妹たちは修学旅行に行った。

微かな昂揚感と罪悪感を持って、薔薇の館に向う。

風が少しだけ、冷たくなってくる季節だった。

古い階段がギシギシ言うたびに、私の胸をその音が刺す。

微かな痛みと、快楽。

古びた扉をゆっくりと開けると、私を乱すその人の声が聞こえるのだ。

「ごきげんよう、祥子」

 

 

        『城の外の森へ出て』

 

 

「ごきげんよう、令」

妹たちのいない薔薇の館は静かだった。

私と令の二人きりの時間も多い。

まるで時間が一年巻き戻ったみたいに、私達は妹のいない状態で話す。

祐巳と出会う前、私は令を、どんな風に見ていたのかしら。

令は私を、どんな風に見ていたのかしら。

分からない。

いま、胸の中で燻るような想いが出てきてしまったこと、どうして、こんな風になってしまったのだろう。

「祥子、どうしたの?」

「何でもないわ」

なんでもない。

「辛いのなら…やめた方がいいんだよ、きっと」

「あなたは、優しすぎるわね」

「そうかもしれない」

「本当に、優しすぎるわ」

令が私を抱きしめた。

どうして、私は…

令の優しさに、甘えてしまったのだろうか。

どうして…

唇に唇が触れる。

逃れられない。

愛してしまっている。

どうして…

 

 

                                 1

 

 

一年前、お姉さまの妹になった私は、語るべき言葉をもたないままだった。

語るべき言葉を持たない人形。

憧れた婚約者は同性愛者だった。

毎日のように押し寄せる習い事は、こなしてもこなしても、どこにもたどりつかない。

そして家にお父様は帰ってこなかった、外に女を作って。

そんなありふれた痛みに、うちのめされて堪るものかと思う。

それが痛みであるということさえ、上手く認識してはいなかったと思う。

どこへいっても特別扱いであることにも慣れていた。

でも、本当のところは傷ついていたのだ。

これ以上ないぐらい、傷つき、心を閉ざしていたのだ。

 

そして、お姉さまが私を見つけた。

 

確かな幸福な出会い。

私自身を、陳腐な言葉で言えば、本当の私をお姉さまが見つけてくれた気がした。

そして薔薇の館で、令と出会った。

今でも覚えている。

全く気負わない調子で「これからよろしく、祥子」と言った令の姿を。

たぶん、ずっと忘れない。

 

 

妹になり、数ヶ月が過ぎた。

お姉さまは不安定になった白薔薇さまを心配し、私はよく、令と二人きりだった。

本当の私を見つけてくれた筈のお姉さまは、白薔薇さまを見ている。

一人になることぐらいで、今更、傷つくものですか。

いくらそう思っても、まるで捨てられた子犬みたいな惨めな思いが消えない。

一度輝く光を見せてから、それを閉ざしてしまうなんて、あんまりではないですか?お姉さま。

もしも、ずっと一人ならば耐えられた。

でも、たくさんの仲間がいる中で一人なのは惨めすぎる。

「ねえ、祥子、どうしてそんなに悲しそうな顔をしているの?」

「なんのことかしら?」

「いつもそんなにピリピリしてたら、気が滅入らない?」

「ピリピリなんてしてないわ」

「そう?でもなんか辛そうだったから、私はいつでも迷える子羊を受け入れてます、アーメン」

「ふざけてるの?」

「ふざけてるだけに見える?」

鋭かった。

令の言葉は鋭く、そして、どうしようもなく優しかった。

この時は何もなかったけれど、私は令に惹かれていく自分を止められなかった。

 

お姉さまも白薔薇さまも、いまにも壊れてしまいそうなときに、お爺さまが稽古事をやめたことについて文句を言い、

優さんとの愉快な未来予想図を語ってくれた。

私はボロボロだった。

今にも沈んでしまいそうなぐらいボロボロだった。まるで底なし沼に投げ込まれた、靴底が剥がれた革靴みたいに、

惨めで、どこへも行けない。

そんな時の薔薇の館に、よりによって令が居た。

真剣な顔で令は私を問い詰める。ほっておくことはできない、と。

そんなに惨めな顔をしているというの?私は?

「祥子、今日の祥子だけはほっておくことはできない!」

真剣で、真摯な優しさ。

「やめて」

いま、優しくされたら、私は駄目になってしまう。

「祥子!」

逃げようとする私の腕を令が掴む。

「私は平気よ!」

「何が平気なのさ!私じゃ役不足だっていうの!私じゃ力になれないっていうの!私のことも信じてよ!祥子!」

私は泣いていた。どうしたらいいのか分からなかった。

もう、何がなんだか分からないのだ。

気づいたら、令の胸で泣いていた。

「優しく、しないで」

「するよ、親友だからね」

完全に令に体を預けていた。

分からない。

そのあと、何がどうなったのか、キスしていた。

令は「祥子のお姫様みたいな容姿に憧れていた」と言った。

どういう話の流れだったのかは、覚えていない。

容姿を褒められても、普段はなんとも思わないか、むしろ怒りを覚えるのに、その時はとてもうれしかったのを覚えている。

私の外見も、役に立つんだ。

令も、私に惹かれたりするものなのだな。と思った。

一度だけの過ち。

続けては駄目だと思った。

それなのに…

 

 

                                2

 

 

 

タイを結びなおす。

罪悪感が残った。

その罪悪感がつける傷を、私は味わっていたいのだろうか?

どうしたらいいのか分からない。

出口がない。

「祥子、明日には祐巳ちゃん達が帰ってくるね」

「そうね」

だから、終わりにしなければ。

二人とも駄目になってしまう。

私はともかく、令を巻き込む訳にはいかない。

ねえ、令、令はどうして私を?

何度も聞こうと思ったけど聞けなかった。

私のお姫さまみたいな外見が好きだったから?

私がどうしようもなく、あのとき、弱っていたから?

分からない。

「ねえ、祥子」

「なにかしら」

「美しいお姫さまがどうしようもなく深い暗黒の城に捕らえられていたら、どうする?」

「それは、お姫さまが自分で解決すべき問題だわ」

「そうかもね。でも、私は何があっても助けたいし、お姫さまはとても健気で真剣で誇り高くて美しいんだ。だから私は、

お姫さまを手に入れたかったのかもしれない」

「お姫さまも本当は、あなたに手に入れてほしかったのかも知れないわ」

「でもそうはならなかった」

「そうね」

そう。

そうはならなかった。

「お姫さまにはお姫さまの城があって、私には私の城がある。それを捨ててしまえばもう二度と、自分自身を取り戻す

 ことはできないんだ」

だから。

だからせめて、少しだけでも。

たとえ…過ちでも。

令は窓の外から空を見た。

青い空だった、雲が浮かんでいる。

「だから、このお話はここで終わりなんだ」

私も空を見た。

飛行機雲が一筋、空を白く染めていた。

 

明日には、祐巳が帰ってくる。

 

                                                        了

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