「ごめんなさい、そういうつもりじゃなかったの」

そう言って蓉子は私をはねのけた。日曜日の昼下がり、明日からはじまる授業がやりきれなくて死にたくなるような時間。

「そう。そうなんだ。ごめんね」

と私は出来るだけ平気に見えるように言った。でも考えてほしいんだけど、迫って拒まれて完全に平気な振りが出来る人間なんているんだろうか?仮にいたとして、迫られた側が、あ、この人は平気なんだ、と思い込むことが可能とはとても思えない。

「聖、私はあなたのことが好きだけど、そういうんじゃないから」

蓉子は彼女らしい生真面目さできっぱりと言った。それはただ、私には冷淡な拒絶にしか見えなかった。

「そう、蓉子はそういうんじゃないものね」

皮肉にしか聞こえない言い方になった。でも、その時は自制なんか出来なかった。絶対にできない。

「聖、あなた怒ってるの?」

「まさか」

「一応言っておくけど、あなたが怒るなんて全く筋違いなのよ、そんなことを強制されなければいけない人間関係なんて、おかしいでしょう」

「まったくだ」

「どうしてそんな言い方しかできないのかしら。いい、聖、あなたと私は違うのよ」

「知ってるよ」

「これ以上話しても無駄みたいね。私の言葉があなたに分かると思えないわ」

私は段々、激しい怒りを抱いた。彼女の言うことはまったくもっともだ。しかし、彼女のそれはこの上なく厳しい拒絶の言葉としか取れない。私はそれに耐え難いくらいの不快感を覚えた。必死に言葉を飲み込む。

「そう、さよなら、蓉子」

「さよなら、聖」

そのままスタスタ蓉子は出て行く。そんな彼女はこの上なく憎く感じた。

私は、どこまでも傲慢だった。

 

 

  『もう心はこめない』

 

 

私はそれから数日、大学を休んだ。

休みながら、自分の愚かさについて考えていた。

具体的にどうすればいいのかは全く浮かばなかった。

なにもかも投げ打ってしまいたい。

私は結局一生、誰からも愛されないのだろうか。

蓉子はもういない。

しかし、最初から、私に誰がいたというのだろう。

誰もいない。

私は、何故か栞を思い出した。

栞とも、結局は破綻した。

たぶん、私には、何かが決定的に欠けている。

 

 

栞に会いたいと思ったのは四日目だった。

すっかり部屋は煙たくなり、灰皿は満杯になり、捨てられた缶ビール達が恨めしそうにその口の中の暗黒を私に見せ付ける。

本当は、栞の居場所を知っている。

女々しい私は、彼女のことを調べ上げていた。でも今までは、会わない方がいいと頑なに信じていた。何故だろう、具体的に会ってはいけない理由なんてなかったのに。

会っていけない理由なんてなにもない。

蓉子がいなくなった途端そう思う自分の幼稚さに、私は気付けない。

行こう。

栞に会いに行こうと私は決める。

会ってどうなるのかも分からないけど、とにかく会わない訳にはいかなかった。

私はシャワーを浴び、服を着替え、部屋を出る。

少しだけ爽やかな、ワクワクした気持ちになりながら。

 

 

電車に乗る。

私は電車に揺られながら過去を想った。

もしも避けることができず、乗り越えなければいけない過去があるとしたら、それは私にとって高校二年の冬しかない。

あの時刺さった茨の棘が私に食い込んだまま、抜けなくなっているんだ、きっと。

電車は、栞のところを目指している。

客はまばらで、電車の終点はとてもとても遠いところだ。

栞は今、どうしているのだろうか、シスターを目指し、神の教えを学び、あの温かい笑顔で、多くの人々に愛を注いでいるのだろうか。

私が現れたらどんな顔をするだろう。驚いて、そして私を歓迎するだろうか。それとも、哀しそうに、拒絶…

私は蓉子のことを思い出し、また理不尽な怒りにかられる。

私は蓉子が好きだったんだな、と思って、行き場のない想いが私の中をぐるぐると回った。

彼女は私と栞のことを知っていて、私がどういう人間か分かっていて、ああいう風に親切にしたのだろうか。

私は結局、愚かなままだ。

それは、ただの見苦しい、本当に醜い感情に過ぎない。

未練なんだ、ひたすらに。

眼を閉じて栞を思い出す。

栞、栞が私を満たしてくれたなら。

それを願う私は、失恋の痛手を無理やりに埋めようとする自分の愚かな足掻きだと気付いていなかった。

電車はもうすぐ止まる。

 

 

栞のいる教会は長い坂道の上に建っており、登りきった私が振り返ると海が見えた。

良い場所じゃないか、この高くて遠い場所に行くために、あなたはあの日ホームに来なかったんだね、と私は幾分拗ねた気持ちで思った。

でもそれを長続きさせるほど子供ではない。私は扉を開けて、そこに立っている黒髪のシスターを見つける。

何の感慨もないくらいあっさりとした出会い。

私は何て言っていいのか、何をしにきたのかさえ、一瞬で分からなくなってしまった。

「久しぶりね、栞」

栞は驚きの表情で眼を見開いていたが、やがて穏やかに微笑んだ。

「久しぶり、聖」

彼女は変わらず綺麗で、透きとおっていて、背中に羽の生えた天使に見えた。栞だ。本当に。

私は、静かに興奮していた。確かに栞がそこにいるということに。

「栞、いろいろ話したいことがあったのに、顔を見たら忘れちゃった」

苦笑する私に、栞が笑う。

「聖、ずっと穏やかな顔をするようになったんですね」

「栞が開いてくれた扉のおかげだよ」

「私は何もしてないです、全部、あなたの中の力」

「うううん、栞が力をくれたんだ。私の中ではそれが本当」

互いに押し付けあう滑稽さに、一瞬交差する視線。苦笑。

私は、このままあの頃に2人戻れるんじゃないかと思った。

心の底から、思った。

でも、ちゃんと現実は私に思い知らせようとしていた。

何を?

現実そのものを。

「栞、どうしたの?お客さんかな?」

そう言って若い男が出てきて、栞の隣に立った。

「ええ、前の、ほら、女子校に通っていた時に親しかった先輩なの」

親しかった先輩。

なるほど。

親しかった先輩。

栞はいかにも親しげに男にすりより、それは私が見たことのない栞で、その姿には、微かな媚びのようなものさえ感じた。

男はにこにこと人畜無害な笑みを浮かべて、頭が悪そうで、私は嫌悪感を覚える。

「へえ、栞の友達ね。遠くからきたんでしょ、大変だったね」

という彼の言葉はいかにも軽薄そうで、私を嫌悪させた。

私は我慢が出来なくなって、どうしても聞かなければいけない事を聞く。

「ねえ、あなたは、栞とどういう関係?」

男は大して考えも無しに言った。

「あー、俗に言う彼氏ってやつです」

そうか。

私は栞と男を見比べる。

なるほど、まったくなるほどだ。

素晴らしいことじゃないか。

「ねえ、栞、2人だけで話したいことがあるんだけど、いいかな?」

栞は、暫く無言で考え、やがて頷いた。

 

 

「栞、あなたは私を裏切ったの?なんで男なんかと…!」

気付けば私は栞を責めるように叫んでいた。

私は、私は、許せなかったんだ…!

なにもかもが穢されたみたいで…!!

「裏切る?何を私が裏切ったの?」

と栞は冷静に言った。

「だって、私達はあの温室で、確かに愛を…」

「聖、勘違いしないで」

彼女は告げた。

真実を。

「私は、あなたを愛したことはないわ。恋愛感情を持ったことは無い」

シンプルな事実。

「だって、だって、それなら」

「私はシスターになりたかった。だから、救われないあなたを、救いたいと思った、それだけなのよ。でも、私にはあなたは救えなかった」

「嘘だ!!」

「聖、いい加減に大人になって、私は、あなたに、宗教者として救いを与えたかっただけよ。だから、男の人を好きになったりもするし…」

怒りで、目の前が、暗くなる。

「私、ただの女の子だもの」

視界が、滲む。

「裏切った!栞は、私を裏切ったんだ!」

もっとも手ひどい形で。

私は栞を突き飛ばした。

殴りさえした。

そして逃げた。

どこまでもどこまでも走った。

途中で転んで手を擦りむいた、かまうものか。

走れ、走れ

現実が私に追いつかなくなるまで

歌え

切り刻まれた魂の歌を。

そしてそのまま駆け去る。

視界が完全に滲んで、何もかもが見えなくなるまで。

 

 

蓉子も栞もいなくなった。

私は一人で未だに部屋の中にいる。

缶ビールも灰皿も増える一方で、貯金は減る一方だ。

最近では、心の中まで空っぽになってきた。

仕方ない。

仕方ないんだ。

心はどこかに置いたまま。

二度と戻ってこない。

放っておいた留守電のメッセージが、とてつもなく溜まっている。

「あ、佐藤さん、山本だけど、月曜のレポート…」

大学の知り合いの声。

何人も何人も、私に話しかけてきた。

「佐藤さんさあ」

「佐藤さん、あのね」

「佐藤さんはやった?」

「佐藤さん」

「佐藤さん」

見えない私に、多くの人々が話しかけてくる。

そこで言われる佐藤さんは、私ではない全く別の誰かみたいに思える。

ねえ、佐藤さん。

そうして私は唐突に気付くのだ。

私は、栞や、蓉子を、断念するべきなんだ。

相手のことを何も知らないこと。

心をどこかに置いたままにすること。

みんな、そうだ。

知って欲しいとか、知り合っているとか、分かってくれているとか…

そんなもの。

灰皿のタバコを捨て、缶ビールをゴミ袋の詰め込む。

久しぶりに履く靴は、初めて履いたみたいに不安定だ。

それでも、玄関の扉に手をかける。

外へ行こう。

大学へ行こう。

私は、全然知らない誰かを探しに行こうと、外へ一歩踏み出した。

 

 

 

                                  了

 

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