ある日、お爺さまが見えるようになった。
私のお爺さまは大層勉強熱心な方で、朝な昼なと書物を読み漁っては、ああでもない、こうでもない、悟りは得られんかと悩んでいたそうな。
お爺さまはお婆さまに恋をして結婚する時も大層悩んで、女犯の戒めはどうあるべきか、本山まで聞きに行き、帰ってきた時には「今は皆、一休宗純であるべきか」と言って、結局お婆さまと結婚したそうだ。
私は、そのお爺さまに少し似ているという。
そのお爺さまは子供を育て、子供が成人すると、寺を任せたと言って衆生を救う旅に出たという、嘘か真か分からぬ話である。
『坊主の一生』
私に、お爺さまが見えるようになった話をしようと思う。
その日は朝からお父様がお客さまをもてなして、他の寺から来たその僧侶と、どういう弾みか跡継ぎの話をお父様はしていた。
「長男は継ぎたがっておらんから、小寓寺を藤堂家が守るのもわしで最後かもしらん」
とお父様が寂しげに言うのを私は聞いた。
兄の賢文は家を出て、何をしているのやら一向に帰ってこないので、跡継ぎを迎えるとしたら、私が結婚してその婿しかないと思う。
でも、私はシスターになりたかった。
そのせいで寺に迷惑がかかり、檀家にも迷惑がかかると思うと、私はこの場にじっとしていられないような、突き刺すような痛みを感じる。
それでも学校には行かなければいけないので、私は落ち着かない気持ちで制服に着替え、バスに揺られる。
塞いだ気分で学校につくと、校門に妹の乃梨子がおり、誰かと話したい私は、声をかけて並んであるいた。
「あれ?志摩子さん、元気ないね」
「そうかしら?」
銀杏並木にさしかかると、木には何匹か毛虫がついており、その中の一匹が突然私の目の前に意図を垂らして降りて来た。
あっ、お爺さまだ。
そう思った。
お爺さまは銀杏の木を上へ上へと登ろうとしており、私は思わず声をかける。
「お爺さま、どうしてここに?どうされたんです?」
乃梨子が、志摩子さん、どうしたの?と不安気な声を私にかける。私はお爺さまに視線を留めたまま答える。
「お爺さまがいたの、もうずっと前に家を出たお爺さまが、私に会いにきてくれたのよ」
でもお爺さまは木のずっと上の方へ登って行って、そのままどこかへ去ってしまった。
どうしてお爺さまが私に何も言ってくれないのかは分からないけれど、仕方がないので私は乃梨子と一緒に学校へ向かった。それが私にお爺さまが見えた最初だった。
次にお爺さまに会ったのは、一人で桜を見ている時だ。
一匹の蝶が私の方へ飛んできて、ああ、お爺さまだ、とやっぱり私にはハッキリ分かった。
「どうされたんです、お爺さま」
と私が言うと、今度はお爺さまは答えてくれて、志摩子、お前キリスト教に入りたいそうじゃな。と重々しく言う。
「はい、そうなんです」
と私が素直に答えると、お爺様は何故じゃ、と鋭くおっしゃって不機嫌そうな顔をされた。
私はお爺さまがむすりと黙って、言葉を待っているので必死に考えた。
私は前から、キリスト教の持つ救いの力が、もっとちゃんとこの国には必要なのではないかと思っていて、お父様や、その他の仏教とは違うやり方でその役割を果たせるのではないかと考えていた。
私自身、どこかこの世界で上手く生きられないところがあり、仏教ではそれは埋められない。相談も受け付ける葬儀屋みたいなポジションでは駄目なんだ。
だからキリスト教が必要だった。
私のこのような考えを、つっかえながらお爺さまに伝えた。
お爺さまはますます不機嫌になり、志摩子、お前の言うのは救いではない、魔境じゃ、と言って消えてしまった。
お爺様を怒らせてしまったかもしれない。そう思うと、凄く胸が痛む。
もう二度と、お爺さまに会えないのは嫌だった。
「ごめんなさい」 と私はつぶやいて涙をこらえる。
でも、お爺さまは答えず、姿は消えたままで、私は一人で泣いた。
しかし、実際には、もう二度とお爺さまに会えないという心配は取り越し苦労に終った。
菫子さんのいない乃梨子の部屋で、私はお爺さまに出あった。
三度目のお爺さまとの遭遇。
その時、私と乃梨子は服を着ておらず、同じベッドで眠っていた。
そういう時に目が覚めると、私はぎょっとして、自分がなにかとても小さくて狭い箱に閉じ込められているような気分になって、たちまち心細くなってしまう。
小寓寺に多大な迷惑をかけ、親を裏切り、それでも進もうとしていたキリストの教えなのに、さっそく私はその教えさえ裏切るのだろうか。
そう思うと、私はどうしていいか分からなくなって泣きたくなる。
自分は全てを裏切り続けるだけじゃないのかと迷う。
そんな迷いの時に、お爺さまは現れたのだ。
夜の空気を犬のほえる声が切り裂いて、私はお爺さまが来た、と急いで服を着て玄関から出る。
果たして犬はすぐ外をうろうろしていて、街灯の下でうずくまっていた。
「お爺さま!」
お爺さまは言う。
志摩子、志摩子、子供の頃、お前は砂浜に植えられた松を見たことがあったな。
「はい、お爺さま」
あれは大連聖人が種をまき続けて出来た防風林じゃ。あれこそが坊主の行う救いじゃ。
魂の救済は、仏がやる。わしらに出来るのは、迷いを払うこと、あとは己の力で人は生きにゃならん。
僧侶は人の心の迷いは払っても、救い上げたりはせん。それは人がしてはならんことじゃ。
「でも、お坊様も説法をするではありませんか」
説法は迷いを払うためのものじゃ、お前の言う魂の救済ではない。お前のいうようなことは、十派一絡げの宗教もどきがいくらでもやっておる。
「だからこそ、ちゃんとしたキリストの教えが広がる必要があるんです。間違ったものをはびこらせないために」
教えは人を縛る。教えなくとも人は生きられる。ただ人が迷うた時、わしが考えたことを喋るより、お釈迦さまが言っておったと言った方が箔がつく、それだけじゃ。
「じゃあ、何のために僧侶は悟りを開くのですか」
悟りは坊主が己のために開くものよ。
悟りを開いた坊主に出来る救いは、防風林ぐらいのもんじゃ、それも今やれば自治体の邪魔になる。
「それでは、残るのは葬式仏教だけではないですか」
葬式仏教おおいにけっこう。志摩子、キリスト教も、外国では地域に密着した土着のもんじゃ。上ばかり見ていると足をやられる。
志摩子、お前の足は大丈夫なのか?
「お爺さま、私の足はキリストが支えてくれています」
ふい、とお爺さまは後ろを向いて駆け出した。
「待って!」
私は追いかけたけれども、どうしてかお爺さまは振り返らずに夜の中へ消えていった。
お爺さまが死んだと連絡が入ったのは夏だった。
電車を幾つも乗り継いで目的の駅で降りて、舗装されていない道をとても長く歩いた。
珍しくお父様とお兄様が並んで歩き、お母様と私は喪服を着てそれに続いた。
遠いところで、お爺さまは黙々と畑を耕していたそうな。
私は私の知っていたお爺さまとは大きく変わってしまった亡骸を見て、これは本当のお爺さまではないと見抜いた。
偽者のお爺さまが焼かれて、灰になって、遺言の通りに畑に撒かれた。
「何を育てていたのかしらね」
とお母様は不思議そうに言い、私はその畑をぼんやり眺めた。
偽者のお爺さまを焼いた煙が空へ昇っていく様子を思い出す。
遠くで鳥の鳴く声が聞こえる。
その時だった、私達の前を猪が横切って行ったのは。
「あ、お爺さま」
でもお爺さまは何一つ言葉を残さず駆けて行く。
どうしてお爺さまは何も言わないのか。
それが私にはショックだった。
私はお爺さまに気付いているのに。 お爺さまが私から逃げるなんて!
そのとき、お兄様がすっと私に並んで呟いた。
「寺は気にするな、いざとなれば、俺がついだっていいんだ」
最後にお爺さまに会った話をしよう。
私が最後にハッキリとお爺さまに会ったのは、薔薇の館だった。
乃梨子と2人きりで薔薇の館にいて、私は乃梨子を眺めていた。
切りそろえられた黒い髪、黒目がちな瞳、きつく結ばれた唇。
ふと、私はそこにお爺さまがいるのに気付いた。
それはもう、ハッキリと分かった。
「お爺さま!どうしたんです」
「志摩子さん?」
「お爺さま、お爺さまなんでしょう?私には分かっていますから」
お爺さまは何かに怯えるように身をすくませて、どうやら自分の宗教的実践に意味があったのか迷っているようだった。
「お爺さまは色々考えすぎたんだと思います。もっと素直に受け入れたらよかったんです」
「何を言ってるの?」
お爺さまはまだ戸惑っているようだった。きっと、色んなことがありすぎたんだろう。
「お爺さま、そんなに戸惑わなくても大丈夫です。私はあなたの孫ですよ」
「志摩子さん、わたし、お爺さまじゃない、乃梨子だよ」
私は驚いてしまった、お爺さまがお爺さまじゃなかったら、いったいなんだっていうのだろう。しかも、乃梨子だという。
「いったい、どうしたの、お爺さま?」
「変だよ、どうしたの」
「なにが変なの?」
「志摩子さん、こんなの変だよ」
私はお爺さまが私のことを変だなんていうんですっかり驚いてしまった。
膝から力が抜けて床にへたり込んで、目を開けていられなくて瞑ってしまう。
お爺さまが、変だなんて!
どうしても耐えられなくて、私はそのまま眠り込んでしまった。
意識が戻ると、乃梨子は私にタオルをかけてくれいて、じっと私を見ていた。
「ごめんなさい、乃梨子、悪く思っていなければいいんだけど」
「うううん、志摩子さん、私ね。志摩子さんのこと愛してる。さっきの志摩子さんは、分からなかったけど、私思ったの、絶対志摩子さんを愛して、支えるって」
そう言って乃梨子は私に口付けた。
「乃梨子、遠いところへ畑を見に行きましょう。そこでは鳥が鳴いていて、猪が走って、死んだ聖人の灰が畑にまかれるの」
私が元気良く喋るのが乃梨子は面白いようだった。
「もう志摩子さん、どうしちゃったの」
「どうもしないわ、きっと行きましょうね」
次の休みに私達は畑に行って、そこの田舎で遊んだ。
鳥は鳴いて、猪は走って、畑には向日葵が一面に咲いている。
太陽の光を浴びて向日葵は黄色く強く輝いて、大輪の花を空へ向けている。
私達はたくさん愛し合って、そして私は乃梨子と共に生きようと決めた。
絶対に何があろうと離れないことを誓う。
向日葵の畑の真ん中で抱き合いながら。
そして私は帰りの電車で、一瞬だけお爺さまの訪れを感じた。
でもそれはほんの僅かに感じとることが出来る程度で、お爺さまは何か言おうとして、口をつぐんで消えた。
そして二度と私の前に現われなかった。
それが、私が人生でお爺さまに会った最後だ。
了