令さまが家に駆け込んできた。
「ねえ、由乃知らない?」
そう言いながら令さまは玄関の靴と私の表情を注意深く見つめてきた。
きっと令さまは、私の家に由乃さんが逃げ込んできたら、かくまうよう頼まれた私が、令さまに秘密にしてしまうに違いない、と睨んでいるのだ。
なんだかその魂胆が腹だたしく、私は令さまに意地悪したくなる。
「さあ?令さまのお隣なんだから、遠くに住む私が知ってる筈ないと思いますけど」
「いや、ちょっと喧嘩しちゃってさ、祐巳ちゃんのとこに来てないかなって思って」
「それで靴とか私の顔をじろじろ見るんですね」
こりゃ参ったな、と令さまは憎めない笑顔を見せながら、私に微笑みかける。
「祐巳ちゃん、怒ってる?」
「どうでしょう」
と私はツーンとお澄まし。
「ごめんごめん、でも、由乃が来たら教えてね」
と言いたいことだけ言って令さまは去ってしまったので、何だか私は寂しくて、もっと令さまに親切にしたら良かったかな、なんて益体もないことで悩む。
「祐巳ちゃーん、電話ー」
というお母さんの声が私のどうでもいい悩みを断ち切って、私はそのまま受話器をとった。
「はい、祐巳です」
「あ?祐巳さん?」
その声は由乃さんだった。
「由乃さん!今令さまがきて」
由乃さんは私の言葉を強く遮った。
「令ちゃんなんかどうでもいいのよ!私、家出するから探さないでね!北の方に行くけど探さないでね!以前、みんなで行った湖の傍の温泉宿が大好きだけど探さないでよね。探す場合は学校の近くの韓国食品店のチャンジャと缶ビールを買うと凄く助かります」
がちゃん。
言うだけ言って電話は切れた。
探さないでって言ってるし、ほんとに放っておこうかと思ったけど、そんな可哀想なことはしない。
大体、土曜日に家出って、今日も明日も休みじゃないか。
たぶん月曜には学校に来るであろう彼女のために、私はチャンジャと缶ビールを買いに家を出た。
学校の近くの韓国食品店のチャンジャ、というのは、以前私と由乃さんが秘密の酒盛りをしたときにつまみの一つだ。
殆ど由乃さんが暴走して酒盛りをする羽目になったのだが、とにかく酒盛りなんかしたことないので、それらしいお酒のあてが分からない私達は色々買って、様々に後悔して、由乃さんはチャンジャが良いという結論に落ち着いたのだった。
私は、ハムが良かったんだけどな。
そういえば2人とも、いかの塩辛はすぐ飽きるというか、嫌な味になるという意見で合意したっけ。
あと、柿の種は合わない、とか、さきいかは醤油とマヨネーズがいい、とか下らないことを言い合ってたな。
あの時、二日酔いになってマリア像の前で、もう二度とお酒は飲まない、なんて誓ってた癖に、由乃さん。
私は色々思いながら電車に揺られる。
通路を挟んで反対側の席には、四人の女の子が座っていて、どうやら卒業旅行らしかった。
車窓の向こうを木々が流れていく。冬だ。冬でも卒業旅行くらいするだろう。もうそんな季節なんだ。
私達、ずっと友達でいようね、とか、高校生の彼女達はいまさらそんなことを言ったりはしないけど、彼女達の親しげな雰囲気は無言でそういう子供の言葉を、少しだけ洗練された形で共有していた。
私はコンビニ袋の中の缶ビールを見下ろしている。
問題の宿はすぐ見つかった。なにせ、以前に行ったことがある。
私が宿で、島津由乃さんは泊まっているかというと、昼頃から来ていると答えがあった。
部屋に案内されるまでもなく由乃さんは廊下に仁王立ちで、「遅い」と言った。理不尽な。
「ちょっと、由乃さん、半分は払ってよね」
「なによ!傷心の親友にお金を払わせるの!?」
「傷心〜〜〜〜?」
「う、なによ」
「どうせ令さまとちょっと喧嘩して出てきただけでしょ」
「ちょっとっていうけど、家出なんだから!」
「はいはい、土曜日に家出で、私に探すなって電話をかけたわけね。はいチャンジャ」
私がコンビニ袋と韓国食料品店の袋を差し出すと、由乃さんは旅館の部屋の襖を開けて奥へ消えた。
私は袋を部屋の中央に置き、用意された座布団に座る。
そうなったらもう酒盛りしかない。
由乃がビールを開け祐巳もビールを開けチャンジャが開かれ由乃がまたビールを開け祐巳がビールを開ける。
いえい!!
そんな風にして私達は馬鹿みたいに笑ったりするんだ。それって絶対良いことだ。絶対の絶対。ぴーす。
「ねえ、祐巳さん」と赤い顔の激キュートな由乃さんは言って、私はビールを飲み込んで
「令ちゃんね、分かってないの、他大学に行っちゃうの。それってやっぱり、わかってないよ。離れるってどんなことか、私分からないもの。知らないもの」
「由乃さん…」
そうだ、それってどんなに不安だろう。今日の喧嘩だって、きっと、きっと、わかないけど、けど、そういうことなんだろう。
由乃さんはビールをぐびりと飲む。
「ごめんね」
なにがごめんなのか自分でも分からないけど謝った。
それなのに由乃さんはひっひと笑った。酔っ払いだ。
「祐巳さん、そんな簡単に信じちゃってさ。平気だよ。喧嘩したのだって、令ちゃんがうじうじしたからだもん」
「えー」
「祐巳さんは騙されやすいから気をつけなさいね」
なんて言っていきなり由乃さんは寝た。
前振りもなく、バタンと倒れてそのままグーグー。
まったくなんて無防備なのか。
私達、16歳のうら若き乙女なのに。
お酒は二十歳になってから。
そのまま私も由乃さんのまねをして寝た。
なんだか気持ちがよかった。
ぐーぐー。
次の日
「私、もう二度とお酒なんて飲まない」
と全く反省してなさそうな弁を述べて由乃さんと電車に乗っていた。
頭が痛くて眠くてふらふらな由乃さんは「じゃあお休み」と言ってあっさり寝てしまった。
話相手しようとか思ってよぅ。
しょうがないので車窓から外を見る。
まだ緑が広がっている場所があって、冬なのに不思議だな、と無知な私は思った。
通路の反対側には誰も座っていない。
その時突然、私は、本当にこのまま家出してもいいな、と思った。
何も持ってなくて、鞄と財布と着替えだけしか持たずに。
このままずっと電車に揺られていってもいいと思った。
由乃さんは「むしが〜」と寝言を言って、なんだか私は苦笑する。
電車は冬の中を武蔵野目指して走っていく。
了