京都に至る内陸部を通る道筋で、海側を通る東海道と対照的な道でした。
東海道は江戸幕府防衛のため大河川に橋がなく、大雨が降ると川を越すことができず旅程が大きく狂わされるのに比べ、中山道は天候に左右されにくい街道として存在価値がありました。
埼玉県内の中山道には、蕨、浦和、大宮、上尾、桶川、鴻巣、熊谷、深谷、本庄の9つの宿が置かれ、宿場を中心にいわゆる宿場町が形成されました。



[ 渓斎英泉 (保永堂) 木曽街道六拾九次:吹上付近 ]


街道の幅は徳川秀忠の命により標準5間とされていましたが、1789(寛永1)年には2間以上に改められました。
中山道の幅も2間程度で広いところでも4~6間程度でした。
渓斎英泉が描いた『木曽街道六拾九次』を見ても宿場内の道幅は広そうですが、その他は遊歩道のような道です。
1849(嘉永4)年に描かれた蕨宿町並絵図には中山道について「宿内長八丁半幅六間」(長さ約930m・幅約11m)と書かれています。
浦和宿や大宮宿付近も幅は6間程度でした。
江戸時代が終わるころ、中山道は文久元年(1861年)、奥羽街道は慶応2年(1866年)に幕府によって修理されましたが、その後1872(M5)年10月に太政官から『道路掃除ノ条目』が布達されるまで、街道は放置され損傷が著しかったようです。
幕府による街道の修理は、幅2間(3.6m)、厚さ5寸~1尺(15~30cm)の盛土の上に幅9尺(2.7m)、厚さ1~3寸程(3~9cm)の砂を敷く程度でした。



[ 桶川宿付近の中山道(2011年):1963(S38)年まで国道 ]


明治に入ると政府は鉄道整備に力を入れ、1884(M17)年に日本鉄道(株)がほぼ中山道に沿って上野~高崎間に現在のJR高崎線を敷設し、9つの宿場のうち蕨駅を除き鉄道駅もほぼ同時期に開設されました。
蕨は地元の反対があり、遅れて1893(M26)年に蕨駅が開設されましたが、なぜか現在は高崎線のホームはなく京浜東北線だけの駅です。
江戸時代から続いた宿駅制度が廃止された後は鉄道駅を中心に人口が増え、1970(S45)年の桶川市市制までにすべての宿がその名称を冠した市になり、埼玉県を北西方向に貫く連担した市街地を形成しています。
江戸から明治に時代が変わっても中山道の重要性は変わらず、1873(M6)年8月に『河港道路修築規則』が大蔵省から出されると一等道路に定められ、1876(M9)年6月の太政官達第60号『道路の等級を廃し国県道里道を定む』により中山道は一等国道となりました。
街道から国道になったのです。
一等国道とは東京から開港場に達する道路で、埼玉県内の中山道は東京から新潟港に至る国道に組み込まれたのです。
また一等国道の幅員は7間(約12.6m)以上とされていました。



[ 1923(T12)道路台帳:現在の玉蔵院入口付近 幅約11m ]


河港道路修築規則では、一等・二等道路の工事費用は官6:民4とされ、道路修繕は地元民の負担が大きなものでしたが、1880(M13)年6月に改正土木費規則が布達され国道は地方税で維持管理することになりました。
その後1885(M18)年1月になると太政官布達第1号『国道の等級を廃し其幅員を定む』により、等級が廃止されて国道に番号が振られることになりました。
同年2月24日内務省告示第6号『国道表』が出され、埼玉県内の中山道は日本橋から新潟港に至る国道五号となったのです。
また、国道の幅員は人や馬が通行する道路敷を4間以上、並木や排水施設に必要な敷地3間以上とし、合わせて7間(約12.6m)より狭くなってはならないとされました。



[ 公益道路調 ]


1893(M26)年に行われた公益道路調の運輸交通調によると、中山道という名称は見当たりませんがそれに代わると思われる熊谷大宮道の一年間の交通の見込みが報告されています。
人・馬のほかに荷車(馬車も含む)や人力車も通るとなれば、ある程度の幅がないとすれ違いも追越しもできません。
欧米の技術が導入され物流手段は「和船と街道」から「汽船と鉄道」に変化していましたが、中山道や奥羽街道のような幹線は少しずつ幅が拡げられたようです。



[ 1912(M45)年地図:赤点線が国道九号  中山道と同じルート ]


■道路法の制定・・・・・


日清、日露、第一次世界大戦に勝利し、列強国への道を歩み始めた日本ですが、全国的な幹線である国道でさえ渡船又は賃取橋によってかろうじて連絡していたものの、人馬・諸車の通行には不十分な状態でした。
江戸時代の封建諸侯が交通利便の向上を避けていた余勢や、鉄道の開通により道路がおざなりになっていたこともありましたが、道路に関する法制度の未整備も大きな原因でした。
自動車の発達に伴い交通における道路の重要性が高まることを見越し、道路の体系的な整備・維持・管理が求められて来ました。
このような情勢を受け、公共道路条例として閣議に提出したものの決定に至らなかった1888(M21)年以来、懸案であった道路法が1919(T8)年に制定されました。



[ 1923(T12)道路台帳 焼米坂付近:現在もほぼ当時のまま ]


道路法が制定された当時、全国の自動車保有台数は約1万台しかありませんが、狭い道路を通行する人,荷車,馬,自転車のほかに自動車が加わり、大きさも速度も異なる交通手段が混在し危険性が増大していました。
昨今のように交通渋滞・混雑を解消するための整備というよりは、狭い道を広げ勾配や屈曲を緩やかにして安全に通れる道路が求められていたようです。
道路法で定められた国道の要件はこれまでと少し変わり、神宮、府県庁所在地、師団司令部所在地、鎮守府所在地、枢要の開港へ至る道の順になり、これまで要件の一番目にあった『開港場』は後位になりました。
師団司令部、鎮守府が上位に掲げられ、軍事道路の色合いが強まっていきます。
中山道は『東京市より群馬県庁所在地に達する路線』である『国道九号』になりました。



[ 浦和宿南の焼米坂(2012年):1934(S9)年まで国道だった ]


道路法制定の同年に出された道路構造令では、国道の有効幅員は4間(7.2m)以上とされましたが、中山道は浦和や蕨の市街地部では9~11m程度の幅があるものの、郊外部は狭く屈曲がきついため、通行しやすい道路に改良するためには多大な費用がかかる状況でした。
しかも、1923(T12)年に発生した関東大震災によって埼玉県内でも被害を生じ、国も地方も国道の整備に力をさく余力はなく、国道九号の整備は遅々として進みませんでした。



[ 埼玉県勢要覧:なぜが牛車が激増している ]



[ 1923(T12)年道路台帳 深谷町仲町:1953(S28)年まで国道 ]


■新道(バイパス)の誕生・・・・・



[ 昭和6年度直轄工事年報:蕨町 歩道2m+車道11m+歩道2m ]



[ 1941(S16)道路台帳:蕨町 中央が国道九号 下に中山道が見える ]


中山道が本格的に整備されるのは昭和に入ってからです。
道路法は制定されましたが、国道の新設、改築、修繕及維持は国道の管理者である府県知事(当時は官選知事)とされていました。
国が直接行ういわゆる直轄事業は河川、砂防、港湾が中心で、道路に関するものは利根川に架かるような長大橋くらいでした。
国道とは名ばかりで、ほとんどの国道の新設・改築は府県が国から補助を与えられて行っていたのです。
自動車の保有台数が10万台を超えた頃、日本も1929(S4)年アメリカにはじまる世界恐慌の不況に飲み込まれ、失業救済事業として3府29県18路線にわたり、国道の改良事業が内務省の直轄で行われるようになったのです。
この事業では延べ583万3,000人の雇用を予定していました。
当時の国道九号は、東京都境の荒川に架かる戸田橋が関東大震災とその後の水害により損傷がひどく、鋼製の橋に架替えが進められ1932(S7)年の完成間近でした。
『国道九号線改良事業』は戸田橋の取付け道路北側から大宮方面に向けて進められます。
改良工事は蕨工区、浦和工区、大宮工区に分けて行われ、県の北部では熊谷工区で事業が進められました。



[ 国道九号改良工事 ]



[ 昭和11年度直轄工事年報:国道九号大成橋竣工当時 ]


[ 2014(H26)年:国道17号大成橋 右側の高架は新幹線 ]


改良計画は、家屋移転や用地買収に要する費用が高くなる市街地を避ける新道(バイパス)のほかに、田畑を通る区間でも道路の幅が狭く屈曲している区間は新道(バイパス)が造られました。
蕨工区、浦和工区、大宮工区のバイパスは幅員15m、そのうち車道は9m、10m又は11m、市街地では2m又は2.5mの歩道が車道より一段高くして両側に設けられました。
車道はコンクリートで舗装されましたが、歩道は砂利敷きでした。
蕨宿、浦和宿、大宮宿が置かれていたところは比較的まっすぐな道でしたが、両側に家屋が連なっており、また宿と宿の間は家屋は少ないものの幅が狭く屈曲が多かったため、戸田村内を除きほとんどの区間でバイパスが造られました。
当時、付近の人々は新たに造られたバイパスを「新国道」と呼んでいました。



[ 1962(S37)県管内図:赤が中山道、青がバイパスで整備された区間 ]


現在の国道17号を見ると両側に店舗や住宅などが建ち並び、とてもバイパスとして造られたとは思えませんが、長い直線区間や曲線も緩やかに設けられているところをみると、当時は田畑や雑木林が広がる土地に、特段の制約を受けることなく道路の位置を決めることができたようです。



[ 国道17号さいたま市辻付近(2014年):長い直線区間 ]


熊谷工区の中山道は、幅が最少4.5m、平均でも5.5mと狭く、また荒川の堤防を共用する区間があるため上り下りの急勾配がありました。
さらに高崎線と2か所で平面交差しているところがあり、交通量の増加に伴い事故も頻発し改良が急務とされていました。
計画は吹上村から熊谷町に向けてほぼ一直線に新道(バイパス)を設け、熊谷に入り一部現道を拡げるものでした。
ほとんどが田んぼの中を通るルートで、途中4ヵ所にカーブが入りますがいずれも半径280m以上の緩い曲線のバイパスでした。
もちろん秩父鉄道との交差は立体交差で造られました。



[ 1962(S37)県管内図:赤が中山道、青がバイパスで整備された区間 ]


熊谷工区のうち熊谷寄りの市街地は、7mの車道の両側に2mの歩道を設けた11mの道路でしたが、その他の区間では歩道は造られず広い路側になっていました。
最近ではさすがに11mでは狭いので拡幅が行われ、区画整理事業などにあわせて用地が確保できたところでは、幅20mのゆったりした道路が造られています。



[ 鴻巣市北新宿付近(2014年):区画整理が行われ幅20mに ]


国道九号の改良工事は『失業救済』という名目のほか『時局匡救』『産業開発』『農村振興』などの名目で予算が投入され、昭和11年度に工事が完了しました。
その後は戦時色が濃厚となり戦争遂行に必要な産業が優先され、直轄事業としての中山道(国道九号)の改良は第二次世界大戦が終わるまで中断されます。


■戦後の整備・・・・・


戦後、1946(S21)年8月1日に事業が再開され、鴻巣町から群馬県境の上里村にかけては、内務省から衣替えした建設省と埼玉県によってバイパス整備、拡幅、舗装が進められ、1958(S33)年度までに完了しました。
1952(S27)年になると、これまでの道路法が廃止されて新しい道路法が制定され、国道の路線も新たな番号が振り直されました。
国道九号は東京都中央区を起点とし新潟市を終点とする一級国道17号に組み入れられました。
なお、現在の国道9号は京都市から鳥取県、島根県を経て下関市に至る路線です。
新・道路法は、高度の技術を要するなど特別な場合を除き、国道の新設・改築は旧・道路法と同様に都道府県知事が行うものとされていました。



[ 自動車の伸びと事故 ]


しかし、戦後の自動車交通の伸びは著しく、特に一級国道の整備を図るため1958(S33)年の法改正で一級国道の新設・改築は建設大臣が行うこととされました。
国道の整備を都道府県に任せていては遅々として進まないため、戦後の地方自治を拡大・充実する流れに逆行するような法改正が実現したのです。
(都道府県に十分な予算が配分されていれば状況は異なっていたかもしれませんが)
一級・二級の区分は1965(S40)年改正により廃止されましたが、現在の1ケタ、2ケタ国道が一級国道に相当し国が管理を行っています。



[ 桶川市内の国道17号(2014年):1963(S38)年3月に全面開通 幅員20m ]


最後まで江戸時代からの中山道をそのまま国道として使っていた旧・大宮市大成から鴻巣町神明町までの区間は、一級国道を管理することになった国によって、1958(S33)年~1963(S38)年4月にかけて中山道の約500m東側に全長約19kmの大宮バイパスが全幅20m、4車線で整備されました。
熊谷市街の中山道は、6~11mの道の両側に家屋が連担していたので、本来であれはバイパスが造られる状況でしたが、空襲によって焼失した市街地で行われる戦災復興事業によって、ほぼ原位置で25m又は28mに広げられ1954(S29)年までに2.6kmが完成しました。
中山道は明治以降国道として整備が進められましたが、熊谷市街のように従来の位置で拡幅された区間は少なく、1963(S38)年までに多くの区間でバイパスが造られた結果、国道17号のほとんどが江戸時代からの中山道と異なる場所を通る道となったのです。



[ 熊谷市内の国道17号(2014年):戦災復興事業により拡げられた ]


中山道のバイパスである国道17号は、整備が終わった後も増大する交通量に対応するため、次は国道17号のバイパスが造られています。
戦前に国道九号として造られた蕨・浦和・大宮の国道17号は、さらに西側に『新大宮バイパス』と呼ばれる6車線のバイパスが新設され、上空には首都高速道路大宮線が通っています。
新大宮バイパスは1963(S38)年8月の都市計画決定時は8車線の構想でしたが、首都高(自動車専用道路)を併設することで6車線に減らされました。
また、新大宮バイパスが国道16号と交差する宮前ジャンクションから鴻巣市箕田に向けては『上尾道路』と呼ばれるバイパスが造られています。
鴻巣市箕田の先は、既に熊谷バイパスと深谷バイパスが開通しており、その先群馬県境までの間で整備が進められている本庄バイパスが開通すれば、都県境から群馬県境まで国道17号の新たなバイパスがつながります。
中山道のバイパスのバイパスが近い将来に完成するのです。



[ 新大宮バイパス さいたま市上峰(2011年):高架は首都高速道路 ]


初代のバイパスが完成するまでの間は、江戸時代からの中山道に手を加え国道九号、国道17号として使われていたので、幅が拡げられたり曲線が緩やかになったところもあります。
大宮駅付近の中山道のように、ようやく最近になって拡げられた中山道もあります。
バイパスができたとはいえ、さすがに大宮市街の中心軸である中山道は、昔の幅のままで放置することはできなかったようです。
しかし、バイパスが早い時期に造られ、その後、手を加える必要が低かった中山道は、街道時代の雰囲気を漂わせています。



[ 中山道大宮駅付近(2014年):2013(H25)年までに拡げられた ]


■街道時代の雰囲気・・・・・


・・・・・旧・六辻村・・・・・


[ 1923(T12)年道路台帳 六辻村付近:橙色の位置が国道17号 ]


まずは、旧・六辻村大字辻(現・さいたま市南区辻)付近です。
外環道と交差する辻三丁目交差点から国道17号の六辻交差点までの区間はS字カーブが連続し、俗に七曲りと言われた道でバイパスが造られる頃の道幅は5m程度でした。
1923(T12)年の道路台帳で見ても狭さと屈曲している様子が良くわかります。
しかも結構家屋が多いのでこのまま道路を拡げると、家屋の移転に多額の費用がかかるため、バイパスによる整備が選択されたことに素直に頷けます。



[ さいたま市六辻付近(2014年):通る車は少ない ]


今では両側の建物は現代風に建て替わり、路面はアスファルトで舗装されコンクリートの側溝が付けられていますが、線形も幅も昔と大差ありません。
国道17号に比べれば車の通行は格段に少なく、静かな道路になっています。
連続するS字カーブは最近の市街地では見かけることが少ないので、普通の道路とはちょっと異なった雰囲気が漂っていますが、中山道であったことを示す表示の類はひとつもなく、興味がなければ中山道であったことに気付きません。


・・・・・旧・吹上村・・・・・


[ 鴻巣市(旧・吹上村)榎戸付近(2014年):高崎線と荒川に挟まれた区間 ]


次は旧・吹上村榎戸(現・鴻巣市榎戸)付近です。
中山道が吹上の集落から荒川の堤防に上る手前は、道幅が4~5mくらいで緩やかな曲線を描き、自然に形づくられた道であることを思わせます。
道路に面して住宅が並んでいるものの、さいたま市内に比べれば家屋の密度は低く、道を通る人も車もほとんどありません。
どういう訳か沿道の住宅は、示し合わせたかのように道路ギリギリにブロック塀を建てているので、狭い道路が一層狭くなっています。
住んでいる人には申し訳ありませんが、ブロック塀を取り除くか生垣にしてもらえれば、屋敷内に生い茂る木立と適度な狭さによって中山道時代の雰囲気を再生できそうなところです。



[ 煉瓦の水路(2014年):元荒川から分水 ]


途中には中山道の下を水路が横断し、煉瓦を積み上げて造られた立派な水門の柱が付いている橋があります。
この水路は元荒川に造られた榎戸堰(改修前は煉瓦造り)からの水が流れるようになっているので、この水路も榎戸堰が造られた1903(M6)年前後に造られたはずです。
ここは中山道が交差していたJR高崎線の踏切が廃止され、荒川の堤防も乗用車程度しか通れないので、これからも交通量が増えることはありません。



[ 1912(M45)年1/2.5万地図:今では高崎線の踏切はない ]


・・・・・旧・久下村・・・・・


[ 熊谷市久下付近(2014年):6mほどの道幅 ]


最後は荒川の堤防から下りて熊谷宿へ向かう途中の久下(くげ)付近です。
この辺は道路沿いにある久下小学校の通学路になっているので、『学童注意』の路面標示やグリーンベルトが施され賑やかな路面になっています。
久下小学校は1886(M19)年に開設された歴史ある学校で、1912(M45)年に作られた地図にも記載されています。
街道沿いは人家が連担しているのですが、少し裏にまわれば水田や畑が広がる長閑なところです。
田舎を持っていない人が訪れても、「里帰り」した気分になれるところです。



[ 1912(M45)年1/2.5万地図:小学校の横に村役場がある ]


近年JR高崎線と中山道の間に元荒川通りと呼ばれる立派な道路が造られ、中山道は久下の集落に用事ある人くらいしか通らないので、ここも交通量は多くありません。
荒川を渡る最後の水冠橋だった久下橋が、国道17号から高崎線、元荒川通り、中山道の上空を一気に横断していますが、橋の両脇に造られた側道が中山道沿いに連なっていた久下の集落を分断しています。
吹上と同様に道幅は狭く4~5m程度ですが、道は比較的直線で曲がっていても見通しは良い方です。
ここもブロック塀がはびこっているのが残念です。


■県内初の歩車分離?・・・・・


国道九号の改良が始まった頃の道路構造令では、国道の有効幅員は4間(7.2m)以上とされていましたが、蕨、浦和、大宮工区は15m、熊谷工区でも11mの幅で造られました。
しかも市街地を通る区間には歩道も設けられました。
歩道を設ける必要がない区間でも15mまたは11mの幅が確保され、広い路側があったのです。
国道九号は道路構造令に拠ったのではなく、関東大震災の震災復興事業のために街路構造令をもとに作られた「歩車道幅員標準図」を参考にしたのでしょうか。
蕨、浦和、大宮工区は車道の幅などの横断構成や構造が少しずつ異なるなど、様々な考え方が試行錯誤され形に現れたようですが、都県境から戸田、蕨、浦和、与野、大宮を15m幅の道路で縦貫させたのですから、先を見通した英断がされたのです。
東京では1874(M7)年2月の銀座通りを最初に、関東大震災後の復興事業でも歩道のある街路が造られていましたが、埼玉県内では国道九号が初めて歩行者と車両を分離した道路だったのではないでしょうか。



[ 国道九号:市街地は歩道が設けられた ]


ところが戸田橋の南側、1932(S7)年10月に東京市に編入された東京市板橋区志村で行われた改良事業は、同じ失業救済事業でありながら中央に高速車道12m、その両側に3.5mの緩速車道、さらに外側に3mの歩道が付く、幅員25mの高水準な道路が造られていたのです。
残念ながら、荒川を挟み道路の幅が違うのは今に始まったことではないのです。



[ 昭和11年度直轄工事年報:板橋区の国道九号 速度による通行区分 ]


■おまけ・・・・・


[ 酒蔵 文楽(2010年) ]

上尾市内の中山道沿いにある酒蔵です。
明治27年度創業ですが近年建替えられ、モダンな酒蔵に変身するとともに、飲食スペースを併設し賑わいを作り出そうとしています。
文楽のお酒は、都内の小洒落た居酒屋のお品書きに名を連ねているのを見かけました。





<参考資料>