蕎麦をすすっていた。
大学の食堂で。
実のところそういう姿を大学構内で晒すのは、ある種の減点対象なのだとは分かっていた。
入るサークルを間違えたな、と私は思う。
何かというと威張る男の先輩達は、性行為のことしか頭にないように見える。
固くてヤれそうもない私は、どうやら邪魔な存在か、あるいは何とかしたい存在らしい。
だから蕎麦をすする姿は連中にとって、減点対象になるのだろう。
「怒ってるの?水野さん」
と学友が言う。
「怒ってないわ、京子さん」
「また名前で呼んだわよ、高校の癖がそうやってたまに出るんだから」
大学に入ってから、人間関係は貸借対照表に置き換えられるようになった。
利益が出る人間は重宝され、損を出す人間は切り捨てられていく。
別にそれは構わない。
当然のことかも知れない。
迷惑ばかりかける人間を嫌がるのを、どうして責められるだろう?
問題なのは……損益を決める価値基準なのだ。
あの繊細さの欠片もない馬鹿達が、勝手に人を値踏みしてサークルでの立場を決めている。
綺麗か、やれるか、話せるか、飲めるか、従順か…etc。
冗談じゃない。
「合コンくらい参加しないと、浮いちゃうじゃない」
合コンだと知らせずに私を飲み会に参加させて、あなたはどんな利益を得たのかしらね。
おかげで私は昨日はとても楽しく過ごせたわ。抱きついてこようとする男を蹴り飛ばすなん て、なかなか経験できないものね。
「気遣ってくれてありがと」
色んな言葉を飲みこんで喋ったら、やはりどうにも皮肉な感じの言葉になってしまった。
「水野さん綺麗で頭いいから、近寄りがたく思われちゃうよ」
「親しまれるよう努力するわ」
「私なんか、こんなに頑張って色々参加してるのに、ランクCらしいのよ、水野さんなんかAなんだから、それを活かせばいいのに」
「ご冗談」
サークルの先輩方は、サークルに存在する女性徒にランクをつけているらしい。
そしてどういうランクがついているか、それとなく流して、女生徒の意識を促す、つもりらしい。
ふざけんな。
「冗談なんかじゃないわよ、ほんとにAがついてるんだから、確かな情報なのよ」
どうやら、あんな連中に良いランクをつけられるのは冗談じゃない、という意味は伝わらなかったようだ。
彼女は本気でこんなシステムに適応する気なのだろうか。
大体、どこが法律研究サークルなのか?名前だけの男女集めじゃないか。
「ねえ、いったい、何が楽しいの?あのサークル」
「え、だって、出会いがあるし、みんな入るし、長いものには巻かれなきゃ。やってけないじゃん。あ、ほら、あの人みたいになりたくないじゃない?」
食堂に、大男が入ってきた。
一年生だが、どう考えても二十台半ばに見える。身長190を超える大男だ。
黒い髪に青い目をしていて、とにかくとんでもなく目立つ。 しかし今や、誰も彼に話し掛ける人間はいない。
何かのサークルに属していて、問題を起こして追放されたらしい。 女の子を襲ったとか、そういう噂がまことしやかに流れている。
「誰からも無視されちゃって、仕方ないけどね」
私は席を立つ。
「午後の講義がはじまるから」
そう言った私の貸借対照表には、京子が昨日だした私への損害がつけられている。
久しぶりに、祥子に会う用事があった。
なにやら聖から預かり物があるらしい。
聖はリリアンの敷地内で高等部にも行けるが、私はなかなか行けないので祥子に頼んだら しいのだが…
「聖、自分で手渡せばいいのに。私の可愛い妹をこんな用件に使って」
「何か用事があって、日程をとれないという話でした。それに」
喫茶店の店員が私達のテーブルに紅茶を置いた。一瞬漂う紅茶の香り。
「これが、預かった物です」
そう言って祥子が差し出して来た箱を、私は鞄に入れる。後でみればいい話だ。
「で、祥子、それに、なんなのかしら?」
聞き逃したフリをしたけれど、祥子が何かを言おうとする途中だったのは明白だ。
「たいしたことではありません」
「でも気になるわ」
「思い出せません、何を言おうとしたか忘れてしまいました」
「なら、あてましょうか。『それに、こうしてお姉さまにも会えました』ね」
祥子が頬を染める。
「嬉しいことを思ってくれるわね」
「お姉さまが決め付けているだけじゃないですか」
「じゃあ、私に会えて祥子は嬉しくないの?寂しいわ」
「もう!お姉さまの意地悪!」
意地っ張りなところは、祥子の可愛いところだわ。
楽しい想いと共に時間が過ぎていく。
不意に祥子が陰のある表情を見せたのは、小一時間程した時だった。
「どうしたの?祥子」
「いえ…なんでもありません」
「どうせあなたのことだから、卒業してしまった私に頼れない、と思っているのでしょう。そんなこと、全然気にしなくていいのよ。話しなさい」
そう言ってなだめ透かして、祥子が言ったのは、柏木とのことだった。
「お祖父さまが、優さんも私も、もう結婚できる年齢だから、とおっしゃていて…」
柏木との婚約はなくなった訳ではない。
それが祥子を苦しめているのだろう。
「私は、お爺さまや、小笠原の家に泥を塗る訳にはいかないでしょうから」
「そうね。でも…」
でも、なんなのだろう。
私が言うべきことなどあるのだろうか。
政略結婚…忌み嫌われるものだけれど…しかし。
しかし、極めて貸借対照表に大きな利益をあげる有効な手段ではないだろうか。
結局のところ利害関係が人間関係の根幹ではないのか。
私が祥子に会うのも、祥子が可愛くて、私を幸せな気分にしてくれるという、利益が大きい からではないのか。
一時の感情に任せた恋愛結婚が、最後まで続くことなど稀だろう。
激しい感情は、ある日突然、予兆もなく消えてしまう。そして二度と戻ってこない。
金銭的な利益や名誉は、理由なく消えたりはしない。 そういう面では、政略結婚の方が、よほど理に叶ったものなのではないだろうか。
……駄目だ。
いつからこんな捻くれた考えをするようになってしまったんだろう。 一体、何が私をこんなにも磨耗させているのか。
「祥子、あなた、どうしたいの?」
「それは…」
祥子は迷っているようだった。
こういう時に、適切な助言をするのが姉なのではないだろうか。
しかしなぜか、私は何も言葉が思いつかなかった。 まるで絞り尽くされたように、言葉は一滴も出てこない。
無理に喋ろうとしても、思いつくのは捻くれた考えばかりだった。
「家名や名誉は、愛情のように突然消えたりしないものね」
「お姉さま?」
その時、突然私は、かつてのリリアンの姉妹制度や、あの暖かな人間関係が、急に寂れたどうでもよいものに感じられてきて、そんな自分に混乱した。
レベルの低い、ベタベタした関係のように、突然思えてきたのだ。現実の人間関係はもっとシビアで、それに適応するのが、より高いレベルなのだと。
何もかも疎ましく、信じれるものなど何もなく、私は自分が何を考えているか分からず うろたえた。
「柏木さんと結婚すれば、小笠原の家は安泰で、全てが順調になるわね。祥子のことだって理解してくれるだろうし、そういう選択もあるんじゃないかしら」
「そんなことは出来ません」
「賢い、大人の判断としては、そういう選択もあるってことよ」
「そんな選択はありません」
私は、何だか反抗してくる祥子がとても子供に見えて、厳しい言葉を投げつけたい衝動にかられた。
駄目だ。
いったい、どうしてしまったのか。
気まずく、重い空気が辺りを包んでいる。
「ごめんなさい、祥子、今日はちょっと用事があるし、これで帰るわ」
私は伝票をとって立つ準備をする。 きっと祥子は私を軽蔑しただろう。
私を軽蔑するなんて許せない、という思いが湧きあがる。そんな私は、本当にどうしようもな く最低な存在だった。
「お前なんで合コン断るんだよ」 と先輩がおっしゃっている。
これに適応すべきだというのか、本当に。
「今日は少し体調が悪いので」 そう言って足早に去る私のランクはきっと下がっただろう。
「付き合い悪いの、ちょっと調子のってんじゃないのか」 と去る私の背中で、蹴り飛ばした男の先輩の声が聞こえた。
死んでしまえ。
私にとって大学が何だか居づらく、醜い場所のように思えてくるのは、どう考えてもサー クルのせいだった。
しかしあんな奴らの為に生活を変えたくはない。
イライラする。
リリアンの頃はこんなことはなかった。 中学の頃だって、こんなことはない。
どうして大人になって、何かを人は失うのだろうか。 そしてそれは矢張り、失ってはいけないものではないのか。
何が何だか、もうよく分からなかった。
ベンチに座る私は煙草でも吸いたい気分だったけれど、そんなものは当然持っていなくて、目の前をあの大男が通り過ぎていく。
今まで、大学でつまはじきにされている人というイメージで見ていたから気づかなかったけれど、彼は不思議と苦しそうな表情はしていない。
どこか遠くを見ているようだった。
だから私は、少しだけ彼に興味を持った。
それは、彼の体験を生かせば、私もああいう連中と縁を切れるのではないかと思ったからだ。
女の子を襲ったという話を思い出す、また、彼の体格も恐怖を感じさせたが、昼の大学の構内でなら大丈夫だとも思う。
そもそも、それは噂に過ぎないというのもある。
彼は、隣のベンチで本を読みだした。声をかける。
「福田和也?」
「ああ、イノセントであることは罪なんだそうだ…そうです」
「よく読むの?」
「いつもは読まない。ブルーバックスとかの方が好きだ…です」
話してみて、驚いた。
意外にしっかりと、知性を感じさせる喋り方をする。
大学でどうにもならないような男達を 見てきたせいだろうか。
この体格からして、そういうものを持ち合わせていないと勝手に思っていた。
透き通るような青い目が前髪の間から覗いている。
「どうかしたか…しましたか?」
「いいえ」
鼻筋がスッと通っていて、唇が薄くて…普段は見上げる高さに顔があるので気づかなかったが、決して醜い男ではない。
私は興味を持ったので尋ねる。
「どうしてイノセントなことが罪なの?」
「純粋さというのは、無自覚だからだな。自分の思ったことを思ったように言う、そういう 純粋な自分が好き。これは、傍からはとても迷惑だからだ。
周りに気を使わない自分を純粋という言葉で肯定してしまう。純粋というのは、自分で決めて振舞うべきじゃない。
他人 からたまたま評価される形じゃなきゃ駄目だ。純粋であろうとするということは、周囲を傷つけますと言ってるに等しい」
「でも、純粋さを意識から完全に追い出してしまえば、失うものもあるんじゃないかしら」
「そうだ…そうです。だから普段はそういうどっちつかずな物は読まずに、科学書を読んでいる。それで何か用かな…用ですか、水野さん」
「いえ、そうね、特別用事はないけど、少し、興味があったのかも知れないわ」
「俺が読んでるものにか?…ものにですか?」
「違うわ」
「それじゃあ、問題を起こしてサークルを追放された大男にかな」
「まあ、そういうことになるわね」
「聞きたいなら何でも答える、でも、信じる信じないは水野さんの自由だな…自由です」
私は、どうも彼が女の子を襲うようには思えなかったが、人間というのは見た目ではわから ない。
「あなた、女の子を襲ったの?」
だから単刀直入に聞いてみた。
「なんだそれは!!??」
彼は飛び上がりそうな程に驚く。
「あなたは、女の子を襲ったからサークルを追い出されたって噂になっているわ」
さっきの驚き方は、大げさな演技などではなく、自然なものだった。
もちろん自然な演技が出来る人間という可能性はあるが、通常、そういう大げさな演技を自然に出来る人間などそうはいない。
「そんなことしてねーって」
「何だかごめんなさい。変な噂の話をしてしまって」
「水野さんが謝ることないんじゃないの?噂流してる人間はわかるし」
「でも、私もそういう目であなたを見てたわ」
「それは言わなくていいことじゃねーかな、純粋さは迷惑なものらしいし。言わなきゃわか らないことだ…ことです」
「言わなければ自分が納得できないわ」
「自分のことだけ考えて相手を不愉快な気持ちにさせるのは子供のすることだ…けど、俺はそういう事率直に言う奴は嫌いじゃない。
不愉快な思いもしない。だからいいのか。納得だな」
自分ひとりで頷いている。
「聞いていいかしら」
「何でもどうぞ、最初に言ったけど、何でも答えるぞ」
「どうして、サークルを追放されたのかしら」
「自分から辞めたんだけどな」
「どうして辞めたの?」
「つまらないからというのと、先輩と仲が悪くなったからだ。俺が飲み会に出たとき、先輩が俺に説教をしだした。すでに二年だぶった六回生だ。
そいつの言うことをまとめると、素晴らしい若者というのはこうなる『借金するほど遊び倒して、女を次々抱いて何股もかけて、
警察の厄介になるほど無茶をする人間』酒も浴びるように飲んで深夜に帰宅しなきゃいけないって項目もあったな」
本気でそういうことを言う人間は腐るほど居る。
「それでどうしたの?」
「最近の若い奴は駄目だってクダを巻くから、俺の人生にまで意見するな、って言ったら喧嘩になった。まあ、それで駄目になったな」
「殴ったの?」
「いや、先輩のおっしゃることに従い、無茶をすることにした。喋っている顎を掴んで引っ 張って顎を外して、歯を引き抜いただけだ。
…でも、まあ、そんな感じなんでサークルは辞め た」
なるほど。
「俺が短気で暴力的な人間なのは事実だし、悪く思われても仕方はないんだ…ないんです」
悪く思われても仕方ないと言いつつ、全く反省の色はうかがえない。一度怒りだすと、手がつけられないタイプなのだろうか。
「悪く思われても、平気なのね」
「別にそういう訳じゃ…そうだな、偶々立ち寄った場所で、店員に嫌われたことをいつまでも気にしないようなものです」
大学なんて、どうでもいいという事だろうか。そういえば、全然法学部っぽくはない。
「一ついい?」
「幾つでもいいが」
「法学部に居ることも、どうでもよいことなのね」
彼は頷く。
「俺はどうも、もう少し実地で法律と関わる感じみたいです。傷害罪は今にも適応されそう だしな」
私は、何だか彼に対する悪印象はなかった。
実際、短気で危険な面もあるのだろうけれど、根本的には悪い人間ではないと思う。
「今思えば、先輩の言う意味も分からないことはない。要するに、一切の繊細さを捨てた 豪胆さのようなものの重要性を説いてたのだとは思うけどな。
それは社会では本当に役にたつものだから」
彼は呟くように言った。
「でも、俺は繊細さの方を圧倒的に支持する」
その日からサークルでの私の立場はかなりまずくなっていた。
「但馬に襲われて彼女になったらしい」
そういう噂が流れるようになった。
誰かが、私と彼が話しているのを見かけたのだろう。 彼は但馬という姓だった。
聞くに耐えないような噂がたくさん流れていた。
話しただけで、彼女になったとか、まるで中学生みたいね。
京子も私に話し掛けなくなった。利益で繋がる者なんて、こんなものなのだろう。
不思議なことに、私は段々、孤独であることに喜びさえ覚えた。
人間というものに、どこかうんざりしはじめているのだろうか。
但馬に話し掛けることもしなかった。
同じ立場の今、何か話せば仲良くはなるのだろうけれど、男の人とこういう状態で仲良く なるのが、何故か嫌だった。
聖のことを、少し思い出したりした。
勉強に打ち込んだおかげでどんどん成績は上がり、サークルに居る意味も最早見出せな い。
私はサークルを辞めるのを報告しようと、部屋に行くことにした。
サークルの部長に言うと、講義が終わってから部室に来るよう言われた。
小さな部室の中には、男性の四回生ばかりがいた。 私が一歩踏み出すと、何故か先輩が部室に鍵をかける。
しまった。
この時点で、私の全てが警戒警報を全力で鳴らしている。
「水野、お前、辞めるらしいな」
「ええ」
「辞める前に、恩を返していけよ」
「私は、どういう意味においても、あなた達に恩義を感じていません」
「お前、あの無理矢理襲う男にヤラれて彼女になったんだろ。無理矢理が好きだからつっぱってる変態のお前のために、用意してやったから愉しめよ」
いきなり男が私の腕を掴んだ。ふりほどく。
「やめなさい」
四人の男が、私を囲んでいる。 まずい。 血の気が引く。
どうして。
余りにも理不尽だった。
女であることを呪いさえする。
手が、迫ってくる。
手が
ドアが開いた。
「刑法では、婦女暴行未遂は、刑法176条及び刑法179条によって裁かれることになっ ている。
十三歳以上の男女に対し、暴行又は脅迫を用いてわいせつな行為をした者は、 六月以上七年以下の懲役に処する。
十三歳未満の男女に対し、わいせつな行為をした者 も、同様とする。……えーと、合ってるかな」
男たちは固まって、どうするべきか迷っている。但馬はドアを持ったままだ、力任せに外して入ってきたのである。
枠ごと外れたドアが但馬に持たれて浮いている。
「177条かな?」
「おまえ、誰にも言うんじゃない、言ったら分かってるだろうな」
「なにが?」
ドアが男にめりこんだ。
力任せにたたきつけたのだ。ドアごと男が空中を滑っていく。
「全治七年とかになったらいいんだが、そんな怪我聞いたことないしな」
逃げ出すことに決めたらしい四回生達を、丸太のように太い足が遮った。
綺麗なフォームの回し蹴りだった。
四回生は側頭部を蹴られて昏倒する。
あとはもう、独壇場だった。
襟を掴まれ地面にたたき付けられた男は肩甲骨が割れ、残り一人になった男は襟首を 掴まれている。
「お前ら、誰かに何か言われたか、こういう活動するのに」
「し、しるか」
「話したくなるようにさせてやる」
奇妙な、ボクッとでもいうような音がした。
男の腕がありえない曲がり方をしている。
「何か言いたくなったか」
「ぶ、部長なら、部長なら何か知ってる!」
まだ曲がってない腕を持ちながら但馬が聞く。
「そういえば部長はどこかな」
「今日はパーティーなんだ。部長はそっちに行ってる!」
「パーティー?」
「女を回すパーティーなんだ!うちの大学からも部長と倉崎が行ってる!」
倉崎京子は、私の学友だった娘だ。
「場所はどこだ」
「し、しらない」
ボクッ
「ぎゃああああああああああああああ!!ほんとに知らないんだ!!折りやがって!くそ!ほんと に折りやがった!!」
但馬は暫く考える。
「部長の携帯番号は知ってるな」
但馬は携帯の番号を聞きだし、メモする。
「さて、どうしたものかな、明日にでも部長を締め上げる手もあるか」
一人で頷いている。
「ねえ」
「あ、水野さん、どうも」
「私がその番号にかけるから、パーティーに参加するのはどうかしら」
「?危険なだけで、水野さんにメリットがないぞ」
「利益じゃないこともしなきゃ、人間は磨り減ってしまうもの」
「了解」
但馬が自分の携帯を投げて寄越した。プリペイド式のようだった。
「水野です」
「なんだ」
「先輩達にパーティーに行くように言われたんです。今まで余りお付き合いも出来なかったですし、この機会に行ったらいいって。
私、皆に無視されてるみたいで、寂しくて…」
部長は、一人増えて良いか、と誰かに言っている。
「いいぞ、来たらいい、場所は…」
問題なく、すんなりと聞き出せた、特に警戒している様子はなかった。
携帯を但馬に返す。
「どうする、場所はわかった。やっちまうか。いや、やっちまおうぜ、水野さん」
但馬が活き活きした表情を見せる。
「何をするの?」
「刑法第199条が、俺は大好きでね」
刑法第199条…殺人罪。人を殺した者は、死刑又は無期若しくは三年以上の懲役に処す る。
私の運転する車の助手席に但馬が乗っている。
但馬は免許を持っていなかった。
「自分の体で歩くのが好きなんだ」とは本人の弁。
私は、徐々に得体の知れない生き物のようになっていく但馬に少し不気味さを覚えたが、どうしても京子を助けなければいけなかった。
何故なのか。
私はいま、根本的な人間への不信を持とうとしている。
しかしだからこそ、京子を助ける。
不信を断ち切るには、どうしてもそういう行動が必要に思えるからだ。
京子を見捨てたら、私は何か大切なものを失ってしまう。
「なかなかいい場所じゃないか」
パーティーなどをする貸し部屋のある建物だった。
パッと見、普通のビル。
なんとなく金貸しが入ってそうな雰囲気ではあるけど。
入り口に立っている男に、私が通してもらおうとする間もなく、但馬が襲い掛かっていた。
頭を強く殴られて男が倒れる。
「あんただけ通ってもしょうがないからな」
但馬は周囲から見えないように男を路地へ放り込む。
貸し部屋は地下にあるらしく、降りていくとすぐにドアがあった。
私が開けると、そこではもう、京子が滅茶苦茶に酔っ払っているのか、倒れて這っていた。
「み、水野ふぁん、たあふけて」
部長が私の姿を見つけた途端、駆け寄ってきた。
「山本!手伝え!捕まえろ!」
山本というのはさっきの見張りだろう。私が逃げたら、挟み撃ちという訳だ。
「どうも山本です」
但馬がそう言って部長の腹に触った。
面白いくらい盛大に部長が吹っ飛んでテーブルに背中から落ちた。テーブルが割れる。
「やーやー、皆さん盛り上がってますねー。女の子のみんな無事かなー」
異様なほど但馬が元気になっている。なんなんだこいつは。
私が中に入ると、但馬は更に中に踏み込み、一人の男とにらみ合った。
壊れたグラスが床に散乱し、何人かの女の子がまさに襲われそうになっている部屋では、 いくつかの上着が床に落ちていた。
破れているものもある。
「但馬形部か、お前」
髪を紅く染めた男が但馬を睨んでいる。
「シリアルエージェント、やっぱり噛んでたか」
「いい気になりやがって」
紅い髪の男が懐から何か出した。
それはどう見ても銃にしか見えない。
「嬉しいことしてくれるねえ」
但馬が笑った。
「刑法第199条、刑法第203条に該当するな。正当防衛だって成り立つ」
「かわせるつもりか、やめろ、仕事でやってるだけだ。殺す気はない」
但馬が顔をしかめて舌打ちした。
「おいおいおい、つまらないこと言うなよ。もっと俺の心証を悪くしとけよ。そうしないとお前を殺し難いじゃないか。やれよ、撃てよ、遠慮するな」
こいつは…頭がおかしい。
「俺に殺させてくれよ!!」
銃声。
見る間に部屋が血で染まった。
信じられない。
怖い。
恐ろしい。
紅い髪の男の頭が、
床に落ちた。
悲鳴が響く。
私がこの部屋で最後に見た光景。
首のない男が、銃を撃ったままの体勢で立ち続けていた。
私は京子の手を引いて、気づいたら逃げ出している。
警察には電話し終わった。
「水野さん、ありがとう」
彼女の足はふらついていたが、私の心だって負けないぐらいフラフラだ。
さっきの光景はとりあえず忘れよう。
「今回だけだから」
但馬を置いて車で帰っている。殺人犯の相手など、流石に出来ない。
「この恩は忘れないから」
「忘れていいわ」
私は、ふと思う。
やはり、繊細さをなくしてはいけないのだと。
世の中のルールに従うのは、本当に本当に大切なことだけれど、世の中が間違うことだっ てあるのだ。
だからここ数日私は私を取り囲んでいた世界に適応しようとし、反発し、そして、確かな感触を得たのだ。
自分のルールは、自分は、間違っていない。
たとえ、誰が何と言おうとも。
「恩なんて全て忘れてちょうだい、私は、利益や見返りの為にあなたを助けた訳じゃないから」
車は、夜の闇の中を真っ直ぐに走っていく。
翌日の大学には但馬はいなかった。
自主退学したらしい。
だが殺人事件の話はいっさいなく、あのサークルの参加者は一人残らず大学を辞めていた。
そうなってみれば、異常だったのはあのサークルだけで、大学の人々は友好的で繊細で好ましい人達が多かった。
私は、自分自身を取り戻していく。
京子は、私との壁をなくせないようだ。
私からは無くす気はない。
それは彼女の問題で、彼女の誠意の問題だからだ。
「久しぶりね、祥子」
「ごきげんよう、お姉さま」
私は、私からリリアンに祥子に会いに行った。
あの時の私は確かに間違っていたからだ。
私の誠意を、きちんと見せなければいけない。
「祥子、この前はごめんなさい」
「この前、なんのことでしょう」
祥子はそう言ってそっぽを向く。
「怒っているのね。祥子、あれから思ったんだけど、あなたはあなたの生きたいように生 きるべきだと思うの。
私ね、色んなルールに、私よりも大きな、集団のルールに色々苦し められたりはしてたの」
一方的でもいいから、きちんと私の想いを伝えたい。
「でも一番正しいことは、押し付けられたルールじゃなくて、自分の心で決めるべきだと思ったわ。
たとえ間違いでも、そうして行なったことを、自分の責任で引き受けていけばきっ と、本当の正しさにたどり着けると思う」
「お姉さまは…」
「家とか、お爺様とか、柏木とか関係なく、あなたの道を選びなさい。私はその道を、絶対に間違いとは言わないし、見守っているからね」
「お姉さまは、強いです」
「私は、強いって言われるの好きじゃないし、そういう自分は嫌いだわ。でもね、これだけ は言わせて」
私は、祥子の顔を真っ直ぐに見ながら言った。
「私は、あなたのことが、大好きだから」
祥子が頬を染めて俯く。
そうして抱きしめた妹の体の暖かさは、この世界で確かに一番に大切なものだった。
聖からの贈り物は、開けてみるとロザリオだった。
そういえば、卒業したらロザリオを渡すとか約束していたのを思い出す。
直接渡すのが照れくさかったのだろうか。
まったく。
私は苦笑する。
こういう繋がりに価値がなければ、一体何に価値があるというのか。
留守番電話のメッセージを再生すると、京子からメッセージが入っていた。
「ごめんなさい、私、まずあなたに謝るべきでしたね…私…」
彼女のメッセージを聞きながら、聖のロザリオを自分にかけてみる。
貸借対照表なんて捨てよう。 代わりにロザリオがあればいい。
明日、京子に何て言おうか、私は考え始めていた。
了