台所の流しの中にはコップが三つ、透明に水滴をつけて、どんな水流や磨きを受けても耐えて、じっと沈黙している。

 コップ達と同じように長い沈黙の時を耐えてきたフライパンは、底にこびりついた何かを長時間焼かれ続け、判別不能な黒い染みが墨で塗られたように定着している。

 ここにある食器たちの全てが、長い年月を訴えていた。

 錆び付いた排水口、ぽたぽたと汗を流すように垂れ続ける水滴、ところどころ壁や戸棚にこびりついた茶色い染み、透明なコップにも、牛乳を飲んだ痕であろう、微かな曇りがついていた。

  生活臭というものが、ここのあらゆる場所にこびりついている。

 江利子はここに無言で立っている内に、いつしか自分もそんな風に、茶色い染みの一部のようになるのだろうか、と思った。

 それを本当は、喜ばなければならない事なのだろうけれど。

 なんとなく気が向いて江利子はスポンジを握る、洗剤をつけてあわ立て、コップを洗い始めた。

 三つとも洗って水で流してみると、コップの底には微かに痕が残り、きちんと洗えていない事に気付かざるを得ない。

「お姉ちゃん、お父さんのお客さんでしょ、私が洗う」

 そう言うと少女は江利子からスポンジを奪い取り、コップを綺麗に磨いてみせた。水滴を戸棚の取手にかけてあった布でふき取り、食器置きの中に入れる。江利子は戸棚にかけてある布が食器拭き用であることをそれで知った。

「どうしたの?」

少女の問いに、何でもそつなくこなせる筈の自分、という自己イメージをひっかかれた気がして、江利子は返答に少し時間をかけて言った。

「私も、まだまだね」

 

 

 『江利子生活』

 

 

 江利子は山辺の家に、余り遊びに行った事がない。それは誰かから拒まれている訳ではなく、ただなんとなくの結果だと江利子は思う。

 思うのだが、目の前の少女を見ていると江利子は、もしかしたら、という考えが生まれてくる。

 自分は山辺の家に行って、この子と会うのが嫌なのかもしれない、と。

 そうではない、そうではない、と幾ら思っても、どうしてもそういう考えが浮かんでくる。江利子は決して子供好きな方ではなかった。

 時計の針が微かな音をたてる、六十分に一度だけ動く針の音。

 今日、ここに江利子がいるのは単なる気まぐれだ。山辺がいないかも知れない、という可能性を考慮していなかったせいでこうなった。

(でも、それだけかしら?)

 自分は、山辺の娘という存在を、忘れてさえいなかったか。

 最近、余り山辺に会っていない。だから会いに来て、しかし山辺はいない。

 そもそも最近山辺に会わなかったのも、自分の中に迷いがあるからではないかと、江利子は思う。

 江利子は、山辺と性行為をしていなかった。

 台所と繋がった居間、居間から見る台所は白く見える。近くから見るのと、遠くから眺めるのは大きな違いだ。

 江利子の事だから好奇心はある、しかし、そこに入ると簡単に戻れないような気がしてもいた。江利子にとってそれは見たこともない場所で、今までのように無傷で、安全なまま居られるとは限らない気がした。

「お姉ちゃん、お父さんは一時間くらい帰ってこないよ」

と5歳くらいの娘は言う。

江利子も娘も台所から居間に戻り、ソファの上に座っている。テーブルとテレビ、箪笥の上には雑多なものがごちゃごちゃ置かれていた。

視界の端には何やら色々捨てられているゴミ箱、娘はじっとテレビを見ている、夕方のニュース番組、江利子にとっては興味のない事ばかりだ。

「お姉ちゃん、お父さんのお友達?」

舌足らずな声がそう尋ねる。

お友達、お友達、お友達……江利子の頭の中でその言葉は反響し、言葉に詰まった。

自分は山辺の恋人だが、そう名乗ることはためらわれる。

しかし友達だというのも抵抗のある江利子は結局、「そういうようなものよ」と答えた。

それに対して、娘は小さく頷くだけでテレビの続きを見始めた。興味を失ったらしい。

「ねえ、よく、一人でお留守番するの?」、

「時々」

江利子は何か喋らなければと強迫的に思う。ずっと歳の離れた子供と話すのに適切な話題は知らないけれども。

「寂しくないの?」

「別に」

お母さんが欲しくない?という言葉が浮かんで、江利子は苦笑する、馬鹿みたいだ。

娘はテレビは見飽きたようで、クレヨンと画用紙を取り出して落書きを始めた。

江利子はすることもなくテレビを見続ける。

白骨死体が見つかり、死刑が求刑され、日本選手が海外で活躍していた。江利子は退屈になって周囲を見回す。

よく見れば、箪笥やテレビにもクレヨンの痕があるのを見つけた、娘がつけたものなのだろう。

ここには、山辺と娘の生活が眠っている、地層の中に眠る恐竜の化石みたいに、それは幾つもの層になって、ただ無言で佇んでいる。それを江利子はハッキリと感じた。

ふと、娘がじっと江利子を見ているのに気付く。

「どうしたの?」

「いま揺れた」

「揺れた?」

江利子はそれを感じ取る事が出来ない。

「揺れてないわよ?」

「揺れた」

言いながら娘は絵を描いている。子供らしい無邪気で下手な絵、それはどうやら江利子を描いているらしかった。

「それ、わたし?」

「違う」

「だって、ヘアバンドしてるし」

「違う」

舌足らずに断言する娘を見ながら、可愛くない子、と内心江利子は思う。

「じゃあ、誰なの?」

「お母さん」

ドキリとした。

少女の言ってる意味はよく分からなくて、単なる子供の気まぐれなのかも知れないが、それは江利子には意味ありげに思えた。

「お母さんがいなくて寂しい?」

「別に」

「お母さんに会いたい?」

「別に」

何故そんな事を言ったのだろう。江利子は口を滑らせて、いつものように、悪戯気分で気付けば言っていた。

「新しいお母さん、欲しくない?」

娘は素早く、強く言った。

「欲しくない」

江利子は何となく悔しくて、つい言葉を続ける。

「でも、お父さんとお母さん、両方いないと大変でしょ。両方揃うのが普通だし」

娘はクレヨンを動かす手を止めた。

じっと江利子を見ている。

「嫌い」

「嫌い?」

「お母さんいないの、変とか、嫌い」

娘は拗ねたように言って、泣きそうな顔をしている。

「変とは言ってないでしょ、私は……」

娘は涙を流して、江利子にクレヨンを投げつけた。

火が点いたように泣きだし、お父さんと叫ぶ。

おとうさーん、おとうさーん……

どうしていいか分からない江利子がおろおろしていると、突然、地面が揺れた。

「なに?」

ぐらぐらと地面が揺れ続け、江利子は立ち上がれなくて、ソファに張り付くように座る。

箪笥の上の雑多なものがカーペットの上に落ちて音をたてた。

貯金箱、猫の置物、恐竜図鑑、殺虫スプレー、写真立て。

子供は泣き続けて、テレビには地震速報が映る。震度3。

ようやく揺れがおさまると、娘はカーペットに横たわってぐったりしていた。

「ちょっと、どうしたの?」

娘は答えない。

「ちょっと?」

江利子がその体に触れようとすると、娘は拒むように「まだ揺れてる」と小さく答えた。

地面に耳をつけて、娘はまるで揺れを聞き取るかのようだ。

「最後に、大きいのが来る」

娘はそう言って黙った。

江利子は娘をどう相手していいか分からないので、黙って箪笥から落ちたものを拾い上げていく、貯金箱には小銭がじゃらじゃらと入っている。落ちてきたら危ないので、できるだけ箪笥の奥に置いた。

 可愛くない猫の置物は木製らしい、これも奥に設置。子供用の恐竜図鑑は山辺の趣味だろう、横にして置く。

殺虫スプレーは台所に持って言って、冷蔵庫の上に置いてみた。なんとなくだ。

 そして写真立てには、山辺の奥さんが写っていた。

 ヘアバンドをしている。

 自分には特に似ていない。

(どうしよう)

そう思った。

どうしようどうしようどうしよう。

写真立てをどうしていいか分からず、江利子はじっと目を瞑る。微かに地面が揺れている気がした。これは、どうしたらいいんだろう、どこに置くのが正しいんだろう。

分からないので、居間のテーブルの上に写真を伏せて置いた。正しいかどうかわからないので、心はひっかかったままに。

 娘はまだぐったりカーペットに耳をつけている。

「お父さん、かえってこない」

娘の呟きに時計を見てみると、確かにもう一時間以上経っている、一体どこへ出かけたのだろうか。

「遅いわね」

「また揺れた」

江利子は注意深く、揺れているかどうか足裏に集中する、でも分からなかった。

「帰ってくるまで待ちましょう」

でも大分遅い。

もう六時半だ。

「お腹空いた」

娘がそう言って立ち上がり、台所へ歩いて行く。

「ちょっと」

追いかけると、娘は既に冷蔵庫を開けて中を睨んでいた。

「お腹空いた」

娘は繰り返して言う。

江利子が冷蔵庫の中を見ると、白菜や人参、鶏肉や卵、豆腐と牛乳など、様々な物が入っているのが見えた。

「お姉ちゃんがご飯を作ってあげよう」

そう言うと江利子はカレー粉を掴んで、冷蔵庫を閉めたのだった。

 

見知らぬ台所。

そこで料理をするのは新鮮な感じだ。

見知らぬガス・スイッチで火をつけ、初めてのまな板で人参を切って、見たことのないカレー鍋で食材を煮込む。

何だかウキウキした。

カレーなら、山辺さんが帰ってきた時に温めなおす事だって出来る。手料理のご馳走という訳だ。

そんな訳で江利子が結構気合を入れてカレーを作って居間に戻ると、娘がソファーにクレヨンで落書きをしているところだった。

「ちょっと!何してるの!」

江利子が怒鳴ると、娘は怯えたような目で江利子を見る。

江利子はカレー皿をテーブルに置き、静かに娘を見た。

「そんな事したらお父さんに怒られるでしょ?分からないの?」

言うと娘は泣きだし「だって、地面が、だって、地面が」と繰り返した。

強く言い過ぎたかと想い、江利子は宥めようと「怒った訳じゃないのよ」などと言葉を紡ぐが、娘は泣きやまない。

抱きしめようとしたら拒み、頭を撫でようとする手を振り払い、ただ只管に泣く。

泣きやまない娘はうるさくて、さっきまでウキウキしてた気分は沈んで、江利子は惨めな気持ちになった。

「いいわ、後で拭いておくから」

江利子はそれだけ言うと泣いてる娘を置いて台所に戻り、カレーの準備をする。

炊飯器を居間に持っていき、カレー鍋を移動させる。娘はまだ泣きやまない。

すっかり準備を終え、カレー鍋も炊飯器も台所のままでよかったな、と気付いて江利子はげんなりした。

鳥居家は男兄弟が多く、しょっちゅうおかわりするのでカレー鍋や炊飯器が必要だが、自分も娘もそんな必要があるとは思えなかった。

「ほら、カレーよ、食べなさい」

江利子が言っても、娘は俯いたままだ。

「それに、手にクレヨンがついてるわ、洗わなきゃ」

娘は無言。

仕方ないので江利子は立ち上がり、娘の手をやや無理矢理引いていき、洗面所まで連れて行って手を洗った。

首を振って、いやいや、としながら愚図る娘の手を洗うのは大変で、腹もたったが、段々どうでもよく感じられて江利子は苦笑した。

この子が嫌がるのも怒るのもしょうがない気がした。

「ほら、冷める前に食べましょう」

居間に戻っても娘が食べないので、江利子はスプーンを手に取る。

「私は食べちゃうから、あー、おいし」

おいしいおいしい、と言いながら江利子はカレーを食べ、実際にお腹も空いてたのでそれは美味しく感じた。

娘はじっと黙っていたが、江利子が気にせずもぐもぐ食べていると、そのうちカレーを食べ始めた。

会話もないが、何となく江利子は満足しながらカレーを食べ続ける。

今にも服を汚しそうな娘の危なっかしい食べ方や、ソファに塗られたクレヨンも、どうでもいい気がした。

 

食べ終わって食器を片付けても、山辺は帰ってこない。

帰る気もしないので、江利子はずるずるとここに居る。

「お父さん遅いね?」

「うん」

娘は頷きながらテレビを見ている。

今日はここに泊まっていくかもしれない、と江利子は思った。

テレビではやっぱり男が立てこもったり、死刑が求刑されたり、官房長官が難しい顔をしていたりする。

不意に、地面が揺れた。

前よりも激しい揺れだった。

波打つように地面は揺れ、地響きが耳を打つ。

テーブルの上を、伏せられた写真立てが滑っていく。

江利子は目を閉じた。

その手を、誰かが握る。

暗闇の中に感じる手、大きな、途方もない力による揺れ。

その瞬間、江利子はとてつもなく怖くなった。

今まで感じたことのないような根源的な恐怖、冷や汗が流れ、喉はカラカラに渇き、目を開けることが出来なくなる。

自分は孤独で、誰でもなく、世界の全てから切り離されたように感じた。

同時に、入りたくない場所に押し込められるような不快感が全身を支配する。

まるで、少しだけ死ぬみたいに。

地面の揺れはやがて収まり、静寂が戻っても、江利子は目を開ける事が出来ない。

じっと強く目を瞑っている。歯を食いしばって。

江利子は自分の手を握る小さな手を感じた。

「お姉ちゃん?」

目を開く。テーブルから写真が落ちた以外は変わらない部屋。

江利子は写真立てを拾うと、元の箪笥の上に置いた。

テレビの地震速報は、震度4と言っている。江利子は呟く。

「次が最後だわ」

台所の殺虫スプレーも、箪笥の上に戻した。

「お姉ちゃん・・・・・・」

そう言った娘のまぶたは半分下がっている。

「寝ましょう」

 

 

寝室に言って、娘と並んで布団の上に横たわる。

山辺はまだ帰ってこない。

娘は今にも眠りそうだ。

「お母さんは、遠くへ行っちゃった」

と寝ぼけたように娘は言う。

「お母さん、いなくてもいいのかもね」

と江利子は答える。

山辺はまだ帰ってこない。

じわじわとせりあがってくる恐怖に、江利子は目を瞑った。

瞼が重くて、もう目は開けられない。

娘と手を繋いで眠る。

ずっと前から、こうやって生きている気がした。

 

                                   了

 

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