chapter-133 二度・三度

[2020.07]

■北国街道 海野宿・・・・・


東海道 箱根
[東海道箱根の石畳(2018年):箱根の山は天下の険]


江戸時代の街道といえば、東海道、中山道、甲州街道、日光街道、奥州街道の五街道が有名です
五街道は幕府の支配力を確固とするため江戸を起点に造られた街道で、宿駅制度により幕府公用の役人や荷物の運搬が行われた道であり、人足や馬を常備した交通機関でもありました。
街道は一里ごとに一里塚が築かれ、松や杉の並木が木陰を提供し、幅は並木の部分を除き最低でも2間が確保された当時としては最も整備された道でした。
江戸時代の街道といえば、東海道、中山道、甲州街道、日光街道、奥州街道の五街道が有名です。
五街道は幕府の支配力を確固とするため江戸を起点に造られた街道で、宿駅制度により幕府公用の役人や荷物の運搬が行われた道であり、人足や馬を常備した交通機関でもありました。
このほかに、全国各地の大名が参勤交代で江戸と往復するため五街道から分岐する脇街道も多くありました。その一つに北国街道(ほっこく・かいどう)と呼ばれる道があります。


善光寺
[善光寺参道(2019年):牛にひかれて善光寺参り]


北国街道は中山道の追分宿(軽井沢町追分)で分岐し、上田、善光寺、野尻、高田(現・上越市)、柏崎を通り出雲崎に至る街道です。
出雲崎は北前船が寄港し、佐渡島で産出される金銀の荷揚げ地として栄えていました。
江戸に金銀が運ばれ、日本海側の産物と関東地方の産物が行き交うほか、加賀前田藩が参勤交代のために通った道です。
江戸時代の後期になるとお伊勢参りなど庶民の旅行も増え、北国街道は善光寺参りの旅行者が多くなり別名善光寺道とも呼ばれていました。


海野宿
[海野宿(2020年):旅籠造りと蚕室造りの建物が並ぶ]


北国街道のうち中山道と分岐する追分から高田(現・上越市)までは、現在は国道18号がほぼ同じルートですが、北国街道が広げられて国道になった区間は少なく、昔からの建物や宿場時代の面影が残されているところがあります。
その中でも海野宿は約500mにわたり昔の建物が両側にきれいに残り、美しい古き良き日本の姿を見ることができます。
海野宿は旧・国鉄信越線(現・しなの鉄道)の田中駅と大屋駅のほぼ中間にあり、鉄道開通(1888年)による開発の恩恵を受けることがありませんでした。
そのため、今日まで鉄道開通前の旅籠造りの建物やその後養蚕に転向した蚕室造りの建物が入り交じって残っています。
海野宿の町並みは1987(S62)年4月に13.2ヘクタールが重要伝統的建造物群保存地区に選定され、平成30年までに延べ210棟の修理を行い江戸後期から明治・大正期の建物が軒を連ねています。
また、街道にあった電柱を移設し、舗装面や水路などの修景整備が行われ絵になる町並みが整えられました。


うだつ
[海野宿(2020年):裕福な家のうだつ]


■千曲川の洪水(寛保)・・・・・


海野宿の南側を流れる千曲川は、日本一長い信濃川の上流部長野県内での名称で、河口がある新潟県に入ると信濃川になります。
河川法上の名称は長野県内も信濃川ですが、長野県内ではほとんどの場面で千曲川が使われています。


古図 洪水前

古図 洪水後
[海野宿周辺の絵図(2020年):1742年洪水の前・後で千曲川の流れが変化]
(東御市海野宿歴史民俗資料館)


海野宿付近の北国街道は、千曲川の右岸(上流から下流を見て右側)にあり緩やかな曲線と勾配が織りなす道でした。
ところが海野宿東端の白鳥神社付近では、北国街道がほぼ直角に曲がり千曲川の湾曲に沿うように東方向、田中宿方面へ向かいます。
北国街道が整備された江戸初期は、海野宿から田中宿を結ぶ北国街道はほぼ真っすぐにつながる道でしたが、1742(寛保2)年の千曲川の洪水によって右岸側が大きく削られ、白鳥神社の近くまで千曲川が蛇行して迫ってきたのです。
海野宿から田中宿の間の北国街道は、千曲川に削り取られ水が常時流れる流路になったので、現在の折れ曲がった街道に付け替えられました。


3Dマップ
[地理院地図の3Dマップ:赤が洪水前 青が洪水後]


千曲川周辺の高低差の様子は、平面の地図ではわかりにくいので「地理院地図」で作成した3Dマップで見てみます。
しなの鉄道田中駅付近から海野宿方向を見ていますが、わかりやすくするため高さは4倍に引き伸ばし強調してあります。
寛保の洪水前の北国街道は田中宿から海野宿を結んだ赤点線でしたが、今ではほとんどの部分が千曲川になっています。
洪水前の千曲川は、左岸から張出した部分の水田になっている低いところ流れていたと思われます。
左岸からの張出し部の先端、赤点線がかかっているところは、海野宿と同じ標高があり寛保の洪水前は陸続きだったことに納得がいきます。


■千曲川の洪水(令和)・・・・・


橋が流出
[海野宿橋(2020年):橋台、橋桁が流出]


寛保の洪水がどのような規模だったのか詳しくわかりませんが、『信濃川水系河川整備計画 令和元年8月』には「戌の満水」と呼ばれ千曲川史上最大の洪水として知られている、との記述があります。
令和元年の台風19号は寛保の洪水に匹敵する規模だったのではないでしょうか。
長野市内で堤防が決壊し北陸新幹線の車両基地が車両もろとも洪水に浸かり、上田電鉄の赤いトラス橋が落橋した映像は衝撃的でした。
この台風の洪水により、国道18号から海野宿を結ぶ東御市道白鳥神社線の海野宿橋も被災しました。
千曲川を流れる洪水が、寛保の洪水で削られた右岸側をさらに削り、海野宿橋の橋台と盛土で造られた取付道路を押し流し、橋げたが宙ぶらりんになったのです。


被災状況
[海野宿橋の被災状況(2019年):千曲川の流れが河岸を浸食]
(長野国道事務所 記者発表資料 令和元年10月30日)


台風19号で護岸が崩壊した部分は、千曲川の流れが当たるところなのでコンクリートで造られていましたが、過去に少なくとも2回は護岸が崩れていたところです。
今回の復旧では、崩壊した橋台の基礎を直接基礎から杭基礎にし、コンクリート護岸の上に流速を抑えるためのブロックも積んで強化するそうですが、橋は被災前と同じ位置に再建されます。
国道18号と海野宿の間には、河岸段丘による20m以上の高低差があり、しなの鉄道(旧・信越線)も走っている厳しい条件なので、海野宿の町並みを壊すことなくつなぐ道が造れる場所は現在の位置以外にないようです。 


災害復旧
[海野橋復旧工事(2020年):護岸の工事が進む]


海野宿の白鳥神社付近は、寛保(1742年)、令和(2019年)の二度の洪水で大きく河岸が削られています。
これ以上、千曲川の河岸が削られると海野宿の重要伝統的建造物群保存地区にまで被害が生じかねません。
最近の気象は、これまでの経験を上回る台風が来襲し想定以上の雨を降らせることが当たり前になってきました。
頑丈な橋と強靭な護岸で「二度あることは三度ある」の諺どおりにならないことを願っています。


■おまけ・・・・・


[福嶋屋の生柿シャーベット(2020年)]

海野宿に福嶋屋という蕎麦屋があります。
地元名物のくるみ蕎麦が食べられるお店で、蕎麦も美味しかったのですが、試しに頼んだ生柿シャーベットが期待以上でした。
種なしの柿を凍らせて、食べる前に少し解凍して出してくれる素朴な氷菓です。甘すぎない自然の甘さと凍った果肉の歯触りが、日本の古い町並みで食べるのにピッタリです。
お値段も150円という驚きの安さでした。





<参考資料>