朝、洗面所で顔を洗う時の水の冷たい感じが好き、歯を磨いたらなんだか心も綺麗になる気がするし、水の流れるジャージャーした音にも風情を感じてしまったりする。それに洗面台はなんだかつるりとしていて綺麗だし、指でこすると、きゅっきゅと健気な音を立てるのだよなあ。だから洗面台も好き。
でも鏡に映る私の顔、顔はまあ、まあまあ、一生付き合っていくんだし慣れもあるし及第点、とりあえずこの辺で妥協しておこう、って所かな。でも鏡に入りきらないんじゃないかって位大きい私の背丈、これはやや嫌い、でもバスケットをやっているから有利な面もあるし、保留。
「可南子ちゃん、ご飯よ」
と声をかけてくる細川夕子さん。私の継母、って言うのかな。お父さんの後妻さん。私の中学の先輩でもある。なかなか複雑。でも結論は好き一択、私は夕子さんが好きだ。いろいろあって私はいま、お父さんと夕子さんと私、そして次子の四人で暮らしている。通っているのはリリアン女学園、結構なお嬢様学校、リリアンは、好き、かな。
「おはよう、可南子」
家族全員で食卓を囲む、お父さんは口数少なく朝食を食べている。お父さんのことは、色々思うところがあるから保留。年頃の娘は、簡単にお父さん好き、って言ったりしない。
「おはよう」
朝のご挨拶、次子は起きていて、きゃっきゃっきゃっきゃっ笑っている。よく泣くし煩いし手間がかかるし、赤ん坊ってとってもとっても面倒、でも夕子さんは平気で嬉しそうに世話してる、次子も、保留、かな。
私がトーストを千切っていると、不意に夕子さんが顔を近づけてきた。まだまだ若い顔。
「あのね、可南子ちゃん」
低姿勢な声音と申し訳なさそうな表情、何だか嫌な予感がする。
「ちょっと今日、早く帰って、次子の面倒を見て欲しいの」
やっぱり面倒事だった。
夕子さんは今日、どうしても外せない用事があって、次子を連れて行く訳にも行かないと言う。
私はたぶん、面倒そうな顔をしていたと思う。
赤ん坊の相手というのは、年頃の女の子にとって本当に面倒なものなのだ。
全ての若い女の子が、赤ん坊可愛いー、なんて言って喜ぶと思ったら大間違い。それに猫の写真を見て可愛い可愛い言うのと、実際に世話をするのとじゃ、大きな差があるんだもの。赤ん坊の相手というのは、とにかく大変ってこと。
「こら、可南子、いやそうな顔をするんじゃない」
とお父さんが言って、カチン、と来た。
なんだろう、言い方が本気で怒っていたから、カチンと来たのかな。
それとも夕子さんが困った顔をしたので、かばおうとしてそう言ったのがみえみえで、鼻についたのかな。
はたまた、嫌だ、なんてまだ一言もいってない内から、偉そうに叱るのが駄目なのかも。
まあとにかく、ほんの些細なことだけど、カチンと来ちゃったんだ。
だから私はお父さんを思いっきり無視して、夕子さんに腹立ち紛れに言っちゃった。
「いいよ、お父さんも夕子さんも、次子は大事でしょうから!」
私はお父さんに腹が立って、心の中が真っ黒になってしまってる。
嫌なことを、どんどん考えちゃう。
自分の娘みたいな年の女に手を出して、孕ませた癖に、とか。
お母さんを裏切った癖に、とか。
次子なんて、腹違いの妹じゃない、とか……。
『なんで私が次子の面倒なんて見なきゃいけないの?』
でもそれを私が口に出す事はなく。
鞄を乱暴に掴むと、逃げるように家を飛び出した。
………
「どうしたの? 浮かない顔して」
朝の教室。
そう言って声をかけてきたのは二条乃梨子、一応、親友、かな?
「別に何もないけど」
できるだけ淡々と言う。
「そう?」
なんて言って、乃梨子は深く追求しない。
いい子だ。
家のごたごたなんて、説明できないし、ね。
二条乃梨子はなかなかクールな女の子で、好き。
クールに見せて、なかなか熱い時もある。そういうところも好感触。
さてここより、女子高生トーク。
「今日一時間目なんだっけ?」
「国語」
「あー、川下か、ちょっとやだな」
「まあ、わからないでもない。テンポがね」
「眠くなる」
「もう結構いい年なんじゃないかな」
「40後半らしいよ」
「もうちょっとファッションを整えてくれれば」
「ちょい悪?」
「ぶはっ、そんなファッションで来たら、むしろ笑う」
リリアンの淑女らしくない駄目駄目トーク。
でも乃梨子も私も、もともとは外部なのだ。そんなにいつまでも羊ばっかり被ってられない。
「まあ、眠らないように頑張ろ」
「ええ」
私が乃梨子に頷いて、地球の自転みたいに誰にも気づかれず、ゆっくり時間は流れるのだ。のだのだ。
川下先生の国語授業はやっぱり眠くて、私はちょっとだけ寝た。
………
昼休み。
私のお弁当は夕子さんが作ってくれる。凄く凄く頑張ってくれているのがわかって、苦しいような嬉しいような複雑な気分。
きっとお母さんがお弁当を作ってくれても、それは当たり前としか思わないけど、夕子さんは私にとってまだまだお母さんじゃないから、お弁当を作って貰った、って感じが凄くして、お弁当は嫌い、かな?
「可南子さん」
という言葉と共に、繊維質のドリルが回転した。
「瞳子」
同じクラスの松平瞳子、彼女の髪型はバネとかドリルとか、色々言われる。滅多にみかけない髪形なのに、ずっとこれで通しているところを見ると、信念なのかも。
彼女は机をくっつけ、どっかとお弁当を置いた。
「今日は、可南子さんとお弁当を食べてあげますわ」
「いや別に、頼んでないかな」
「いいから、瞳子と食べれることを可南子さんは喜んでいればいいんです」
「最近お節介よね、貴方」
「何を言い出すかと思えば可南子さん。元から私は、初期の頃は特にこうでしたわ」
もはや別キャラといっていいほど、山百合会に居ると静かな瞳子だが、クラスではいつもの瞳子に戻る。私としては一安心だ。
選挙の事とか、色々あって暗くなってしまった瞳子は、正直、凄く心配だもの。
「祐巳さまの妹になってから暗い?」
「妹キャラではなかった、という事かも知れません」
瞳子は瞳子で大変なのかも。
「まあ、暗いのは瞳子に似合わない。ポンチョを気持ち悪いくらい飾り付ける脳足りんぶりでないとね」
「喧嘩うってますの?」
「まさか、からかってるんだよ」
「可南子さん!」
私は、ぎゃいぎゃい言い出す瞳子は、可愛いな、と思うのだ。
出来れば祐巳さまの前でも、そんな風に振舞って欲しい。
それとも暗い方が本来の自分で、祐巳さまの前だけ素が出せるということなのかな。
それなら、私なんかが言うことは何もないんだけれど。
「ちょっと暗い顔した可南子さんを、せっかく励まそうと思ったのに、全く貴方って人は!」
「暗い顔なら、祐巳さまの前に居る瞳子には叶わない」
私の言葉に、はあ、と瞳子はため息をついて机に肘をつき、その柔らかいぷにぷにしたほっぺたを手の上に載せて言った。疲れた老人みたいに。
「色々あるんですもの」
と。
「私も色々ある」
「みんな色々ありますものね」
「そうだね、みんな、色々あるんだよ」
はあ〜、と二人でため息をつく。
全く、人生って奴は色々ある。
それで、こういうお節介な瞳子は、好き、かな。
………
体育館の中を、弾むボールが駆けていく音が聞こえる。
だむだむ、だむだむ、と弾む音。
まっすぐ綺麗な姿勢で、左手は添えるだけ……シュート。
私の投げたボールは、まっすぐにゴールリングに刺さった。
バスケットボールは、好き。
「やるわねえ、可南子さん」
とチームメイトが言い、私は「まだまだだよ」と言って笑った。
「二年生でレギュラーだし、経験者だし、背も高いし、可南子さんにまだまだって言われたら、立つ瀬ないよ」
「それはごめん。でも全国には、もっと上手い人一杯いるから」
「目指す世界は遠いねー」
「ねー」
下を向いていると見えない場所があって。
立ち止まっていると行けない場所があって。
だからウジウジしている時は、ボールを追いかけているとすっきりする。
今日は細川は気合入ってるな、とか先生は言うけど、ボールを追う時は、いつだって気合入れてるつもり。
でも朝の事があって、その分、のめりこんでるのかな。
私が投げた3ポイント・シュートは、そのままリングを潜った。
振り返ればチームメイトの笑顔があった。
………
帰宅。
じゃあ、お願いね、と言って出て行く夕子さんの背中を、私達は取り残された人間の口惜しいような気持ちで見送る。
家に残ったのは、私と次子だけ。二人きり。
寝かしつけられた次子が起きた時、対応するのは私だけってことになる。
オムツというのはとても臭いし(当たり前だ)、泣き声はうるさいし、わがままだし、赤ん坊は本当に面倒。
次子が寝ていると家は静まり返って何の音もせず、どこか途方にくれたような気持ちで私は着替えてテレビをつけた。音の無い家でただただ一人テレビを見ているのは奇妙な感じで、番組は時間帯のせいかあんまり面白くなかった。
そしてやがて、次子が泣き出す。
「そら来た」
思わず口に出して言っちゃう、一人きりだと、独り言が増えちゃうのよね。
次子をあやそうとして感じる異臭、これは……ビンゴ、しかも大きい方だ。
私は悲しい必要性に迫られて行った訓練により、この後の一連の作業を習得しているのでありますよ、サー。
おもつのカバーを外し、そこにある液体と固体の中間の茶色い物体を目視、速やかに次子を退避させて尻回りのカレールーをふき取り、紙おむつをしかるべき場所に投棄、あとは下半身丸出しな女の子である次子に紙オムツを装着させる。
「こら、暴れんな」
きゃっきゃっ、とはしゃいでいる次子になんとかオムツをつけて任務完了、やれやれだ。
しかし次子の眼が覚めてしまったので、私は彼女の相手をせねばならず、足元にまとわりついてあばあば言ってるこの知性の前段階にいる生き物と、何とかコミュニケーションをとらねばならないのです。
「やれやれ」
だきあげると、さっきまであんなにデンジャラスな匂いがしていた筈の次子は、ミルクみたいな匂いがした。
頭頂部に鼻をくっつけて、すんすん匂いを嗅いでしまう。
この匂いは、好き、かも。
眼を離すと何にでも興味を持つし、ハイハイでどこへでも行こうとする次子を放っておくことは出来ず、抱き上げたり肩車したりいないいないばあしたり、とにかく次子と遊んだ。
そうすると段々、不思議とそれを面倒だとは思わなくなり、やっぱり、赤ん坊って可愛いな、って思ったりした。
「美人になるんだぞー、お前は」
「ぁばぁ!」
「背が高くなっちゃ駄目だぞぉー」
「あやぁうー」
「よしよし、わかったか。ミルクばっかり飲んでるんじゃありません!」
全くなんだか、自分の娘みたいに思えるよ。
こんな脆くて、こんな弱い生き物を、なんとかみんな育てて、私は大きくなったんだなあ。
こんなにうるさくて、こんなに面倒臭いのに。
「やあぅー」
でもやっぱり、赤ん坊の笑顔は天使みたいなのですよ。
泣き出すと凄くうるさい上に、なかなか泣きやまなくて面倒だったり、夜泣きしたり、まったくまったく、なのに天使で、赤ん坊ってずるいなあ、と思う。
きゃっきゃっとやってる内に時間は過ぎて、そういえば私は何で朝、怒っていたんだろう、と思った。
そのうち、お父さんも夕子さんも帰ってくる。
次子はまた眠り始めた。
寝顔も天使だった。
夕子さんのお弁当はまだまだ慣れないし、本当のお母さんも心配だし、お父さんは時々デリカシーがないけど。
蛇口から水滴が流しに落ちる、びたん、びたん、という音が聞こえた。
「まあ、頑張ろう」
私は台所の蛇口を締めに、ゆっくりと歩き出した。
結局私は、次子の事も好きなんだと思う。
………
夜眠るときに、色々思う。
お母さんやお父さんのこともあるし、次子や夕子さんのこともある。
私自身のこともあるし、下らない悩みのこともあるし、宇宙はどうやって出来たんだろう、みたいな壮大な悩みの事もある。
十代だから、なのかな。
いろんなこと、ぐるぐる回る。
お母さんもお父さんも分かれてしまって、でも元々は他人で、私なんか髪の毛一筋だってこの世界に無かった時に二人は出会って、恋人になって、他人じゃなくなって、また他人になった。
そういうのが不思議で、どうやって生まれてどうなるのとか、お父さんは夕子さんが好きで、もうお母さんは好きじゃなくて、じゃあまた、夕子さんも好きじゃなくなったりするのかな、とか。
お母さんも、誰かを見つけたり、それでまた、なんだろう、次子もこんな風に大きくなって、色々思ったりするのかな。
そんな風に世界は回るのかな。
でも……。
「ま、いいか」
結局、いつもこんな結論。
明日の準備しなきゃ、川下先生の国語は、ちょっと嫌い。
リリアンは好き。
お父さんは保留。
じゃあ。
私自身は?
そうだなあ。
細川可南子は、細川可南子の事が好き。
それでたぶん、世界も好き。
明日もたぶん、そんな風に回っていく。