九鹿高校は、私にとって一つの楔だ。

あの時失った全てが、私を駆り立てている。

深い闇は、そこにある。

 

 

  『黒い水』

 

 

どんな学校にも、嫌な教師というのは、存在する。

そういう教師が全くいない学校なんて、あるのだろうか。

まるで御伽噺みたいな世界の、リリアンにさえやっぱり、嫌な教師はいるというのに…

「上田先生?」

真美さんは、少し眉を顰めながらその名前を口にする。

私は新聞部である真美さんなら、その教師の情報をある程度持っているのではないか、と思ったのだ。

「評判は最悪、やたら怒るし、なんか視線もいやらしいし、良い噂は全くないわね。でもどうして?」

「あの先生が、何だかいやらしい目で祐巳さまを見ていたような気がしましたので」

「相変わらず、祐巳さんのこと好きなのね」

ええ、そうです、と答えようとして私は口ごもる。

私はもう、祐巳さまの妹候補でもなければ、薔薇の館とも関係がない。

祐巳さまのことは好きだけれど…

今の私は、ただの後輩なんだ。

「尊敬する先輩ですから」

そう答えて、新聞部を後にした。

 

 

四階建ての校舎は高く、影は長い。

中庭の木々の緑が私には何だか眩しく感じる。

そうして中庭の真ん中で校舎に囲まれていると、この石造りの建物に見下ろされているように思えてくる。

悪い気はしない。

見下ろすなら、勝手に見下ろせばいい。私は眼の前の世界に対する違和感が消えない、世界に馴染めない女の子なのだから。

世界はいつだって、ガラスを一枚挟んでいるみたいに近くて遠いんだ。

私は誰もいないところで、一人で静かに過ごしたいと思った。

絶対に誰も来ないところで、じっとしていたい。ただ、自分のことを考えていたい。

そう思った。

誰も来ない、校内でも端の端、森の中に影がさして暗い場所がある。

私だけの場所。

でも、何故かそこに、今日は先客がいた。

それは何か秘密めいた雰囲気で、聞こえてくる声もひそめられたものだった。

盗み聞きしてはいけない。

そう思った時には手遅れだった。

「上田先生に!?どうして…」

そこにいたのは二人の女の子だった。姉妹のようにも思える。

片方の子が涙を流して、もう一人の子に縋っていた。

「…無理矢理……」

どう考えても、それは聞いてはいけないことに思える。

木々の立ち並ぶ森の中で、一組の姉妹が抱き合っている。その静謐な美しい光景。見てはいけない。

私は、そこを去ろうと思った、しかし。

「紅薔薇の蕾を、呼び出せって」

泣きながら彼女がそう言ったので、私はそこを去ることができなくなってしまった。

たとえ卑劣な盗み聞きになろうと、聞かない訳にはいかなかった。

祐巳さまの、ことだったから。

「そうしないと…あいつ、写真を…」

私は、そこで立ち聞きを続ける。

断片的でも、何があったのか、私は分かった。

どのような犯罪がそこにあったのか。

現実に

現実に、そんな。

私は確かに激しいショックを受けていた。

そして、激しい怒りも。

信じられない思い。

父の時も、そう思った。

動悸が激しくなった。

世界は、理不尽だ。

何故そんなものが存在するのか、悪や、穢れが。

現実にそんなことが起こりうるのか?

いや、起こり得るんだろう。

新聞を斜め読みしたって、気づくようなこと。

それでも、信じられないこと。

人間は、それを克服しなければいけないんだ。絶対。

明日の放課後、上田は祐巳さまを呼び出す。

私は……

 

                                       

                                    『発生』

 

 

その日、細川可南子は美術室前の廊下に居た。

そこには、朝田京子と真野薫の姉妹もいる。可南子が森で見かけた姉妹だ。

何も会話はない。

どうしてここに居るのか、可南子も、その姉妹も、説明が出来なかった。

ただ何となくぶらぶらとここに居る。そんな様子を装っても、どうみても無理があった。

放課後の、みんな帰るような時間だ。

夕日が校舎の向こうに沈んでいく。

なぜ、夕日が落ちていくのを見るとこんなにも心が騒ぐのだろう、と可南子は思った。

不安や郷愁や、寂しさや、そんな感情が溢れてくる。

「あれ?可南子ちゃん?」

そんな不安を、吹き飛ばすような、優しい声…祐巳さま。

窓から差す夕日を浴びた祐巳さまは、くっきりとした陰影の中で、何か疲れているようにも見えた。

「どこへ行かれるんです?」

「え?上田先生に、美術室に呼ばれて」

「上田先生は、美術の教師ではない筈ですが」

「さあ、そんなのわかんないよ。なんだろうね?」

可南子は、何があっても祐巳さまについていくつもりだった。絶対に、守る覚悟だった。

しかし、朝田姉妹はどうするつもりなのだろうか。

彼女達も、祐巳さまを守りにきたのではないのだろうか。

「私もご一緒します」

可南子がそう言った瞬間、京子さんが可南子と祐巳さまの間に入った。

その時の、京子さんの表情は、怯えと、苦悶と、繕った平静さに満ちている。

そして彼女はこう言ったのだ、可南子に。

「あ、バスケ部の顧問が可南子さまを探していましてよ」

その瞬間、見てはいけないものを可南子は見た気がした。

もしも祐巳さまを連れて来れなければ、薫さんはまずいことになるのだろう。

可南子は、それでも、薫さんより祐巳さまを守ることを優先する。そのために来た。

だから、京子さんの行動も理解できた…いや、理解など。何が分かるというんだ。当事者でもないのに。

バスケ部の顧問が探していた?

どんなに取り繕った美しい姉妹愛の外形をしていても、やはりそこに人間の醜いものを感じない訳にはいかなかったのだ。可南子は。

仲間を増やしたい。

高貴な紅薔薇の蕾を、堕ろしてしまいたい。

自分達さえ助かれば良い浅慮。傲慢。

しかし、誰がそれを責められるというのか。

「バスケ部よりも、今は、祐巳さまです」

「ちょっと、可南子ちゃん、どうしたの?バスケ部に行った方が良いよ?」

「祐巳さまは黙っていてください」

「もう、どうしちゃったの?」

取り返しのつかない悪が、連鎖的に悪と破滅を呼ぶ。

追い詰められれば、悪になる。

何故。

何故、追い詰める。

人間は……

「あれ!!」

祐巳さまが指を指した。

何かが美術室の窓から落ちていく。

まさか…

可南子は急いで美術室の扉に飛びついた、鍵がかかっている。開かない。体当たりする、駄目だ。

今は、美術室よりも、落ちたものの方だ。

可南子の網膜にも、それはハッキリと焼きついていた。

美術室の窓から落ちる、人の陰が。

 

 

 

                                  『検分』

 

 

落下地点は植え込みや木が多く、分かり難い場所だった。

四階の高さから落ちても…生きている可能性はある。急いで見つけなくてはいけない。

木々が影になり、もうすぐ夜で辺りは暗い。

植え込みをガサガサしていると、懐中電灯に照らされた。

「お前達も、見たのか!」

その声には聞き覚えがあった。美術の志位先生だ。

「あなた達も、見たのですね…」

志位先生の後ろからシスター上村が声をかけてくる。、

その時、奥で悲鳴が聞こえた。

植え込みを書き分け、可南子達が駆けつけると、そこには頭から血を流した上田先生がいた。

薫さんは悲鳴をあげた姿のまま固まっている。志位先生が声をかけた。

「上田先生?上田先生?…上田先生!!」

そっと近づいて、志位先生は脈をとって言った。

「死んでる」

 

 

死体を……当然だが、リリアン生は死体を見るのは始めてだ…死体を前にして、呆然と立ち尽くす一同に、シスター上村が言った。

「救急車…いえ、警察を」

「待ってください!」

シスターの真っ当な意見に意義を唱えたのは薫さんだった。

みな少なからず動揺している。何が何だか分からない状況だったので、強い意志をもった人の言葉はとりあえずそのまま聞く状態だった。

「警察を呼ぶのは待って欲しいんです」

シスターは怪訝な顔をする。

「どうして?」

「それは…」

薫さんが絶句したあとを、京子さまが続ける。

「とにかく、せめて、美術室の中を開けてはどうでしょう。急がないといけません」

「何故?」

「だって、美術室には鍵がかかっていたでしょう?可南子さん」

確かに、鍵がかかっていたのを確認したのは可南子だった。頷く。

「もしも…いいですか、もしも上田先生が突き落とされたなら、あの時…そんな人間がいるならの話ですけど、犯人はまだ中に居たことになります」

「犯人?」

「そうです、上田先生が突き落とされたなら、犯人は部屋からあのときは出れていない」

皆、一瞬沈黙する。

犯人?

部屋から出れない?

混乱した頭脳が更に混乱する。

京子さんがどういう事態を想定しているのか、飲み込むのに時間がかかる。

つまり、こういうことか。

上田先生は何者かと美術室にいて、私達が廊下に居る時に突き落とされた。

何者かは、私達が廊下にいる間は美術室を出れない。

まだ、中にいるかもしれない……?

「急いで、美術室へ行くべきなんです!」

そう言うと京子さんは駆け出した、皆、思わず追う。

しかし、可南子は思った。

ああやって、美術室の重要性を訴え、走り出すことで、警察への連絡は美術室を開けてからになるだろう。嫌でも。

 

美術室前の廊下には、もう夕日は差していない。

月明かりが照らす廊下は青白く、静謐で美しい不気味さだった。

志位先生がドアに手をかける。

中に犯人がいるかも知れない。

そう思うと、この瞬間も恐ろしくてたまらなかった。

だが、ドアは志位先生がどれだけ力を込めても開かず、どう見ても鍵がかかっている。

志位先生は、さっき保管室に行ってとってきた鍵を差し込み、カチャリという音と共に錠を外した。

今度こそ、扉が、開くんだ。

可南子は嫌な汗が手に滲んでいるのに気づく。

人が、死んだ。現実なのか、これは。

そういうことが現実に存在するのは知っている。しかし、何故だろう、とても現実とは思えない。

扉が、開いた。

そこには──

 

 

  誰もいなかった。

 

 

ホッと、した。

ここにそんな殺人犯がいれば、混乱はより大きなものになっただろう。

冷静になれば、美術室から漂うテレピン油の匂いが鼻についてくる。

一枚の紙とデジタルカメラが机の上に乗っているのが見えた。

美術室の壁際には絵と彫刻が無造作に置かれ、机は前に寄せられ、後ろはイーゼルや様々な道具が放置されている。

ゴミ箱には大量の絵の具。

何も置かれてない机が並ぶ中、やはりその紙とデジタルカメラは目立っていた。

「あれは?」

志位先生はそれに触れ、また、紙を見た。

可南子の眼からも、そこに何が書かれているかは、ハッキリと見えた。

 

 ”自分の罪に耐えられなくなりました“

 

プリントアウトされた紙に、わずか一行だけの文章。それは、余りにも簡素な遺書だった。

志位先生はデジカメに触れ、そして固まった。

「これは…」

そこに何が映っていたか…

要するに何人かの女性徒の姿があった。

もちろん、薫さんの姿も。

朝田さんが志位先生からカメラを奪い取る。

「…見ないで、あげてください」

どう答えて良いか、志位先生は面食らっていた。

「そっか」

急に今までずっと黙っていた祐巳さまが声をあげた。

「どうしたんですか?」

と可南子は尋ねる。

「これを消去したいから、薫さんは警察を呼ぶのを待って欲しかったんだね?」

薫さんがコクリと頷く。祐巳さんは暫く例の百面相で思案して言う。

「上田先生は自分で飛び降りたみたいだし、薫さんの画像だけでも消して、それから警察を呼ぶわけにはいかないでしょうか?」

「祐巳さま?」

余り今まで見たことがない表情をする祐巳さまに、可南子は殆ど始めて強靭な知性を感じた。

「どうして、自分で飛び降りたと?」

シスター上村が穏やかに質問する。

「私達が飛び降りを見たとき、中から争う音は全く聞こえませんでした。上田先生は決して華奢な人ではありません。

少し声をあげるだけでも聞こえていたはずです。パッと見ただけですけど、刺し傷とか、首に変な痣とか、そういうものもありませんでしたし、

鍵だってかかっていました。鍵は志位先生が保管していたんですよね」

パっと見ただけ、といった時に死体を思い出して気持ち悪そうにしたものの、祐巳さまは毅然としていた。

まるで、水野蓉子さまだ。

「ああ、ちゃんと鍵は職員室の保管場所にあった」

「もしも突き落とされたなら、犯人は物音を全くたてず上田先生を突き落とし、遺書を書き、私達が去るのを待って外へ出て、

鍵をかけて保管場所へ鍵を返すことになります。現実的には少し苦しいように思いますよ」

シスター上村が思い出すように言う。

「私は職員室の近くにいたのだけれど、誰の姿も見なかったわ」

「ね。遺書もありますし。せめて、薫さんの画像だけでも」

「それは駄目だね」

え?

全く聞いたこともない声が響く。

誰もが、声のした方を振り向いた。

 

 

                         『一応の探偵役登場?』

 

 

アルマーニのスーツに真っ青なシャツ、目に痛い赤いネクタイを締めた、女子中学生のような風貌の人物が立っていた。

まったく、突然に。

「皆様ごきげんよう、私はこういうものです」

名刺を皆に配りはじめる。それにはこう書かれていた。

“名探偵佐原砂狼”

名探偵???

名刺に???

こいつは…

思わず可南子達は叫んでいた。

 

         「「「お前が犯人か!!!」」」

 

「ち、ちが…」

「どうやって入ってきた!」

「なんで上田先生を!」

「免許証を出しなさい!」

「ちがう!!」

一喝されたから黙るものの、怪しいモノを見る目で皆が佐原を見ていた。

「紅薔薇の蕾、君とは初対面ではないだろう。僕は今回、死んだ上田教諭から連絡を受けた、特殊な組合員だ」

「特殊な組合…?」

「知らない方がいい、関東じゃそんなに有名でもなければ、力も大きくないからね」

祐巳さまは不思議そうな表情をしている。

「上田教諭は僕に、指導しなければいけない内容がこの学校で出ると言ってきた。関東のこんな学校で、馬鹿げた話だ。無理がある」

「なんですかそれ?」

「上田教諭はもともと関西の学校に多く赴任してる人でね、関西より西の学校では…なんというか、ある種の差別が存在した場合、

極めてアグレッシブに組合が関与できるというか、まあ、複雑な事情があるんだ」

「意味がわかりません」

「アグレッシブに関与するために、わざと差別事件を組合員が捏造する場合がある。今回は、上田教諭が捏造して、関東にも進出…

…まあ、出来る訳ないんだが」

関西の学校では、特定の差別があった場合に、ある団体がそれについての教育が行えるような習慣があった。

トイレで差別の落書きがあったら、団体関係の教師が団体に報告し、学校で大々的にそれについての教育を行う、というような習慣である。

これは社会問題化した問題であり、中には教師が糾弾され、生きた差別教材として生徒相手に体育館でさらし者にされるような場合もあった。

「よくわかりません」

「まあ、志位教諭なら、噂ぐらいはご存知では」

志位教諭は、黙って佐原を見ていた。

そこには複雑な思いがあるように見えた。顔を顰めたその表情は、怒りにも、また、苦悶にも見えた。

「佐原さん、じゃあ、あなたは組合員の人ですか。言っておきますが、この学校にはいかなる意味でも、そんな差別は存在しません」

「まあ、生徒にそもそも出身者いないでしょうしね。分かってます。上田教諭は無茶をしすぎなんでしょうね。しかし、一方でこうも思います」

佐原が人差し指をたてた。

「そんな連絡を組合にする人間が、自殺するでしょうか」

その言葉に、可南子も気づく。

祐巳さまを呼び出した上田が、果たして自殺などするのだろうか。

する訳がないのだ。

今日、まさに上田は祐巳さまを呼び出していたのだから。

その考えは、可南子を震えさせる。

つまり、これは──

 

  殺人事件になってしまう。

 

誰かが、上田を殺した。

言葉にすると簡単だが、可南子にはそれを上手く把握できなかった。

人が、人を殺す。

眼の前で、それがおきていたというのか?

世界と可南子を隔てるガラスは、ますます厚くなっているようにも思えた。

「しかし、鍵が…」

佐原が志位先生の言葉を遮る。

「いいですか、このしょぼいプリントアウトの遺書を信じるなんてことは馬鹿げている。上田は自殺するような繊細な奴では全くない。

それならまだ、合鍵なりなんなりを信じた方が断然マシです。同じ職員室なりで過ごした志位先生や、シスターも、上田が自殺するような奴だと

本気で思いますか?」

志位先生もシスター上村も沈黙した。彼らは生前の上田を思い出しているのだろう。

「世の中には、状況証拠や、ある程度の物証よりも信ずべき心証もあります」

「でも」

祐巳さまが佐原に反論する。

「佐原さんは知らないかも知れませんが、状況的に、誰かが上田先生を突き落とすなんて、とても無理ですよ」

「それは今から検証すればいいことだよ」

「待ってください」

シスター上村が意見する。

「警察を呼ぶのが優先でしょう」

「無駄だね」

「何故です」

「僕がいるからだよ」

祐巳さまが、あ、と声をあげた。

「シスター、あなたは知らないかも知れませんが、阪和銀行の副頭取が殺されても、犯人は捕まらなかった。

幾つかの犯罪的集団が滅ばずのさばっているのは何故だと思います?僕がこの現場にいるというだけで、

捜査は歪んだバイアスを受けることになるでしょう。僕は僕の潔白を知ってるが、警察はそうじゃない。彼らは僕を犯人だと目するでしょう、

しかし、逮捕できない。いったい、そんな捜査を警察が本気でやる気になるでしょうか」

「あなた何なんです?」

「あなた方が知らない犯罪集団の関係者です」

佐原とシスターのやり取りを志位先生は苦々しく見ていた。朝田姉妹は、身を寄せ合うようにして周囲を睨んでいる。

「それでも、警察を呼ぶのがルールです」

シスターは、やっぱり極めて真っ当で、それが可南子を安心させた。

「いいでしょう」

と佐原が肯定し、あとは警察の仕事だと誰もが思ったとき、彼はとんでもない大言壮語を吐いた。

「それなら、警察が来るまでに解決するだけです」

 

 

                                『捜査』

 

 

「まずはこの美術室だけど、鍵が掛かってたのは扉だけだし、窓から出入りできないかな」

佐原は開いている、上田先生が落ちたと思われる窓から身を乗り出す。

下には木や植え込みの空間が広がっており、上からは下の様子はよくわからない。

「ふむ、手すりがあんまり高くないね。この上は屋上だし、ロープとか…」

佐原は首を振って体を教室へ戻す。

「反対側の窓はどうかな」

美術室は扉から入って奥は壁、手前も壁であり、左右に窓がある。

反対側の窓から下を見れば、そこは学校の敷地の端にあたり、校舎の陰になる狭い道で、行き止まりの暗い場所だった。

「こっから屋上へ昇っても、目撃されなそうだけどな?」

佐原は屋上の方を見る、登れるかどうか考えているのだろう。

「どうも無理みたいだなあ、スパイダーマンでもない限り」

一人ごとが鬱陶しかったので、可南子があいてを義理でする。

「屋上からロープを垂らせばいいんじゃないですか?」

「理屈上はそうだけど、それだと、用意周到に犯人は計画して、極めて杜撰な遺書で、こんな目立つ殺し方をしたことになる。

大体、その遺書のプリントアウトの印字と紙を見たかい?あそこのパソコンで出力してるんだ」

佐原は美術室の隅のパソコンを指差す、可南子がさっそく印字してみると、癖が遺書と一致した。

「ほんとだ、どうして?」

見ただけでわかるんですか?

「ある程度覚えてるんだ、その機種がどんなプリントアウトの癖になるか、そのプリンタと同じ型、昔使ってたからね」

変人である。

「屋上って、鍵がかかってるよね、普通の学校だと」

「リリアンもそうです。開いてるところもありますけど、別の棟です。ここは閉まってますよ」

「まあ、理論上は、屋上の鍵を手に入れて、ロープを垂らしておいて、上田を突き落としてロープで上ることは出来るけどなあ。

しかし、そこまでするなら、学校で殺さない方が良いと思うね。どっかで殺して埋めた方がいい。というか、大抵、ミステリみたい

にうだうだとトリック仕組むより、シンプルなやり方の方が良いと思うね」

「じゃあ、あなたは、これが突発的な殺人だと思ってるんですね」

「まあ、激情にかられたんだと考えてるよ」

警察を待って静かにしているメンバーをよそに、佐原と可南子はまるで探偵と助手みたいな状態になってしまっている。

佐原は美術準備室を開けて覗く。

「こっちも廊下に面するドアは鍵がかかっているんだな」

美術室は、美術準備室と繋がっている。廊下の突き当たりに立つと、正面が美術室、右が美術準備室、左が窓だ。

美術準備室はさまざまな道具が雑多に置かれている。美術に使う道具達なのだろう。イーゼル、油、絵の具、筆、布、紐、粘土、などが

雑然と置かれていた。

廊下に面するドアを開けると、私達が飛び降りを覗いた廊下の窓が見えた。

「ちょっと現場を見に行きたい、皆様は警察を待って大人しくしててくださいね」

佐原がそう言って死体を見に行こうとするのを、志位先生が止めた。

「お前も、警察が来るまで静かにしてるんだ。逃げる気じゃないだろうな」

「僕が犯人だと?」

「可能性はある」

「なるほど」

佐原は頷いた。

「しかし、可能性というなら、ここにいるメンバーだって同じようにあやしいのではないですか。朝田京子さんと真野薫さんは上田の被害者です。

福沢祐巳さんはまさに被害者になろうとしていた。細川可南子さんは福沢さんの信奉者だ。

志位先生やシスターは同僚ですから、どのような関係が生まれてもおかしくはない。

僕のような外からポっと来た人間より、ある意味ではあやしくないですか?」

「ふざけるな!!」

志位先生が胸倉を掴もうとしたのを佐原はかわす。

「そういう意味では、志位先生、あなたは、飛び降りのとき、どこに居たんですか?」

「職員室の近くの廊下だ。そこの窓から落ちるのを見た。俺を疑う気か!」

「まさか、そういえば上田先生の姿を最後に見たのは、いつですか?シスター」

突然話を振られたシスターが眉をひそめる。

「上田先生は六限の授業がありませんでしたから…5限の終わりに職員室で見たのが…」

「なるほど、ご協力ありがとうございます。僕は、僕の存在のせいで警察の捜査をゆがめてしまうのが、たまらなく気に食わない。

だから警察の捜査があてに出来ない以上、僕が犯人をみつけます。可南子さん、せっかくだから僕の監視役でもやるかい?来たらいい」

志位先生が可南子に声をかける。

「おい、細川、そいつは危険な…」

「いきます」

可南子は、少しだけ自分を囲むガラスに触れる。

「ほんとのことが知りたいから」

 

 

死体まで行く途中、トイレで落書きを消した跡を見つけた。

エ?かな、これは?

「誰かが、消したのか…そうか、そうなんだろうな」

佐原は小さく頷いて、また歩き出した。

 

 

死体は、何も変わらずそこにあった。

見開かれたままの眼。生きているのと、どう違うのだろう。

人間なのに、さっきまで人間だったのに、これはもう、意志を宿すことがない。

人がそのようにしてモノになってしまうこと。

可南子は、死体をどう受け取っていいのか考えあぐねている。

対して佐原は周囲をキョロキョロと探したり、死体を眺めたり、うろうろしたかと思うと、土を触ったりしている。

「うーん。下から反対側の窓を見てみようか、たとえば、美術室にたまたま長いロープがあって反対側に降りる、という可能性も

あるのかなあ?」

佐原は死体に感慨がないように見えた。可南子は、言葉にならない不思議な気分でいるのに。

「反対側へ回るには、あの角を曲がればいいのかな」

すぐ近くの角を曲がり、校舎の反対側に回る。陰になる上に行き止まりの、薄暗い場所だった。

草がぼうぼうとはえて、放置された台車や、捨てられた額縁や布、彫刻のなり損ねが落ちている。

「ここへ降りるには、三階や二階や一階の窓を通るのかあ、美術室の下の教室ってなんなの?使われてた?」

「この棟は特殊な教室が多いですから、視聴覚室、理科室、家庭科室、ですね。放課後は余り使われない、と思いますけど」

「しかし、ロープで降りるのは、やっぱまずいか、廊下を歩いている生徒からは見える位置な気がするし、降りたあと、ロープの始末が難しい」

「絶対に無理という訳ではないのでは?」

「美術室にたまたまロープがある、という仮定だからね。でも実際にはなかったと思うし。それに、降りたあとのロープが問題だ」

「燃やすとか?」

「それはいくらなんでも目立つと思うけどなあ、窓ガラスが焦げそうだ。一応、燃えカスとかないか見ようかな」

佐原はその辺の布やゴミを触ったり、持ち上げたりする。

「汚い額縁だなあ、壊れてる、捨てるならごみ箱に捨てりゃいいのに。この布も、板に貼って油絵描く為の布かなあ。台車はまあ、

使えるし、綺麗だな」

佐原はペタペタと布や額縁や台車を触っている。

いきなり地面に佐原がはいつくばった。犬みたいに。

「……なにしてるんですか?」

「この辺の土は柔らかいな、って思ってね」

「草が茂ってますから」

「ロープが埋められてないかな。そこにスコップもあるし」

確かに雑然としたゴミの中に、小さな園芸用のスコップがあった。

「あのスコップですか?」

「そう、それに、ここの土はねばねばするな。というか、粘土なのかな…いや」

佐原が立って手を払った。

いきなり歩き出して、また死体の方へ向う、可南子も続いた。

「どうしたんです?」

「いや…」

佐原は死体をじっと見ていた。

そうして見ると、上田の生前のいやらしい感じや、いやな印象がふと可南子の中を通り過ぎた。

一本も頭髪がなく、だみ声で、いやらしい目つき。

今も、ネクタイもせずに、だらしなく白いシャツに黒いズボンを履いている。

佐原はじっと何かを考えて、一言。

「戻ろう」

 

「知ったようなこと言わないで下さい!!」

美術室前へ戻ると、薫さんの怒号が聞こえた。

「憐れんで、上からものをみて、何様ですか!!」

中に入ると、教師陣と薫さんの姉妹が対立状態だった。

「あー、君たち、落ち着いて落ち着いて、どうせ教師から無神経な慰め方をされてキレたとか、そんなんだろ」

大声を出した反動で、薫さんは、なんというか引いてしまっていたので、静かになった。

「あんまり、デリケートな話はやめといた方がいいでしょう。今は」

志位先生は不服そうに「しかし…」と言ったが佐原が遮る「あなた大人でしょうに」

「シスター、ちょっといいですか?」

「はい?」

「こっちへ」

そう言うとシスターと佐原は美術室の外へ出て行った。

 

 

「一週間ほどまえ、通学路で小学生の女の子が首を締められた事件、知ってますか?」

シスター上村は自分が何故単独で呼ばれたのかいぶかしく思いつつ、その事件を思い出した。

 通学途中の女の子が急に後ろから首を締められ、しかし犯人は殺すには至らず逃走した。

リリアンからもそう遠くない場所での事件であり、シスターもその事件は知っていた。

「目撃者も少ない、犯人も未だ捕まってない状況ですが、犯人は髪が長く背の高い女ではないのかと言われてます。

被害者の女の子の証言でね。黒いワンピースだったって話もある」

「何が言いたいのでしょう?」

「犯行現場はリリアンからも近い、リリアンの制服は黒いワンピースにも見えますね?」

「私にはなんとも…」

「僕が聞きたいのは、こういうことです。細川可南子は、どんな生徒ですか?」

 

 

佐原が美術室に帰ってくるまでの間、沈黙と緊張が部屋の中に重力のように充満していた。

捨てられた白い絵の具達はいつか絵になる自分達の夢を見るようにまどろみ、ならんだ彫刻達はどこへもいけずにふてくされていた。

可南子はふと、祐巳を目で追ってしまう。目に入った水滴みたいに、首を振っても、どこを向いても、視界の中に祐巳さまがいる。

澄んだ瞳、揺れる髪、小さな指先。

ふと可南子は祐巳の指先に汚れを見つける、あれは…

「戻ったよ」

と佐原は言って、周囲を一瞥した。

「そういえば、基本的なことを聞き忘れていたけど、みんなは、5限以降、どうしていたのかな?一応、六限が始まるとき以降は

もう誰も上田先生にあっていないし、アリバイでも聞こうか」

「お前にそんな権限はない」

志位先生が憎憎しげに吐き捨てる。佐原が吐き捨て返した。

「蹴り殺すぞ、いちいち絡むんじゃねえ、死なすぞ」

本当に蹴りそうな勢いで佐原が言うので、みな、一応黙った。志位先生は凄く不服そうだ。

「朝田さんは、何をしてたのかな、上田が飛び降りるまで」

「…私は六限が終わって、薫と一緒にすぐに美術室前に来ました。ここの廊下に」

「それは、上田に呼ばれて?」

「いえ。薫が…」

京子さんがいいにくそうにしている。薫さんが言った。

「私が、呼ばれていたからです。紅薔薇の蕾を、来させるようにと」

佐原はそれを聞きながら首をかしげた。

「朝田さん、しかし…僕は少し不思議なんだけど、上田は、君には何か言わなかった?もしくは、なんというのかな…

妹を使って君を、罠にはめるなんて簡単なことの気もするんだけど…」

言いながら佐原は置かれっぱなしになっていたデジカメを弄りはじめる。

「例えば、薫さんにこう言う、姉を放課後美術室に呼び出せ、一人で来させろ、とかね」

薫さんの顔がさっと緊張して固まった。それは余りにも顕著だった。青ざめている。

「しかし、僕はこうも思うのです。それで、はいはい、とは薫さんは言えない。そんな薫さんに代替案を上田が出す…

紅薔薇の蕾をつれてこれたら、朝田さんを見逃してもいい」

京子さんが激昂した。

「見てきたようなことを!!」

「いいですか、朝田さん。僕はこう思う。もしも紅薔薇の蕾が来なければ、代わりにあなたが差し出されていた。

だからこそ、あなたを美術室前廊下に待機させておく必要が、薫さんにはあったんじゃないか、と」

「そんな訳ない!」

と怒る京子さんとは逆に、薫さんは身を固くして青ざめていた。

「薫?…」

薫さんは荒く息を吐くだけで、何も言えないみたいだった。それはまるで、陸にあがった魚みたいだった。

「ふむ、まあ、事件とは関係ないかもしれないし、デリケートな話になりそうだから、やめておこう」

何故、と可南子は思った。

明らかに不要なことを暴いて、佐原は場を混乱させている。

「シスター、あなたはどうしていました?」

「私は六限は授業をして、それから職員室に戻りました。窓から落ちるのを見るまではそうしていました」

「志位先生は?」

「私は六限は職員室にいて、途中で明日の準備に視聴覚室へ行って、それが終わって職員室に戻るときにあれを見たんだ」

「視聴覚室?」

「ああ、明日の一限で使う教材の準備だ」

佐原は頷いて、何かを思案していた。

「紅薔薇の蕾、あなたは?」

祐巳さまは、佐原さんを見て、すっと目を細めた。

「私は六限と掃除が終わって、呼ばれていたから美術室に向かいました。そこであれを見たんです」

「六限は、シスターの授業だった?」

「そうです」

「君は六限の途中で、気分が悪くなって三十分ほど退席している」

周りに緊張がはしった。それは、いったいどういう意味を持つのか。何故、佐原はそれを指摘したのか。

「いま、何故それを隠したのかな?」

「隠したわけじゃありません、飛び降りの時には廊下に居たので、関係ないと思いました」

佐原が咳払いをした。

「そう、それが致命的な勘違いなんです」

佐原が周囲を見回す。大仰な動作が似合う奴だ。

「いいですか、『犯人はこの中にいる』」

周囲が騒然となる、しかし、よくそんなミステリからパクってきた陳腐なセリフを恥ずかしげなく言えるものだ。ある意味尊敬に値する。

「僕が今からそれを指摘しましょう。この殺人事件の真相、一人のかわいそうな女の子の物語。犯人は……」

 

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