ねえ、ケイ、疲れてるの?

  そう言った私の言葉にケイは不思議そうに笑う。

  その少し傾いた首の角度とか、眼鏡の奥の瞳とか、全部好きだけど、言わない。

  「セイ、ちょっと、旅行にいかない?」

  と彼女は小声で言う。

  彼女からそんなことを言うのはちょっと珍しいことだったけど、嬉しかった。

  食べたアイスが当たりくじだったみたいな、そんな嬉しさ。

  「旅行?どこへ行くの?」

  ケイはその薄いピンク色の唇で行き先を告げた。 そんなに遠くない場所。

  旅行なんて久しぶりだ。

  「楽しみにするわ」

  そう言って笑う私の顔を、何故かケイは不安そうに見ていた。

 

        『ふるえ』

 

  最近、震えることがある。

  それは突然に私に訪れて、しばらくは去らない。

  まったく、何の予兆もなく、それはやってくる。

  胸ポケットに入れている携帯電話のように、 突然に私は震え出すのだ。

  そして私は電話に出ることさえ出来ずに震え続ける。

  10秒か、それぐらいの時間だと思う。

  医者に行こうとは思わなかった。

  これは何か具体的な要因のあるものではない、と私が信じているからだ。

  それにたぶん医者はこう言うだろう。

  「特に異常は見当たりませんね、精神的な要因ではな いでしょうか、とりあえず薬を

  出しておきます」と。

   医者なんかに、分かるような震えではない。

   だから私は旅行中に震えたら嫌だな、と思いつつ、楽観してもいた。

   ケイがいれば、私は震えない。

   何故か、そう思っていた。

 

 

   私は何度か彼女と旅行に行ったことがある。

   二人で旅行に行っても上手くやれるなら、大抵の場合において二人は上手くやれるだろう。

   結婚した場合を除けば。

   でも、私達は結婚することさえあり得ないのだ。

   「ねえ、セイ、実はね」

   私達は向かい合って座った電車の座席で、囁くように話す。

   「なに?」

   「今日が、お父さんの命日なの」

   「え?」

   何故、ケイは家族と過ごさないのか、私がそう言う前にケイは言った。

  「今から父の墓に行くの、実家の方で、少し遠くて、私の家族も…っていっても、

   母だけなんだけど、来てる」

   「何で?」

   「騙すつもりじゃなかったのよ」

   「いや、っていうか、よく分からないのよ、混乱してる。どういうこと?」

   「セイに、父の墓に、きてほしかったの」

   「そう」

   私は正直にいえば、だまし討ちをうけたみたいな不快感があった。

   だが、それを言ったところでどうなるというのだろう。 無意味だ。

   私はケイを信頼し、愛せばいい、父親の墓参りしてほしいと言われたことを、喜んでも

   いいぐらいだ。

   だから私は覚悟を決めて、列車に揺られ続けることにした。

 

 

 

   そこには、ケイの血の繋がっていない母親が来ていた。

   私達は旅館を取り、そこで一泊する予定だったのだが、その旅館にわざわざケイの母親

   は来てくれたのだ。

   率直に言って、嬉しい訪問とは言えないのだが、わざわざ来てくれたことは感謝しなけれ

   ばならない、それが人間の仁義というものだ。

   ケイはたまたま部屋におらず、来るまで、二人で話した。

   「ケイと、仲良くしてやってくださいね」

   「仲良くさせていただいてます、一緒に墓参りに来るぐらいに」

   ふふふ、と彼女が笑った。

   「不思議よね、あの子、そんなに誰とでも仲良くなるタイプでもないのよ」

   「私も、そう思います」

   「しかも、墓参りにつれてくるなんて、不思議ね。あ、怒ってるわけじゃないのよ」

   「分かります。しかし、墓参りに連れてこられると、なんだか結婚しなきゃいけないような

   気持ちになりますね」

   「あら?ケイと結婚してくれるの?」

   「私がウェディングドレスを着ていいなら」

   彼女が上品に笑った。うふふ、だ。それが決して嫌味にならない。太陽の光が降り注いで

   種が芽を出すような笑い方だった。

   「どちらかといえば、サトウさんの方がタキシードが似合うわ」

   「ええ、私もそう思います。だったら、ケイにウェディングドレスを着てくれるように頼まなきゃ

   いけませんね」

   「私から言っておくわ」

   うふふ。

   綺麗な笑い方。

   「ほんとにね、あの子が結婚して、子供が産まれて孫を見るのを、楽しみにしてたわ」

   「誰がですか?」

   言ってから、なんて馬鹿な質問をしたんだろう、と思った。

   決まってるじゃないか。何を言ってるんだ。

   「あの子の父親。でも、私も、そうかもしれない。孫って、きっと可愛いものだから」

   「そうですね」

   孫という響きに、どうしても姉妹制度を思い出してしまう。

   ついでに祐巳ちゃんも思い出してしまう。可愛い孫。なるほど。

   暫く二人で話した。ケイは戻ってこなかった。

   「ちょっと用事があるから、先に墓に行っておくわ。ケイちゃんにもそう言っておいてください

    ね」

   「分かりました」

   彼女はそう言って部屋を辞した。

  

   そして私はぼんやりする。

   彼女の居た余韻、言葉の余韻を確かめる。

   それがまだ、部屋の空気の中に浮かんでいる気がしたから。

 

   不意に

 

   それはきた。

   激しいふるえ。

   今までにないほどに激しい。止まらない。

   そして私は恐怖を感じた。いままで、震えても恐怖を感じたことはない。

   いや、今までも微かな恐怖の予感はあった。だがそれは余りにも小さすぎて気づけなかっ

   たのだ。

   今、私はふるえと共に、激しい恐怖を感じている。いや、恐怖しているからふるえているの

   か。

   そして私には、その恐怖の原因さえわからないのだ。

   なにか、微かな声が聞こえる気がした。

   聞こえるか聞こえないかの微かな声、虫の羽音よりも小さい。

   ふるえは止まらない。

   怖い。

   逃げ出してしまいたい。

   あ**は***げ*****

  なんだって?

  **た*******な**

   聞こえない。

  怖い。

  逃げ出してしまいたい。

  ふるえている。

  止まらない。

  戸をあける音。

  「どうしたの?セイ、真っ青な顔をして」

  「日焼けしたんだ」

  「面白くないわよ」

  ケイに母親が来たことを話し、墓で待っていることを伝えた。

  「心配性ね、あの人。わざわざ来るなんて」

  「いい人だよ」

  「まあね。何話した」

  「結婚のこと」

  「結婚?」

  「私がタキシード着て、ケイがウェディングドレス着てくれる?」

  「断わるわ」

  「じゃあ、私がウェディングドレス着るしかないな」

  「馬鹿みたい」

  まったくだ。

  馬鹿みたいだ。

  何で墓参りにきてるんだろう。ほんとに。

  しかし行かないとういう訳にもいかない。

  私はケイと一緒に墓に向った。

 

 

  さっき、ふるえていた時にきこえていた声が、まとわりついている気がする。

  この旅行は、墓が目的だ。

  死者たちの眠る場所。

  あらゆる意味でここは終点だ。

  旅の終わり。

  何かが、終わろうとしていた。

  隣を歩くケイの表情は見えない。

  墓の傍に立つケイの母親の細さや儚さは、いま私の立つ場所が夏の日の幻のような気にさ

  せる。

  ここは、どこだ。

  日差しは暖かだった。

  夏の日の幻、旅の終わり。

  ケイと一緒に、墓へと進んでいく。

  その足取りの、なんと不確かなことか。

  現実に歩いているとは思えない。

  ケイが言う。

  「ここが、父の墓よ」

  それは、石で出来た、よくある墓に過ぎない。

  しかし、その下には白いカルシウムの固まりとなったケイの父が眠っている。

  いや、ケイの一族全てが眠っているのだ、この墓地には。

  この、私の足の下に。

  血の重み。歴史の重み。

  「来たわ、お父さん」

  とケイが言った。

  私は場違いだ。私はここにいるべき人間ではない。私は、相応しくないんだ。

  「セイを、会わせたかったの、父さんに」

  何故。相応しくないのに。

  「父さん、この人は、サトウ・セイ、私の友達」

  とても黙っていられない。耐えられない。

  「ねえ、ケイ、どうして、私を連れて来ようと思ったの」

  何故か、視界が少し揺れた。

  「父さんと、会ってほしかったから、それだけよ」

  視界が揺れる。

  何故だろう、さっきから。

  「父さんは、夫と孫に会いたかったんでしょうけどね、そういう人だったから」

  やはり、揺れている。何故だ?

  「さあ、セイ」

  ケイは墓に水をかけ、そのひしゃくを私に渡そうとする。

  上手く受け取れない、視界が揺れているせいだ。

  「どうしたの、セイ、さあ」

  そして私はひしゃくを受け取ってしまった。

  『あんたはもう、逃げられないよ』

  声が聞こえた。

  ようやく、その声を私は聞くことができた。

  視界は揺れている。これは、ふるえている。

  ふるえている。

  “あの子が結婚して、子供が産まれて孫を見るのを、楽しみにしてたわ“

  “私も、そうかもしれない。孫って、きっと可愛いものだから“

  “父さんは、夫と孫に会いたかったんでしょうけどね、そういう人だったから“

  墓の下の死者の血と重みが、私をとらえている気がした。

  そして私はふるえの原因を知る。

  これは、現実に適応できない私の恐怖なのだ。

  私は、現実を恐れているんだ。未だに。

  “あの子が結婚して、子供が産まれて孫を見るのを、楽しみにしてたわ“

  “私も、そうかもしれない。孫って、きっと可愛いものだから“

  “父さんは、夫と孫に会いたかったんでしょうけどね、そういう人だったから“

 

 

  でも、私達には──

 

 

  ──子供なんか出来はしないじゃないか。

 

 

 

  私達は、女同士じゃないか。

  一族も血族も出来はしない。

  ケイの母親だって、真実を知れば嫌悪する。

  私とケイが毎晩、どのように仲良くしているかを知れば。

 

  現実。

  それが、現実。

  ふるえは止まらない。

 

  私はひしゃくを持ちながらふるえ続けていた。

 

  ずっと。

 

                                                  了

 

 

 

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