chapter-099 中川

[ 2017.02 ]

■つぎはぎの川・・・・・



[ 荒川(2016年):北区から川口市を望む ]


何をもって大きな川というかは人によってとらえ方が違うかもしれませんが、埼玉県には結構大きな川が流れています。
長さ、流域面積、流れる水の量など比較できる項目はいくつかありますが、川を眺めて「大きい」と言わせるのは、全体の幅と水が流れている部分の幅でしょう。
群馬県境の利根川、千葉県境の江戸川、県の中央を流れる荒川は、埼玉県民ならば一度は聞いたことがある大きな川です。
その次に大きな川と言えるのは、県の東部を北から南に流れる中川ではないでしょうか。



[ 大正14年度直轄工事年報:権現堂川と庄内古川をつなぐ工事 ]


中川は県東部の平坦な地域を流れている川で、江戸時代以降に行われた利根川東遷などの事業によって、大きく付け替えられた川のひとつです。
東京湾まで80km以上の長さがありますが、昔から中川と呼ばれていたのは都県境付近よりも下流の部分で、その上流が中川と言われるようになったのは、そんなに古い話ではありません。
現在、埼玉県内の中川と呼ばれている川は、上流から「天神堀」「島川」「権現堂川」「庄内古川」「古利根川」が一つの川につなげられて中川と呼ばれるようになったのです。
一つの川につなげた最大の目的は県東部地域の排水改善で、大正8年度の直轄工事年報には次のように書かれています。

<大正八年度直轄工事年報より抜粋>
庄内古川は、従来江戸川右岸地方の諸悪水(排水のこと)を集注する河川であるが、江戸川の改修とともにこれに接する5600余間(約10km)の付替えを要するため、近距離の中川に落とすことで水利上並びに公費節約上得策であると認め、かつその上流権現堂川及びこれに注ぐ諸悪水路の改修を要するので、これらの施設を付帯工事として管理者に代わり国において施行することとする。
これによりこれら諸悪水を合流すべき中川は新たに流量を増加するが、高水位(洪水時の最大水位)を上昇させず、沿岸の排水に悪影響を与えないようにすることを目的とし現流路を浚渫して河積(水の流れる断面)を補充するものとする。



[ 中川:緑=改修前(点線は消滅)、赤=新たに造られた川 ]


一本の川につなげる工事は、明治期に始まった利根川改修工事に付帯する中川改修工事として、1916(T5)年から1929(S4)年にかけて行われ、新しい中川が造られました。
新しい中川が完成して50年ほど経過した昭和52年発行の国土地理院地図1/25000(越谷)には、武蔵野線と交差する付近はまだ古利根川と記載されていました。
意外と歴史の浅い中川を起点から下流にたどってみました。


■昔は天神堀だった区間・・・・・



[ 中川起点(2017年):東京湾まで80km以上ある ]


現在の中川の起点は、東武鉄道羽生駅から1kmほど東側にあり、葛西用水の下をサイフォン形式で交差しています。
『一級河川中川起点』と書かれた石柱と、東京湾に注ぐまでの地図もあります。
葛西用水より上流側にも水は流れ川の形態はあるのですが、河川法の河川としてはここが起点になっています。
まわりは1968(S43)年度から1985(S60)年度にかけて土地区画整理が行われた住宅地で、利根川や荒川の起点のように山奥の緑に囲まれた清流を想像していると、大いに期待が外れます。



[ 加須市内(2017年):真直ぐな区間 ]


旧・天神堀はもともとは農業排水路で、水利組合が管理していました。
並行して流れている手子堀や午の堀が江戸時代初期に掘らているので、天神堀も昔から真直ぐな形で存在していたようです。
起点付近は数メートルの川幅しかなく、河川というよりもまさに農業水路といった方がピッタリです。
羽生市内の大沼工業団地より下流の長い直線区間は、所々に農家が点在していますが、見渡す限り平坦で起伏のない農地が広がっています。
江戸時代以降、多くの人が苦労して用排水を改善した地域ですが、今では耕作していない農地もちらほら見られます。


■昔は島川だった区間・・・・・



[ 旧・島川起点付近(2017年):農業水路から河川へ ]


島川と言われていた区間は、加須市北大桑の道橋(豊野郵便局の南)から権現堂調節池のゲートがあるところ(旧・権現堂川との合流点)までです。
この区間になると、比較的大きなカーブでゆったりと水が流れ、ところどころに小さな中洲もあり川らしい雰囲気が出てきて、農業水路といった感じはなくなります。
それでも堤防はなく土地を掘り下げて造ったシンプルなかたちの川です。



[ 旧125号付近(2017年):排水路との合流点 ]


旧125号との交点までくると、旧・大利根町、旧・栗橋町からの排水路も合流し、中川の幅はさらに広くなります。
川沿いに工業団地や区画整理された住宅地も現れますが、やはり水田が多いことに変わりはありません。
この辺から下流はしっかりとした堤防ができているところが多くなります。
堤防の高さは2~3mで川幅も広く、洪水を防ぐために整備されたことがハッキリとわかります。



[ 狐塚(2017年):中川が大きく膨らんでいるところ ]


旧・栗橋町狐塚付近では左岸側に大きく川が膨らんでいるところがあります。
一部分は公園のように整備され駐車場もあり、ワンドが再生され東屋も置かれた静かな空間が造られています。
この膨らみは川が合流していた名残で、合流していた川は姿を消していますが川だったところに池が残っています。
利根川の流路が固定される以前は、洪水のたびに川の流れる場所が変わっていました。
川の流れが運んできた土砂が少し高い土地を造り、昔の人々はそこに住んでいたので、集落は川に沿うような形でした。


■昔は権現堂川だった区間・・・・・



[ 権現堂調節池(2016年):ダム湖側から水門を望む ]


権現堂調節池のゲートから下流の幸手放水路分岐までの区間は、昔は利根川の支流のひとつだった権現堂川の一部分になります。
旧・権現堂川のうち中川にならなかった部分(利根川と中川に挟まれた部分)は、現在は権現堂調節池になっていて中川との合流点にあるゲートはダムの一部です。
権現堂調節池はダムカードも作られているれっきとしたダム湖で、50mプール(50m×25m×2m)で1645個分に相当する約411.3万立方メートルの貯水容量があり、治水・利水の機能を担っています。



[ 権現堂桜堤(2016年):桜と菜の花が人気 ]


この区間の右岸側には権現堂川時代の堤防が残っていて、大正9年に桜が植樹されて以来、桜堤として有名になっています。
桜が咲く時期には、河川敷の菜ノ花の黄色い絨毯とともに多くの観光客の目を楽しませ、最近は海外からの観光客も見られます。
さらにアジサイや彼岸花も植えられているので初夏、秋にも花を楽しめます。



[ 旧・権現堂川の堤防(2017年):県道のために切り開かれた ]


権現堂川だった区間は川幅も比較的広く、堤防も立派なものが残っています。
県道が堤防を横断する部分は切通しのようになっていて、コンクリートの擁壁で押さえられています。
切り開かれた堤防の断面は、路面からの高さは5~6m、幅は30~40mはある大きさです。
旧・権現堂川堤防の幅が広いところは、ひな壇状に家が立ち並びちょっとした高台の住宅地になっているところもあります。


■昔は庄内古川だった区間・・・・・



[ 新たな開削区間(2017年):旧権現堂堤防を切り開いたところ ]


旧・権現堂川は、現在の幸手放水路の少し北側で江戸川に流れ込んでいましたが、排水を改善するため江戸川との合流点を下流側に移す工事が進められました。
この工事で幸手市宇和田(宇和田公園付近)から杉戸町椿(杉戸町東中学校付近)まで、約6kmの新しい川が開削され庄内古川までつなげられました。
新たに開削された区間は、明治初期の迅速測図を見ると開削される以前にも細い流れがあり両側に集落があるので、昔は川だったことがわかります。
庄内古川は利根川東遷の過程で、会の川締切り(1594年)~江戸川開削(1635~1641年)の間は利根川として水が流れていましたが、江戸川が掘られ利根川になる新川通や赤堀川が開削されると役目を終え、権現堂川から切り離されました。
そして約280年後の大正時代に再び元の姿に戻す工事が行われました。



[ 玉子橋下流(2017年):田んぼの中に土手が続く ]


新たに開削され川の姿を取り戻した区間は、旧・権現堂川だった区間より幅が狭く堤防の高さもありません。
昔の川の流れに沿わせたためかくねくねと曲がり、両側には草に覆われた土手が続くので人工的に造られた感じはしません。
川の改修が進むまでは湿地帯だったこともあり、両岸はほとんどが水田で、のんびりとした穏やかな風景が広がっています。
庄内古川だった区間の川幅も、新たに開削された部分と変わりらず、くねくねと曲がって流れる様子も同じです。
この付近も川を広げる計画があり、橋が架け替えられたところはその部分だけ計画の川幅に拡げられ、将来の川幅を現地でみることができます。



[ 新たな開削区間(2017年):庄内古川と古利根川を結ぶ ]


庄内古川は三郷市長戸呂(大場川下流排水機場付近)で江戸川に合流していましたが、明治期の江戸川拡幅によって、松伏町・野田市に架かる野田橋の下流付近から三郷市長戸呂までの区間は江戸川に取り込まれました。
庄内古川を野田橋付近で江戸川に合流させれば良さそうですが、旧・島川と同様に排水を改善するためには、できるだけ下流で水位の低い川につなげる必要があり、庄内古川を古利根川に結び付ける3.kmの新たな川が開削されました。
この区間は緩やかな曲線を流れ、川幅も均一でいかにも「造られた」感じの川です。
利根川や江戸川に合流する支川の水が流れ込みにくくなったのは、江戸時代の浅間山噴火によって降った火山灰が川底にたまり水位が高くなったためで、火山と水害に思わぬ因果関係があります。



[ 旧・庄内古川(2017年):堤防だけが残っている ]


江戸川に取り込まれなかった旧・庄内古川は、いまだにはっきりと堤防の形が残っているところがあります。
古くからある家は堤防と同じくらいの高さに建てられていますが、新しい家は堤防に比べ低いところに建っているものもあります。
中には、旧河道が宅地として開発されたところもあり、昭和初期まで川だったとは思えない光景に出くわします。


■昔は古利根川だった区間・・・・・



[ 吉川市須賀付近(2012年):蛇行部分を直線化 ]


古利根川に合流すると中川の川幅は広がり、新方川、元荒川が合流するとさらに広い川幅になります。
現在は、右岸側に川を広げる工事が行われ堤防もこれまでよりも高く厚く造られています。
ここまで下ってくると、海の干満が影響する「感潮区間」になりますが、海まではまだ30㎞以上もあります。
平坦な地形を流れるため川の勾配が小さく、海のない埼玉県でも潮の干満を知ることができるのです。
また、利根川や荒川に見られるような中洲や河原はほとんどなく川幅の大半が水面で占められているので、巨大な水路といった迫力があります。



[ 八潮市付近(2010年):新中川橋から ]


中川は別の川につなげる工事のほかに、蛇行していた川筋を直線化する工事が行われ、市の区域が新しい河川で分断されたところがいくつかあります。
吉川市の須賀地区、八潮市の大瀬・古新田地区は新しく掘られた中川で分断され、飛び地のようになってしまいました。


■昔から中川だった区間・・・・・



[ 国道6号中川大橋から下流(2012年):川幅いっぱいに水が流れる ]


八潮市内の蛇行を直線化したところ(潮止橋付近)から、川幅が狭くなり幅いっぱいに水が流れるようになります。
昔から中川といわれた区間は、周りが急速に市街化したため明治期の頃から拡げられることなく現在の姿になったようです。
中川を拡げることが難しいので、京成本線が横断する葛飾区青砥から下流は、荒川と江戸川のほぼ中間に放水路が掘られ、「新中川」が誕生しました。
新中川が完成したのは、東京オリンピック前年の1963(S38)年です。



[ 葛飾区立石付近(2014年):スカイツリーからみた中川 ]


中川の本川は荒川放水路(現在の荒川)が造られたため分断され、葛飾区西新小岩で直角に曲げられて荒川と並行するように付け替えられました。
埼玉方面から東京ディズニーリゾートに行くときに首都高中央環状線のかつしかハープ橋を渡ると、荒川と中川に挟まれた堤防の上を走ることになり、右にも左にも川のある風景が見えます。
かつしかハープ橋の下にある水門は、高潮による逆流を防ぐためのもので伊勢湾台風クラスの高潮にも耐えられるものです。



[ ハープ橋の下(2017年):綾瀬川と合流し荒川と並行して流れる ]


荒川と並行して流れる区間は、ひたすら水を下流に流すだけの超巨大水路です。
中川の堤防というよりは荒川の堤防でもあるので、コンクリートで覆われた姿は宅地側から見ると壁のようです。


■昔は中川だった区間・・・・・



[ 墨田区立花付近(2017年):ボート遊びもできる ]


荒川放水路(現在の荒川)で分断された中川の下流部分は、広くてきれいな水辺公園に整備されうらやましい限りですが、この辺は地下水のくみ上げにより最も地盤沈下が進行した地域で、明治以降4m以上も沈下しました。
何もしなければ、旧中川は常に水位が高く堤防いっぱいまで水が満ち、周辺からの排水が流下できない状態でした。
このため、地盤が沈下した土地に水が流れ込まないように、外周の荒川など堤防は高潮に備え高くし、旧中川の水は排水機場では常時ポンプ排水して外周の河川よりも水位を下げているのです。
地盤沈下したところを取り囲む堤防や水門が壊れると水面下に沈んでしまいます。



[ 平井橋付近(2017年):水位を下げる前は橋脚の両側を船が通行 ]


中川は、上流端から下流端まで、江戸時代から現在まで、人の手が加えられ続け膨大なお金とエネルギーをつぎ込むことで現在の姿を保っているのです。
先人が一生懸命に造り上げてきた川です。
きれいに使わないとバチが当たります。ゴミを捨てるなどもってのほかです。


■おまけ・・・・・


[ いがまんじゅう(2018年) ]

あんこの入ったまんじゅうを赤飯がおおう、一見すると赤飯のおにぎりのように見えるまんじゅうです。
赤飯が栗のいがのようなのでこの名がついているようです。
お祝い事で出される赤飯とまんじゅうを一つにした超おめでたい食べ物です。
お店によって赤飯の付け方など微妙な違いがあります。





<参考資料>