北本市【東間浅間神社】

chapter-203 2025.7~

■中山道と並行する高崎線



[ 蕨中央商店街(2018年):駅から旧・蕨宿まで約1km ]


江戸時代の五街道だった中山道の宿場は、明治に入り鉄道(当時は日本鉄道)が開通するとほぼ同時期に駅が開設されました。 宿場でありながら駅が設けられなかったのは蕨宿だけでした。 鉄道の計画に対し「地所が潰れる」「米が取れなくなる」などの反対意見が出され、当時の中心地であった街道から離れた場所に鉄道が通ることになったようです。 蕨駅設置の動きは建設計画の当初からありましたが、中山道から離れたところを通るため駅を設けても収支が償われないとみられたか、利便性がないとみられたか、駅が設けられなかった理由ははっきりしていません。
その後町長をはじめとする停車場設立委員を中心に誘致運動が行われ、寄付金も出して、鉄道の開通から10年後の1893(M26)年7月に蕨駅が開業しました。 あわせて駅と旧・蕨宿を結ぶ道路が、町民から臨時に税を徴収して造られました。
1932(S7)年7月に赤羽駅~大宮駅が複々線化、9月には電化され旅客と貨物が別の線路を走るようになりました。 しかし大宮駅以北が非電化であり、蒸気機関車がけん引する列車は駅の停車に時間がかかるため、列車は通過し電車のみが停車することになりました(大宮駅以北が電化され電車運転が始まっても通過でした)。
1968(S43)年10月には三複線化され京浜東北線、中長距離列車、貨物に分離されましたが、中長距離列車のホームが新設されたのは浦和駅のみで、蕨駅は京浜東北線だけが停車する駅になりました。



[ 1946年の地図:駅名は「北本宿」 ]


高崎線には中山道の宿場町以外にも駅が追加され、埼玉県内の駅は、 浦和、さいたま新都心、大宮、宮原、上尾、北上尾、桶川、 北本、鴻巣、北鴻巣、吹上、行田、熊谷、籠原、深谷、岡部、本庄、神保原の 18駅に増えています(太字が中山道の宿場)。
高崎線の18駅のうち北本駅は、1928(S3)年の開設時は『北本宿駅』でしたが、唯一駅名が変更された駅です。
北本市のホームページによると、江戸幕府による宿駅整備によって宿場が北本から鴻巣に移転し、その名残で『本宿村』が存在していました。 しかし明治期に入り北足立郡内に同じ名前の村があり紛らわしいため『北本宿村』に名前を変え、その後の合併で『北本宿村』はなくなりましたが『北本宿』は地名として残り、高崎線に設けられた駅は地名から『北本宿駅』になりました。
戦前に行われ北本市の母体となる中丸村と石戸村の合併の際は、村の名前や地名ではなく駅名を採って『北本宿村』となりました。



[ 北本駅西口(2025年)]


1959(S34)年の町制施行の際に、『北本宿町』は「語呂が長く呼びにくいので、宿をなくして北本町にした」とホームページにありますが、北本市史には胡散臭い経過が残されていました。
町名の選定にあたっては町名審査会が設けられ、約300の応募の中から12歳の少女が応募した『美治町』が町名審査会の案として決定されました。 ところが翌々日の議会には3位だった『北本町』が提案され、すんなりと可決されました。 どのような経過で『美治町』が下ろされ『北本町』が提案されたのかは不明だそうです。
駅名も1961(S36)年に『北本宿駅』から町名と同じ『北本駅』に変更されました。
かつて宿場があった名残である『本宿』は解体され「本」だけが残り、紛らわしさを解消するためにつけられた「北」と合体して『北本』が新たな町名になったのです。



[ 中仙道(2025年):北本宿方面 ]



■東間浅間神社・・・・・



[ 学校給食歴史館(2025年):最近の給食は美味しそう ]


中山道の宿場が移転してしまった北本市は、これといった観光地があるわけでもなく知名度が高いとは言えない市ですが、 1000円札の肖像になった北里柴三郎氏が学祖である北里大学メディカルセンター、見学もできるグリコの工場があります。また、 学校給食歴史館という小ぶりながら珍しい施設があり、日本初の給食から最近の給食まで美味しそうな展示が並んでいます。
さらにマイナーなところでは中山道沿いにある東間浅間神社が面白い存在です。
旧・中山道の北本駅前交差点から北へ0.5kmほど行った左手にあり、高さ6m、東西37m、南北27mの富士塚の上に神社があります。 参道と塚の頂上へ上る石段は直線上に配置され、この線を西側に延長すると約100km先の富士山に至るそうです。 残念ながら現在では建物があり富士山を見通すことはできません。



[ 東間浅間神社(2025年):社殿への階段 ]



■災いの連続・・・・・



[ 参道脇にある二つの石碑(2025年)]


先代の社殿は1800年頃に建てられたもので、幾度もの修理・修復の繰り返しがあったようです。 修復記念碑によると、明治期に修理等を行ったものの太平洋戦争後は世情が変わり、長年の風雪災害等に加え社殿の老朽化が進んでいました。
1979(S54)年10月の暴風による被害は甚大でしたが、翌年6月には修復が竣工。 しかし竣工翌年の1981(S56)年3月15日に春一番の突風により、社殿南側にあった大樫の約3トンの幹が社殿屋上に倒れ落ちる大惨事に遭遇します。 連続する災害にめげることなく、氏子信者の協力を得て社殿の修復と補強、さらに正面石段の拡幅などの工事を行い、1982(S57)年12月25日に竣工を迎えました。 これらの工事の完成を記念して翌年に建てられたのが『浅間神社社殿修復記念碑』です。



[ 東間浅間神社の社殿(2025年)]


もう一つの碑は再建之碑です。 これまで200年余りの歴史ある社殿を修理・修復して大切にしてきましたが、2005(H17)年6月1日に不審火によって社殿が全焼してしまったのです。 6月3日の埼玉新聞に『築200年の本殿全焼 東間浅間神社 初山例大祭、目前に』との見出しで、全焼した本殿の写真付きの記事がありました。
「木造平屋の本殿約71平方メートルを全焼。本殿付近から火が出ているのを近所の人が発見し119番。 鴻巣署で出火原因を調べている。 富士山の山開きに合わせて行う初山例大祭は赤ちゃんの成長を願う恒例の行事で、県内外から1000人以上の赤ちゃんが訪れる恒例の行事。 本殿にシートを張ってでも祭りは実行する。」と3段抜きで扱われていました。
屋根が焼け落ち柱が黒く焦げた社殿は、さすがに修理・修復できないので、氏子を始め関係各位の協力により2007(H19)年6月に社殿が再建され、『東間浅間神社再建之碑』がたてられました。
最も新しい石碑は、塚の南側にある2014(H26)年の『女坂改修記念碑』です。改修とあるので元々あった女坂を、歩きやすい緩やかな階段にしたようですが、塚の斜面にコンクリートの擁壁が目立つようになってしまいました。



[ 女坂と石碑(2025年)]


暴風、倒木、火災と受難続きの神社なので、ご利益が薄いように思えますが、信者・参拝者が被るかもしれない災を神社が身代わりになって引き受けている、と考えればとても有難い神社です。
世界のいたるところで唯一神を崇める一神教が遠因となる戦争が勃発していますが、正月には神社・お寺に参拝しクリスマスを楽しむような、宗教に寛容(無関心?)な日本人が住む日本国内には争いを持ち込まないで欲しいものです。



[ 東間浅間神社(2025年)]


(※『浅間神社社殿修復記念碑』には「第75代崇神天皇」とありますが第75代天皇は「崇徳天皇」です。)




<参考資料>