乃梨子と石畳の町に旅行に来た。
石段の坂道、坂道の両隣の家々、庭に植えられた緑の木々、坂道には木漏れ日が差し込み、斑状の影を石畳に映している。
夏の太陽の日差しはまぶしい、緑が眼に痛いくらい輝いて見えた。この街は石の街であり、緑の町だ。本当に木々が多い。
私と乃梨子は海から来る風を感じながら、開け放した部屋の窓から外を見ている。ホテルというには、余りにも小さな宿、庭先にはやはり緑の木。
凄く素敵なバカンスになりそうだわ、と思っていた。
乃梨子が突然いなくなるまでは。
『風景の旅』
朝、起きたら乃梨子がいなくなっていた。
私は書置きを探してテーブルをひっくりかえしたり、箪笥の引き出しを開け放ったり、押入れの奥を覗いたりした。
でも乃梨子はいない。
どこへ行ったのかしら。
何もかもが昨日のままで、乃梨子の着替えも、荷物も、部屋の隅にぽんと放り出されている。
今日は、丘の上の教会を一緒に見に行く約束だったのに。
先に行ったのかしら?
でもなんで?
私はホテルの受付に聞いてみる。私の連れはどこへ行ったでしょうか、と。
「丘の上の教会へ行くと言っていましたよ」
そういわれて、少し安心した。理由は分からないけれど、丘の上の教会へ行けばいいんだ。
きっと、いいんだ。
そう思って、私は歩き出す。
丘へ続く石畳の坂、左右から延びてくる緑、強い夏の日差し。
麦わら帽子が熱せられて額が熱くなる。木の下を選ぶように歩いても、影の斑の間からは木漏れ日が差してくる。
白いワンピースは少し汗ばみ、私はアイスクリームが食べたくなった。そんな夏の感触。
教会へと続く石造りの道、坂道の頂上に広がる緑の野原、植えられた木々の向こうに見える小さな教会。
野原の上を教会までまっすぐ続く石の道を歩く、教会の向こうには林が広がっていた。
私はその教会のドアを開ける、中は薄暗く、篭もった匂いがする。少し湿って、ひんやりした空気。
ステンドグラスが、暗く陰に縁取られ、黒の中に浮かび上がって見えた。
イエス・キリスト。
私はステンドグラスの中で浮かび上がったイエス様に魅せられて、呆けたようにそれを眺めていた。
説教壇には誰も立たず、お御堂の中はがらんとしている。
小さな物音も反響して、何度も何度も響く。
私がつぶやいた小さな神への祈りが何度も反響し、私はふと気付く、私は、乃梨子を探しに来たんだ。
そして乃梨子はここにはいない。
どこを探しても、全く見つけることは出来なかった。
ホテルへ帰って受付にもう一度聞くと、受付は部屋を間違えていた。
丘の上の教会へ行ったのは、私とは全く別の部屋の人間だった。
「そんな間違いってあるかしら?」
「申し訳ありません、でも、私はてっきりお客さまが206だと勘違いしまして、申し訳ありません」
何度話しても、受付は乃梨子を知らず、話はどこまでたってもそこから進めず、どこへも行かない。
「そもそも、お客さまはお2人でしたか?」
そんなことまで言い出す始末。
どこへも行けない。
そして乃梨子は帰ってこない。
私は仕方なく、部屋で一人でしゃがみこんだ。
警察に連絡しなければいけないのだろうか、それとも両親に?乃梨子が一緒に住んでいた叔母さんには?
私が不安と息苦しさと胸の痛みに耐えられず、思考を放棄すると、なにか小さな生き物が目の前を横切った。
鼻だった。
正確には、体の大半が鼻で、鼻自体が足のように地面に接して、それによって歩いている。
鼻だけの生き物。
それはキキっと鳴いた。
「探し物なら市場だぜ」
とその生き物は独り言を言う。
「何でもあるしな」
ふうふうとそれは鼻息を噴いている。
「もしも、緑の鍵があるなら…」
鼻はそのまま窓から出て行ってしまった。
私が窓から外を覗くと、海で市場が開かれているのが見えた。
潮風の中、幾つもの屋台が立ち並んでいる。
遠い潮騒の音、行き交う無数の人々、屋台からぶらさがる品々。
人々のざわめきで海辺は満ち、市場は砂の上で熱気に満ちて続く。
あやしげなアクセサリー、鉄の鍋、海老、さまざまな市場の品物達。
そして志摩子は射的の屋台で緑の鍵を見つける。
「あれを取るにはどうしたらいいの?」
店主は無言で志摩子に銃を渡した。射的に良く使われるコルクを飛ばす銃だった。
志摩子は鍵を取るために何度も何度もそれに挑戦した。
必死に緑の鍵を狙って撃つ、経験のない志摩子は外す、何度も何度も外す。
そして全て失敗した。
店主は言う。
「もう店仕舞いだ」
「お願いです、あの鍵だけでも何とかください」
「駄目だ、あれは景品だ。手に入れたいものは、きちんと手続きしなければ取ることは出来ない。そしてそれには、しばしば…」
あの時の鼻が突如現れて、さっと鍵を取って駆け出していく、店主がそれを止める間もなかった。
鼻は砂浜の向こうへ駆けていく。
「あれは?」
「鼻行類だ、この辺じゃちょっと有名な鼻行類だよ」
そういう店主は少し寂しそうだった。
志摩子は記念品に小さな鼻のキーホルダーを貰う。
そうして海の市場は終った。
そのあとには、足跡だらけの薄闇の砂浜だけが残った。
ホテルに戻っても乃梨子はいない。
志摩子は、迷う。
どこかに連絡すべきだろうか。それとも。
ずっと、不安だった。
乃梨子は、本当は、この旅行が嫌だったんではないかと。
昨日の晩の決定的な進展が耐えられなかったんじゃないかと。
志摩子がそれの細部を思い出そうとすると、電話が鳴った。
電話は大きな音で鳴り続ける。
志摩子は昨日の夜を上手く思い出せない。
突然鼻行類が窓から入ってきた。
いくつもいくつも入ってきた。
部屋が鼻行類だらけになったところで、緑の鍵を持った鼻が言う。
「なにもかも、手遅れなんだよ」
電話のベルはどんどん大きくなっていく。
受話器を取ることがなかなか出来ない。鼻行類は増え続ける。
夜の潮風と波の音。
昨日の夜の波にまぎれた小さな声。
月明かりの下の青い夜、青いシーツ。
彼女の首筋も、白く、青い。志摩子は彼女の胸に鼻先をうずめていた。
鼻行類は言う。
「もう、彼女は帰ってこない」
電話の音はもはや耳を切り裂かんばかりの大音響になっている。
増え続けた鼻行類は、床を埋め尽くし、積み重なり始めている。
そして、志摩子は、その受話器を取った。
了