朝霞市【武蔵野台地】

[ chapter-209 2026/02~ ]

■武蔵野台地



[ 帝国書院の地形図 ]


埼玉県のほぼ中央部を北から南へ流れる荒川を境に、西側は台地・丘陵・山地が広がり、東側は低平地が広がり大宮台地が島のように浮かんでいます。 このようなことは小学校の教科書に載っているので埼玉県民には常識のようです。
気温が高いことで有名になった「暑いぞ!熊谷」は、東京湾まで直線で70km近くありますが、熊谷駅付近でも標高は25m程しかありません。 関東以外に住む人から考えると海から70kmも離れたらそこは山の中です。



[ 地理地図 傾斜量図+陰影起伏図 ]


荒川の西側は台地・丘陵地が広がり、さらに西側はJR八高線を境に山地になります。 最も南にあるのが東京都にも広がる武蔵野台地で、入間川、荒川、多摩川に囲まれ、古多摩川が造った扇状地が長い年月をかけて現在の地形になったそうです。
地理院地図の傾斜量図と陰影起伏図を重ねた地図で武蔵野台地周辺を見ると、青梅付近を扇の要とした扇状に広がっているので、古多摩川が創り出したことが分かります。 この台地のすそ野を削っているのが東京湾の海や荒川などの川です。
都内では京浜東北線がほぼ武蔵野台地の崖下を走り、上野駅付近では上野恩賜公園とアメ横では15m程度の高低差があります。


■東耕地整理



[ 記念碑(2026年) ]


武蔵野台地の段丘崖は埼玉県内でも見ることができます。 和光市、朝霞市、志木市、富士見市を流れ、隅田川と合流する新河岸川が武蔵野台地のすそ野を流れ、和光市や朝霞市では段丘崖を境に台地と低平地が接しています。
段丘崖に沿って歩いていると、朝霞市根岸台の台地と低平地の境にある交差点に「耕地整理記念碑」と刻まれた石碑が立っていました。 崖下の低平地で行われた東耕地整理組合による事業の完了を記念するものです。



[ 石碑の場所 ]


記念碑の裏面に事業の概要が彫られています。
全体の面積は約43.2ヘクタールにおよび、明確な区域はわかりませんが施行前後の航空写真を見ると、西は台地との境、北は黒目川、西は新河岸川、南は越戸川に囲まれた範囲です。 これらの河川は改修が行われるまで堤防らしい堤防がなく、川がひとたび氾濫すると水浸しになり、耕作に恵まれた地域とは言い難い状況でした。
1918(T7)年から国による荒川上流改修が始まり昭和初期には堤防が築かれ、新河岸川なども改修され、ようやく洪水の心配は小さくなったようです。
耕地整理 事業は太平洋戦争末期の1945(S20)年5月に始まり1948(S23)年12月に完了しています。 戦争中に開始されれているので、食糧増産のためかと思いきや、用排水路の不備や狭く屈曲する道路を改善するために有志が立ち上がったと書かれています。 人手や物資の乏しい時代ですが3年半で事業完成に漕ぎついてます。



[ 施行前後の空中写真 左:1944年 右:1948年 ]
(国土地理院空中写真 892-C2A-120 USA-R809-95より切抜き)


施行後の空中写真を見ると、格子状に道路が設けられ短冊状に整えられた田畑は、ひと区画の規模が大きくなっています。 農業機械が普及していない時代ですが、人力でも生産性は大いに上がったと思います。
台地寄りの一角にある建物群は、積水化学朝霞工場の前身である日本窒素肥料(現在のチッソ)の火薬工場だそうです。 このほかに家屋は見当たらないので、東耕地整理区域内の土地は台地の上に住む農家が所有していたと思われます。
しかし昭和の終りになると台地部で住宅の開発が進みます。 崖状の土地でもコンクリートの擁壁を造り少しでも戸数を稼く開発が行われて行きます。 東上線朝霞駅から段丘崖までは直線で1.5kmほどなので、東京地近いこの地でも住宅開発の圧力が高まってきたのです。


■あずま南土地区画整理



[ 住宅の進出(2026年) ]


東耕地整理が行われた田畑では東京外環道や国道254号バイパスの建設が進み、資材置き場や廃棄物の処理場が進出してきます。
これらの道路がない頃は、東京に近くても自動車交通の不便な地域でしたが、1992(H4)年に外環道の和光~三郷が開通し、同時に国道254号バイパスの一部も開通します。 その後も道路の整備が進み、外環道は2018(H30)年までに関越道、東北道、常磐道、東関東道など多くの高速道路と連絡する便利な道路となりました。 これにより東耕地整理が行われた区域は、物流拠点として絶好の場所に変身したのです。
積水化学朝霞工場は2015(H27)年に操業停止し、跡地は住宅と商業施設に転換されました。 朝霞市の南に隣接する和光市の国道254号バイパス沿道には、床面積7.8万平方メートルもある日本郵便の東京北部郵便局(物流専門拠点)が建ち、TVでも取り上げられていました。



[ 大規模物流施設の工事(2026年) ]


社会経済の変化や道路などの整備により、東耕地整理が行われた土地の環境は大きく変わっていきます。 また、東耕地整理に参画した人はすでに高齢になり、その後を継ぐ人もほとんどいない状況だったと思われます。
東耕地整理が行われた43.2ヘクタールのうち台地に沿った約13.5ヘクタールで、2022(R4)年9月にあずま南地区土地区画整理事業が立ち上がりました。 大規模物流施設を主体とした工業系への土地利用転換が進められ、物流不動産を扱う企業が土地の買収を行い建設工事が始まっています。
東耕地整理の残る2/3の農地にも資材置場や駐車場が点在し、耕地整理された農地ではありますが次第に営農環境は厳しくなり、いずれは農業以外に土地利用転換が行われそうです。



[ 浸水想定 ]


 2027(R5)年の朝霞市水害ハザードマップを見ると、荒川流域に72時間で632mmの想定最大規模の降雨(1/1000年確率)により、 東耕地整理の区域は、3.0m~5.0m未満または5.0m~10.0m未満の浸水が予想されています。 土地区画整理事業を行って土地利用転換を図っても、河川の氾濫による水害のリスクは0にはなりません。 社会経済や営農者の状況は大きく変わりましが、昨今の気候も大きく変わりつつあります。温暖化によりこれからの気候変動はどうなるのか確かなことは誰にも分かりません。
東耕地整理の区域に人が住まず、台地部に住んでいた理由は今も昔も変わっていません。


■膝折村から朝霞町へ



[ 朝霞駅周辺(2026年):馬蹄型の陸橋 ]


東耕地整理が行われた 朝霞市(あさか・し)という言葉の響きには、なんとなく清楚な雰囲気があります。 しかし、その昔は「乗っていた愛馬が力尽き、膝を折って息絶えた」ことに由来する、膝折村という少々縁起の悪い名称でした(諸説あるそうです)。
その膝折村に昭和の始めに東京駒沢からゴルフ場が移転し「膝折ゴルフ場」と言われていました。 しかし「膝を折る」はゴルフに禁物でありゴルフ倶楽部役員会において、名誉総裁である朝香宮殿下の御名に因み「朝霞ゴルフ場」とすることになりました。 宮内省の許可を得たうえで。



[ 陸上自衛隊広報センターりっくんランド(2019年) ]


またゴルフ場側から町制施行を予定していた膝折村に、これを機に「朝霞」に改名してはとの話が起こりました。 「朝霞」を新たな町名に使うことについて1932(S7)年2月に朝香宮殿下から許可回答が下り、膝折村は町制施行にあわせ「朝霞町」に改名すること、及び「膝折」という大字の変更を県に申請します。 しかし、県は町制施行と「朝霞町」への改名は許可したものの字名変更は不許可に。
不許可の理由は、
・大字の変更は例をみない
・由緒や伝統のないときには地名は確かな史料である
・社会教育上も国民思想上にも従来の地名をなくすことは妥当性を欠く
また、明治5年太政官布告には、由緒ある字名は保存するとあるので、字名変更は不適当と判断されたのです。



[ 霞が関カントリー(2019年) ]


1932(S7)年5月1日の「朝霞町」誕生と同時に「朝霞ゴルフ場」はオープンしました。 その後1940(S15)年に陸軍に接収され狭山市に移転し「霞が関カントリー」となり、2021(R3)年東京オリンピックのゴルフ競技会場として使われました。 「朝霞ゴルフ場」があった場所は陸上自衛隊朝霞駐屯地となっています。





<参考資料>