chapter-115 元狭山村

[2018.02]

■狭山茶の産地


「やぶ北茶」を主に生産する静岡県が生産量第1位で全国的に有名ですが、関東では「狭山茶」の産地として埼玉県も割と知られています。
県内の茶の作付面積を見ると、その名の通り狭山市が一番多いのかと思いますが、実は入間市が251ヘクタールと最大の栽培地で、次が所沢市の116ヘクタール、狭山市は56ヘクタールで3位です。
入間市役所の敷地にはお茶の木が植えられ、入間市が狭山茶の最大の産地であることを懸命にPRしています。



[入間市役所(2010年)]


入間市と狭山市にはこのほかにも紛らわしいことがあります。
狭山市の中心的な駅は西武新宿線の「狭山市駅」ですが、1979(S54)年3月24日までは「入間川駅」という名前で狭山市にある駅とは思えませんでした。
また狭山市には入間野小学校、入間野中学校という市立の学校があります。
反対に、入間市内にも「狭山」のつく施設や地名があります。
入間市の南西部には入間市立「狭山小学校」という学校があり、「狭山台」や「狭山ヶ原」といった地名もあります。
(「狭山ヶ丘」という駅や地名は所沢市内にあり、さらに紛らわしい。)



[航空自衛隊入間基地(2010年):正門は入間市]


紛らわしいことが多くある入間市と狭山市ですが、両市にまたがって航空自衛隊入間基地があります。
入間市よりも狭山市にかかる面積の方が多く、入間基地のホームページには「所在地:狭山市稲荷町2丁目3番」と書かれていますが“入間”基地なのです。
入間基地は戦後まもなく米軍が使用していた時はジョンソン基地と呼ばれていました。
部隊が横田基地へ移転し航空自衛隊の基地となった1958(S33)年8月に、入間市はまだ前身の武蔵町でしたが狭山市はすでに存在していたにもかかわらず、航空自衛隊入間基地という名称で発足しました。
発足時の所在地名を基地名に冠するならば、”狭山基地”か”武蔵基地”が自然です。



[入間基地(2010年):陸軍士官学校を復元した新修武台記念館]


■昭和の大合併・・・・・


入間市も狭山市も昭和の市町村合併によって誕生した市です。
戦後、新制中学校の設置管理、市町村消防、社会福祉、保健衛生関係の新しい事務が市町村の事務とされ、行政事務の能率的処理のため合併が進められました。
1953(S28)年10月施行の町村合併促進法では、町村の規模はおおむね8,000人以上を標準とし、町村数を1/3に減らすとことを目標に市町村合併が進められました。
住民8,000人は、新制中学校1校を効率的に設置管理するために必要と考えられた人口です。



[2018年の行政区域]


1953(S28)年10月法施行時の市町村数は、全国に9,868、埼玉県には323ありましたが、新市町村建設促進法一部失効の1961(S36)年6月には、全国3,472、埼玉県95とほぼ1/3にまで減少しました。
埼玉県は町村合併促進審議会が中心となって合併の促進を図り、1954(S29)年2月に全県の合併試案を作成公表しました。
この試案が導火線となって合併は進み始めましたが、試案通りの合併は少数派で、分離して他の隣接市町村に編入を希望する町村、いずれに合併するかで激しく内部対立する町村など、さまざまな思惑が表面化しました。
なかには集団的な納税拒否、通学拒否さらには暴力行為に至る事態も発生しました。



[1956(S31)年の元狭山村役場付近:白い直線は国道16号]
(国土地理院空中写真 USA-M318-237 一部切り抜き)


また県南部では、東京都内は道路整備の状況などから生活面が向上するイメージがあり、東京都への編入希望が各地で聞かれるようになりました。
具体的に表面化したのは、入間郡元狭山村(現:入間市・東京都瑞穂町)、北葛飾郡東和村(現:三郷市)、北足立郡片山村(現:新座市)の3件でした。
これに対し県は、これらの村は当時純農村だったため、県内町村と合併して農業県である埼玉県にとどまるほうが村民の福祉向上のため望ましいと説得し、また東京都の冷たい対応もあり東和村と片山村は埼玉県にとどまることになりました。


■合併試案と現実・・・・・


  
[昭和29年2月の合併試案と昭和35年1月1日の状況]


入間市と狭山市は合併促進審議会が発表した試案とは大きく異なった形で合併が進みました。
合併試案は、ほぼ現在の入間市と狭山市をひとつにまとめようとするもので、実現すれば人口5万人を超える市が誕生する案でした。
ところが合併試案で示された区域内の町村のうち、北側の1町5村が1954(S29)年7月1日に早々と合併し狭山市が誕生したのです。
試案が示されてからわずか5ヶ月後という、現在では考えられない速さで合併に至っています。
狭山市に包含された町村には「入間川町」や「入間村」があり、入間市には「元狭山村」の一部が含まれ、今日の狭山市と入間市の紛らわしさの原因になっているようです。



[入間市誕生までの変遷]


残された町村のうちのひとつ元狭山村は、1954(S29)年5月4日に東京都西多摩郡瑞穂町に合併を申し入れた結果、両町村の意見が一致し、元狭山村議会は9月13日に県の合併試案を否決、東京都の瑞穂町と合併することについて全会一致で議決し、翌1955(S30)年5月27日に内閣総理大臣あての合併申請書を県に提出したのです。
埼玉県は、元狭山村は純農村であり県の農林施策に浴することが将来のために望ましい、また東京都に隣接する町村の合併に悪影響を及ぼす、との見解のもと都への編入は不適当と認め、昭和30年9月議会において県として合併申請しない旨の議決を得て反対の立場をとったのです。
一方、東京都議会は全会一致で合併を妥当であると議決し、6月1日に合併処分申請書を自治庁長官に送付したのです。



[瑞穂町元狭山村合併貫徹町村民総決起大会の様子]


埼玉県は元狭山村と瑞穂町の合併を阻むため「元狭山村問題対策協議会」を設置し、全県をあげて反対運動に動き出しますが、東京都側は「埼玉県側のあくなき政治的妨害」と捉えられていました。
埼玉県としては、東京都へ合併を望む町村が五月雨式に増え県域が縮小することは避けねばならず、自治庁からの働きかけに対しても絶対反対の態度を示していました。


■元狭山村の分割・・・・・



[県道所沢青梅線(2013年):左が東京都瑞穂町、右が埼玉県入間市]


1958(S33)年3月25日に、国の新市町村建設促進中央審議会は瑞穂町と元狭山村の合併を妥当と認める旨を内閣総理大臣に答申しましたが、自治庁は期限が切迫しているとして、新市町村建設促進法の一部改正し期限を9月30日まで6か月延長したのです。
これは衆議院議員選挙が5月に行われることも配慮しての措置といわれています。
選挙が終わり、政府は1958(S33)年9月25日に処理方針を決定し、30日に告示しました。
その内容は、元狭山村を分割し、県道青梅所沢線以北を武蔵町に編入し、残りを東京都瑞穂町に編入するものでした。
村を分割しての合併処理方針は、福井県石徹白村と岐阜県白鳥町、長野県神坂村と岐阜県中津川市において先例があり、法の期限も迫っているため関係する都・県、町・村は案を受け入れざるを得ない状況でした。

埼玉県入間郡元狭山村と東京都西多摩郡瑞穂町の合併に関する処理方針
(自治庁 昭和33年9月25日決定)
 埼玉県入間郡元狭山村及び東京都西多摩郡瑞穂町から申請のあった両町村の合併については、昭和33年3月25日、新市町村建設促進中央審議会から、これを行うことが必要である旨の答申があったところであるが、首都圏整備を今後円滑に推進すべき両都県の特別の関係等各般の事情を総合的に検討した結果、関係町村の意見を調整し、次の方針により、これを処理することとする。
一 埼玉県入間郡元狭山村のうち次の区域は入間郡武蔵町に編入するものとする。
   (一)大字狭山台 (二)第四区 (三)第三区 (四)第二区 (五)第十区のうち県道青梅所沢線以北の区域
二 元狭山村を廃し、その区域を東京都西多摩郡瑞穂町に編入するものとする。
三 第一項の境界変更の処分及び前項の町村合併の処分は、いずれも昭和33年10月1日から同時にその効力を生じるよう所要の措置を講ずるものとする。



[元狭山神社(2013年):元狭山村の名残]


1958(S33)年10月14日に元狭山村は分割され、元狭山村の面積の1/3と人口1,238人が武蔵町へ編入され、翌15日に面積の2/3と人口2,123人が東京都瑞穂町に編入されました。
元狭山村のなかで最も瑞穂町との合併に熱心だった二区と三区は埼玉県側に残留となり、しこりを後に残すことになりました。
元狭山村分割前の10月10日に、武蔵町の町長と助役が元狭山村を訪れると、瑞穂町との合併推進派約600人に暴行・監禁される事件が発生し逮捕者もでました。
新聞紙上には『元狭山村問題 合併紛争でついに流血さわぎ』と報道された次第です。
後味の悪い合併で、その後も税の滞納、越境通学、国勢調査ボイコットなど武蔵町の行政への非協力が続きました。
東京都瑞穂町には、いまでも「元狭山神社」「元狭山駐在所」などに元狭山村の名残があります。



[瑞穂町の旧・元狭山村(2010年):茶畑が広がる]


■越境合併の背景・・・・・


当時、東京都に接する町村や都県境近くの住民が東京都への編入合併を希望し、埼玉県にとっては沽券にかかわる大問題でしたが、東京都が熱意を示さず実現には至りませんでした。
そのような中で、元狭山村が部分的にでも東京都に編入合併できたのは、瑞穂町側にもそれなりの事情があったからです。
瑞穂町は、1955(S30)年5月に米軍から調達庁(後の防衛施設庁)を通じて、横田基地の拡張のため15万坪に及ぶ農地買収を申し込まれていました(この後、横田基地は3350mの滑走路を持つ基地になります)。
瑞穂町はこれまでも町の1/4が横田基地と東京都の水源用地として買収されており、新たな農地買収は耕作者にとって死活問題でした。
瑞穂町は基地に買収される農地の代替地を元狭山村に求めようと早急な合併を望み、東京都もこの事情を踏まえ、瑞穂町と元狭山村の合併を推進したのです。
調達庁は瑞穂町から出された合併への協力要請について確約し、合併支援側に立っていました。



[狭山湖(山口貯水池) (2010年):東京都の水源用地]


ジェット化に対応するため拡張された横田基地にジョンソン基地(現・入間基地)の飛行部隊が移転し、入間市は米軍機の騒音公害から救われましたが、合併騒動で元狭山村の2/3を失うことになりました。
もしも、横田基地ではなくジョンソン基地が拡張されていたら、元狭山村は入間市に含まれていたかもしれません(騒音問題とともに)。
元狭山村の2/3が東京都に編入されて半世紀以上が経ちましたが、編入された地域にはどんな良い事があったのでしょうか?
瑞穂町二本木には昭和初期に建設された旧元狭山村役場が復元され、「元狭山ふるさと思い出館」という名称で多目的施設として使われています。
館内には元狭山村の分割合併に至る年表が掲げられています。



[元狭山ふるさと思い出館(2013年)]


元狭山村には瑞穂町との合併に反対する住民もいましたが、騒動の始まりから終わりまで賛成派が圧倒的に多数を占めていました。
村長も村議会議員も全員が合併に賛成でしたが、絶対反対を唱える埼玉県のために妥協策として元狭山村は分割され、合併に賛成する村民が埼玉県内に取り残されました。
また、合併して武蔵町となった宮寺村と金子村は元狭山村との関係が強く、東京都への編入意向が強い住民もいました。
しかし、宮寺村と金子村は、将来元狭山村を両村との合併に参画させるという県の甘言を信じ、有利な財政援助や特例を受けられる期限内に合併が行われ、武蔵町が誕生したのです。
当時の栗原県知事は議会での質問に対し、住民と県議会の意思が異なっていても「地方自治法に基づき、住民の意思は議会が決定するという議会主義の精神によって、町村の境界の変更はなされるものと考える」と答えています。


■おまけ・・・・・


[ジョンソンタウン]

入間基地近くの東町には、米軍が駐留していた頃を懐かしむかのように、「ジョンソン・タウン」と名付けられた一角があります。
米軍家族が使っていた住宅を補修して住めるようにし、さらにそれを真似た建物を新しく建て加えた街で、住宅のほかに店舗も入っています。
白い壁の平屋住宅が並び、塀や垣根のない光景は一見アメリカ的ですが、商業ベースに乗せるため建物と建物の間隔が狭く、本当の米軍住宅にあったゆとりは感じられません。





<参考資料>