ふっと手が離れた瞬間。
ずっと握っていたものが、すっといなくなる感じ。
蝶を追いかけて捕らえた時
手で作った囲いの中を覗いた瞬間、するりと蝶は飛んでいく。
そんな壊したくない大事なものみたいな感触。
あるいは、飼っていた小鳥。
羽の傷ついた鳥、ずっと一緒にそこにあると思った美しい羽、円らな瞳。
羽が治った瞬間、それは鳥籠を出て飛んでいった。
その方がきっと、鳥も幸せなんだろうけれど。
私は、動揺しているのだろうか?
守るべき大切な女の子が、大きな一歩を踏み出したこと。
私自身が、新たな一歩を踏み出そうとしていること。
行く先は見えなくて、道のりは遠い。
私は薔薇の館で机を拭いている。
誰もいない薔薇の館。
そこは、鳥籠みたいに見えた。
『まどろむ鳥籠』
「あ、令さま、来てらしたんですね」
「ん、ああ、今日はちょっとね」
祐巳ちゃんが扉を開けて入ってきて、紅茶の準備をはじめる。
「志摩子や、由乃は?」
「2人とも用事みたいです」
そう言って可愛い後輩はお湯を沸かしている。
かすかな炎の音、揺らめかないガスの火。
真剣な表情でそれを見ている祐巳ちゃんの顔は、いつもより憂鬱そうで。
選挙があり、祥子の卒業があり、瞳子ちゃんの事がある。
つまり、そういう顔。
いつも明るい子がそういう顔をすると、不思議とこちらも気が滅入る。
由乃の事があり、将来の事があり、卒業がある。
つまり、そういう事。
「「はあ」」
2人同時のため息、思わず私は笑った。祐巳ちゃんも笑う。
「ふふ、祐巳ちゃん、どうしてため息なんか?」
「令さまこそ、どうしたんです?」
私はにやにや笑ったまま答えない。
「そういえば、お姉さまは?」
「祥子はお勉強、一応受験があるからね、内部で推薦は貰えるだろうけど」
「令さまは・・・」
祐巳ちゃんは言いかけてやめる、気持ちは分かる。私だって勉強があるに決まってる。
でもわざわざここに来ている時まで、そんな事を言う必要がない、と思ったのだろう。
ほんとだよ。
なんで私はここに来ているんだろうね?
「そういえば祥子が、今朝ハンカチ引き裂いてたよ」
「お姉さまが?」
「そう」
私は笑う。
「祥子も結構、ストレス溜まってるのかも知れない。私がからかったのもあるけど」
なんだかんだで、祥子は祐巳ちゃんの選挙の事や、色んな事でやきもきしているのだ。
祐巳ちゃんの前でだけ格好つけてるのが面白かったので、からかい過ぎた。
「祐巳ちゃんもさ、ストレス溜まった時はハンカチを引き裂いた方がいいよ。それが紅薔薇の伝統。蓉子さまもやってたよ」
無論嘘だが、奇声をあげながらハンカチを引き裂く蓉子さまを想像したら、意外とはまってて笑えてしまった。
何故かその想像の蓉子さまは、「聖ー!!」とか叫んでいるのだが。
私はどうでもいいハンカチを持っていたので、紅茶を持ってきた祐巳ちゃんに渡した。
「はい、これ」
「え?」
紅茶を置きながら戸惑う顔をする祐巳ちゃんは可愛かった。
甘い匂いがする。
「ほんとにやるんですか?」
「もちろん、紅薔薇の伝統だからね」
「ほんとですか〜?」
露骨な疑いのまなざしに私は噴き出す。本当に分かりやすい子だ。
「ほんとだよ、蓉子さまのお姉さまなんか、鞄にたくさんハンカチを持ってたからね。蓉子さまも引き裂ける人間になれるよう特訓してたよ。結構力がいるんだ。祐巳ちゃんも紅薔薇になるんだし、練習したほうがいい」
祐巳ちゃんは、紅薔薇になるんだし、という言葉に反応してびくりと震えた。
そういうところも分かりやすい。
申し訳ないな、と思いつつ、ハンカチを持っている祐巳ちゃんを見つめた。
「いいんですか?これ」
「いいよ、安物のいらないハンカチだから」
祐巳ちゃんは神妙な表情をしていたが、やがてハンカチに力を込め始める。
それは上手く破れない。
「駄目だよ、祐巳ちゃん」
「駄目?」
「掛け声を出さなきゃ…横暴ですわ!お姉さまの意地悪、とか、聖!またあなたなの!とかね」
私は隠しに隠していた物真似芸を披露する、由乃と江利子さまにしか見せたことのない必殺の芸だ。
「似てます!!めちゃくちゃ似てます!!」
そう言って祐巳ちゃんは腹を抱えて笑う。
「ほんとは秘密なんだけどね…令ちゃんの馬鹿!とか」
「あははははは!」
この物真似を由乃に知られたら、凄い勢いでしばかれることだろう。
ほんとは聖さまの真似とかもあるけれど止めておこう、祐巳ちゃんは聖さまと仲が良いし、なんとなく聖さまにはこの手の洒落が通じないかもしれない。からかうのは好きだけど、からかわれるのは嫌いそうだ。
「じゃあ、やってみて?」
「え、あ、横暴ですわ!おね…ぶっ!あははははは!」
自分でまねして、自分で噴き出してしまって、祐巳ちゃんはハンカチを引き裂けない。
私も笑って、なんだか色んなことがどうでも良くなってくる。
暫く笑って、笑いやんで、何だか静かになった。
音のしない薔薇の館。
私と祐巳ちゃん以外、誰も来る気配がない。
ここが一つの世界で、私はもうすぐここからいなくなって、私はこの世界がこんなに好きだったんだ、と思った。
由乃も私から離れていくだろう。
私はまた、一人で何かを始める。
それが、何だか凄く疲れる事に思えた。
「令さま、紅薔薇の伝統って嘘でしょう」
と机に突っ伏しながら祐巳ちゃんが言う。
「嘘だよ」
と私も机に突っ伏して言う。
「励ますためですか?」
「まさか」
机に突っ伏したまま私は笑う。
「何だか馬鹿みたいよね、私達、年頃の女の子なのにさ」
私は苦笑している、祐巳ちゃんは不思議そうに聞いた。
「馬鹿じゃない年頃の女の子は、何をするんですか?」
さあ、と私は投げやりに答えた。
「彼氏作ったり、遊びまわったりするんじゃない?」
なのにわたし達はここに居て、なんだか馬鹿みたい。
本当に、馬鹿みたいだ。
「なんだかイヤになるね」
「イヤになりますねー」
そのまま祐巳ちゃんはずるずる机を滑っていく。
私もずるずる滑ってみた。
ずるずる、ずるずる。
なんだか面白くなってきたので、もっとずるずるしてみる。
そのまま床にまで倒れこんだ。
「ちょっと、令さま!大丈夫ですか!」
「あー、やんなるよー!由乃はもう巣立って、祥子は残って、私は受験して、やんなるよー!」
祐巳ちゃんが私を上から覗き込む。
「どうしたんですか、令さま、珍しい」
「祐巳ちゃんも、イヤになるんでしょ」
「ええ、でも、私は、まあ」
私は隠していた物真似を披露する。祐巳ちゃんの声色だ。
「あー、やだなー!選挙はあるし、お姉さまは卒業するし、瞳子ちゃんには断わられるし、いやだぽこー!」
「誰の真似ですか」
「祐巳ちゃん」
「私、ぽこなんて言いません!」
「いやだぽこー!」
とうとう祐巳ちゃんも床に倒れこむ。祐巳ちゃんは言った。
「いやだぽこー!」
しょうがないので2人で、いやだぽこー、とか叫んだ。
何回か叫んでいるうちに、馬鹿みたいになって笑った。
なんだかよく分からなかった。
もやもやしたし。ぐるぐるした。
「ねえ、令さま、私、大丈夫なんですかね?」
「たぶん」
「お姉さまもいなくなって、瞳子ちゃんに断わられて、自分が駄目な気がして、私、寂しいのかも知れません」
私は祐巳ちゃんの上に覆いかぶさる。祐巳ちゃんは柔らかかった。
「私も駄目なんだよ、なんだかんだで、不安だったり、寂しかったりさ」
「似たもの同士ですね」
「そうかもしれない」
「私、大丈夫ですかね」
「たぶん」
言いながら私は祐巳ちゃんを抱きしめた。やっぱり祐巳ちゃんは柔らかかった。
「どうなるんでしょうねえ、私」
「どうなるんだろうねえ」
なんとなく抱き合いながら、なんとなく見つめ合って、私も祐巳ちゃんも隙だらけで。
なんとなくキスした。
「悩み、青臭いですかね」
「そうかも、私もだけど」
何回かキスした。
「駄目ですよ、このままじゃ、恋人になっちゃいますよ?」
祐巳ちゃんは笑いながら言った。
「それは駄目だなあ、祐巳ちゃんは祥子や瞳子が好きだし、私は由乃がいるし。ぐだぐだじゃない」
「まったく、ぐだぐだですよー」
「ぐだぐだは駄目だー!」
私は祐巳ちゃんから離れて転がる。
天上を見上げて大の字になった。祐巳ちゃんはぽこぽこって感じに言う。
「彼氏を見つけて遊ぶ年頃の女の子はどうしたんです?」
「あー、彼氏かー。そんなん出きるのかなー」
「かなー」
なんだか将来の事とか、よくわからない。
私は無意味にごろごろ転がって、壁にぶつかってまたごろごろ転がった。
どこへ行くのかはよく分からない。
祐巳ちゃんは目を瞑って若々しい丸い頬を見せていて、私はまたごろごろ転がって。
なんだか、深く深くまどろんでいるような気分になった。
どこまでも転がりながら。
了