天主会の朝は早い。
皆で起きてお御堂を掃除する。
私は同じ班の人達と掃き掃除をしていた。
「今日も天主さまのお恵みがありますように」
同じ班の佐々木さんが祈っている。
私は、ここにいる。
天主会の中に。
『姫さまに捧げる 後編』
私にとって天主会は概ね過ごしやすいところだった。
朝の掃除、礼拝、食事作り、自由な談話、夕食作り、就寝。
規則正しく、過不足のない生活、単調といってしまうことも出来るけれど、私はそういう生活は平気だった。
確かにここには、心の安らぎがある。
ここには就職活動も受験戦争も飲み会も存在しない。
繊細な精神が、繊細なまま許されている。
「ねえ、藤堂さん、貴女はどうして天主会に?」
そう笑顔で聞かれるたびに、それでも私の心は痛む。
どうして?
「神様に、お近づきになりたくて」
そう言って微笑むとそれ以上は聞かれない。それはある種の裏切りかも知れなかった。
ふと遠くから賛美歌が聞こえる、時報の代わりのように度々流れる賛美歌は、今まで聞いたことのないものだった。
天主会の中で、この賛美歌だけは何の屈託もなく美しいと思える。
かつて信者で、今はもう病気でお亡くなりになった人が作ったそうな。
混じりけのない、イノセンス。
完全な純粋無垢。
そして、祈り。
芸術であれば、許されるのに。
生きる上では、許されない。
私はもう、それに気づいている。
1
「志摩子さんが学校に来ていない?」
由乃さんからそう聞いた。
祐巳は一年生の教室めがけて歩いていく。
あの薔薇の館で、祐巳は乃梨子を追いかけた。てっきり志摩子さんもついてきていると思った。
だが実際には、乃梨子ちゃんを見失い、志摩子さんは行方をくらました。
だからいま、乃梨子ちゃんの教室に向っている。
「あ、紅薔薇の蕾」
「二条乃梨子ちゃん、呼んでもらえるかしら」
取次ぎに出てくれた子は、頬を上気させながら乃梨子ちゃんを呼びに行った。
呼ばれた乃梨子ちゃんは睨むような目つきで、ゆっくりと祐巳の方に向かってくる。
「何の御用でしょう」
「ここではちょっと…一緒に来てくれる?」
乃梨子ちゃんは頷いて、祐巳についてくる。
校舎を出て、どこへ行こうか迷ったけど、温室へ向かう。
歩きながらでも、話せばいい。
「志摩子さんが、登校してないの」
「ええ」
「乃梨子ちゃん、誤解をといておこうと思うの、私と志摩子さんは」
「誤解じゃありません!!」
「え?」
乃梨子ちゃんは強く睨んでくる。
「それは祐巳さまから見たら誤解かもしれません、でも、志摩子さんはずっとあなたを見てた!最初からあなたを
愛していた!姉妹として一緒にいてたから分かります、志摩子さんが愛しているのはあなたなんだ!!」
自分があまり急に激したのに気づき、乃梨子ちゃんは息を整える。
「私のことはどうでもいいんです。でも、お願いです、志摩子さんを連れ戻してください。祐巳さまにしか出来ないんです。
志摩子さんを…」
乃梨子ちゃんは…泣いていた。
「連れ戻すって…?」
「志摩子さんは、天主会にいるんです」
2
「白薔薇さま、この世界は穢れているでしょう?」
聖書研究会から入信した子はそう、私に言う。
「ごめんなさい、私にはよく分からないわ」
「だって白薔薇さま、今の世界には欲が溢れているじゃないですか、私達はその不必要な欲ばかり追及して、多くの大
切なものを見捨ててしまっています。私達は無意味に傷つけあい、他人からの愛を渇望し、様々な感情に苦しめられて
ばかりです」
「天主会にいれば、それはないの?」
「ええ、だって天主さまが全て管理してくださいますから」
「天主さまに、会ったことはあるの?」
「まさか、天主さまはこことは違う世界にいらっしゃるんです。そのお言葉を直接聞くことが出来るのは、パルフェさまだけ
です」
「パルフェさまには、会ったことはあるの?」
「いいえ、でも、繋がっています」
「繋がっている?」
「白薔薇さま、この世界は目に見えることだけが全てじゃないんです。形あるものは全て壊れてしまうし、私達だってい
つかは死んでしまう。形のないもの、目に見えないものをもっと大切にしないから、即物的で、醜い世界になってしまう
んだと思います。天主さまの教えを信じる限り、私は天主さまと繋がっていられるんです」
「そうね、そうかもしれないわね」
「ねえ、白薔薇さま、私達は命を大切にしなければいけないのに、どうして虫を殺すんですか?虫も人も同じ魂の筈で
す。人を殺してはいけないなら、虫も殺してはいけない筈なんです。だから天主会では、食べない生き物は殺さないん
です。白薔薇さまなら、分かるでしょう」
「ええ」
わかりはしない。
私は彼女に踏み込めない。
私には、彼女が、彼女達が分からない。
しかし、世の中には、分かることよりも、分からないことの方がずっと大切な場合だってあるんだ。
だから自由な時間に私はこうして、色んな人の話を聞く。
島田さん、という聖書研究会で見かけた人を見た。
「ごきげんよう」
「白薔薇さま、あなたは結局、ここへ来たんですね、どういう心境の変化ですか」
「変化もなにも、ここはキリスト教でしょう」
「ええ、まあ、一応ね。しかし異端には違いない。のうのうと生きてる正当の奴らには、ここの価値はわからないでしょう。
キリスト教の教えは、より科学的に理論化、数値化できるものです。神を理論的に証明し、数値化できれば、その利益
はより正確に社会に還元できると思いませんか?」
「ごめんなさい、私には、よく分からないわ」
「まあ、そうでしょうね」
と島田さんは少し馬鹿にした感じで言った。
「結局は、私達は馬鹿になるために生きているようなものです。丸暗記ばかり教える学校、少しも賢くならない社会、
知識と知恵は違うものです。恋愛とか、まったくの所有欲で、下らない。人はどうせ死ぬなら、全ての過程は無駄です。
それを突破するには、死後の楽園しかない。きちんと死ぬことが、一番重要なことです」
「きちんと死んだかどうか、どうやって分かるのかしら、それは全て、神さまが決めるんじゃないのかしら?」
「ええ、だから天主の声が聞ける人が必要な訳です。パルフェが」
「そうね、そうかもしれない」
現実に耐えられなくて神に縋る。
現実に耐えられなくて論理に縋る。
それは同根の病なんだ、きっと。
そして私は川原沙緒に出会った。
「ごきげんよう、白薔薇さま」
彼女は黒目がちな瞳をした、小柄で、可愛らしい女の子だった。
「白薔薇さま、どうして天主会に?」
「神様に、お近づきになりたくて」
「ふうん、やっぱり偉いなあ、私は全然駄目」
「駄目?」
「私は、現実が、現実の社会が怖かったの」
さらりという彼女の言葉は、自然な分だけ率直に私に届いた。
「ここでは、誰も失敗を責めないでしょう」
確かに、失敗しても、何かを間違えても、ここでは全てが許されている。
「私は、両親が厳しくて、ずっと失敗が許されない毎日だったの」
だからあなたは、そんな風に何かに怯えるような目をしているの?
と私は心の中で言う。
「友だちづきあいも、上手くできないし…ねえ、結局はそういう交友関係って、利害関係の気がするの。私は上手く周りに
利益を与えられない。だから中学校でも苛められたし…靴隠されたり、落書きされたり」
気負うことなく言おうとしても、声が震えていた。
「私はもう、神さまくらいしか信じるものがないんです。毎日ただ礼拝して、心安らかで怒られることもなくて、自由な時間
がたくさんあって、私達が社会に本当に与えて欲しいのは、こういう毎日なんじゃないんですか?私は、この世界で生き
るのが辛いんです。生きてるだけで、死にそうなんです」
「でも、現実を恐れていたら、生き難いわ」
「ええ、だから私は生き難いんです。ただ私はどうしようもなく耐えられないだけなんです。そして、ここなら私は耐えられ
る。私は、ここしか居場所がないんです。それで、白薔薇さま」
彼女は私の眼をじっと見た。
「本当は、何でここへ来たんですか」
3
原稿を前に山口真美は座っている。
白薔薇さまが天主会に入信。
これは事実だ。
事実を届けるのが、新聞?
でも、本当にこれを記事にしていいのか?
私がそんな風に迷うのは、志摩子さんが友だちだからとか、そういう個人的な情で、公平なジャーナリズムを見失っている
からなのだろうか。
原稿は進まない。
「どうしました、部長」
と日出美が言う。
「白薔薇さまが天主会入信、衝撃的よね」
「ええ」
「記事にすべきかしら」
「私にはなんとも」
「どうして?これは読者が欲しい情報じゃない?」
「そうですね」
少し頷いてから、日出美が言う。
「たとえば私は、芸能ニュースがそれほど好きじゃありません。どんな芸能人が何に入信しようが、それは個人の自由な
んです。聖書研究会は、学園の公共的な部活動でした。そして、実際に勧誘され、入信してしまう者がいて、不健全な
部活動になっていたのは事実です。あれは報道すべきでした。それは私達がそう判断したからです」
「じゃあ、何故今回は報道しないのかしら」
「そうですね…とりあえず、完全に公平な活動なんてものはないんです。何故なら、何を伝えるべきかは私達が判断す
るからです。そして、何を伝えるべきか判断するには、倫理が必要です。白薔薇さまが入信したから何だというんすか?
もう聖書研究会の周辺事情はかわら版に書きました。白薔薇さまの入信は、その追加トピックスでしょう。そしてそれは、
白薔薇さま個人に、とても大きな傷を残すかも知れない。ただのおまけみたいな情報に過ぎないのに」
「でも、重要な人物が行った行動は、報道しなければいけない場合も多い。そこから、大きな波紋や、議論がうまれたり
もするわ」
日出美が印刷機のスイッチを切った。
「我々は、我々の中の感情や公正さや優しさを裏切ってはいけないと思います。それは一見、より大きな公平性や倫理
を真っ当できたように見えます。しかし実際には、自己満足で他人を傷つけただけです」
「あなた、本当は報道が好きじゃないでしょう」
日出美は驚いたように真美を見た。
「ある面では」
真美は原稿を破り捨てる。
「残念ながら、今回は記事はなしになりそうね」
4
祐巳は聖書研究会に向けて歩いている。
(私じゃ、無理なんです)
乃梨子ちゃんは、泣いていた。
(祐巳さまじゃなきゃ、志摩子さんを連れ戻せないんです)
祐巳は真名緑に会わなければならない。
(祐巳さま、お願いです)
お御堂、その聖なる姿。
(志摩子さんを連れ戻してください)
祐巳はその大きな扉を荒々しく開く。バタン、という大きな音。
中の人間が、一斉に祐巳を見た。
「どうなされたのですか、紅薔薇の蕾」
「緑さま、白薔薇さまを知らないかしら」
「ええ、白薔薇さまなら、天主会にいらっしゃいますわ」
「そう、それなら場所を教えてくださいますか?どうしても、会ってお話したいんです」
不意に、緑さまが微笑んだ。その微笑には、何か異様な、引力のようなものが感じられる。
「どうせ天主会に行かれるなら、入信されることをお薦めしますわ。紅薔薇の蕾」
「入信?」
「紅薔薇さまと入信されれば、いつまでも、ずっと平和で、暖かな日々が続きますよ」
異常な言葉だった。
それは、会話の流れなど一切関係なく、ただ祐巳の内奥を鋭く捉えていた。
祥子さまと手を取り合って永遠に暮らす。御伽噺じゃないんだから、と思う一方、恐らく天主会はそういう御伽噺みたいな
ものを、本気で実行してしまう場所なのだろう。
本当にそんな場所があるなら、人がはきっとそこへ飛び込んでしまう。
「私は、今も充分幸せだから」
「今が幸せだからこそ、不安ではないんですか」
何故そこまで分かるのだろうか。
祥子さまといつまでも一緒に暮らすには、現実を排除するしかない。
そして天主会はたぶん現実を排除してくれるのだろう。
しかし、と祐巳は思う。
そのようにして排除した現実は、必ずいつか復讐を遂げるのだ。だからたとえどんなに辛くとも、そこから逃げる訳にいかない。
「自分の道は、自分で見つけるから」
緑さまは、ただ黙ってじっと祐巳を見た。
祐巳は、微動だにせずその視線を受けていた。
「神のご加護があるのを祈っています」
緑さまはそう言って場所を教えてくれた。
行くしか、ないんだろう。
5
「パルフェが、貴方を呼んでいます」
神父の一人がそう告げた。
私は、連れられて天主会のお御堂に行く。
ステンドグラスから差し込む光。
そこには法衣をまとった長身の男が立っていた。
「よく、来ましたね」
私は、心の準備をする。
いまから、パルフェと話さなければならないのだ。
長身の男の顔には、柔和な表情が浮かんでいる。
これが、パルフェ…?
「あの、いったい、どのような…?」
「貴方には苦悩の影が見えます。自分の理想と社会の現実との軋轢、本当の愛と姉妹の愛、貴方は自分では解決の
出来ない苦悩をかかえている。いま、こうして体験入信しておられますが、あなたは帰依するしかない。現実とは合わな
過ぎる。あなたはもともと、神の御許に近づきたいのでしょう?」
パルフェはたちどころに私のことをこうして見抜いている。
でも私はそこにいかなる神性も見出せなかった。
確かに多くの人は、見抜かれれば感服するのだろう。
しかし、見抜いたからなんだというのか、情報をきっちり集めて、同じことを私に言う人と、パルフェと、どう違うというのか。
天性の勘で見抜いても、情報を集めて見抜いても、結果が一緒では意味はない。
真名緑には、私は確かな神性を感じることができた。
でも、この人は違う。
何故か私はそう思った。
「…考えておきます」
「あなたは、私や、天主会に疑問がおありでしょう」
「いえ」
「何故、世界を穢れていると決め付けるのか、何故、世界は終末を迎えるのか、何故、天主さまを信じるものだけが救わ
れるのか」
パルフェは穏やかな笑みを浮かべたまま言う。
「今のこの世界が、物質一辺倒の、欲望を肯定する世界であるのは、間違いことでしょう。一方で、それに耐えられない
心の綺麗な者達がいる。そういう者たちの方が社会に弾かれ、傷つき、苦しめられるのは余りにも不公平ではないでしょ
うか。世界を穢れているというのは、結局は心の綺麗なものほど苦しめられる事実を、分かりやすく表現しているに過ぎ
ません。そして、神はさまざまなことにお怒りになっている」
「お怒りに?」
「終末の時は近い、その時すべての魂は救われ、天主さまを信じるものは約束の地へたどり着くでしょう」
「…そう、ですか」
「あなたの入信を心待ちにしてますよ」
私は退室することを許されお御堂を出る。
私が思うことは、神はお怒りになんかならない、ということだ。
全ては神が創ったものなら、それに怒るのは理不尽だ。
そしてキリストが既に、私達の代わりに死んだ筈なのだ。
終末や、世界が穢れていると主張することの実体は…我々が弱く愚かな存在ではない、と信じるためではないのか、と
ふと私は思う。
ここで穏やかな日々を過ごすのは素晴らしいことだけれど、もしもここが神のための修行の場でなければ、私達はただ
単に世界に傷ついて逃げてきた落伍者になってしまう。
世界が穢れていなければ、私達はただの弱虫になってしまう。
終末に来て欲しいのは、結局は私達は私達が耐えられなかった世界を誰かに否定してほしいからだ。
出口のない弱さを、神で補っている。
でも、でも…
そんなことを続けたら、いつか本当に、何かの成果を出さなければならなくなってしまう。
修行で神に近づけたかどうか、どうやって実感する?
穢れた世界は、どうして裁かれない?
終末は一体、いつ来るの?
これは、ごっこ遊びだ。
でも、誰もこれがごっこ遊びであることに気づかない、気づきたくない。
ごっこ遊びをしているとき、それが現実であればどんなに楽しいだろうと思っても、いつかは終わる。
でもそれを現実にしようとしたら?
終末が来ないなら?
どんな結果を、天主会は出すのだろうか。
6
天主会に電話をかけた結果、三日後に祐巳は見学に行くことになった。
単身乗り込むのは不安でもあったが、誰も巻き込む気にはなれなかった。
「祐巳さま」
「乃梨子ちゃん…」
「祐巳さま、たとえ嘘をついてもいいから、志摩子さんを連れ戻してください」
「嘘?」
「志摩子さんさえ連れ戻せれば、後はどうとでもなります」
「嘘ってどういうこと?」
乃梨子ちゃんに表情がなかった。
何かに、耐えている。
「あなたが…あなたが志摩子さんを愛していると一言いえば、きっと志摩子さんは帰ってきます」
彼女の胸のうちは、どのようなものなのだろう。祐巳の胸が痛む。
「あなたしかそれは出来ない、あなただけが、信仰心を超えて志摩子さんが愛するものなんです!」
乃梨子ちゃんが頭をさげた。
「志摩子さんを、連れ戻してください」
「駄目だよ、それじゃあ」
「駄目?」
「私は嘘はつけない」
「あなたは、この期に及んでそのちっぽけな自尊心を捨てることさえ出来ないんですか!志摩子さんに
は、その程度の嘘をつく価値さえないっていうんですか!!」
「違うよ、乃梨子ちゃん。嘘をついて志摩子さんがリリアンに戻ってきても、そのあとどうするの?
それじゃあ何も解決しないし、私が嘘をついたら戻ってくるとか、そんな簡単な問題じゃないよ。
私は、志摩子さんの真意を確かめたいだけ。天主会に居ることが志摩子さんに必要なことなら
私は無理に連れ戻したりしないよ」
乃梨子ちゃんは、じっと祐巳の顔を見た。
そこになにか、特別なものがあるかのように。
「あなたは、どうして、そんなに…」
乃梨子ちゃんの続く言葉は聞き取れなかった。
祐巳はただ、深く頷いた。
7
藍花が校内から出て、報告に向かおうとした時だった。
周囲から男達が現れ、藍花を取り囲む。
「おや?どのような御用でしょう」
藍花は制服の下に隠した銃を握る。
男達は無言で藍花に襲い掛かった。
銃声。
二、三発の銃声のあと、周囲は静寂に包まれた。
「やれやれ」
藍花は銃を取り上げられ、縛り上げられていた。
「しくじったというわけか」
「いま、まさに終末が来ようとしています。私の体は毒ガス攻撃により蝕まれ、滅びようとしている!
我々は神の敵を倒さねばならない!武器を取れ!備えよ!」
パルフェはまさに今にも死にそうな様子で、喉もかれんばかりに叫ぶ。
「ハルマゲドンに備えよ!ハルマゲドンに備えよ!ハルマゲドンに備えよ!!」
その集会の中に志摩子は居た。
皆、感動に打ち震えている。
パルフェが去っても、熱気は冷めない。
志摩子は、その空気にどうしても馴染むことができない。川の流れの中にたつ細い木のように。
「島田さん…」
志摩子は思わず、知った顔に話し掛けていた。
「白薔薇さまか、いよいよハルマゲドンが来るんだ!やるしかない、これはやるしかないよ!」
そう言う彼女はとても幸せそうで、志摩子は言葉を失う。
まるで遊びを前にした少年だ。
「でも、あれではまるで…」
パルフェは、武器を取れと言っていた。それは、攻撃してくるものを殺せと、そういうことではないのか。
「白薔薇さま、教主があんなになっているときに、何もできなくてどうして信者と言えるんですか。
私はやります。たとえ何があろうと。神のために」
「でも…」
「これは、聖戦です」
志摩子はそこで見た島田の表情に言葉を失う。彼女は本気だ。いや、彼女達は本気なのだ。
本気で武器をとって、攻撃してくる敵と戦う気なのだ。
志摩子はその場から逃げ出すように歩く、彼らは、救いを求めている。
しかし、これでは…
志摩子は川原沙緒を見つける。
「沙緒さん。あなたは…本当は分かっているんじゃないかしら。あなたは、ここしか居場所がないだけだって言ったわ。
これは聖戦なんかじゃ」
「白薔薇さま、声が大きいです」
「沙緒さん、分かっているなら」
「分かってません」
沙緒さんは、追い詰められた目で私を見た。
「私にはここしかないんです。それに、私は神さまを信じます。今までずっと酷かったんですもの。ここへ来てようやく
救われて、神様を信じて、それなのに神様が裏切ることなんてないって信じてます」
「あなたは、一度でも神を見たことが…神を感じたことがあるの?」
「私は、ハルマゲドンの中で神との一体感を見出すでしょう」
沙緒さんの眼から、感情が消える。
彼女はもう、覚悟してしまった。引き返せない覚悟を。
外が騒がしくなってきた。
8
たちどころに三日が過ぎた。
しかしもう、三日後には見学などと言ってはいられなかった。
TVのニュースは天主会の建物を映し出している。
レポーターが言う「警察の機動部隊が、いま、中へ入っていきます」
天主会は数日前に公安職員を殺害していたことが判明し、また、外国から多数の武器弾薬を密輸入していることが
明るみに出た。
教主はハルマゲドンが来たと叫んでいる。
真名緑やその信者は学校に来ていない。
「今日は早退します」
祐巳はそう言って職員室を出た。
出ると祥子さまが立っていた。
「どこへ行く気かしら」
「止めないで下さい、お姉さま」
「あなたが行って、どうなることでもないでしょう」
「志摩子さんが待ってます」
ふ、と祥子さまは微笑んで、祐巳の髪に触れた。
「どうしても行く気なのね、頑固で困るわ」
「私は、約束しました」
「約束?」
「乃梨子ちゃんに、志摩子さんを連れ戻すと」
約束は、守る。
祥子さまは祐巳のタイに触れた。
「タイが、乱れているわ。みだしなみはきちんとね。マリアさまが見ていらっしゃるわ」
「お姉さま…」
「外に運転手を用意しているわ」
「そんな」
「お姉さまらしいことをさせて頂戴」
祐巳は、深々と頭をさげた。
「ありがとう…ございます」
9
外から銃声が聞こえてきた。
部屋から出れば、皆、銃を持って駆けていく。
到底、現実とは思えない光景だった。
ドラマや、映画から抜け出してきたみたいな。
でもそれは、手を伸ばせば届くところにある現実だった。
「みんな!やめて!!」
私の叫びなど、届きはしない。
止むことのない銃声。
おかしい、これは、おかしい。
私も、彼女達も、つい最近までただの女子高の生徒だったじゃないか。
どうしてこんなことになるんだ?
どうして神を信じた結果がこれなんだ?
「やめて!」
「どいてください白薔薇さま」
聖書研究会の生徒だった。
「こんなことは馬鹿げているわ。今すぐやめるべきなのよ」
「あれは神の敵なんです。教主が神の敵が来るといったら、本当に来た。これは聖戦なんです」
「あれは警察よ、この武器はなんなの?なんでこんなものがあるのよ。おかしいとは思わないの?」
「神のお導きです」
私は突き飛ばされて床に尻餅をつく。
他の人達が駆け去りながら叫んでいく。
「神のために!」
「神のために!」
「神にために!」
私が立ち上がると、誰かが私の手を取った。
「さあ、あなたも、神のために闘って!」
私は無言で手をふりほどく、自分の部屋へ戻るために。
途中で、また、聖書研究会の子に出会った。
「あなたは、どうして、銃なんか持つの。嫌じゃないの?」
「そりゃあ、正直、嫌ですけど…神さまのためなんです!」
そう言って彼女はとてもいい笑顔を浮かべて走り去っていく。
私は部屋に戻る。
ベッドど机だけの、何もない部屋。
遠い銃声。
駆け去っていく足音。
いったい、どこへ向おうというの?
血と殺戮と破滅しかそこにはないのに。
(この世界は目に見えることだけが全てじゃないんです)
(突破するには、死後の楽園しかない)
(私はもう、神さまくらいしか信じるものがないんです)
(私は、ハルマゲドンの中で神との一体感を見出すでしょう)
(これは、聖戦です)
(神のお導きです)
(神のために!)
(神さまのためなんです!)
神、神、神…
遠くから悲鳴が聞こえる。
私は思わず叫んでいた。それが決定的な背信だと分かっていたのに。それでも、叫んでしまっていた。
「見えもしないものを!!」
10
名刺には、運転手 佐原砂狼、と書かれていた。
何も言わずに運転手はリムジンのアクセルを目一杯踏んだ。
「楽しいドライブになりそうだ」
リムジンのラジオからは古いロックが流れる。まったくおあつらえむきだ。
「正式に依頼がくれば、占い師だろうが祈祷師だろうが配管工事だろうが、なんだってやる。もちろん、可憐な少女の
運転手なんか大喜びでやるね」
祐巳は言葉を返さず、運転手も黙った。
警察の機動部隊が見え、銃撃戦のまっただ中へ車が突っ込んで行っても、それでも祐巳は黙っていた。
車は門を突き破り、敷地へ特攻し、銃撃を雨霰と受け、それでも前へ進んでいく。
結局、私が天主会へ来たことは、無意味だったのだろうか。
私は、部屋を出て、何が起こっているか見に行く。
見なければならない。それは、そういうものの筈だ。
廊下をまっすぐに歩き、外へ通じる扉を開く。
血まみれの信者達。
飛び交う銃弾。
はじめて嗅ぐ硝煙の匂い。
「神のためだ!!恐れるな!!撃て!!」
素人たちの特攻と、その破滅。
なだれをうつように楯をもった機動隊員へ突撃していく。
吹き上がる鮮血、響く銃声、悲鳴…
聖歌が聞こえる。
いつもスピーカーから流される聖歌が流れる時間だ。
私の目の前で男の人が顔を撃たれて血が飛び散った、私のスカートに血がついて、私は呆然とそれを見下ろす。聖歌は
響く。
いと高き神の恩寵は、全ての者に降り注ぐ
「神よ!!神よ!!」
腹を撃たれた信者が叫び続け、やがて声も弱弱しくなり、静かになる。
千切れた耳の破片が足元へ飛んできた。
迷える羊に生きる意味を
「畜生!腕が!腕が!!」
「目の前が、暗く、助けて!助けて!」
突然の闘争、彼らには組織も衛生兵も、何もないんだ。
撃たれたら、撃たれっぱなしだ。
聖歌が、歌い続けている。
私は、ドアを閉めて中へ戻った。
戻って、どうする?
私は建物の別の出口から出ることにした。
そこまでなら、戦火は拡大してない筈だ。
いったい、そこへ行って、私は…
別の出口から出る。
そこには血にまみれた信者達が倒れていた。延々と。
申し訳程度の包帯をまかれ、皆虚空を見ていた。死んでいるものもいた。
でも実際には、殆ど区別がつかない。生きているものは言葉もなく虚空を見て血を流し、死体と区別がつかない。
そして、時間がたてば区別する必要がなくなるのは明白な状態だった。
?
視界が低い。
なんで、こんなに視線が低いのか。
私は、自分が立っていないことに気づく。
膝から力が抜けている。
誰かが歩いてくる。
「君は、藤堂志摩子か」
感情のない、死んだ声。
「あなたは?」
「公安七課、クロス・シギだ」
死んだ魚の眼、というのはこういう目をいうのだろうか。
「藍花陽子が接触していたのは君だな。ここに捕らえられているようだが、知らないか?」
「陽子さん、捕まったんですか?」
「そうだ。しかし、知らないなら構わない」
クロスさんは歩いていこうとする。
「何が、構わないんですか」
「?君が知らないなら、それで構わないということだ」
私は、殆ど直感的にこう思った。
「あなたは、陽子さんが死んでいても構わないと思っているんじゃないですか」
「そんなことはない」
感情がない。この人は、嘘を言っている。
「見殺しにするんですか」
「…この世界にはこの世界のルールがある。藍花陽子は便利な協力者ではあるが、代わりは幾らでもいる。
我々の情報を持っている分、考え方によっては、死んでくれていた方がありがたい」
「陽子さんを助けてください」
「断る」
「陽子さんを…!」
息が吸えなくなった。私は驚いてうずくまる。激しい痛みが腹部を襲っていた。
私は、クロスという男に腹を蹴られたのだ。
驚きと、痛みで、膝をついてしまう。
「余り煩く言わないことだ。弱い人間には、私の世界では生きる権利がない。私がここで君の頭を撃ち抜いても、問題に
はならないのだから。君には何も出来はしない」
それだけ言うとクロスは歩いていってしまった。
私は追えなかった。痛みと、恐怖で。
確かに私には何も出来ない。無力で、愚かだ。
何のためにここにいるのか。
何のために……
いきなり眼前で派手なブレーキ音をたてて車が止まった。
響く聖歌を吹き飛ばすロックンロール。
後部座席から降りてくる天使。
「祐巳さん…」
「志摩子さん!!」
「感動の再開はいいが、僕はここで後続を食い止めるから、用事をすませてくれるかな」
運転席から、中学生くらいの女の子みたいな人が降りてくる。見覚えがあるような気もする。
「用事?」
「ないなら帰ろう」
リムジンは壁のように横を向いている。
「私、私は、天主会に入って、公安に協力したら、正しいことが明るみになるって思って、でも…」
そうなのだ。私は、藍花陽子に、天主会への潜入を薦められて、あの時、絶好のタイミングで現れた真名緑の
誘いにのったのだ。
天主会がどのような教団か直接見たかった、それに、本当に正しい教団なら、私が公安に協力したって大丈夫だと
思っていた。
しかし結果は、この無数の死者と、闘争だ。
私が、彼らを殺したんだ。
私が、この事態を招いた。
私は…
「君は社会的には良いことしたんじゃない?危険な教壇を潰すのに大健闘だ」
「でも、納得できないんです」
不意に、祐巳さんが私の手を取った。
「じゃあ、行こうよ」
「行く?」
「納得できるように、最後まで見届けよう」
「祐巳さん?」
「私達はこれから教主のところまでいきますから、ここをお願いします」
「了解」
私は祐巳さんに引かれて歩いていく。
「祐巳さん?」
暫く歩いて、急に立ち止まった祐巳さんは言った。
「教主さんのとこって、どこだっけ?」
11
焼け爛れた髪の毛に、指を一本なくした姿で、彼女は教主の元へと歩く。
その異様な姿に驚いたときには、頭を撃ち抜かれている。
リロードして撃つ、リロードして撃つ。
「ど素人が」
教主の部屋には、自分をとらえた、あの護衛達がいた。
なるほど、厄介だ。
どうしたものかと思っていると、肩越しに銃を持った腕がいきなり現れた。
「生きていたか、藍花」
「まるで生きてちゃいけないみたいな言い方だな」
ブウウン、ブウウン、という重低音と同時に護衛達の頭が弾けとんだ。
「場合によっては、死んでいた方がありがたいこともある」
「正直なことで」
藍花は自分の担当者である、クロス・シギという男の、力だけは知っている。もう安心しても大丈夫だろう。
「義指の制作はあとで本部に申請しておこう」
クロスが扉を蹴破った。
それは九畳ほどの部屋だった。奥に机と椅子があり、パルフェが座っている。
手前には来客用のソファとテーブル。
十人ほどの信者達が、一斉に銃口を向けてきた。藍花は、真名緑が混じっていることに気づく。
藍花が姿を見せると、彼らは一様に怯んだ。
「どうした、この私の姿は、あんた達の神様が選んだ、あんた達がした暴力なんだ。おい、なにをびびってる?」
震えながら向けられる銃口に、藍花は銃弾を返した。額のど真ん中に命中させ絶命させる。
「銃を抜いたならすぐ撃って殺せ、弱者が」
目の前で人が殺された衝撃が冷めやらぬ連中に、躊躇うことなく藍花は銃弾を撃ちこむ。ただ、殺意を飛ばす。
真名緑だけが、反撃の銃弾を放った、それはクロスの体で遮られる。
「さて」
クロスが銃口をパルフェに向けた。
「どういうつもりかは知らないが、ここまでやってただで済むとは思っていないだろうな」
「クロスか…」
「のこのことリリアンの白薔薇に興味を持ったのが誤りだったな」
「スパイだったか」
「お前につけられたマーカーのおかげで、全ての脱出路を塞ぐことが出来た。私が言いたいのは、お前はもう逃げる
ことが出来ない、ということだ」
「私を殺すか?」
「いや、そんなことをすれば信者達はお前を伝説にしてしまうだろう。国家権力に殺された悲劇の聖人が誕生してし
まう。そんな物語を与える気はない」
藍花がクロスの肩を叩いた。
「珍客が乱入してくるぞ」
廊下の向こうに、2人の少女が見えた。
私は、祐巳さんと共に、再び教主の前に立っている。
生きているのは、教主と緑さま、クロスさんと陽子さん、そして私達だけだ。
「君達は、何をしに来たんだ」
「納得のいく、終わりを見たいだけです」
私は、パルフェを真っ直ぐに見つめる。
「あなたは、どうして、こんなことを?」
「これは、ハルマゲ…」
全てを言い切る前にクロスの蹴りがパルフェに命中した。何かを耳元で囁く。
「嘘を言うなら、ただではすまんぞ、ムグルマ」
ムグルマ、と呼ばれたパルフェは青ざめた顔をしていた。
「私はただ単に、弱い人間に救いを与え、利益を貰った、何が悪いというんだ?」
「それなら、こんな武器は必要ないはずです」
「どこの教団より真剣に、厳密に、救いや、終末を考える教団だったから人が集まった。しかし、そういうものはエスカレート
するしかない。必然としてやっているだけなんだ。ここまで大きくなった意志を、教主といえど止めることなど出来ない」
「そんなものは、本当の救いじゃない」
「本当の救い?そんなものがこの世界にあるのか?神なんて、本当にいるのか?私は救いを提供し、ある面では本気
で神を信じさえした。しかし、結局は究極的な意味で救いはなかったんだ」
クロスが冷ややかにパルフェを見た。
「聖人ぶるな。何が救いを提供し、だ。信者に若い娘が増えて、手を出していただろう。そこの、真名緑にも」
「それは修行の一貫として、必要な救いで」
「処分を受けたいらしいな」
「私は救いを提供していた。若い娘を愛して何が悪いんだ?傷ついた救われたい魂があって、私もそれを愛して、結ばれ
て何が悪い」
緑さまが叫んだ。
「あれは、修行なのでしょうパルフェ!」
藍花が鼻で笑った。
「馬脚をあらわしたなムグルマ、騙されたって顔してるぞ緑さんは」
「救いの代価だ。安いものだ」
「パ、パルフェ…」
いきなりムグルマが机を蹴った、床に固定された机はびくともしないものの、大きく音が響く。
「お前達は、俺にこう言わせたいんだろう。俺が金と女目当てで人を騙して利益を貪っていましたってな。そう思いたい
なら俺に詰問せずに勝手にそう思えばいいじゃないか!だが言わせてもらうがな、世の中っていうのはそんなに単純じゃ
ない。俺が金で豪遊しようと女の信者を抱こうと、それでも真剣に救いを目指しているってことだってあるんだ。そしてそ
の試みは失敗だったし、実際に究極の悪になった。それで、お前達はどうしたいんだ?もう好きにしたらいいだろう!」
「ムグルマ・シュウジ、国家反逆罪、殺人教唆、誘拐、監禁、そのた諸々で逮捕だ」
「ふん、結構楽しい遊びだったぜ」
クロスさんはパルフェに手錠をかけ、部屋の外にいつのまにか控えていたスーツの男達に引き渡した。
そして、藍花さんは緑さんに銃を向ける。
「クロス、こいつは、形質が発現している。間違いない」
「報告は見ていた」
私は、気づいたら緑さまを庇うように立っていた。銃口の前に。
「おいおいおいおい、何を邪魔してるんだ白薔薇さま」
「あなた達は、緑さんをどうする気ですか」
クロスが、死んだ声で言う。
「彼女は、また天主会を復興させる可能性がある。また、特殊な事情で、処理しない訳にはいかない」
緑さんが反論する。
「天主会を復興させて何が悪いんですか!神は私達の中に生きています!たとえ、何があろうとも!」
「この通り。危険極まりない」
藍花は私に銃を向ける。
「結局はな、弱さが悪い。弱さが悪を生む。今回のことだって、結局はこいつらが屑だったからこうなったんだ。宗教に
縋るような奴は屑だ。ましてや、武器をもってハルマゲドンなんてたちの悪いジョークを本気にしてしまう馬鹿さだ。
そんな奴らは死んだ方がいいんだよ」
緑さんが藍花を睨む。
「この世界は欲に溢れ穢れています、それは…」
「欲に溢れるのが人間だ!何が悪い!それを認められないお前達は人間自体を認められない。だからハルマゲドンなんて
言い出すんだ。いいか、欲は正しい。何も悪くない。間違っているのはお前達だ」
「あなたはきっと、虫も人も平気で殺すのでしょうね。いいですか、命とは…」
「虫と人を一緒にするな!いいか、命の大切さだの何だのお題目を唱えるのは人間だけだ。人間だけが善悪と倫理を
持つ。人間の規則だけがこの世で大事なものだ。虫なんて幾ら殺したって構うものか、それが人間のルールだ。お前
達は何様だ?人間の規則を超えた普遍のルールでもみつけたつもりか?虫なんてのはな、ゴミと一緒だ」
「あなたに救いは訪れません」
「じゃあ、お前には訪れたのかよ、結構なことだな」
私は、黙って藍花を睨んでいる。
「私の姿を見ろ」
髪は焼けただれ、指をなくし、皮膚は焼けどで引きつっている。
「これが現実だ。弱ければ損なわれる。勝たなければ死ぬ。耐えられないのは弱いからだ。そして弱い奴には生きている
資格がない。神に縋ったこの教団の結果を見ろ、まさに屑だと自分で証明しているようなものだ。現実逃避のクズ達に
生きる資格はない。そんなものはこの世から消し去るべきなんだ」
私は、不思議に思って聞いてみる。
「あなたは、そんなに傷ついてまで、たとえば、世の中の悪をなくそうとしているのですか?」
「悪なんてものがあればの話だが、そんなものはなくならない。それが人だ。悪がなくなったりするものか。さあ、どけ」
「どきません」
私は思う。彼女は、ハッキリと間違っている。
「あなた達リアリストは、悪はなくならないという。じゃあ、どうして人の弱さや、繊細さや、純粋さは失くせると思うのです
か?どうして悪や欲を許せて、弱さや繊細や純粋さを許せないのですか?あなたが欲を人だと言うのなら、弱さや繊細
さや純粋さも人です。それを無理になくそうとか、死んでしまえとか、追い詰めるからこそ、こうして宗教が必要なんじゃ
ないんですか?彼らには、彼らが生きられる場所をちゃんと用意するべきなんです。酒や、売春街や、煙草がある
ように」
藍花が言葉に詰まった。
「あなた達はそんな場所が与えられることを、甘えているとか、弱いとか言う。でもその場所は、誰にも開かれているん
です。藍花さん、もちろん、あなたにも。私は、今日はじめて、自分の信仰を、神を疑いました。でもそれで宗教心を失っ
たかといえば、私の中の宗教心は、今、まさに完全な啓示に打たれて震えています」
私は、今なら、完全に断言できる。
「私は神を信じます」
私の胸の中には、未だに聖歌が響き続けている。
「馬鹿げてる!私は弱さを克服した。だから…」
私は藍花の言葉を遮る。
「私達は弱い、みんな弱い、それを完全に打ち消すことなんて出来はしない!弱さを消すことなんて、決して出来ないん
です!だから神が救う。いいですか」
さまざまなこと。
乃梨子、祐巳さん、真美さん、島田さん、沙緒さん……今なら、分かるよ。
「全ての弱さは許される!」
絶叫に近い叫びだった。
藍花さんが銃をおろした。
「撤収だ。邪魔が入った」
クロスさんの視線の向こうには、サワラさんが立っていた。
藍花さんは、去る。
そして去り際に一言私に小さく言った。
「それでも、私が信じている現実はこっちだから」
私は、静かに目を閉じた。
12
私は、学園に戻ってきた。
天主会に体験入信していたことは、公安の手伝いだったことが何故か伝わってしまっていて、でもそれのお陰で私は
偏見を避けることが出来た。ありがたいような、欺瞞のような、複雑な思いがあった。
新聞部が騒ぐまでもなく、新聞や写真週刊誌に事件は取り上げられ、某名門女子高の生徒も入信しており、教主と
肉体関係があったと暴露されている。
緑さまの立場は、とても苦しいものだろう。
私は…
結局は乃梨子と一緒にいて、失われたものは戻ってこないけど、前よりは、きっと、安定している。
「結局、祐巳さまは祥子さまが好きなんですね」
「ええ」
「失恋?」
「そうかもしれないわね」
「失恋後の女の子は、落としやすいそうだから、私頑張っちゃうかも」
「乃梨子にだったら、落とされたいわね」
2人で、また、笑い合える。
まさに、神のお恵みね。
聖書研究会の部長が、マリア像の前に立っていた。
「昌子さま?」
「白薔薇さま…」
「どうされたんですか?」
彼女は深々と頭をさげた。
「ありがとうございました」
「私は、礼をされるようなことは何も…」
「いえ、いいんです。結局、私が巻き込んだようなものですから」
「気にされるようなことではないですよ」
「私は…緑さんが好きだったんだと思います。ずっと、妹にしたかった」
「ええ、それで?」
「いえ……それだけです」
昌子さまは、少し苦笑したようだった。
「白薔薇さま…白薔薇さまは、やはり敬虔なクリスチャンだと私は思います。誰よりも」
私は微笑んで答えない。
昌子さまはまた、頭を下げる。
私達も礼をして、校門へ向って歩く。色んな思いを抱えて。
向こうから緑さまがやってきた。
「ごきげんよう」
「ごきげんよう」
緑さまは、じっと私を見つめた。
「なにかしら?」
緑さまは堰を切ったように喋りだす。
「私も、信仰を捨てていません。むしろあの事件で、あなたと同じくより強く神と繋がった気さえします。白薔薇さまは
宗教を、酒や売春街や煙草にたとえました。私は、そうは思いません。神の中にこそ真実があるのだと思っています」
「あれは、陽子さんに分かりやすい表現を選んだだけよ。私も、尊いものだと思っているわ。ねえ、緑さま、あなたにとっ
て、天主会というのはなんだったの?」
「だった?過去形ではありません。天主会は生きています」
「え?」
「私が、天主会です」
彼女が歩いていく。
あれはマリア像の方向、昌子さまがいる方向。
全ての者に、恵みあれ。
本当に強くそう思う。
彼女がこの後どうなったか、私は知らない。
another story of LiLiann for princess over