chapter-112 もう一つの『時の鐘』

[2018.10~]

■有名な『時の鐘』



[川越の『時の鐘』(2015年):時の鐘入口交差点から]


埼玉県で「時の鐘」と言えば、川越を思い浮かべる方が多いのではないでしょうか。
川越は蔵造りの街並みが知られるようになると、小江戸情緒漂う『時の鐘』は観光地川越のシンボルの一つとして多くの人々が訪れるようになりました。
川越に『時の鐘』が造られたのは1600年代の前半が最初だそうで、現在の鐘楼は1893(M26)年の川越大火の翌年に再建されたものです。
蔵造りの街並みが残る一番街を歩き中ほどまで来ると、『時の鐘入り口』交差点から『時の鐘』の屋根と釣り下げられている鐘が見えてきます。



[川越市立博物館(2007年)]


川越の『時の鐘』は、木造3層(3重4階)で高さは16mしかありませんが、再建された当時は鐘の位置から市街全域が見渡せました。
昔は人間が鐘楼に登って鐘を鳴らしていましたが、現在は機械仕掛けになっていて1日に4回鐘の音を響かせています。
2017(H29)年1月には「時の鐘耐震化工事」が完了し、耐震補強にあわせて57年ぶりに屋根のふき替えなどの改修も行われました。
川越の『時の鐘』は、川越市のシンボルとして大切にされています。



[川越の『時の鐘』(2015年):観光客がいっぱい]


江戸時代の時刻は1日を12分割し、その長さを「一刻(いっとき)」と言うので、現在の24時間制に対応させると一刻=2時間だと思われています。
しかし、1日24時間を12等分したのではなく、夜明け(日の出の30分ほど前)と日暮れ(日の入りの30分ほど後)を基準にして昼間と夜間をそれぞれ6等分していたのです。
2018(H30)年の暦(さいたま市)を見ると
 夏至(6月21日) 日の出4:25~日の入り19:01 ⇒ 昼間 30分+14時間36分+30分=15時間36分
 冬至(12月21日)日の出6:48~日の入り16:32 ⇒ 昼間 30分+9時間44分+30分=10時間44分
これをもとにすると江戸時代の昼間の一刻は、夏至の頃はおよそ2時間40分ですが冬至の頃は1時間50分しかありません。
夏と冬で一刻の長さが50分も違っていたのです。


■知られていない『時の鐘』・・・・・



[石町の時の鐘(2015年):江戸で最初の時の鐘]


川越が有名になると「時の鐘」は川越固有の建造物のように思われがちですが、庶民が時計を持たない江戸時代は全国の津々浦々に「時の鐘」があり、川越のような鐘楼を持つ「時の鐘」もありました。
江戸の町は広かったので、「時の鐘」が10か所ほどあったそうですが、そのほかの都市の「時の鐘」は一つだけだったそうです。
埼玉県には、川越のほかに合併してさいたま市になってしまった旧・岩槻市にも『時の鐘』が残されています。



[岩槻の『時の鐘』(2018年):周りは普通の住宅]


旧・岩槻市は、観光地と化した川越に比べると地味な街ですが、川越と同様に城下町でした。
関ヶ原の戦いの後、埼玉県域には川越、忍、岩槻の3城が残され、川越藩は8家21代、忍藩は4家16代、岩槻藩は9家24代にわたり親藩・譜代大名が封ぜられました。
藩主は幕府の要職を務め260年にわたる太平の世を実現する立役者となり、3つの城の周りには城下町が形成されました。
岩槻城は、城壁や石垣はありませんが岩槻城址公園内に土塁や空掘りが残っており、城があったことを物語っています。
空堀の一部は遊歩道になっていて、ぐるりと歩けるようになっていますが、野球場や道路により所々が分断されているのが残念です。
堀の中の空気はひんやりとしていて、夏でも周りより少しは涼しいのですが、蚊に刺されることもあるのでご注意を。



[時の鐘:町人地と武家地の境にある]


岩槻の『時の鐘』も川越と同様にお城から少し離れたところ、岩槻城の大手門を出て100mほど先の町屋と武家地の境付近にありました。
岩槻城は沼地が本丸、二の丸、三の丸を取り囲み城を守っていました。
明治維新後、廃城になると沼地は埋め立てられて水田になりましたが、現在は北側には格子状の道路が造られ住宅が建ち並び、南側は岩槻城址公園の広場やグラウンドになっています。
江戸時代の日光御成街道だった道は、駅前付近などは幅16mに拡げられたので街道らしい古くからの建物は見当たりません。



[岩槻の『時の鐘』(2018年):観光客はいません]


岩槻の『時の鐘』は川越の時の鐘より背が低く住宅に囲まれているので、見に行くためには地図が必需品です。
鐘楼は周りより2mほど高い基壇の上に建てられ、鐘楼の回りを歩いて回れるようになっていますが、見えるのは鐘楼の板張りと隣の家のベランダです。
鐘楼の板張は壊れて穴が開き、図らずも内部の構造が見えるところもありました。
岩槻の『時の鐘』の鐘は1720年に改鋳され、鐘楼は1853年に改築された建造物で、明治に再建された川越の『時の鐘』よりも古いのですが、大切に扱われているようには思えません。



[通りの愛称(2011年):武家屋敷の面影はありません]


岩槻城下の武家屋敷があった武家地の道には○○小路と名がつけられていました。
小路は現在でも昔とほぼ同じ配置が残り、昔の呼び名を示した案内がところどころにありますが、道沿いの建物はすべて新しくなり昔の面影はありません。
川越も城下町時代の建物はほとんどありませんが、明治の大火後に造られた蔵造りが残っていました。
NHK大河ドラマ『春日局』のゆかりの地として紹介されたことも手伝って、今日のように知られるようになりました。
川越は明治の禍が平成になり福に転じた感じです。



[[川越市入込観光客数の推移]


■人形のまち岩槻・・・・・



[埼玉スタジアム2002(2017年):6万人を収容]


さいたま市内には、サッカー専用の『埼玉スタジアム2002』やコンサート、スポーツイベント、見本市等に利用される多目的ホール『さいたまスーパーアリーナ』があり、大宮駅は新幹線をはじめ多くの路線が乗り入れる便利な駅です。
このため、いわゆる観光地としてよりもこれらの会場で行われるイベント目的の来訪者が多く、さいたま市は『観光振興ビジョン』の基本方針1に、「さいたま市の特色を生かしたスポーツ観光やMICE等の推進」を掲げています。
 (MICE:Meeting・Incentive Travel・Convention・Exhibition/Event)
一方、城下町岩槻に関するものは基本方針4に「埋もれている・磨けば光る観光資源の魅力の向上」の中で、「(仮称)岩槻人形会館を活用した魅力づくり」が掲げられています。
岩槻は日本有数の人形の生産地なのです。



[人形のまち(2018年):駅前に並ぶ人形店]


さいたま市は、人形文化に親しむ機会を提供し文化振興に寄与することや観光振興を目的に『(仮称)岩槻人形会館』建設のため、2010(H22)年5月に岩槻城址公園の隣に8,900㎡の土地を購入し、翌年度から着工の予定でした。
ところが、2011(H23)年3月に起きた東日本大震災の影響や採算性などに加え、地元岩槻地区の団体から要望が出されたのです。
  ①人形会館建設に伴う賑わいの創出はまちづくりのビジョンと関連付けること
  ②城下町岩槻を加味した歴史・文化機能を加えること
  ③機能にふさわしい名称に変更すること
  ④要望を踏まえ延期も視野に入れ推進すること
さいたま市は2011(H23)年12月に、再検討のため2年程度をかけその後に着工することとしたのです。
また、ほぼ同じ頃の2010(H22)年3月に岩槻駅前再開発ビルからキーテナントが撤退したのです。
大金をかけて造った駅前の再開発ビルが空き家ではもったいないので、2012(H24)年1月に岩槻区役所が再開発ビルに移転し、区役所の建物(旧・岩槻市役所)があった土地約14,700㎡が空地になりました。



[さいたま市岩槻人形博物館(2024年)


人形会館は地元調整・市議会合意が難航し着工はさらに遅れ(市町村合併の後遺症?)、建設地も城址公園隣の予定地から旧区役所跡地のうちの約9,000㎡に変更されました。2017(H29)年11月19日に『岩槻人形博物館』としてようやく起工式に漕ぎ着け、2020年2月22日に開館しました。
建設用地として購入しあった城址公園隣の土地は、関連事業用地として体験工房や研修などの普及機能が考えられています。
このほかに『岩槻人形博物館 基本計画』の最後に「観光資源として岩槻城を復元し、城下町の歴史を後世に伝えて欲しいという地元からの要望があることから、歴史的な背景を念頭に置きながら、歴史資源や観光資源としてまちづくりの中でどのように活用していくことができるのか検討する必要があります。」と書かれています。
ひょっとしたら復興天守が造られるかもしれませんが、本格的な検討はこれからのようです。



[岩槻城址公園と当初の建設予定地(2018年)]


当初の建設予定地は、埋蔵文化財の調査も終わり草原のようになっていますが、国の補助金を受けて購入しているので、補助金の目的以外には使えないそうです。
復興天守が立つ可能性はあるのでしょうか?


■埋もれている観光資源・・・・・



[裏小路公園(2018年):旧岩槻町長の邸宅跡]


岩槻の『時の鐘』は、人形博物館が建設される旧区役所跡地から城址公園隣にある関連事業用地へ向かう途中にあります。
徒歩で動くと人形博物館のついでに『時の鐘』まで足を延ばせそうな距離にあります。
  岩槻駅 ←(10分)→ 人形博物館 ←(4分)→ 時の鐘 ←(10分)→ 関連事業用地
さらに関連事業用地につくられるものが、来訪者の心をくすぐるようなものになれば、岩槻の『時の鐘』への来訪者はさらに増えそうです。
浦和市・与野市・大宮市が合併して誕生したさいたま市に吸収合併された岩槻市ですが、そろそろ合併前の市域にとらわれた怨念から解放され、関連事業用地に素晴らしい施設ができることを期待しています。



[遷喬館(2018年):岩槻藩の藩校]


岩槻の街中は、川越のように”絵”になる建物がまとまっているところはありませんが、それでも探すとちらほら目につきます。
岩槻藩の藩校として使われていた茅葺の『遷喬館』、大正期に旧中井銀行岩槻支店として建てられた『東玉大正館』、1930(S5)年に警察署として建てられたアールデコ調の『岩槻郷土資料館』などあります。



[願生寺(2010年)]


[願生寺(2017年)]


残念なことに失われてしまった歴史資源もあります。
岩槻駅と旧区役所跡地のほぼ中間にあった『願生寺』が、きれいに建替えられてしまったのです。
建て替え前は、寄棟の茅葺ぶき屋根を持つ江戸時代中期の本堂が、新しい建物が多い街中にあって趣のある佇まいを見せていました。
檀家の皆様には申し訳ありませんが、今の建物はどこにでもありそうですが、以前の建物は街中では中々お目にかかれないので、見てみたいと思う人は多かったと思います。



■おまけ・・・・・


[豆腐ラーメン(2012年)]

岩槻城址公園にある市民会館の食堂「大手門」のメニューの一つ。
県内のB級グルメ大会で優勝したことで一躍有名になり、お客さんも激増しました。
食堂のまかないから出世したそうです。
簡単に言えばただの醤油ラーメンに麻婆豆腐がのっているのですが、そのシンプルさが受けています。
値段も500円とB級グルメにふさわしいワンコイン価格でした。





<参考資料>