薔薇の館の中で祐巳と乃梨子は2人きりでいる。

放課後の緩やかな時間の中で、祐巳も、乃梨子も、難しい顔で沈黙していた。

「瞳子、どうして選挙に出たんでしょうね」

考えるのは、同じ女の子の事。

素直じゃなくて、プライドが高くて、可愛げがなくて。

でもとても可愛い女の子の事。

 

 

『新刊予想ss』

 

 

瞳子ちゃんは私の対抗馬として選挙に出て、破れた、と祐巳は思う。

でもそれが、何の為だったのかは、よく分からなかった。

「祐巳さま、瞳子、教室の隅で一人でポスター書いてたんです。選挙するのに、たった一人で、誰の支援も受けずに」

「うん」

「私、分からないんです、あれじゃ、負けるのなんて分かりきってた」

「うん」

「だから、選挙に出ること自体に、意味があったのかなって」

「何で?」

「それは……」

乃梨子にも分からない。

想像は出来る。でも確信はなかった。

「わかりません」

祐巳は頷く。

ここで話していても、たぶん答えは出ない。それでも、自分も、乃梨子ちゃんも、瞳子ちゃんの事を考えないではいられないんだ。

「・・・だね、わからない」

祐巳は今日はもう切り上げて帰ろうと思った。紅茶のカップを片付け、鞄を持って立ち上がろうとする。

その時だ、階段が軋む音が祐巳の耳に届いたのは。

ビスケット扉が開く。

そこには、見たこともない生徒が立っていた。

一般生徒がいきなり薔薇の館に入ってくるなんて、悲しい事だけれどそうある事ではない。

彼女は言った。

「紅薔薇の蕾、瞳子さんを妹にしないでください!」

祐巳も乃梨子も、呆気にとられてその子を見た。彼女は続ける。

「瞳子さんにどんな事情があったかは分かりません。でも、選挙に出たのは祐巳さまとの事があったからでしょう!?そんなの、選挙の私物化です!教室の片隅で、一人でポスターなんか作って、投票してくれる立場の同級生達を馬鹿にして、ふざけてます!あんな子を、妹にしないでください!」

この言葉に乃梨子は立ち上がって、掴みかかるような勢いで彼女に近づいた。

「わざわざ薔薇の館まで他人の悪口を言いに来たんですかあなたは。どんな理由があろうと、姉妹の契りを交わすのは個人の自由であって、あなたが祐巳さまの妹選びに口を出す権利なんてありません。何様ですかあなたは?瞳子の事をどうこう言う資格なんて……」

「私だって祐巳さまの妹を決めれるなんて思ってません!ただ、瞳子の外面に祐巳さまは騙されてるかもしれないし、乃梨子さんみたいに瞳子の肩ばかり持つ人が祐巳さまの傍にいるから……!」

「なんだと!」

今にも2人は取っ組み合いでも始めそうに見えた。

「やめて!!」

祐巳が叫んで、二人は動きを止めた。

温室育ちのお嬢様達は、慣れない口論で息が上がっている。

「ごめんなさいね、妹のことは、自分の気持ちを信じて決めたいの」

そう言って祐巳は微笑む。

「でも、あの子は教室の隅でクラスメイトを笑いながら、根暗にポスターを……」

「お願い」

彼女は黙った。

「私達、もう帰るから、ね」

その子と、祐巳と、乃梨子の三人で薔薇の館から出ると、そこには5人くらいの生徒達がいた。

それは彼女の友達で、彼女は友達に勇気づけられて、薔薇の館に一人で入って、それで……。

友情って、なんだろう。

彼女達と別れて、祐巳と乃梨子は2人で黙々と歩いた。

気まずくなって祐巳は言う。

「なんだか、瞳子ちゃん、嫌われちゃってるのかなあ、なんて……」

「あれは、全員、瞳子のクラスメイトです」

分かれる前に、乃梨子ちゃんは言った。

「私のクラスメイトでもあります」

 

 

                          ………

 

 

スキーから帰った柏木は、小笠原祥子に会いに行く。

婚約者ではなくなって、ただの幼馴染として。

幼馴染として祥子と祐巳ちゃんが心配だったから。

小笠原邸のインターフォンを押し、呼び出しを待ち、ドアが開く。そこから車を入れ、降りて歩いていく。いつもの手順。

小笠原邸は広い、柏木邸も広いが。

邸の入り口には、既に祥子が立っていた。

「いらっしゃい、優さん」

そう言った祥子は、長いスカートにカーディガンを着た部屋着姿で、大人の女性みたいに美しかった。

昔とは違う、何もかもが。

ひとりごちた柏木は居間に通してもらい、それをいつ切り出すか測る。

話を切り出すタイミングを。

祥子は柏木の様子を見ながら言う。

「何か言いたいことがあるみたいね」

長い付き合いで、祥子にだけは柏木の事が分かってしまうようだった。

もちろん、わからせていない事だって多いけれども。

「ん……さっちゃん、瞳子のことなんだけど……」

「なにかしら?」

ためらいながら柏木は言う。

「もう、松平家と関わるのは止めた方がいい」

祥子は柏木の目をじっと見る。

「どういうことかしら?ちゃんと説明してくれるのよね?」

「もちろん」

そして、柏木は語りだした。

 

 

                            ………

 

 

瞳子の目の前に、鳥の形をした印がある。

瞳子はそれをじっと見つめる。

鳥が空へはばたくのはまるで自由への象徴だけど、この鳥こそが瞳子を縛る象徴である皮肉に、瞳子は自嘲したように笑う。

こんな事なら最初から……

誰か私を……

瞳子は首を振る。

救いなどありえない。

でもどうして、救いという言葉と共に、あの人の顔を思い出すのだろう。

それだけが、瞳子にとって不思議だった。

 

 

                          ………

 

 

クラスでの瞳子は無気力で、他人を拒絶した様子だと、乃梨子ちゃんは言っていた。

自分と瞳子ちゃんの間には、たくさんの事があった。

傘を無くして雨に降られた日。

学園祭での演劇。

ロザリオを拒絶された日。

思い出しながら、祐巳は無言で校舎の中を歩く。

瞳子のクラスを目指して。

「瞳子ちゃん、いる?」

クラスの中が静まり返り、乃梨子が出てくる。

「今は、いません、トイレか何かだと思うんですけど」

「そう、帰ったら伝えて」

覚悟は決まった。

「放課後、温室に来て欲しい、って」

 

 

私達は何を求めて生き、また、死んでいくのだろう。

自分の人生は僅か16年で終わろうとしている、そう瞳子は思った。

祐巳さまから温室への呼び出し。

いいだろう。逃げる理由はない。

言いたい事だって、山ほどある。

瞳子は授業が終わるとまっすぐ温室へ歩いていく。

そして温室に入ると、土と華の匂いがした。

「ごきげんよう、瞳子ちゃん」

既に来ていた祐巳は、背をまっすぐ伸ばして立っていて、それが瞳子には何だか眩しかった。

だから無感情に言う。

「ごきげんよう」

そして、瞳子と祐巳は対峙した。

感情を込めずに瞳子は言う。

「何の御用ですか?」

祐巳は答える。

「話がしたくて」

祐巳は、瞳子ちゃんの気持ちが定まるのを待っていた。

でも彼女は、明日がないみたいに自分自身を傷つけていく。

祐巳には瞳子の事情は分からない。

黙って、瞳子ちゃんを待つべきなのかも知れない。

でもほんとうに、それは黙って待ってて解決すること?

本当に大丈夫なの?

それだけでも知りたい。

妹にするしないとか、関係なく、今は瞳子ちゃんと話したい。

紅薔薇の蕾として。

瞳子は言った。

「私は祐巳さまと話す事は何もありません」

「どうして?」

「さあ?私は祐巳さまとは違って、可哀想な子ですからね。祐巳さまがそうして哀んでいらっしゃるように、頭の中も可哀想だから話したくないのかも知れませんよ?祐巳さまは泣けば皆に慰めてもらって、お正月にはさぞ皆様と仲よく過ごされたことでしょう。そんな私が祐巳さまと話すような事が、あるとでも思いますか?」

喋る瞳子の目には、明確な悪意と敵意があった。

祐巳は彼女の悪意を受けながら答える。

「うーん、瞳子ちゃんは、私を、お姉さまや、色んな人が支えてくれるのは、間違った事だと思ってるのかな?」

瞳子は鼻で笑う。

「まさか!素晴らしいお仲間に囲まれておられる紅薔薇の蕾に、間違いなどと、そんな事はありえません!今からでも帰って、お仲間にでも慰めてもらってはどうですか?」

「瞳子ちゃんは、何を望んでるのかな?」

「何も望んでいません」

「私にはそうは見えないな」

瞳子の顔を覗きこもうとする祐巳から、瞳子は顔を逸らす。

「選挙に出馬したのはどうして?瞳子ちゃん?」

「世襲がおかしいと思っただけです」

瞳子は頑なに祐巳を拒んでいる。

大きな頑丈な扉。

でもそれを開くのは、ほんの小さな鍵。

「ねえ、瞳子ちゃん。私は……貴方の力になりたいの」

「同情ですか」

「違うよ」

祐巳は真剣に言う。

「瞳子ちゃんが、好きだから」

「はっ」

瞳子は悪意に満ちた目つきで祐巳をねめあげた。

「お優しいことで、誰にでも好き、みんなのことが好き、そして私のことも?結構なことですね」

「違う!」

「どこが違うっていうんです」

「瞳子ちゃんは、私にとって特別だよ」

「口では何とでも……」

「違う!」

祐巳は瞳子の言葉を遮る。

「本当に、本当に特別なんだよ?」

瞳子は黙った。

自分は揺らいでいる。

どうにもならない。

たとえ祐巳さまがどんなに大切にしてくれても、私は……

迷った末に瞳子は言う。祐巳を諦めさせるために。

「なら、証拠を見せてもらいましょうか」

そう言った瞳子の心は、それでも、最後に希望に縋っている。

「証拠?」

「私の家に来てください」

2人は温室を出て向かう。

瞳子の家に。

何故、ここで瞳子ちゃんの家なのか、証拠とは何なのか、気になっても瞳子ちゃんに聞ける雰囲気ではない。

彼女は俯き、沈黙し、じっと何かに耐えている。

祐巳は思いついて手を繋ごうとした、瞳子は一瞬息を飲んで、弱弱しく振り払う。

それでも、もう一度握ると、今度は振り払わなかった。

「このまま行こう」

祐巳の言葉に瞳子は頷き、2人は帰路を長く長く歩く。

バスに乗り、降りて歩く。

坂道を登り、2人で手を繋いで、夕日の中を歩いた。

まるで姉妹みたいに。

そして坂を上りきったら、大きな門が見えた。

表札には、松平。

「ここです」

「うん」

表札の上にある、鳥のようなマークを見て瞳子は顔をしかめる。

それからインターフォンを押し「瞳子です」と名乗ると玄関が開いた。

長い庭の道を通り、扉を開けて建物に入ると──

──そこは荒んでいた。

家具が殆どなく、靴は玄関に置きっぱなしで、ところどころ奇妙な彫像があり、異臭がする。

土や、生臭い何かの匂い。

「これは……」

「祐巳さま、松平の家は、おしまいです」

「え?」

瞳子が絶望的な表情で言った。

「私は春から、ギシヤマイズム学園に通う事になるでしょう」

 

 

瞳子は端的に事情を語る。

母が新興宗教にやられた、と。

正確に記すならば、ギシヤマ会は宗教ではないカルト集団だったが、その違いはこの場合さほど重要ではない。

ギシヤマ会は岸山知恵蔵という人物が始めた団体で、人間は自然のままのびのびと育てば必ず良くなる、というその主張だけ取り上げれば穏便なものだが、その考えが行き着いた先は異形のカルト団体だった。

「子供は勉強せず、ただ農作業をすることで、自然の中で生きた実学が学べるそうですの。耳が腐るぐらい母がそう言っていましたから。でも実態は、未成年にひたすら農作業の重労働をさせるってことなんですの」

ギシヤマ会は岸山知恵蔵が鶏小屋を見て思い付いた生活習慣を貫く。

子供は親から切り離される。子供は育つ力を持っているから教育はいらない、子供同士で育ちあっていく、という歌い文句で。

切り離された先で待っているのは無報酬の重労働と虐待だ。

「施設を逃げ出した子供が児童相談所を頼っても、親権のある親が行政裁判すると脅せば、あっさり親元へ帰されてしまった、なんて事例もあるみたいですわ」

そう言う瞳子の口調は投げやりだった。

「本で調べれば、虐待と暴力に満ちた場所で、自分の意思を刈り取られてしまう場所みたいですわ。なにしろ結婚相手まで一方的に決めてくれるそうですから。まるで鶏を飼育するみたいに」

瞳子がくすりと笑う。

自暴自棄な笑いだった。

「それで、どうやってお優しい祐巳さまは私の力になってくれるんですか」

挑むような目つき。

祐巳は黙る。

彼女を連れ去れば誘拐だ。

だが祐巳は見てしまった。

瞳子の挑むような目つきの中には、すがるように脆く弱く優しい、小さな女の子の姿があった。

祐巳は瞳子の手を握る。

「行こう」

「え?」

「私が瞳子ちゃんを、この家から連れ出してやる」

祐巳は瞳子を連れて立ち上がり歩き出す。オブジェを蹴り飛ばし、鳥の紋章を踏み付けて。

「祐巳さま!無理です!児童相談所に駆け込んでも、親戚を頼っても、最後には両親に連れ戻されるんです!」

祐巳は瞳子の言葉を無視して靴を履き、腕を引く。

「もう関わらないで!分かったでしょう!私はもう、祐巳さまには関係のない世界に行きます!」

「靴を履いて」

祐巳は瞳子の靴を指差す。

ぐずぐずする瞳子の足に触れた。

「でなきゃ、私が履かせるよ」

祐巳の目は、今までにないほどの、決意に満ち溢れている。

「履きますから……」

瞳子が靴を履くと、祐巳はさあ再開とばかりに走り出す。

全速力で走った。

「ちょ、祐巳さま!」

「子供の頃、ただ全力で走るだけで気持ちよくなかった?」

「何を言って……」

「今、そんな気分だよ」

瞳子ちゃんのこと、わかった。だからもう、迷わない。

「祐巳さま!」

しっかりと片手だけ繋いで、祐巳は走る。

「私と関わると不幸になります!みんな、みんな巻き込まれてしまう!嫌われて、それで学園から転校できれば、私はそれだけで良かったのに……」

「嫌われるように選挙に出て、クラスメイトを馬鹿にして、それで居づらくなったから去ったとか言うつもりだった?……無理だよ」

陽の落ちた庭で、祐巳は立ち止まる。

「もうこんなにも、絆が出来ている」

微笑む祐巳に、瞳子は目を伏せた。

「……かった」

「何?」

「……ければよかった」

「瞳子ちゃん?」

瞳子は叫ぶ。

「こんな事なら、祐巳さまに出会わなければよかった!祐巳さまに出会わなければ、女優になりたいと思わなければ、総てを運命として受け入れることが出来たのに!!」

「無理だよ」

祐巳は泣いている瞳子の額に口付けた。

「私が瞳子ちゃんに出会ったのは、運命だから」

瞳子がしゃくりあげている。

「……祐巳さまが……私のせいで……誘拐犯にされちゃいます」

「いいよ別に」

祐巳は瞳子を抱きしめる。

「私、瞳子ちゃんの誘拐犯でいいよ」

誘拐?

困難?

児童相談所が逃げた?

くそ食らえなんだよ。

「行こう」

「どこへ?」

「どこへでも」

泣いている瞳子を連れて、祐巳は歩き出す。

雲のない月明かりの下、2人の少女は夜の青の中へ進んでいく。

常識や、正義とやらでは守れないものがある。

この手の温もり。

「祐巳さま、祐巳さまは、こんな人じゃなかった……」

坂道をゆっくり下っていく。両側の森の木々がざわざわと揺れていた。月が明るい。

「祐巳さまは、みんなに囲まれて、もっと、普通で、常識的で……」

手を繋いだ2人の少女が、夜の中をどんどん降りて行く。

坂の向こうには幾つもの小さな光。街の光だ。

「どうして私がこうなったか、言わせたい?」

駅までの道のり、虫の声。

「瞳子ちゃんが好きだから、助けたいから、こうしてるんだよ。姉妹とか、そんなの関係なしで」

「祐巳さま……」

「今の私は、無敵だよ」

2人で寄り添って電車に乗って、ずっと手を繋いで、瞳子は今までの不安や、苦しみや、悲しみを全て出し切るように泣いて、言葉少なに想いを語った。

そして、どこにも帰れず、カラオケボックスで眠った。

瞳子ちゃんはぽつりと言う。

「校則違反ですね……」

「マリアさまなら、許してくれるかな」

その疑問に答える者は、誰もなかった。

 

 

 

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