PM17:30
薔薇の館。
志摩子は、山口真美、小笠原祥子、福沢祐巳と共にそこに居た。
黄薔薇姉妹は既に帰宅している。
山口真美は聖書研究会及び真名緑への取材内容を説明している。
志摩子は、彼女がそれをリリアンかわら版に載せるのを拒否する意思を持つのをやめられない。
真美さんが強く断定するように言った。
「新聞部は、今回のことをかわら版に掲載します」
「駄目!!」
志摩子は思わず叫ぶ、それでは、彼女達は救われない。余りにも厳しい。
「何故ですか、今学園で何が起こっているか伝えるのが新聞の役目です」
真美さんは頑なな目でそう言った。志摩子が反撃する。
「一般生徒を、無用に混乱させるようなことをするべきではありません!」
「ちょっと待って!」
真美さんと志摩子の間に流れる険悪な空気を中和するように、祐巳さんが間に入ってくれる。
なんだかんだ言って、祐巳さんはしっかりしているのだわ。そう、志摩子は思う。
「真美さんも志摩子さんも落ち着いて。いきなり全て公表じゃなくて、ちょっと待ってもらえない真美さん?」
祥子さまも助け船を出してくれる。
「そうね、今のところは聖書研究会で一生徒がカリスマになっているらしい、というだけでよいのではないかしら?」
これで話が纏まる…とはいかなかった。
何故なら、真美さんはハッキリとそれを拒絶したからだ。
「それは出来ません」
「どういうことかしら?」
祥子さまの機嫌が悪くなっているのは明白だった。半端な答えでは許さないというオーラが出ている。
「今までなら、そうやって妥協することもあったとは思います」
確かに、公表を待ってもらったりしたことは結構ある。
「しかし、それは今までのことが、娯楽性のための記事だったからです。今回のことは、面白いから書くとか、そういう
ことではありません。今、この現実で、リリアンの生徒が新興宗教に入信している。それが良いとか悪いとか書くつも
りはありません。ただ単なるその事実を生徒に投げかけて何故いけないんですか?事実を伝える。それが新聞の本
来の役目の筈です。それが出来ずに、どうして新聞部なんて名乗れるんですか」
「だから、発表するなと言っている訳じゃないのよ。時期を待てと言っているの」
「出来ません。権力に屈するジャーナリズムは腐敗している」
「ちょ、ちょっとちょっと」
流石に祐巳さんが止めに入る。真美さんは何故かとてつもなく熱くなっている。これでは、話し合いにならない。
「真美さん、私達は、別に権力とかじゃなくて、ただみんなのことを想ってるだけなのよ?」
「私もです」
真美さんが背を向けた。
「とにかく、私はこのことを発表します。それが新聞というものだからです。それを変えることは出来ない」
そのまま真美さんは出て行こうとする。
「あなた、覚悟はできているのよね?山百合会は、部活動を統括する生徒会でもあるのよ」
「廃部ですか?権力に任せて」
「必要ならね。山百合会は飾りではないから」
「それなら、部ではなく、私個人でやるだけです。私を退学にするなり停学にするなり、好きにしてください」
真美さん!!という祐巳さんの叫びを無視して彼女は出て行った。
全く、振り返らなかった。
『姫さまに捧げる 中編』
志摩子は薔薇の館を出て、歩きながら常に苦悩の陰を背負わざるを得なかった。
間違っている、何かが間違っているのだ。
心に引っかかったそれは、糊のように粘着して固まり、決して取ることが出来ない。
彼女達は、救いを求める弱い魂なんだ。
真美さんはただ事実を載せるという。
でも彼女達は、そのただの事実にさえ耐えられないから神を求めている筈ではなかったか。
きっと、今度のかわら版は彼女達を傷つけるだろう。
傷ついた彼女達は、どうやってその傷を贖うのだろう。
暗澹たる気分になった。まるで泥の中で転んだ時のように。
神様。
神様は、どうやって彼女達を救うのですか?
そして、私を。
かわら版が出るのは避けられない。
何かが変わろうとしている。
帰りに見かけたマリア像は、冷たく無慈悲な寡婦のように見えた。
1
「部長、どうでした」
高知日出美が聞いてくる。
「駄目だったわ。今日は解散して。あれは記事にしないから」
真美がそう告げても、部員達は席についたままだ。
「印刷したら、廃部ですか?」
「かもね」
「それでも、書く?」
「まさか、廃部になんかさせないわよ。だからこの記事は印刷しない。いいわね」
日出美は黙って真美を睨んだ。
「それでいいんですか」
「いいも悪いもないわよ。幾らなんでも、部を潰すなんて出来ないわ」
「真美さまは、納得してるんですか。沙緒さん、助けるんじゃないんですか」
川原沙緒(かわはら すなお)、新聞部の部室に良く来ていた。
リリアンかわら版が凄く好きだって、そう言ってくれた一年生。
真美は目を閉じる。
彼女は、控えめに微笑んでいる。でも一番印象に残っているのは、辺りを見回す、リスのような顔。
よりによって変な表情を覚えてしまったものだ。
繊細で、怖がってて、可愛い後輩だった。
彼女は新興宗教に、何を見つけたのだろう。
『今いるリリアンという場所が、とても楽しくて素晴らしいところに思える』
彼女はリリアンかわら版を評してそう言った。
あれは、本当はそうじゃないという意味だったのだろうか。
リリアンは、楽しくも素晴らしくないから、かわら版に幻想を見ていたのだろうか。
だから、新興宗教に、素晴らしく楽しいものを見つけたのか?
私は…
納得できいない。
真美は目を開く。
「思い上がっちゃ駄目だわ。ただの学校新聞なんだから、人を助けることなんて出来ない」
「分かってます」
「意味なんてないのよ。きっと他人を傷つけるわ」
「誰も傷つけない新聞に意味がありますか」
「廃部になるわよ」
日出美は黙る。そうだ、それが一番の問題だ。
実際には、祥子さまが言ったのはハッタリに過ぎないとは思う。
しかし、これはもう、真美の信念の問題なのだ。それに部員を巻き込む事は出来ない。
「仕方ないですね」
日出美はそう言って、印刷機の前に立った。
「日出美?」
「真美さまは、真美さま個人でやる気でしょう」
「それは…」
周囲の部員達が一斉にかわら版制作の準備を始めた。
「この段組どうする?」
「大きさはここはゴナEでいいの?」
「写真のレイアウトはこんな感じかな」
部室が、まるで白黒からカラーになるみたいに活気づいていく。
「あんた達…」
日出美は印刷機のスイッチを入れて言う。
「刷るんでしょ?」
真美は苦笑しながら溜息をついた。
「どうなったって知らないから」
2
次の日には、リリアンかわら版は出回っていた。
クラスの片隅で詰問される聖書研究会の子。
そこから漏れる、新興宗教信者が誰なのかということ。
ああ、彼女達の居場所がなくなってしまう。
ただでさえ生きにくい彼女達なのに。
「ねえ、日名子さん、マリアさまの教えを捨てたって本当?」
「天主会ってどんなところなのかしら?」
「どうしてそんなところに?」
廊下で詰問されている女の子を、志摩子は見ている。
繊細な彼女は、言葉を放つことも出来ない。
目に涙を浮かべ。しかし質問が止むことはない。
ついに彼女は囲みを突き飛ばして駆け出す、そしてそれは彼女に…あるいは彼女達に、暴力的というレッテルを
与える原因になる。
ねえ、彼女達の救いはどこにあるのかな。
そして、私には何が出来るのだろうかと志摩子は思う。
今日は、学園中で、こんなことが起きているというのか。
志摩子はリリアンかわら版を読む。
『聖書研究会のカリスマ生徒、新興宗教の勧誘か?』
投げかけられた波紋は、彼女達を追い詰め始めている。
そして、志摩子も。
「何をしているの?」
傷つけられる彼女達を、ほっておくことが出来なかった。
「困っているでしょう?」
三人の生徒に囲まれた天主会の子を、志摩子は庇った。
こんな状況で、彼女達をほっておけるだろうか。
自分は、シスターになりたいのではないのか。
宗教やそれにまつわる迫害を避けて、どうしてシスターになれる?
「いえ、白薔薇さま、私達ただお喋りをしていただけですの」
「相手を涙ぐませるようなお喋りは、感心しません」
囲んでいた子たちは、バツが悪そうに去っていく。
「ごめんなさいね、あの方たちも悪気は」
「償いですか」
「償い?」
償い、という言葉の中に、志摩子は居心地の悪い想いを覚える。
私は、何を償っているのか、
「白薔薇さまが、かわら版に書かせたんではないんですか。部長があなたを聖書研究会に呼んで、このタイミングで
かわら版です。あなたはそれで私達を追い詰めて、怖くなったんだ」
「違うわ」
「違わない!」
彼女は、本当の憎悪で私を睨みつけた。この学園では、滅多に見ることができない、いや、人生でもそうそう見ること
なんて出来ない、本当の憎悪。
「あなたは私達を追い出す側に…山百合会に居るのに私を助けようって言うんですか。そんなの偽善です」
彼女は言い捨てるとその場を駆け去る。
待って、とも言えなかった。
彼女は誤解している、と思う。
でもある面では、全然誤解なんかじゃなかった。
それは冷酷なくらい真実でもあったのだ。
志摩子は、天主会の味方ではない。
3
翌日、新聞部の部室はあらされていた。
落書きされ、ペンキがぶちまかれていた。
その翌日には、かわら版は、彼女達がこういう行動をするのなら、天主会は危険な組織と思わざるを得ない、と書く。
シスターや教師達も、徐々に生徒の話を聞きはじめる。当然、シスター達が天主会をよく思う訳がない。
処分を検討し始める。
志摩子は、学校の空気が決定的に変わったのに気づく。
それは桶の中にペンキを垂らしたみたいに広がって、そしていつしか致命的に戻らない色に染め上げてしまう。
ひそひそとした噂話。
選別色分けされた生徒たち。
天主会なのか、そうでないのか。
無関心な生徒も、もう既に抗うことの出来ない空気の一部になっている。
(ここは…どこなの?)
ここがあの美しかったリリアンなのか。
天主会の生徒を襲っている受難は、志摩子にとって人事ではない。自分は寺の娘なのだ。
何故、新興宗教を信じるだけで、こんな結果になるんだ?
ここは、カトリックの教えを受ける女学校だから?
でも、そんなの嘘じゃないか。
祐巳さんにしろ、祥子さまにしろ、本当の意味では信心とは無関係じゃないか。
ここは良家のご息女が、ほどほどの貞淑と世間知らずを身に付けて生きていくための場所に過ぎないのではないか。
そしてそもそも本当の所は、リリアンへ娘を出している大抵の親は、子供が宗教に帰依して帰ってくることなど、全く
望んではないのだ。
何故か。
今のこの国では、宗教に帰依していることは、不健全なのだ。
雷に打たれたようにそう思う。
色んな事情はあるだろうけれど、宗教に行く人間はこの国では、何か変わった、ある意味では穢れた者でさえあるの
ではないか。
社会は、宗教者を奇異な目で見ると思えてならない。
良い悪いではなく、それは、一つの事実のように思えた。
しかし宗教による救いを否定されたら、彼女達のような繊細さは、一体どこで受け止めてもらえるのだろうか。
志摩子はもう、何がなんだか分からなくて、自分が歩くシスターの道さえ、社会から見ればどれほど奇異に映るのだろう
か、などと考える。
気づけば、志摩子は温室の中でたち尽くしていた。
きっとこの温室の外では、欺瞞と不信が満ちているのだろう。
この、マリアさまの園で。
泣くことさえ、出来ない。
乃梨子は、どうしているだろうか。
志摩子は、何をしているのか。
ここ数日の志摩子は、ただ無力に傍観していた。
自分が宗教者であるのを恐れた。
天主会を攻撃するなら、何故志摩子は生かされているのか。
何故キリスト教が良くて、天主会が駄目なのか。
志摩子は、ただ立ち尽くしている。無力に。
「ごきげんよう」
「え?」
振り返ると、あの小柄な女の子が温室の入り口に立っていた。
いつも不意にいなくなってしまうので、初めて彼女を正面から見ることになる。
彼女は驚くほど鋭く、美しい、誰も見たこともない形の刃物を思わせた。
きっとそれは、恐ろしいほど綺麗な切れ味を見せるのだろう。
「藤堂志摩子さん、ね」
「はい」
「私に協力してくれない?」
「協力?」
「私ね、今のこの学園の状態はちょっとおかしいと思うし、もう少し、話し合いの場とか設けたいんだよね」
それは、志摩子も望むことだった。
「山百合会や、新聞部と、聖書研究会、シスター達、みんなを同じテーブルにつけて冷静になってほしい」
「ええ、私もそう思います」
「ただ、聖書研究会を説得するのが難しい。自分達がただ糾弾されるための会じゃないかと疑うと思う。普通疑うで
しょう?」
「ええ、そう思います」
「どこからも均等に信用されてるのは、あなただけだから、説得をお願いしたいのよ」
志摩子は考える。
突然のように思えるが、確かにこの子の言う通りなのだ。一度、冷静に話し合うべきだ。
「分かりました」
「そうと決まれば、明日私と聖書研究会に行きましょう」
テキパキと、話をすすめていく。
「ねえ、あなたはどうしてそうしようと思うの?」
「私?」
「そう」
「今の学校の空気が好きじゃない。それに、私は一応聖書研究会の会員だから」
「天主会には…」
入信しているの?と聞こうとして志摩子は口ごもってしまう。それはとてもデリケートな問題だった。
「入信してない。ただの聖書研究会員」
「それなのに」
そんな、何もかもを丸く治めようとしているの?とは志摩子は言わなかった。それはただの独り言だった。
それに彼女は独り言で答えた。
「気に食わない」
聞き取れないくらい小さく。
「気に食わないんだ」
4
実際には、話し合いの場は設けられなかった。
それどころではなかった。
天主会の信者が校舎の屋上から抗議行動として飛び降りたからだ。
何もかもが、無茶苦茶に歪んでいくようだった。
「新聞部が殺したようなものだわ」
真美は、表現は婉曲だけど、そういわれているに等しい噂を聞いていた。
自分は、間違ったのか?
自分は筆の力で、人を殺したのか?
実際には飛び降りた子は入院しているだけだが、死んでもおかしくはなかった。容態は聞かされていない。
真名緑教は真美を激しく攻撃し、殺人犯だと罵っている。
不思議なもので、あれほど真美を支持していた一般生徒は、急に態度を翻して真美をやりすぎだと暗に非難した。
事実を…重要な事実を迅速に伝えること。
それが新聞に最も重要なことのはずだ。
沙緒を助けるために、記事を捻じ曲げたつもりはない。
しかし結果は、一般生徒に白い目で見られ、沙緒は帰ってこない。
部室は荒らされたままで、落書きは消えない。
今度は自分がクラスに詰問される側になり、真名緑教はここぞとばかりに、リリアンかわら版を模して、天主の声という
ビラを配っている。
いかに真美が非道かというビラ。
部室には日出美がいた。
「真名緑は、謝罪文を載せるよう要求してます」
「謝罪?何に対する?」
「天主会や、聖書研究会への誹謗中傷に対する、と言っています」
「真名緑に勧誘された生徒は、天主会という宗教団体に入信しているらしい、という文が誹謗にあたるのかしら」
「私に聞かれても困ります」
「謝罪文載せれば、丸く収まると思う?」
「思いません」
「私が彼女を飛び降りさせた?」
「そうかも知れません」
「私は、間違ってた?」
「真美さま、疲れてるんですか?」
「疲れないと思う?私のせいで人は飛び降りて、周囲からは攻撃されて、沙緒は帰ってこない。疲れもするわ」
日出美が、不意に立ち上がった。
「真美さま、絶対に謝罪してはいけません」
「まるで大手新聞社ね。謝罪しない」
「確かに、私達が間違ったなら謝罪したらいいでしょう。でも、彼女が飛び降りたからと言って、私達が調べた事実が
変わりますか?善悪が逆転しますか?彼女が飛び降りたことは、事実とは無関係です。私達の記事は彼女を傷つ
けたでしょう。でもそれは、事実や、正しさとは無関係なんです」
「分かってるわ。だから疲れるのよ。何故か普通の生徒も真名緑教に同情して、手の平を返す。私達はこの記事で
彼女達に判断してほしかった。情報を伝えることしか新聞は出来ない。でも、彼女達が下した判断って、結局は何な
の?この記事のスキャンダラスな面を愉しんだだけじゃないの?新聞は…」
何も出来てないじゃない。
という言葉を真美は飲み込む。最初から自戒したはずだ。自分はただの校内新聞だ、と。
そしてただの校内新聞が飛び降りを起こした。
真美に否はないかも知れない。
でも、そういう問題でもなかった。
「やめますか?新聞?」
日出美がぽつりと言った。
「まさか」
真美は溜息をつく。
「私が疲れている本当の理由は」
印刷機の電源を入れる。
「これからも天主会と徹底抗戦しなきゃいけないからよ」
5
信仰が、彼女を追い詰めたのか。
志摩子は、自分の苦悩が日増しに募っているのに気づかない。
登下校中も、彼女はずっと救済について考えるのをやめることが出来ない。
そして、一人の女の子は飛び降りた。
彼女を信仰は救えていない。全く、救えていない。
自殺はキリスト教では大罪だからなのか、彼女を飛び降りさせることを止められなかったこと自体が、教えとして間違
っているようにさえ志摩子には思えた。
しかし、宗教は自由なのだ。
自由な筈だ。
たとえ社会がどのように宗教を捕らえても、無意味だとして切り捨てても、それでも自由な筈。
だから天主会も良いんだ。
そう思っていた。
彼女がそれを告げるまで。
刃物のような彼女は鋭く言った。
「天主会は公安にマークされてるの」
彼女は、予定が変わったと志摩子に言いに来た。そこから、話が始まった。
「飛び降りのせいで、とてもじゃないけど、誰も対話のテーブルに着きそうにないわ」
確かに、新聞部と真名緑教を同じテーブルにつけるのは飛躍的に困難になった。
志摩子は、飛び降りを聞いたショックで、悩まずにはいられなかった。
一体、宗教の救いとはなんなのだろうか。
「どうして、飛び降りたのかしら」
「抗議行動だそうだよ」
「抗議?でも、彼女には信ずべき宗教があって、あんな抗議の仕方では救われない。どうして天主会の教えは彼女を
踏みとどまらせることが出来なかったのかしら」
「抗議行動で死ぬような宗教なんて掃いて捨てるほどある。志摩子さん、あなたが何故飛び降りるか疑問に思うなら
答えるけど。飛び降りるのは飛び降りる連中がクズだからよ」
その、余りにも厳しく掃き捨てる口調に、志摩子は目を見開いた。
「飛び降りで抗議行動をするような奴はゴミだ。生きている資格がない。自分を究極的な被害者にすることで免罪され
抗議さえ出来る?冗談じゃない。入試の時に、自殺するから入試を中止しろとか脅迫電話をかけるのと何も変わらな
い。そんなことで死にたい奴は死ねばいいんだ。その程度のことで飛び降りたくなるような弱さなら早く死んだ方がい
いんだ。周りにも存在自体が迷惑だし、邪魔だ」
「あなたは」
何様なんですか。
「いいか、志摩子さん、今からここは社会の縮図だ。弱い奴から死んでいく。びびったら負けなんだよ」
「いったい、あなたは何なんですか」
「私は、藍花陽子」
彼女がその刃物の鋭さで志摩子を見る。
「公安協力者よ」
一般的に、公安は調査方として内偵したい団体に協力者を作るんだ。
と藍花は言った。
「私はちょっと色々特殊だけど、そこには肉親のような強い絆があると言われているわ。退職した公安者の手記なんか
読むと、夢に出たりまでするみたい。スパイにしたてるというと、まるで鉄のように公安は冷酷に見えるけど、当然、そん
な漫画みたいな冷酷さでは協力者なんか作れない。そこにあるのは漫画家や作家が嫌うような、ベタベタな人情なの
よ」
志摩子は、必死に考える。
状況は、途方もない方向へ向っているのだ。
一体、どこへ運び去られていくのだろう。
「人間的な情が絆を作るの。悩みや迷いを相談して親身になり、色々世話して、ようやく心が通じ合えてこそ、協力者が
誕生する。一応、未成年の人間を協力者にしないことにはなってるけど、当然全く守られていないわ。公安職員が本気
で親身にならないと…人間って、本気でぶつからないと、本気の信頼は得られないわ…協力者は出来ない。一方で、
確かに公安職員は協力者をコマとして利用している。それは鉄のような冷酷さでないと出来ない。それこそ、漫画のよ
うな冷酷さでないとね」
天主会は、許されざる宗教なのか。
志摩子が考えているのはその一点だった。
「本気で親身でありながら、鉄のように冷酷、現実というのはそういうものだわ。決して一面的ではない。親身なのが
偽善で嘘で、利用しているのが真実とか、どっちが嘘でどっちが真実とかじゃない。そういう、どっちかでないといけ
ないと思うのは、子供の考えだわ」
「あなたは、親身にされてるの?」
「公安協力者はお金をもらえるの。いろいろあってね。私はちょっと特別だから」
公安幹部は職員録から消えるとか、チヨダという呼称とか、そういうどうでもよいことがあるが志摩子は聞き流す。
「あなたは、天主会を潰す気なのですか」
「私じゃない。それは公安の判断することだから」
「でも、あなたがそれを手伝うのでしょう」
「ええ、別に弱い人間が集う集団がどうなろうと、知ったことじゃないから。人は強くなるしかないの。弱い現実逃避の
連中がどうなろうと、知ったことじゃないわ。それはその人たちの問題で、私の問題じゃない」
「あなたはきっと、いつか躓くわ」
「敵対集団の罠ねきっと」
人は強くなるしかない。
でも、それでも強くなれない人は…?
6
「疲れておられますね」
と可南子さんが言った。
確かに志摩子は疲れていた。
これは出口のない悪夢だ。
「可南子さんは、天主会の騒ぎ、知ってる?」
「ええ」
彼女は、どうして私なんかに話し掛けたのだろう?
祐巳さんもいないのに。
「私は、天主会に誘われたことがあります」
可南子さんは淡々と言った。
「私は、家庭に問題を抱えていて、きっと狙いやすかったのでしょう。その時、私はそれに激しい嫌悪感を感じました。
宗教の勧誘は、嫌悪感を覚えさせやすいように思います。それで私は、穢れた世界…男を憎んでいる私を、真名緑
に見抜かれて動揺したものの、それを振り切ることが出来ました」
「どうして私に?」
「白薔薇さまが、見ていられないくらい真剣にそれに向き合っているからです」
「そんなことはないわ。私は、所詮部外者だもの」
「…それでも、一応、話しておきます。私は、祐巳さまがいなかったら、天主会に居たかもしれません。真名緑の力は
恐ろしいものですから。でも、もしも私が入信したら、私は永遠に救われなかったでしょう。父親と和解も出来なかった。
何故なら、天主会はこの世界を穢れた、醜いものだと否定しているから。それでは、いつまで経っても父と和解できな
い」
「天主会は、間違ってる?」
「私には、そう思えます。お節介すいませんでした」
可南子さんはそれだけ言うと去っていった。
でも、可南子さん。
どんなに頑張っても永遠に父と和解できない人だっているのよ。
久しぶりの薔薇の館には、祐巳さんが居た。
「志摩子さん、どうしたの?」
「何がかしら?」
「疲れてるみたい」
こんなに次々言われるなんて、本当に駄目ね。しっかりしなきゃ。
「ううん、なんでもないのよ」
「なんでもないことないよ」
そう言って祐巳さんは私の顔を覗き込んだ。
「志摩子さん、聖書研究会のことで悩んでるんでしょう」
祐巳さんにその問題に踏み込まれるのが怖かった。
志摩子は、その言葉を聞かなかったことにしたくて黙っている。
「私だって、凄くショックなんだから、志摩子さんなら、もっともっと悩んでいると思うもん」
志摩子は、祐巳に否定されるのを恐れた。
何を?
宗教を?
救済を?
祐巳は良くも悪くも、宗教とは無縁なのだ。家には神棚があり、初詣に行く普通の少女なのだ。
彼女が天主会を否定しても何もおかしくなかった。
天主会を否定しても?
私は、天主会を否定されることを恐れている?
志摩子は、動揺する。
「宗教は、神さまを信じて、みんなが救われるよう祈ることだと思うの。それなのに、宗教に関わってもっと不幸になる
人がいる。神さまは、どう思ってこれをなさっているのか、私には見えないの。勿論、私なんかに分かる筈はないの。
でも…」
救いはどこなのだろうか。
弱く繊細な人たちの、救い。
私は、天主会に、弱く繊細な私を見ているのだろうか、志摩子は悩む。
「志摩子さん、私、難しいことは分からないけど…家に神棚もあるような家だし、でもね、誰も間違ってないし、きっと
みんな大丈夫だと思う」
「祐巳さん?」
「現に、飛び降りた子も、命を落とさなかったでしょう?あれは、そこに神さまが現れてるんじゃないかな」
「でも、天主会の教えは彼女を止められなかった」
「志摩子さん、私、前に聖さまに教えられたんだけどね。イエスさまが弟子と一緒に道を歩いているときに、可哀想な
ワンちゃんの死体を見かけたんだって、弟子達はすっかり酷くなった死体を見て目をそらすなか、イエスさまだけが
言うの、なんて綺麗な歯だろうか、って」
志摩子は、もちろんその話を知っている。
聖にも聞かされたことがある。
「天主会には間違ったところがあるとしても、正しいところまで消えないの。この話はね、どんなに酷いものでも、その
美しさまでは帳消しにはならないってことなんだって。神さまを信じることには、確かに美しくて素晴らしいところがある
んじゃないかな?」
えへへ、と照れてから祐巳さんは言う。
「受け売りなんだけどね」
気づいたら私は祐巳さんにキスしていた。
何の前触れもなく。
ただ衝動を抑えられずに。
愛が、止められないくらい溢れてくる。
「祐巳さんのことが好き。愛しているの…」
目を見開いて、祐巳さんは動揺していた。
その視線の先には、乃梨子がいた。
ドアが開いたのにも、志摩子は気づいていなかったのだ。
「さよなら」
そう言って乃梨子は駆け去っていく。
「ごめん、志摩子さん」
そう言って祐巳さんも去っていく。
志摩子だけが、そこに残された。
何も持たずに。
7
何もかも失った。
もうどこへも行けない。
薔薇の館を出た志摩子はそう思った。
そして館の外には、真名緑が立っていた。
あれほどの攻撃を受け、巻き込まれてなお、彼女はただ神々しかった。
「白薔薇さま」
聖母の微笑み。
「行きましょう。天主さまのところへ」
志摩子はただ頷く。
そして言う。
「天主会に入ります」