松平瞳子の事。
私、細川可南子のクラスメイトに、松平瞳子という女の子がいる。
昔は犬猿の仲だったんだけど、何の拍子か今では仲良しといっても誤解とは言い切れない仲になっている女の子。
それで今の私は結構、瞳子の事が好き。
向こうがどう思っているかは知らないけどね。
さて、松平瞳子は紅薔薇の妹で……これはリリアン特有の姉妹制度を理解していないと伝わりづらいけど……生徒会役員、みたいなものかな。
でも薔薇さまは、ただの生徒会役員ってだけじゃないんだよね。
学園のアイドルも兼ねている……みたいな。
で、姉妹制度というのは上級生が下級生を妹にして教え導く、というような制度なんだけど、実地にその制度が行われている空気の中で生活している、この細川可南子から見る限りだと、上級生がお気に入りの下級生を見つけて、下級生もお気に入りの上級生を見つける擬似恋愛のような制度に見えなくもない。
まあ、女の子同士だし、あくまでも擬似……の筈、そうじゃない姉妹があったとしても、それはそれ、よね。
まあともかく、特別な他人と重要な関係を築くことは、人間として大事なことだから制度としては間違ってない、かも知れない。
要は松平瞳子は、学園のアイドルでありなおかつヒエラルキーの頂点にいる存在のお気に入りで、自分もまたいずれリリアンのヒエラルキーの頂点に立つ存在だってこと。まあでも、大したヒエラルキーじゃないんだけどね、実権だけ見れば、ただの生徒会役員なんだし。
さて、今日も私はそんなきゃっきゃっうふふとざわめくリリアンの教室で、松平瞳子を眼で追っている。この習慣が出来たのは瞳子と凄く仲の悪かった時で、凄く凄く嫌いな人って、ついつい眼で追っちゃったりしません? つまりそういうこと。
嫌いじゃなくなってからも瞳子を眼で追うのは、嫌いじゃなくなるとそれが純粋に楽しいから、かな。
教室の中で談笑している瞳子は、少女然とした愛らしい姿で、背も高くてなんだか老けて見られることもある私とは違って女の子っぽい。私の髪が長いのは、女の子らしさを身にまとっておきたいからというのもある。
男の子って本当、この辺の機微を理解しないんだけど、女の子らしくありたい、というのは別に男の子にモテたいからとかじゃない、と言わせて貰いたい。
男の人だって、格好いい服を着たら気分が盛り上がるし、自信を持って振舞えるでしょ。男だけの会合に顔を出すからって、だらしない格好をしない方がいいのと一緒で。
まあそれはともかく、瞳子は客観的に見ると可愛らしい少女だ。
主観的に見るとドリル。
やわらかそうなほっぺたをして、大きくて愛らしい眼をしている、舞台の上みたいな遠目に見ても分かる、派手な可愛らしさ。
唇がぷにぷにしてそうだなあ。
水みたいに柔らかそうだ、と思う。
そんな瞳子は今、乃梨子と楽しそうにおしゃべりしていた。
笑ってる。
──教室ではいつも、笑顔なのにな。
ようやく瞳子がそんな私の視線に気づいて、むっとした顔をした。そういう膨れたような顔も可愛い。
私は敢えて視線を逸らさず、瞳子を見つめ続けてみる。案の定、瞳子は怒ったようにこっちに向かってきた。
「なんですか! 可南子さん、じっとこっちを見て」
私はできる限りクールに言う。
「あ、気にしないで、瞳子の観察は日課だから」
「朝顔の観察みたいに言わないで下さい!」
「瞳子は全然朝顔なんて柄じゃないよ、桃園式部卿宮の姫君なんて全然似合わない。出家されても困るしね」
「源氏物語の話なんかしてませんわ!」
やれやれ、そんなに怒らなくてもいいのに。
「私は松平瞳子学の権威なんだけど、不思議と祐巳さまの前では笑顔の少ないヒト科ドリル類バネ目の松平瞳子が心配なのよね」
「ドリルでもバネでもないっ!」
ぽかり、と殴られた。
小さな手だった。
「暴力はよくありませんわ、はしたない」
「可南子さんに言われると、非常にむかつくんですけど?」
「ねえ瞳子、なんで祐巳さまの前で笑わないの?」
私の言葉に、瞳子は黙って答えない。
あ、これはまずかったかも。
踏み込み過ぎちゃった、かな。
「……可南子さんって、ちょっとお節介になりましたわね」
「どうかな。瞳子以外に、そんなにお節介焼いてる相手はいないけど」
「何ですかそれ、気持ち悪い」
「ふふふ……」
「いやそれ、本当に怖いですからね!?」
ただでさえストーカー疑惑のある私です。
「こっそりあとを付回したりして」
「こわっ!本気でこわっ! 訴えますわよ!?」
そして私は瞳子の頭にぽん、と手を載せて言うのだった。
「まあ、何か困った事があったら、周りを頼ってみたら?」
かえってきた返事は、勢いよく振りほどかれた私の手だった。
やれやれ。
………
福沢祐巳のこと。
福沢祐巳とは松平瞳子の姉であり、リリアンの頂点に立つ紅薔薇さまでもある。
こんな風に書くとカリスマ溢れるちょっと怖い人を想像してしまうが、実際には子狸のように愛嬌溢れる可愛らしい人なのだ。
私は昔、福沢祐巳の熱烈なファンであり、ストーカー疑惑をかけられるぐらい祐巳さまに執着していた。そして今でもファンではある。
そんな彼女はストーカー紛いの私を全否定しないぐらいには寛容であり、今でも付き合いがあるくらいには優しい。究極に人間ができまくった人なのだ。
そういう福沢祐巳と松平瞳子の姉妹なのだから、私としては応援したい姉妹だし、誰もこの姉妹に異論を挟む訳でもないのだが……いやまあ、瞳子が妹であることに異論を挟む勢力はいてもおかしくないのだが、リリアンというところは攻撃性が薄れる場所なので問題ない……とにかく瞳子は、祐巳さまと一緒に居ると元気がないのだ。
今日の松平瞳子観察、昼休み編。
さっそく、薔薇の館に向かう福沢祐巳と松平瞳子をストーキングだ!
こう言ってはなんですけど、昔取った杵柄でストーキングは大得意なのです。履歴書に書いちゃいそう、面接で「特技は何ですか?」「ストーキングです!」 これは……受かる!
さてそんな事は置いといて、二人並んで歩く麗しい姉妹の姿を見てみよう、瞳子はおとなしく控えめに頷き、祐巳さまは笑顔全開で瞳子に話しかけている。
一見すると微笑ましい光景だが、やはりこれは不自然だ、と福沢祐巳・松平瞳子姉妹を二代続けてストーキングしてきた権威として思う。
瞳子は、おとなしく控えめに頷くようなタイプではない。
祐巳さまも、実は積極的に自分から話を振るタイプではない。もちろん、割と祐巳さまは万能で気遣いをするタイプなので、話を振ることもあるけど、あんなに積極的に喋りっぱなしになるタイプではない筈だ。
どこか歪な、無理している姉妹。
見ているとこう……なんていうかこう……。
ああ、もう! やきもきする!
「どうしたの?」
「おうわっ!?」
思わず振り返ってファイティングポーズを取ってしまった、ピーカーブースタイルで、あやうく必殺のデンプシーロールを出すところだ。
「ちょっと、カメラは壊さないでよね」
と言って声をかけてきたのは、三年生になり、自他共に認める写真部のエースどころか、写真部の大御所、って感じの武嶋蔦子さまだ。
「どうですか、ついでに私のファイティングポーズも撮りますか」
私の拳が、しゅっしゅっ、と風を切る。ナイスシャドー。
「可南子ちゃん、変わったわね」
蔦子さまは苦笑している。
「まあそうですね。成長期ですし」
相変わらずファイティングポーズを解かず、無言でシャドーを続ける私に蔦子さまは言った。
「それで、なんで祐巳さん達を付け回してるの?」
蔦子さまという人は余り感情を込めない、平静な声で喋る。かといって冷たい訳でもなく、恐らくそれは自然体という奴なのだろう。
「松平瞳子研究に凝ってまして」
「今度は瞳子ちゃんをストーキングするの?」
「失敬な、研究とストーキングは違います。あとぶっちゃけ、祐巳さまといると瞳子は元気なくないですか?」
私の質問に、蔦子さまは自然体な笑みを見せた。
「なるほど、ストーキングじゃなくて友情だったか」
そう言う蔦子さまは指を下唇にあてて、少し考える。
「そうねえ、最近はあの二人に写真を向けても、映るものがどこか歪な気がするわね」
「そう、まさに歪な感じがするんです。瞳子、なんか元気ないですし。祐巳さまもどこか無理してるというか……」
「でも、出来たばかりの姉妹ってそういうものじゃないかしら。私は妹がいないから分からないけれど、最初は互いの距離感が分からなかったりするものじゃない?」
蔦子さまのもっともな意見に、しかし私は反発した。
「本当に、それだけでしょうか?」
「どういうこと?」
改めてどういうこと、と聞かれると困るが(何も考えてないので)、何となく瞳子の様子を普通として認めがたい気持ちがある。
つまり……なんだろう、クラスメイトの前では自然と振舞えるけど、お姉さまの前じゃどうしていいか分からなくなっちゃうの、などというタイプだと、瞳子の事を思えないのだ。
しかしそれは勘としか言いようがないので、私は話を変えた。
「瞳子の家って、なんか複雑な事情があるんですかね?」
カマをかけてみる。私も正確には知らないが、松平瞳子にはややこしい家庭の事情があるらしい。
「さあ、知らないわ」
と蔦子さまはとぼけた。
それなら、私に追求する気持ちはない。
「姉妹の事でもめてる時に、私達に出来ることってあるんですかね?」
「さあ、私は、傍観者だから」
不意に私は、蔦子さまは傍観者であることを格好いい事だと思っているのだろうか、と疑問に思った。
傍観者であることは、無難な選択という事に過ぎない気がする。
人間同士、ぶつかり合う事を恐れて……蔦子さまの場合、恐れている訳ではないだろうが……どうなるのだろう。
またそのように、当事者であることを避けていると、いつか当事者の気持ちを汲めない無責任な人間になってしまうのではなかろうか……。
でも私は、上級生でもあり、それが間違いという訳でもない思考にケチをつけることはせず、上品に一礼してその場を去ったのだった。これもまた、ぶつかりあいを避ける態度、なのかなあ、人生は難しい。
………
松平瞳子の家庭のこと。
どうも、松平の家は複雑らしい、という噂を聞く。
それは同じ学校で二年も過ごし、なおかつクラスメイトであるなら、根も葉もない噂も耳に入ってくる、というだけに過ぎないのかも知れないけれど。
その中で一番核心に触れていそうのは、瞳子の両親は実の親ではない、という噂であり、それは上流階級経由リリアン行き・噂好き女子校生駅へ流れたついた噂ではあるけども……。
しかし、私が今まで見てきた瞳子の言動などから、それはいかにもありそうに思えるのだ。丁度私が父母の事について聞かれると一瞬詰まるように、瞳子も詰まるのだから。
それは全く私と同じ種類の詰まり方で、だからこそ分かるのだ。
瞳子の家庭は一筋縄ではいかない筈、と。
更に、私は熱心な情報収集と本人聞き込みにより、瞳子は家業を継ぐ継がないで揉めていたらしき噂も聞いた。真実は分からないものの……自分の情報収集能力とストーキング能力が怖いです。
さて、そんな松平瞳子は休憩時間にアンニュイな横顔で窓の外を見てるので、私は近づいていってその頬をつついた。
えいっ、えいっ、ぷにっ、ぷにっ。
「何をしますの! 可南子さん!」
「いや、一度やってみたかったから」
「子供ですか!? 思い立ったらやらずにいられないって!」
「瞳子以外にはしないよ」
「嫌がらせですか!?」
こうやって、ぷんぷん怒るのが面白いし、可愛いんだよね。
「なんかさあ、だーいぶ前の事なんだけど、私の事を、悲劇のヒロインぶっちゃって的に瞳子が言ってたって聞いたことあるんだ」
私の言葉に、瞳子がちょっとうんざりした感じに言う。
「一年生の時の事を今更……さすがのストーカーの粘着力ですわね」
私はそのふくれっつらを可愛いと思いながら言う。
「それでさ、まあ、私のお父さんって私の先輩と子作りして本当に子供できちゃったんだけど……自分の娘と年齢殆ど変わらないのにやりたい放題過ぎるだろ、自重しろ、って感じでそのまま私の本当のお母さんと離婚しちゃった訳だけど、それって知ってたっけ?」
「大体は……」
まあ、文化祭で派手にあんな事になったし、ある程度広まっていてもおかしくはない。
「でさ、私は確かにちょっと視野が狭くて、悲劇のヒロインぶっちゃってたかも知れない訳だけど、お噂では瞳子さん。瞳子さんも何やら暴走して、しっちゃかめっちゃかして、悲劇のヒロインになったりならなかったり、そんな噂を聞いたなー、って」
「な、何のことですか」
お、動揺した。
「選挙に出てみたり、それでいて他人の協力を拒否したり、無理して突っ張ったり、祐巳さまを拒絶したり、妹になるの断ったり、色々愉快な事があったとかなかったとか?」
私はふざけた口調で、でも瞳子はふざけていない。
「何が言いたいんですの」
本気で怒り出しそうな目で、瞳子は私を見た。
「私達、似てるね、ってことかな」
言いたい事があるとしたら、そういう事だ。
瞳子は照れたように顔を赤くして、ぷいっと横を向いた。
「別に……似てませんわ」
可愛いツンデレだことで。
「まあ、私はその件で瞳子に手厳しく評されたみたいだけど、まだ私はそのお返しを瞳子にしてないわよね」
「なんですの、回りくどい」
「ふふふふ、まあ、そのうち思いついたら、瞳子と遊びたいな、ってこと。乃梨子や祐巳さまには言い辛い事でも、私には言えたりすることもあるんじゃない?」
「おせっかい」
「似たもの同士だからね」
そう言って笑う私に瞳子は、駄目押しの「似てませんわ」を言うのだった。
………
福沢祐巳と、松平瞳子のこと。
祐巳さまは、瞳子の事情を全部知っていて、でもそれを知る前から瞳子の全てを受け入れていた。
瞳子は空回りしたり突っ張ったり色々して、最終的に祐巳さまの妹に納まった。
でもどういう訳か世の中、めでたしめでたし、という具合に上手く行かない。
瞳子は祐巳さまの前では不思議と物静かで、それが地で、祐巳さまの前でだけ素直なのだ、と思いたいけれど……教室での自然な拗ね方や、童女のような愛らしい振る舞いを、演技と思うのは私には難しい。
放課後の教室に祐巳さまがやってきて、愛らしいツインテールを振り振り私の所に歩いてきた。
その姿はまさにリリアンの天使、こんな可愛い人が地上に居ていいんだろうか、って感じの愛らしさだ。
「あの、可南子ちゃん、瞳子知らない?」
「おや、瞳子をお探しですか。そしてそれにこの、松平瞳子学の権威、細川可南子教授の力を借りたいってことですね」
「可南子ちゃん……変わったね」
「成長期ですから」
どうも微妙に祐巳さまが呆れ気味なのが気になるが、確かに瞳子は教室に居ない。かと言って私が行く先を知っている訳でもないのだが……。
「祐巳さま、無理してません?」
「え?」
「瞳子と話す時、やけにずっと笑顔で、必死なぐらいずっと話しかけてるなあ、って」
「そうかな?」
疑問系の言葉を口にしつつも、ギクリとしているのが露な表情、自覚はあるのだ、祐巳さまも。
「自然な形じゃないと、姉妹って続かなくないですか?」
「どうすれば自然になるのか、まだ手探りなんだよー」
祐巳さまはそう言って、少し困ったような顔をして続けた。
「瞳子の心が、まだよく分からなくて」
私は即座に答える。
「瞳子が祐巳さまを好きなのは、間違いないんですけどねえ。瞳子は、素直じゃないところがありますし」
ツンデレだから。
「ほんと、可南子ちゃん瞳子のこと詳しいね」
「松平瞳子学の権威ですから」
「私にもその学問、教えて欲しいよ」
「受講料は七万八千円です」
「高っ!?ぼったくり?!」
あははは、なんて私達は笑いあう。
本当は祐巳さまには、そんな学問や努力がなくても、瞳子と通じ合っていてほしい。
だって姉妹なんだから。
二人が互いに互いを求めて出来た姉妹。
それなのに、どうして上手くいかないんだろう?
「私はさ」
はにかむように祐巳さまは言った。
「瞳子に、笑って欲しいんだよ」
それには全く、私も同意見だ。
………
なんとなく、祐巳さまが瞳子を見つけられたのか、気になる。
私にとって瞳子や祐巳さまは、リリアン女学園での最重要人物なのだ。
あとは二条乃梨子やバスケ部の友達なんかが該当する。
さて私は、バスケ部期待のエースとして部活を終えてから、瞳子いるかな、と思って薔薇の館に向かう事にした。今日は薔薇の館で会合があった筈なので、上手くすれば瞳子に会える。
どんだけ瞳子好きなんだよ私は、と思わないでもない。
似たもの同士だから?
同じ祐巳さまファンだから?
瞳子が可愛いから?
全部正しいし、全部間違いでもある。
私の中にある、瞳子に対しての『特別』……。
そういえば昔、祐巳さまと海に行った事がある。
あの頃、祐巳さまは色々精神的にまいっていて、瞳子もまいっていた。
お互いがお互いを思いながら、まいりあっていたのだ。振り返れば何て滑稽な二人。
祐巳さまは祥子さまの卒業も近いのに妹も出来ず、色々と悩み迷うところがあり、一方の瞳子は選挙やなんやかんやでクラスで浮き、刺々しくなっていた。
そんな中、瞳子と祐巳さまが口論し、捨て台詞を残し去って行った瞳子を、見送るまで我慢してから泣きだした祐巳さまを見つけたのだ。
全く困った修羅場シチュエーション。
そして、私こと細川可南子はどうしたか?
華麗に授業をエスケープ。
祐巳さまを強引に誘拐。
平気で未成年飲酒。
あげくに、海へ行ったのだった。
すごい、我ながら狂ってるなあ。
青春の暴走そのものという行動の果てに、海に瞳子を呼び出して、私は二人の仲直りに一役買ったのだ。
そんな原作に無いもにょもにょな出来事は、Knokin'on Heven's Doorというssから来ているけど読まなくても構いません。今見ると死ねる。
さて、歴史は繰り返す。
私は不意に薔薇の館へ行く途中に気まぐれを、あるいは直感に導かれて、温室に進路を切り替えた。
人の気配のようなものを感じたのだ、温室の方向に。
それは虫の知らせのようなオカルト現象だったかも知れないけど。
ともかく私は温室に向かって歩き出す。
果たしてそこでは瞳子が泣いていて、私は既視感に襲われた。
既視感、所謂デジャブ。
気づけば私は温室に入っていた。
ワープしたのかと思うくらい、無意識で、一瞬で、温室に入っていた。
泣いている瞳子に遠慮しよう、とか考える暇もなく、体が勝手に入っていたのだ。
思わず瞳子に声をかけた。
「紅薔薇は、本当に温室と相性がいいわね」
泣きはらした顔で、瞳子が驚いて振り返った。
「可南子さん?! こ、これは別に泣いてた訳じゃ」
「瞳子、知ってる?」
「え?」
私は思いだす、無数に積み上げられたライムの緑色、そして崩れたライムの山の陰に隠されていた、透明なツードッグスの瓶の光。
不敵に笑え、私。
「天国じゃみんな、海の話をするんだぜ?」
私の、だぜ、という口調に、瞳子はあっけに取られた顔をしていた。
やれやれ、だぜ?
………
天国では海の話をする、というのは昔見た映画に出てきた台詞だ。
Knokin'on Heven's Doorという古い映画。男達はライムの山の前で話し合い、塩を舐め、酒を飲んでまだ見ぬ海の話をする。
そして余命幾許もない彼らは海を目指して歩き出すのだ。
「可南子さん! どこへ行く気ですか!」
「海!」
一言大声で答えると、私はリリアンの自転車置き場へ半ば強引に瞳子を引きずる。あの頃の私とは一味違うぜ、今の私は、とっても強引なのだから。
「意味が分かりません!」
「分かんなくていーーーーよ!!」
何もかも、分かってたまるか。
分かったような顔して、黙ってなんてられるか。
それが私。
細川可南子だ。
「最近、自転車通学してるのよね。足腰を鍛えるためにも」
KOOLに言う私に、瞳子は切れた。
「それで一体どうしろと!?」
仕方がないので私は超格好良く自転車にもたれかかると、ヘイ、カモン! と瞳子を手招きした。私かっけー!
「帰らせて頂きます」
言うが早いか背を向ける瞳子を、後ろから抱きしめた。ぎゅーっと抱きついて離さない。
「おーっと、そうは行かない。行くなー!行っちゃやだー!!」
「何考えてますの可南子さん?! キャラ変わってますわ!」
「わざと変えてるの。無茶苦茶な暴走こそが、必要な事だから」
私は瞳子を抱きしめたまま、えいや、っと瞳子を持ち上げ体を半回転させ、自転車まで背中を押した。
「滅茶苦茶強引ですわ、可南子さん」
「可南子と呼んでもいいのよ?」
「丁重にお断りします」
ツンデレめ。
「さあ、素直に私の自転車の後ろに乗りなさい」
「強引ですわ」
「瞳子は強引じゃないと乗らないもの。つまり、素直じゃない」
瞳子は一瞬、私をじろりと睨んで、それから自転車の後ろに乗った。これで準備万端だ。
「レッツ・GO!」
大きく自転車を漕ぎ出す、自転車がのろのろと進みだした。
「あっ、今おもえば、二人乗りは駄目じゃないですか、可南子さん」
「乗ってから気づいたの?……降りられるものなら降りてみろ!」
言うなり、ぐんとスピード上げた自転車が、大急ぎで校門を駆け抜けていく。
「ちょ!可南子さん!速い!」
「速い?この程度で?ここからが本番よ!」
言うが速いか、自転車は大きな坂道へと滑り込んでいく。
「ちょ、まさか、可南子さん!?」
「ブレーキは、踏まないっ!」
「ちょ、ちょ、ちょ、ちょおおおおおおおおおおおおっっっ!?」
下り坂めがけて全速力で突っ込んだ自転車の、更にペダルを漕ぐ、だが余りの加速に、もはやペダルを踏む事さえ意味を成さない。
「うううううう、ひゃっほおおおおおうっっっ!?」
ちょ、超怖ええええええ!!
風はびゅんびゅんと私達を通り過ぎ、自転車は飛ぶように走った。
二人乗りで重心のあやしい自転車は、非常に危うくふらふらと加速しつづけていく。
「ぶ、ぶ、ブレーキ!可南子さん!」
「ブレーキは、いらないっ!」
うわあああああ、死ぬ気か?! 私!?
第一コーナーが見えてきた。見事な灰色の壁へと、恐ろしいスピードで自転車が直進していく。
「ぶ、ぶ、ぶつかるううううううう!!」
「慌てないで瞳子!」
「何か策が!?」
「私のハンドリングで曲がりきる!」
「それは策じゃなああああああい!!!」
タイヤが火を噴きそうな速度で自転車がコーナーへ突っ込んだ、ここで炸裂する私の華麗なハンドリング……だが、曲がりきれない!!
「死ぬうううううううううっっ!!」
瞳子の悲鳴を聞きながら私はペダルから足を離し、奇跡の必殺技を炸裂させた!
秘技・壁蹴り走り!!
説明しよう、壁蹴り走りとは、自転車でコーナーを曲がりきれない時に壁を蹴って減速・方向転換するという、絵面的には格好いいが、現実的には効果が不明なコーナリング・テクニックなのだ! 良い子は真似しちゃ駄目。
「うひょおおおおおおおう!!」
自転車は壁蹴り走りで、全く減速せずにコーナーを曲がりきった、まさに奇跡、あと、足が死ぬほど痛い。
思わず、うひょおおおう、とか言っちゃったよ。リリアン生として云々以前に、女の子としてこれはない。
でも、それが面白かった。
コーナーを曲がりきった先の下り坂の傾斜はゆるくなり、私はペダルを強く漕ぎ始める。
「何故漕ぐんですか?!」
「この先の三連続ヘアピン、それを減速無しで駆け抜けて、峠の最速記録を塗り替えるわ!」
「いつの間にレースものに?!」
そしてBGMのユーロビートが(私の脳内で)かかり始め、自転車はますますスピードアップしてカーブへと突っ込んでいく。
ゴシャアア、とか、ゴアアア、とか、自転車は(私の脳内で)音を立てて走り、沿道の人々は(私の脳内で)「あいつ……ブレーキがトンでやがる」「マジかよ……最速伝説、塗り替える気だ」と応援の声をあげた。
「可南子さん!無理!無理!曲がれません!死ぬ!死ぬうううううううっっ!!」
現実のBGMは瞳子の悲鳴だけど、これはこれで趣き、あるよね?
「ひゃっっっはあああああっ!! しっかり捕まってなさいよ! 瞳子!! 時速300kmでコーナーへ突っ込むわ!」
「幾らなんでもそんなに速度は出てない!」
「可南子さん!おしっこ! と言い出したって、自転車は止めないんだから!!」
「それは止めなさいよ!!」
「超スピードで走る自転車から撒き散らされる少女の聖水!マニア垂涎ね!」
「いやな想像すんな!!」
馬鹿なことを言ってる間にコーナーが迫ってきた。やばい、マジやばい。
しかし私は減速……しない!!
自転車は矢のような勢いでコーナーに突っ込んだ、前より更に倍する速度で!
瞳子が叫ぶ。
「死んだ」
そこから始まる私の伝説、華麗なるハンドリングが……やっぱり無理!
フェンス直撃の火の玉と化す自転車!
「ぶ、ぶつかるううううっっ!?」
そこで秘技・フェンス掴み!!
説明しよう、秘技・フェンス掴みとは、自転車走行中にフェンスを掴んで方向転換するという、ほぼ無意味かつ不可能な裏技なのだ。真似したら死ぬ。
だがこの細川可南子の豪腕をもってすれば、見事なフェンス掴みでカーブを曲がりきるのだ! 腕が超痛い。
「だけど、三連続カーブですわよ!!」
次のカーブはもう目前に迫っている。
「ようやく乗ってきたわね!瞳子!」
「っていうか、もういいからブレーキかけてくれません!?」
「断る!!」
更にペダルを漕いで自転車を加速させる。倍プッシュ、さらに倍だ!
うおおおおっっ、もう、マジで速度的にやばい、音速超えた!
「超える訳ないでしょう!?」
「いつの間にか口に出していた!」
そして超音速の自転車がカーブへ突っ込んだ。
「ドリフトしてみせる!」
「二輪で!?」
炸裂する私の華麗なハンドリングぅ! やっぱり失敗、異様なほど傾いて膝が地面に当たりそうになるほどの体勢でも、自転車は曲がりきれない!
「今度こそ無理!」
「無理なんて、この世界にないっっ!!」
自転車が地面のわずかな窪みに引っかかった、そう、これが溝落としです。
説明しよう、溝落としとは、某有名峠でハチロク爆走漫画で生まれたテクニックで、カーブの減速に地面の溝を使うというテクニックだ。出来る訳ねえ。
しかも二輪の自転車で出来る訳ないだろ、という意見は黙殺させて頂く。
がたん、と自転車が大きく揺れた。
「ふおおおおおおおおおっっっ!!」
思わず奇声を発するほどの奇跡で、溝落としが効力を発しカーブを曲がりきる、だがその先には、最後のカーブが待ち構えていた。
「いよいよ、ラストだぜえええええええええっっ!!」
「可南子さん、それは何キャラ?!」
最後のカーブ、ますます私は強くペダルを漕ぎ、今、自転車は流星となった!
超高速で自転車はカーブへ突っ込んでいく。
「見えた!海だ!!」
カーブの向こうに広がるのは、砂浜と青い海。
私はこのカーブを、曲がりきる!
「減速!減速!」
「ブレーキはノーサンキュー!!」
それが、青春だ!!
私の奇跡のハンドリング……失敗!
そして今度の裏技は、ない。
「え?ないの?」
自転車が飛んだ。
ああー、人間って、空を飛べるんだ。
私も瞳子も、空を飛んでいる。
うわー、空、青いなあ……。
無重力状態……。
しかし。
ガシャン、と現実は急転直下。
砂浜への落下ダメージが大打撃。
自転車は砂浜へ投げ出され、私達も砂浜へ投げ出され、瞳子が狂ったように笑いだした。
「あはははははははは! うひゃひゃひゃひゃひゃひゃ! うほ、うほほほほほほ!!」
「良かった、瞳子、こんなに無邪気に笑って……」
「なんにもよくねえ!!!」
そう言って瞳子は私にラリアットを喰らわせるのだった。
やれやれ。
「何考えてますの!?頭おかしいんじゃないですか?!意味が、意味がわかんない!!」
訳わかんない!訳わかんない! といい続ける瞳子に、私は笑顔で言うのだった。
「でも、海、ついたじゃん」
私がそう言うと、私も瞳子も波の音の方に目を向ける。
するとそこには、雄大なまでの青い海が広がっているのだった。
………
さて。
細川可南子のこと。
私は、たぶん。
言葉にしなくても分かること。
ざざーん、ざざーん、という波の音。
沈んでいく夕日。
潮風の匂い。
カモメの声。
海面に夕日はきらきらと反射して世界をオレンジ色に染め上げ、砂浜に座る一人の少女の丸く柔らかな頬をも照らしている。
そのオレンジの光を反射する。美しく大きな瞳を持つ女の子に私は声をかけた。
「ちょっとは、面白かったでしょ?」
そう言って微笑みかける私に、拗ねた顔で瞳子は顔を背ける。可愛い。
「悪くないでしょ、広い海」
そう言って私は大きく伸びをする、でかい体に潮風があたって気持ちいい。
「人間ってさ、私もそうだけど、滅茶苦茶したり、迷惑かけたり、ぶつかりあったりしてさ。そういうもんじゃないのかな、って思うのよ」
瞳子は答えない、三角座りで海を見ている。眩しいくらいの茜色の海。
「親だから、姉妹だからって遠慮したり、我慢したり、それじゃどこへも行けないんじゃない?」
「『可南子』に、何がわかるのよ」
拗ねるような物言い。でも、不思議と嬉しかった。
「私に分かることかあ、あんまり無いかも。でも泣きたい時は泣いていいし、笑いたい時は笑えばいいし、甘えたい相手には甘えればいいんじゃない?」
そこで私は、何で瞳子が顔を背けたか分かった。
彼女は、泣いていた。
「夕日が、目に染みますわ」
「そうね」
私は肩が当たるくらい瞳子の近くに座り込んで、瞳子を抱きしめた。
「ちょっと可南子!?」
「私を悲劇のヒロインとか、好き放題言ったお返し、してなかったわね」
瞳子が私を見上げる。涙で濡れた瞳、夕日に染まる世界。
私はただ、じっと瞳子の眼を見返した。
繊細な顎のライン、少女そのものみたいに可愛い顔。
「私達、似てるのかも」
「可南子……?」
不安そうな瞳子の表情。
私はぐっと瞳子に顔を近づける。
どんどんどんどん、顔を近づける。
息がかかる距離で、私は瞳子に言った。
「私は、瞳子の事が好き」
「え?え?」
私はそのまま、瞳子にキスした。
強く強く抱きしめて、瞳子はいい匂いがして、その唇は予想通りとてもとても柔らかかった。
私が体を離すと、瞳子は、「え?え?」という表情のまま、顔は真っ赤で大混乱。私は立ち上がって、遥か向こうを歩いてくるツインテールを見つけた。
「ほら瞳子、行ってきなさい」
「わ、訳わかんない!訳わかんない!」
「悲劇のヒロイン扱いのお返しよ、ほら、行きなさい」
私は瞳子の腕をとって立ち上がらせて、その背中を押した。
何だか不恰好に歩く瞳子の後ろ姿を見ながら、不思議と私は、胸が痛むのを感じていた。
そんな、海の話。