首都圏では東京を取り囲むように三環状道路の整備が進められています。三環状道路とは、首都高速中央環状線(中央環状線)、東京外かく環状道路(外環)、首都圏中央連絡自動車道(圏央道)のことで、埼玉県を通る外環、圏央道の県内部分はすでに開通し暮らしに欠かせない道路となっています。
三環状道路のもっとも外側を走る圏央道は、市街地を避けて田畑や雑木林を縫うように通り、インターチェンジ周辺には工場、物流施設の進出が進んでいます。入間市にも圏央道の入間ICがあり、高架の長い道路で国道16号に接続しています。入間ICの近くには三井アウトレットモール、コストコなどの大規模商業施設があり、駐車場待ちの渋滞が酷いときは料金所付近まで混雑することもありました。
[ 入間市役所(2024年) ]
このような大規模商業施設があることで”入間市”を耳にすることもありますが、入間市は「色は静岡、香りは宇治、味は狭山でとどめさす」とうたわれる狭山茶の産地として一目置かれています。
狭山茶という名前なので茶の作付面積は狭山市が埼玉県内で一番多いのかと思いますが、実は入間市が251ヘクタールと最大の栽培地で、次が所沢市の116ヘクタール、狭山市は56ヘクタールで3位です。入間市役所の敷地にはお茶の木が植えられ、入間市が狭山茶の最大の産地であることを懸命にPRしています。
圏央道の北側を通る「茶どころ通り」の両側は手入れされた茶畑が広がり、近くには埼玉県茶業研究所という研究機関もあります。このあたり一帯は、入間市が狭山茶の産地であることを目で見みて感じることができます。茶畑には扇風機が立っていますが、暑さ対策ではなく霜よけのためにあるそうです。
[ お茶テラスと茶畑(2024年) ]
「入間」と「狭山」はお茶以外でも紛らわしいことがあります。
入間市には入間市立「狭山小学校」があり、「狭山台」や「狭山ヶ原」といった地名もあります。狭山市には入間野小学校、入間野中学校という狭山市立の学校があります。
紛らわしいことが多くある入間市と狭山市ですが、両市にまたがって航空自衛隊入間基地があります。入間市よりも狭山市にかかる面積の方が多く、入間基地のホームページには「所在地:埼玉県狭山市稲荷山2丁目3番地」と書かれていますが“入間”基地なのです。
入間基地は戦後に米軍が使用していた時はジョンソン基地と呼ばれていました。米軍が横田基地へ移転し航空自衛隊の基地となった1958(S33)年8月は、入間市はまだ前身の武蔵町でしたが狭山市はすでに存在していたにもかかわらず、航空自衛隊入間基地という名称で発足しました。入間郡からとった名称なのでしょうか?
[ 航空自衛隊入間基地(2024年) ]
入間市も狭山市も昭和の市町村合併によって誕生した市です。
戦後になり、新制中学校の設置管理、市町村消防、社会福祉、保健衛生関係の新しい事務が市町村の事務とされ、行政事務の能率的処理のため合併が進められました。
1953(S28)年10月施行の町村合併促進法では、町村の規模はおおむね8,000人以上を標準とし、町村数を1/3に減らすとことを目標に市町村合併が進められました。住民8,000人は、新制中学校1校を効率的に設置管理するために必要と考えられた人口です。これが「昭和の大合併」といわれる市町村の再編です。
[ 現在の市町村境 : 2024年の地理院地図 ]
1953(S28)年10月法施行時の市町村数は、全国に9,868、埼玉県には323ありましたが、新市町村建設促進法一部失効の1961(S36)年6月末には、全国3,472、埼玉県95とほぼ1/3にまで減少しました。
埼玉県は町村合併促進審議会が中心となって合併の促進を図り、1954(S29)年2月に全県の合併試案を作成公表しました。この試案が導火線となって合併は進み始めましたが、試案通りの合併は少数派で、分離して他の隣接市町村に編入を希望する地区、どの市町村と合併するかで激しく内部対立する町村など、さまざまな思惑が表面化しました。なかには集団的な納税拒否、通学拒否さらには暴力行為に至る事態も発生しました。
このような状況で、1956(S31)年6月には新市町村建設促進法が公布施行されました。
[ 1956(S31)年の元狭山村役場付近:白い直線は国道16号 ]
(国土地理院空中写真 USA-M318-237 一部切り抜き)
県南部では、東京都内の道路の整備状況などから生活面が向上するイメージがあり、また単に”都民”という魅力に惹かれ、東京都への編入希望が各地で聞かれるようになりました。具体的に表面化したのは、入間郡元狭山村(現:入間市・東京都瑞穂町)、北葛飾郡東和村(現:三郷市)の一部、北足立郡片山村(現:新座市)の一部の3件でした。
これに対し県は、これらの村は当時純農村だったため、県内町村と合併して農業県である埼玉県にとどまるほうが村民の福祉向上のため望ましいと説得し、また東京都の冷たい対応もあり東和村と片山村はそのまま埼玉県にとどまることになりました。
[ S29.2の合併試案とS351.1の状況 赤:武蔵町(現・入間市) 青:狭山市 ]
入間市と狭山市の誕生は、町村合併促進審議会が発表した試案とは大きく異なった形で合併が進みました。
合併試案は、ほぼ現在の入間市と狭山市をひとつにまとめようとするもので、実現すれば人口5万人を超える市が誕生する案でした。しかし、区域内北側の1町5村(柏原・奥富・水富・入間川・堀兼・入間)が1954(S29)年7月1日に早々と合併し狭山市が誕生したのです。試案が示されてからわずか5ヶ月後という、現在では考えられない速さで合併に至っています。
狭山市に包含された町村には「入間川町」や「入間村」があり、入間市には「元狭山村」の一部が含まれ、今日の狭山市と入間市の紛らわしさの原因になっているようです。
[ 入間市誕生までの変遷 ]
その後、豊岡町・金子村・藤沢村・宮寺村に西武町の一部が合併し、入間市の基礎となる武蔵町が誕生します。取り残された町村のうち元狭山村は、埼玉県の説得に応じず東京都の瑞穂町との合併を考えていました。1954(S29)年4月に東京都西多摩郡瑞穂町に合併を申し入れたところ、瑞穂町は合併するとの回答を同年8月にしました。両町村の意見が一致しそれぞれの議会で全会一致の議決を経て、翌1955(S30)年5月27日に内閣総理大臣あての合併申請書を都及び県に提出したのです。
この合併申請書に対し埼玉県は、元狭山村は純農村であり県の農林施策に浴することが将来のために望ましい、また東京都に隣接する他の町村の合併に悪影響を及ぼす、との見解のもと都への編入は不適当と認め、昭和30年9月県議会において合併申請しない旨の議決を得て、反対の立場をとったのです。
一方、東京都議会は全会一致で合併を妥当であると議決し、6月1日に合併処分申請書を自治庁長官に送付しました。
[ 瑞穂町元狭山村合併貫徹町村民総決起大会 ]
埼玉県は元狭山村と瑞穂町の合併を阻むため「元狭山村問題対策協議会」を設置し、全県をあげて反対運動に動き出しますが、東京都側は「埼玉県側のあくなき政治的妨害」と捉えられていました。
埼玉県としては、東京都へ合併を望む町村が五月雨式に増え県域が縮小することは避けねばならず、自治庁からの働きかけに対しても絶対反対の態度を示していました。
元狭山村と瑞穂町は合併を実現させるため、自治庁や都庁への陳情・要望を繰り返していきます。
[ 都内の所沢青梅線(2024年):都による整備区間 ]
1958(S33)年3月25日に国の新市町村建設促進中央審議会は、瑞穂町と元狭山村の合併を妥当と認める旨を内閣総理大臣に答申しましたが、自治庁は期限が切迫しているとして、新市町村建設促進法の一部改正し期限を9月30日まで6か月延長したのです。
これは衆議院議員選挙が5月に行われることも配慮しての措置といわれています。
両町村は、延長された期間に合併実現に向け総決起大会を開催し、自治庁長官に決議を手交しするとともに、議会の決議も提出するなど、合併に向け全力投球です。
選挙が終わり、政府は1958(S33)年9月25日に処理方針を決定し、30日に告示しました。その内容は、元狭山村を分割し、県道青梅所沢線以北を武蔵町に編入し、残りを東京都瑞穂町に編入するものでした。
村を分割しての合併処理方針は、福井県石徹白村と岐阜県白鳥町、長野県神坂村と岐阜県中津川市において先例があり、法の期限も迫っているため関係する都・県、町・村は案を受け入れざるを得ない状況でした。
[ 県道所沢青梅線(2024年):左が瑞穂町、右が入間市 ]
『埼玉県入間郡元狭山村と東京都西多摩郡瑞穂町の合併に関する処理方針 (自治庁 昭和33年9月25日決定)』
埼玉県入間郡元狭山村及び東京都西多摩郡瑞穂町から申請のあった両町村の合併については、昭和33年3月25日、新市町村建設促進中央審議会から、これを行うことが必要である旨の答申があったところであるが、首都圏整備を今後円滑に推進すべき両都県の特別の関係等各般の事情を総合的に検討した結果、関係町村の意見を調整し、次の方針により、これを処理することとする。
一 埼玉県入間郡元狭山村のうち次の区域は入間郡武蔵町に編入するものとする。
(一)大字狭山台 (二)第四区 (三)第三区 (四)第二区 (五)第十区のうち県道青梅所沢線以北の区域
二 元狭山村を廃し、その区域を東京都西多摩郡瑞穂町に編入するものとする。
三 第一項の境界変更の処分及び前項の町村合併の処分は、いずれも昭和33年10月1日から同時にその効力を生じるよう所要の措置を講ずるものとする。
[ 瑞穂町の旧・元狭山村(2013年):茶畑が広がる ]
1958(S33)年10月14日に元狭山村は分割され、元狭山村の面積の1/3と人口1,238人が武蔵町へ編入され、翌15日に面積の2/3と人口2,123人が東京都瑞穂町に編入されました。
元狭山村のなかで最も瑞穂町との合併に熱心だった二区と三区は埼玉県側に残留となり、しこりを後に残すことになりました。元狭山村分割前の10月10日に、武蔵町の町長と助役が元狭山村を訪れると、瑞穂町との合併推進派約600人に暴行・監禁される事件が発生し逮捕者もでました。新聞紙上には『元狭山村問題 合併紛争でついに流血さわぎ』と報道された次第です。
後味の悪い合併で、その後も税の滞納、越境通学、国勢調査ボイコットなど武蔵町の行政への非協力が続きました。
東京都瑞穂町には、いまでも「元狭山神社」「元狭山駐在所」などに元狭山村の名残があります。
[ 瑞穂町にある元狭山神社(2024年):元狭山村の名残 ]
元狭山村には瑞穂町との合併に反対する住民もいましたが、騒動の始まりから終わりまで賛成派が圧倒的に多数を占めていました。
村長も村議会議員も全員が合併に賛成でしたが、絶対反対を唱える埼玉県のために妥協策として元狭山村は分割され、瑞穂町合併に賛成する村民が埼玉県内に取り残されました。
また、豊岡町、藤沢村と合併して武蔵町となった宮寺村と金子村は、元狭山村との関係が強く東京都への編入意向が強い住民もいました。
しかし、宮寺村と金子村は、将来元狭山村を両村との合併に参画させるという県の甘言を信じ、有利な財政援助や特例が受けられる期限内に合併が行われ、武蔵町が誕生したのです。
当時の栗原県知事は議会での質問に対し、仮に住民投票による結果と県議会の意思が異なっていても「地方自治法に基づき住民の意思は議会が決定するという議会主義の精神によって、町村の境界の変更はなされるものと考える」と答えています。
市町村より都道府県の意向、都道府県より国の意向で政治が行われるのは、今も昔も同じようです。
[ 横田基地(2024年) ]
当時、東京都に接する町村や都県境近くの住民が東京都への編入合併を希望し、埼玉県にとっては沽券にかかわる大問題でしたが、東京都が熱意を示さず実現には至りませんでした。
そのような中で、元狭山村が部分的にでも東京都に編入合併できたのは、瑞穂町側にもそれなりの事情があったからです。瑞穂町は、1955(S30)年5月に米軍から調達庁(後の防衛施設庁)を通じて、横田基地の拡張のため約376,000㎡に及ぶ拡張用地の買収を申し込まれ、8月には米軍に提供しています。
瑞穂町はこれまでも町の1/4が横田基地と東京都の水源用地として買収されており、新たな農地買収は耕作者にとって死活問題でした。瑞穂町は基地に買収される農地の代替地を元狭山村に求めようと早急な合併を望み、東京都もこの事情を踏まえ、瑞穂町と元狭山村の合併を推進したのです。調達庁は瑞穂町から出された合併への協力要請について最善の努力を尽くす旨を文書で出し、合併支援側に立っていました。
[ 横田基地拡張前後:八高線と当時の国道16号が曲げられた ]
横田基地は、拡張のための八高線と国道16号の移設を終え、1960年(S35)年11月にジョンソン基地(現・入間基地)からの飛行部隊移転にあわせ、3,350mの滑走路を持つ基地になりました。米軍の移転により入間市は米軍機の騒音公害から救われましたが、合併騒動で元狭山村の2/3を失うことになりました。もし、横田基地ではなくジョンソン基地が拡張されていたら、元狭山村は騒音問題とともに入間市に含まれていたかもしれません。
元狭山村の2/3が東京都に編入されて半世紀以上が経ちましたが、編入された地域にはどんな良い事があったのでしょうか?
瑞穂町二本木には昭和初期に建設された旧元狭山村役場が復元され、「元狭山ふるさと思い出館」という名称で多目的施設として使われています。
館内には東京都側の視点で見た元狭山村の分割合併に至る年表が掲げられています。
[ 元狭山ふるさと思い出館(2024年) ]
<参考資料>