どこでもない場所。

金色の蝶が舞っている。

ひらひらと、ひらひらと。

その漆黒の空間で、蝶は言った。

「ここは現実と精神の狭間」

言葉は、空気を振るわせる振動とはまったく違う形で空間に、私に浸透した。

しみこむ、しみこむ、感じ。

「ここで自分の名前を名乗れるものは少ない」

と蝶は言い、私は問われる。

「君の名前は?」

私。

その不確かなもの。

「私には……名前がありません。強いて言えば、名前がないのが名前です」

金色の蝶が一瞬、消えようとした。気にせず私は続ける。

「それでも、人が呼ぶならば福沢祐巳というのが私でしょう。しかし『顔』と『名』を捨てるのが、本当の私の流儀ではあります」

蝶が私の指先に止まった。自然、腕が上がる。

「君は、私が今まで見たこともない客人だ。きっと数奇な運命を辿ることだろう」

金色の蝶が、仮面をつけた男の人に変貌する。背の高い、白いスーツの男。

「君の今の力は弱い。しかしその無の器を、絆の力で満たす事が出来れば……誰か他人の『顔』と『名』でそれを埋められた時、君は何事をも可能にする力を手に入れるだろう」

いつの間にか、金色の蝶が何匹も男の周囲を舞っている。金の燐粉、金の光。男が頷く。

「よろしい」

金色の蝶の光が増していく。

「神のように慈愛に満ちた自分、悪魔のように残酷な自分、その精神に棲む神と悪魔、君に授けよう、精神そのものの超常の力……」

急激に世界が遠のく、蝶が遠ざかる、何もかもが流れ去って行く。圧倒的なスピードで。

「ペルソナの力を」

視界が暗転した。

 

 

10月29日(月)

 

目が覚めたら病院だった。

ベッドの柔らかな感触、白いシーツ、病院服の肌触り、窓で揺れるカーテン。

個室のようだ。茶色い、木のような色をした部屋。腕には点滴が刺さっている。

「目、覚めた?」

私は声をかけられて初めて、ベッドの脇にその人がいるのに気付いた。

色素の薄い髪に、彫りの深い顔立ち、彫刻のように整った美貌の持ち主、少し長くなった髪がカーテン越しの光に照らされていた。

「聖さま……」

佐藤聖は、私にとって最も印象深い先輩の一人だ。

私が散々にうちのめされた時、佐藤聖はいつだって私を、福沢祐巳を助けてくれた。

恩人、好意的存在。

さらに彼女は、私と同じ失望の中を生きている同士でもある筈だった。

何故なら彼女は繊細で、弱く脆い女の人だから。

私は、そういう繊細で弱い人々に好意的だった。少なくても人生の王道を歩く人間たちに感じる劣等感や失望、悪意を感じたりせずにすむ。つまり、私は本質において、とてつもなくひねくれていた。

聖さまはベッド脇で笑う。丸椅子に手をつく行儀の悪い姿が妙に様になっている。

「一週間も眠っていたから心配したよー、祐巳ちゃん。何回もチューしちゃおうかと思ったよ」

「訴えますよ?」

「幾らでも私への愛を訴えるといいよ?」

「どうやら次に会う時は法廷のようですね」

聖さまが噴出す、私も笑った。

そして少し真面目な顔になって聖さまが言う。

「いやー、祐巳ちゃん、驚いたよ。まさか影時間の中で祐巳ちゃんに会うとは思わなかったなー。しかもペルソナまで発動させちゃうし」

「影時間?」

「んー」

聖さまが思案気な顔になった。どうしよう、言っていいのかな、というような。

私は是非聞きたかった。このままでは、余りにも訳が分からない。

そんな迷う聖さまを助けるように、病室のドアが開いて、スーツを着た痩せた男性が入ってきた。

長い髪を後ろで束ねて、眼鏡をかけた線の細い、30代くらいの人物だ。

「お、ごめんごめん、立ち聞きする気はなかったんだけどね。迷わず言っちゃっていいんじゃないかなあ、佐藤君。あ、初めまして福沢さん。僕は幾月修一と言います。イ・ク・ツ・キ。言いにくいよね、ほんと」

どこか間の抜けた感じのする、穏やかな声の人物だった。

愛嬌のある笑顔を私に向けている。

「聖さま、この人は?」

「あー……」

何から話していいのか、という顔を聖さまがしている。一方、幾月という男の人はにこにこと微笑んで言う。

「今、目が覚めたばかりなんだろう?今日、いきなりそんな色々話すのもナンだしね。僕も佐藤君も逃げやしないさ。後日ゆっくり説明する形でいいかな?」

丁寧に私に確認してくる。大人だけど、幾月という人に偉ぶったところはなかった。

頼りない感じもするけど、良い人そうだ。

「分かりました……私は今説明していただいても余り困りませんが、そちらにも事情がおありでしょうし」

「そうそう、とりあえず今は体を休めなきゃ。私も昔はよく徹夜したりしたものだけれど、得られたのは麻雀の負け金だけだったからね」

 そう言ってにこりと笑うと、幾月さんは病室を出て行った。

残された聖さまと私は、なんとなく再び話し始めるタイミングを逃して、少し沈黙する。

一週間も休んで、学校はどうなってるのだろう、とかその一瞬で色々思った。

「あ、薔薇の館の方はみんなで何とかしてるから。私もそれとなく様子を見に行ってるし」

「え、あ、すいません」

顔に出てたようだ。

「いいっていいって、色々、これから大変かもしれないからさ」

「これから?」

聖さまは少し顎を掻いて言う。

「幾月さんが言って良いって言ってたし、祐巳ちゃんも聞きたいようだから言おうかな……」

「聞かせて下さい」

訳の分からない事が多すぎる。気になってしょうがない。

そんな私の気持ちを察して、聖さまは話し出した。

「祐巳ちゃんが一週間前に迷い込んだあの時間なんだけどさ、十二時から始まるあの時間、あれを『影時間』って言うんだ」

慎重な話し振り、私は相槌を打つ。

「影時間?」

「そう、一日は24時間だけど、その中に隠れて誰も認識できない秘密の時間。普通の人間は棺桶みたいな形に『象徴化』する。祐巳ちゃんも見たでしょ?いくつもの棺桶みたいなやつ」

「見ました。凄い不気味で、祐麒や、お父さんやお母さんも……」

思い出して、不気味さにぞっとする。あれが、影時間での人間……。

そんな祐巳の気持ちを吹き飛ばすように、軽い口調で聖さまは続けた。

「そうそう、だから普通の人には影時間は体験できないんだ。象徴化しちゃってるからね。でも稀に影時間に適正のある人間がいる。そういう人間は影時間を体験できるんだ。あと影時間を体験できる人間は、『シャドウ』に呼ばれた人間だけだね」

「シャドウ?」

「祐巳ちゃんが戦ったあの怪物を、私達は『シャドウ』って呼んでるの。あれに呼ばれた人間は、その精神を食べられてしまう。そうなると、一切の意志を失って、完全に無気力になってしまうんだ。そういう状態になった人を『影人間』って呼んでるんだよ」

 一気に説明されて、私は少し混乱する振りをした。聖さまの言った内容を私は完全に記憶していたが、普通の女の子は一気に言われたって全部覚えられたりはしない。

「まあ、影人間は見た方が早いかもね」

 とそこだけ、聖さまは暗くトーンを落として言った。

 そのタイミングで看護婦が入ってきて、面会の時間が終わりに近づく。

 聖さまが笑って席を立った。

「詳しいことは、また明日」

 

 

10月30日(火)

 

私は昨日、わざと影時間になるまで起きていた。

聖さまの言う通りだった。

全ての人間が棺桶に変わる時間、無人の病院。

深夜の病院というロケーションで、無人で棺桶だらけというのはとにかく怖すぎる。だから私は影時間になって早々にベッドに潜り込んだが、とにかく夢ではない事は確認した。十二時の世界は本当にあったのだ。

そして、ペルソナも。

私は、ペルソナについてだけは聖さまに聞いていなかったので、その事を思い出して悶々とした。

あの、奇妙な力、能力。

今はあの銃がないから出せないけど……あれもまた、本当の事だったに違いない。

とんでもない何かが起きようとしている気がして、聖さまが来るのが待ち遠しかった。

退屈な日常。

平凡な人生。

本当はそれが好きではなく……いや、思春期で平凡を望む人間などがいるのだろうか?

特別な何かになれる事を喜ばない、そんな人間が?

私は、自分がワクワクしているのをうっすらと感じていた。

病室で目を閉じ、その新しい足音をじっと待つ。

しかし不意に、底なしの虚無感が私を襲った。

圧倒的な虚無、空っぽ。

喜びも。

興奮も。

全て偽者の気がした。

まがい物。

借り物。

これは、かつて存在した福沢祐巳の感情の借り物であり、私はその紛い物の入れ物だった。

私は、誰でもない、私は私ではない。そんな気がして。いや。

それは事実であり、福沢祐巳の精神が存在しないその事実に、かすかな動揺を……いや、恐怖を覚えた。

偽者の精神では、人格を維持できない気がした。

私はなによりもまず、福沢祐巳を取り戻さなければならない。福沢祐巳の残滓がこの体に残っているうちに。

目を閉じる、底なしの虚無感。

冷や汗。

悪夢。空虚。

「祐巳ちゃん?」

聖さまの声。

「どうしたの、祐巳ちゃん?どこか……」

「大丈夫です」

私は笑顔を見せた。福沢祐巳の精神が残っていない事を、誰かに悟られてはいけない。

たぶん、福沢祐巳は、解離性同一性障害の境界例だったんだ。

つまり、いまいる無数の仮面を使って対人コミュニケーションを行う名もない私と、福沢祐巳という名の少し鈍い少女との、二つの人格が共存していた。それこそが、彼女の無敵の八方美人の根拠だったのかもしれない。

しかし福沢祐巳は去り、根を失った葉として、今はただ私だけがいた。

知られては、いけない。

「退院の許可が出たよ」

と聖さまの後ろに控えていた幾月が言った。脇を絞られた茶系統のスーツを着ている。その前に立つ聖さまは珍しく長いスカートに、柄のあるシャツにスカーフを巻いて身に着けていた。

「分かりました。着替えますね……そういえば、この着替えを持ってきてくれたのは、聖さまですか?」

「うん、御両親にあってね。なんか緊張したよ。思わず、娘さんを下さい、とか口走りそうになった」

「いつでも貰って下さいよ」

そう言って笑うと、聖さまは曖昧に微笑むだけだった。攻められると弱い人だ。動揺して切り返せなくなっている。

「どうしたんです?もらってくれないんですか?」

「いやー、あはは、今日の祐巳ちゃんは厳しいね。じゃあ、着替えるんだし、部屋を出るね」

と言って、聖さまは幾月と一緒にさっさと出て行ってしまった。へたれだ。

私は聖さまが適当に持ってきてくれた私服を……なんでミニスカートを見つけてくるかな、あの人は。

ともかく、それに着替えて廊下に出た。

「お、可愛いねー、祐巳ちゃん。私の見立てに間違いはなかった」

「なんでよりによってミニなんですか」

「私の趣味」

悪びれる様子もない。さも当然のように言いやがる。やはり法廷で決着をつけるしかなさそうだ。

「幾月さん」

聖さまが幾月さんに声をかけて言った。

「病院を出る前に、祐巳ちゃんに面会してもらっていいですか?」

ふうむ、と言って幾月さんが顎に手を当てた。

「そりゃあ、構わないけど……まあいいや。じゃあ、僕は外で待っておくね」

そう言うと、幾月さんはさっさと廊下を歩いて去っていってしまった。

「ごめん、祐巳ちゃん、ちょっと一緒に来て」

そう言って聖さまは自然に私の手を握る。意識した様子もない。

こういうところが、聖さまの、なんていうか良くないところのような、良いところのような。

ともかくこの清潔な病院の廊下を、聖さまに引っ張られて歩く。

なんとなく、その手を振り解いたりはしなかった。何故だろう。聖さまが、握っていてほしそうに思えたからかも知れない。そのように相手の精神の機微に合わせて行動するのが私の習慣だった。

すれ違う看護婦さんや患者さん達。窓の外から見下ろせる中庭、秋の日差し。

暫く歩いて、聖さまは一つの病室を指差した。

「ここ」

そこには、加藤景、と入院患者の名前が記されている。

聖さまの大学での親友。

私にとっても恩人。

入院?

聖さまの握っている手に、力が込められている気がした。

そしてドアが開く。

私の部屋と同じような風景。

違うのは、ベッドの上にいる人物。

加藤景。

記憶にある理知的だった風貌。

大きなギャップ。

ベッドの上にいる人物の表情からは知性の光が消え去り、彼女はただ弛緩し切った表情で壁を見つめている。いや、彼女は壁なんか見ていない。その目は、何も見ていないのだ。

だから私と聖さまが近くまで行っても、彼女はこっちを見さえしなかった。

うー、とか、あー、とか、唸るばかりで。

聖さまとベッドの脇に並んで、私はその姿を呆然と眺めた。

福沢祐巳の残滓が、大きな衝撃を受けている。

あれほど知的で、しっかりしていた景さんが、これほど変貌したことに。

上手く言葉で表せない、重苦しい何かを感じ、ふと聖さまの顔を見上げると、そこには今まで見たこともないほどの険しい表情が浮かんでいた。

聖さまが血を吐くように言う。

「祐巳ちゃん、これが無気力症、『影人間』だよ」

ぞっとした。

人間の精神、人格を、ここまで蹂躙するその運命、存在に。

「景、今日は祐巳ちゃんを連れてきたからね」

と、必要以上に明るく言う聖さまが痛々しかった。いたたまれない気分になって、どうしていいか分からなくなる。

聖さまは暫く景さんと色々話して、それから病室を出た。

出た瞬間、聖さまは途端に表情を変え、さっきの恐ろしい顔で窓の外を睨んでいた。

「祐巳ちゃん、景がああなってね。私はその原因を探して……いや、ただ単に自暴自棄になって街を彷徨ってた。それで私は影時間に巻き込まれて、シャドウに襲われ、何がなんだか分からないうちに死を覚悟した。その時は、それで死んでも構わない気がしたよ。でも、そこで幾月さんが現れて、私に召還機を渡したんだ。それが、私にとって全ての始まりなんだよ」

強い決意、悲壮なまでの。

それが表情に表れている。

「リリアンが塔になってたの、見たでしょ?あれは『タルタロス』って呼ばれてる。幾月さんは、ずっとシャドウやペルソナの事を研究してた研究者なんだ。『シャドウ』は『タルタロス』から現れて、人を『影人間』にする。『もしも影人間を元に戻せるとしたら』その秘密はタルタロスにあるに違いないんだ」

そこで聖さまは表情を緩める。ごめんごめん、怖い顔しちゃって、とでも言うように。

「それでね。『ペルソナ使い』だけがシャドウと戦えるんだ。全ての機械が止まり、あらゆる攻撃が通用しないシャドウを倒せるのは『ペルソナ』だけだ。シャドウは影時間にしか現れない。だから、『影時間』を認識できて、攻撃手段である『ペルソナ』を持つ、『ペルソナ使い』にしかこれは出来ない事なんだよ。だからこそ、私は戦うって決めた、景を元に戻すために。そのためだったら何だってする、そういう気持ちなんだ」

不敵な目つき、覚悟、気負い。

それから、聖さまは少し照れくさそうに笑った。

「ごめん、一方的にこんな話をして。でも祐巳ちゃんにも、知って欲しかったから」

聖さまは話をこう締めくくった。

「同じペルソナ使いとして」

なるほど。

上手いな。

私が協力せざるをえなくなる見事な布石だ、と冷めた精神が言う。彼女は無意識かもしれないが、私を利用しようとこの話をしたのかも知れない。

だがどちらにしろ、私の決意は固まっている。

もしも景さんが、『影人間』がタルタロスを調べる事で元に戻るのなら。

少しでもその可能性があるのならば。

それはつまり。

『福沢祐巳』を奪還できる可能性もある、という事だった。

私の意志は決まった。

『私は必ず、福沢祐巳を取り戻す』

微笑みと共に私は言う。

「聖さま……自分を追い詰めちゃ駄目ですよ。必死になりすぎると、きっと手も目もふさがっちゃうから」

自分でも驚くほど穏やかで、聖さまを和ませる、聖さまの望む声が出た。

彼女は少しはにかんで言う。

「ありがとう、祐巳ちゃん」

そう言って私を見る目は、打算ではなく、親愛の情があるように見えた。

どこか悲しげな、目。

その目を見ていると、何か、私と聖さまが少し分かり合えた気がして、そして。

不意に、声が響いた。

聞いたこともない、声。

(我は汝、汝は我。)

(星の絆はここに生まれた。)

(今後星の力を使う時、絆の力が汝を助けるだろう。)

………

声は消えた。

「祐巳ちゃん?」

「何でもありません」

何だったのだろう。今のは。

絆の力。そんな言葉を、誰かが言っていた気はする。

ともかく、私と聖さまは並んで病院を出た。

少しだけ分かり合って。

 

 

病院の外には幾月さんと、お父さんとお母さん、祐麒まで居た。

「なんで、みんな!?」

幾月が、いやー、ははは、と笑いながら言った。

「だってそりゃ皆心配して来るよ。だって福沢さんは治療のために、これからは療養施設から学校に通う事になるだろう?定期的には会えるけど、退院の時ぐらいは顔を見たいに決まっているよ」

なんだと?

軽い調子で言っているが、なんだか幾月は訳の分からない事を言わなかったか?

「祐巳ちゃん、大丈夫なの?」

「祐巳は健康だけが取り柄だと思ってたのに」

お母さんは心配そうで、祐麒にはどこかふて腐れた様子があった。お父さんにいたっては無言だ。

なんとなく、全員が激しく心配している様子がある。

幾月がすっと耳打ちした。

「強引ですまないね。君を対シャドウ用の寮に移すことにした。ペルソナ使いとして私達に協力してほしい」

「強制ですか?」

「任意だが……断わられると凄く困る」

本当に困った声で幾月が言う。

「事前に確認してほしかったです」

「本当に申し訳ない。どうしても嫌だというなら……」

「いえ、構いません」

勝手に決められたのは不愉快だが、結果としては願ってもない状況だった。

私が完全な福沢祐巳ではないことを、家族は見抜く可能性が……あると思いたい。

そして見抜かれる訳にはいかなかった。

もしかしたら実際は気付かないのかも知れないが、それはそれで、新たなる失望の一部になる気がした。

「心配かけてごめん。でも、これから療養に専念するし、ちゃんと学校にも通うよ」

しかし奇妙だ。

学校に通えるなら、自宅療養でもいい筈だ。どのように幾月は説得したのだろう。

幾月に何か底知れないものを感じた。

「電話をかけてね、祐巳ちゃん」

「困ったことがあったら言えよな」

お母さんも、祐麒も、抑えきれない感情をどうあらわしていいか分からない、そんな表情だった。

お父さんはただひたすら沈黙している。

「それじゃそろそろ……」

幾月がそう言って、止まっていたリムジンの後部座席のドアを開いた。

リムジン……!

なんだこの男は。

聖さまが乗り込み、幾月が私を促がす。

乗り込もうとする私の背に、お父さんが声をかけた。

「祐巳、たとえ何があろうとも、私達はお前の味方だ。お前は、私達の血を分けた子供なんだからな」

朴訥とした口調だった。

不器用な父の言葉。

私は頷く。そして不覚にも、精神が揺れるのを感じた。

私の精神はともかく、この肉体は、まさに血を分けた彼らの子供だった。

その意味で、私もまた彼らの子供だ。

だから強く頷く。

「必ず戻ります」

福沢祐巳と共に。

必ず。

後部座席のドアが閉められ、運転席に幾月が乗り込み、車が滑り出しても、私はずっと『私の』家族を見つめ続けていた。

その姿が消えるまで。

 

 

対シャドウ対策特別寮。

その前で車は止まった。

「いやー、福沢さんはご家族から愛されてるから説得が大変だったよ。ほんとうに良いご家族だねえ」

そういいながら、幾月が後部座席のドアを開ける。私は降りて言った。

「どうやって説得したんです?」

「なあに、ペルソナは精神の力、こう見えて僕は研究員だからね。僕の研究対象は精神、蛇の道は蛇、誠心誠意の説得だよ」

胡散臭い物言いだったが、どう問い詰めていいかも分からなかった。

だから私はただ一睨みして、寮の玄関の階段の前に立つ。

かなり巨大な寮だった。木で出来た門も大きい。四階建てのようだ。

後ろから降りてきた聖さまが私の肩を叩き、幾月は駐車場に車を止めるべく発進させた。

「ようこそ、武蔵台寮に」

とびきりの笑顔で、聖さまが笑った。そしてドアを優雅に開けてくれる。一瞬のお姫さま気分。

私は中に入り、まるでホテルのように広いロビーや受付、大きな階段、敷かれたふわふわのカーペット、吊られたシャンデリアなんかに感嘆しながら、届いていた荷物を部屋に運んだ。

「足りないものがあったら言ってね。持ってくるし。自分で取りに行ってもいいけどね」

「何から何まですいません」

私は部屋に行き、荷物を開け、シャワーを浴び、とりあえず寝ることにした。

使い慣れないベッド。

家のよりずっと高級そうだ。

柔らかな枕。

そして初めて見る天井……(祐巳ちゃん!)

フラッシュ・バック

記憶が猛然と襲い掛かってきた。

眼前には巨大な暗黒の塊がいて私は銃を握って引き金を引く。「ペルソナ」

何かが/世界が弾けた。弾けた世界から私の頭の中身が/精神が流出し、そこに一つの実体的存在を確立する。

ペルソナ。

暗黒の塊が振り上げる腕を『それ』が受け止めた。空気が軋むように揺れ、衝撃が宙を走った。

私のペルソナ/私の精神の持つ竪琴が相手の腕を受け止めている。誰かが叫んだ。私が/ペルソナが叫んでいる、振り上げられた腕が怪物に叩きつけられ、五メートルを超える敵の巨体が大きく揺らいだ。私は、何故かそのペルソナの名を叫んでいる自分に気付く。

「オルフェウス!!」

そしてオルフェウスは炎を放つ。

高温の火球が怪物に炸裂し、今までにないほど敵はその体勢を崩した。誰の目にも明らかな隙。

「祐巳ちゃん!総攻撃だ!」

聖さまが叫ぶ。総攻撃?一瞬の逡巡のあとに迸るイメージ。ペルソナは精神の力、守ろうという精神を捨てれば、ペルソナを構成している精神の力全てが矢となり剣となり奔るだろう。総攻撃。

聖さまのペルソナが光と化して奔った、私のペルソナも続く、二つの光の矢が交差した瞬間、そこに精神の光が炸裂/爆発し、その圧倒的なエネルギーの奔流を私は見た。目が焼かれそうになるほどに。

そしてそれがおさまった後には、怪物の姿は無かった。

つまり、私は敵を倒し、消し去っていた。

勝利の感覚。

「………」

私は寮の部屋で天井を見上げている。

五本の指を広げて天井へ伸ばしてみた。ただの細い指。

これからのこと。

戦いのこと。

自分のこと。

目を閉じると、聖さまの声が蘇った。

 

「ようこそ、武蔵台寮に」

 

 

 

To be continued

 

 

あとがき

 

 

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