天国ではみんな、海の話をするんだぜ

  スチール棚から倒れてくる無数のライム、盛られた塩。

  空の瓶が転がっていく。

  緑色の瑞々しいライムの色の中で、そのセリフは印象的に響いて。

  天国ではみんな、海の話をする。

  遠く聞こえる潮騒の音、どこまでも続く青い水平線、夕暮れに起きる色彩の大変化、そして、海面に光を反射させながら消えていく夕日の美しさ。

  昔見た映画の、そんな話。

 

 

                        『Knokin'on Heven's Door』

 

 

  修学旅行が終わっても、学園祭が終わっても、わざわざその為に開かれた茶話会が終わっても、祐巳さまに妹はいない。

  細川可南子は、そう思った。

  もうすぐ冬の足音が聞こえてきて、人々はセーターを押入れに放り込み、分厚いコートを取り出す時期。

  木々は見る間に元気をなくし、何かに耐え続ける患者のように押し黙って俯くようになるだろう。

  秋の最後の時、いつだって時間は待ってはくれない。

  もうすぐ、秋が終わる。

 

  そうやって秋が終わったら冬が来て、冬が終わったら春がきて、春が過ぎたら…

  お姉さまはもういない。

  結局、福沢祐巳にとってリリアン女学園とはお姉さまとの場所だった。ほかの誰でもない、小笠原祥子に会うための場所。

  色々なことが通り過ぎていったのに、祐巳に妹はいない。

  もしかしたら、もう、妹が出来ないんじゃないか、とも思う。

  それを考えるたびに祐巳は重苦しい不安に襲われ、また、お姉さまの卒業を思って泣きそうになるのだ。

  きっと、大人にならなきゃいけないんだ。

  でも、どうやったら大人になれるんだろう?

  どうしたら、この寂しさに耐えられるようになるのか、祐巳には全く分からなかった。

 

  全く分からなかった。いや、本当は分かってもいた。自分が彼女をどう思っているか。

  松平瞳子は福沢祐巳を思うたびに、やりきれない、切ないような気持ちになった。

  もう自分では分かっているんだ。祐巳さまをどう思っているか。

  でも、今の悪評を立てられている状態では、きっと、祐巳さまに迷惑がかかるし、また、祐巳さまは、私を見ている訳ではない。

  無理矢理にでも私を見させる?

  それも結局は、紅薔薇を狙ったという悪評を立てられて、祐巳さまに迷惑がかかる。

  どうしてもそれは嫌だった。

  嫌なことが多すぎて、もう、よく分からなかった。

  そして思うのだ。

  もしかしたら、私には三年間姉が出来ないかもしれない、と。

 

                                       1

 

  浮かない顔の祐巳さまを、よく見かけるようになった。

  なんて似合わないんだろう、とぼんやり可南子は思う。

  笑顔でこそ、きっと福沢祐巳なんだ。

  それが強引な押し付けだとしても、やっぱり、哀しい顔なんていいものじゃないよ。

  こんなの、何か、間違ってる。

  だから声をかけた、たぶん、友達として。

  「祐巳さま」

  体ごときっちり振り返るリリアンの流儀を守って、にっこりと笑う祐巳さま。

  素敵な笑顔だけれど…きっと、無理をしているんだと可南子は思った。

  「なに?可南子ちゃん」

  「祐巳さま…何だか疲れておられますか?」

  「?なんで?」

  「最近の祐巳さまは、どこか、悩んでおられるように見えます」

  可南子がそう言うと、祐巳さまは寂しそうに笑った。

  「悩んでなんか、ないよ」

  「嘘です」

  「可南子ちゃんが心配するようなことじゃないよ」

  「いいえ、心配することですね。祥子さまはもうすぐいなくなってしまう、妹はできない、

  自分はどうすればいいのか分からない、そんな悩みごとが、心配しなくてよいことですか?」

  祐巳さまは困った顔をして、頬を掻いた。

  「私って、つくづくわかりやすいんだなあ」

  「そうです、だから、私が力になります」

  「でも、他の人にはどうしようもないよ。結局、私の問題なんだから」

  人が他人ではどうにもならない個人の問題を抱えているとき、友達としてはどうしたらいいんだろう。

  スマートに助けて上げられるほど大人じゃなくて。

  何もかも分かってあげられるほど賢くもなかった。

  「頑張って、くださいね」

  陳腐な言葉。それでも、祐巳さまは笑顔で言った。

  「うん」

 

  松平瞳子は、自分が教室に入るなり静寂が訪れたのを不愉快に思った。

  話したければ、話し続ければよいのだ。

  聞かれたくないことなら、最初から話さなければいい。

  そう思って腹が立つのは、子供だからだろうか。

  でも、変な噂話をされて腹が立たない人間なんかいるのだろうか?

  誰もが瞳子を遠巻きにして、何か小声で話している。

  その輪の中から、一人がやってきた。

  「ごきげんよう、瞳子さん」

  「ごきげんよう」

  「瞳子さんは、5限の美術の課題、何にしました?私、そういうの苦手で困っているんです」

  そういってはにかむように笑う。親切心ではない。何かを聞き出すための前振り。

  「特にまだ決めていませんわ」

  「自由に人物を書けといわれても、困りますわよね。私、お姉さまにモデルになってもらおうかと…」

  もう、瞳子には流れが読めた、彼女が何を尋ねるのか。

  「瞳子さんは、紅薔薇の蕾を描かれるんでしょう?」

  「どうして…」

  「だって、瞳子さんは紅薔薇の蕾と仲が」

  「どうしてあなた達は」

  「え?」

  そんなにも醜いのか。

  「そんなに私と紅薔薇の蕾をセットにしたがるのかしら、不愉快ですわ」

  「でも瞳子さん…」

  「不愉快ですわ。もう一回言わないと、聞こえませんか?それならもう一度言います」

  相手が泣きそうな顔をしていても、瞳子は気にしなかった。

  「不愉快ですわ」

  相手は涙ぐみ、その友達が瞳子のところに寄ってくる。

  「瞳子さん!何をしたんですか!」

  「泣いているじゃありませんか!」

  「ひどいわ!」

  私が何か言いかける前に、先生がやってきて、会話はうやむやになってしまった。

 

 

  気分は重かった。

  らしくもなく、流せばいいのに、泣かせてしまっていた。

  明日から、クラスの空気はより重くなっているだろう。

  教室でお弁当を食べる気にもなれず歩く中庭。

  木々が作る影と石畳のコントラスト。

  すっかり葉が落ちた、丸く切りそろえられた小さな木。

  なんだか、痛々しいように思えた。

  「瞳子ちゃん?」

  不意に、声をかけられた。

  一番聞きたかったような、聞きたくなかったような声。

  「祐巳さま?」

  「何だか元気ないね。どうしたの?」

  そう言って首を傾げる祐巳さまに邪気はない。

  でも、イライラした。

  「何でありません」

  思わず顔を背けてしまう。

  「何でもないことないんじゃない?」

  祐巳さまは顔を覗き込もうとする。

  私は体を捻ってそむける。祐巳さまは更に覗き込もうとする。

  「もう、なんなんですか!」

  「だって、後輩が悩んでたら気になるよ」

  後輩。そう、この人にとっては、後輩に過ぎないんだ。この人は。

  だんだん、馬鹿らしくなってきた。

  それに、腹もたった。

  だから

  「後輩、そうですね、所詮、ただの後輩ですね」

  思わずそう口走っていた。

  「ただのって…なんでそんな言い方するの?瞳子ちゃんは大事な後輩だよ」

  大事な後輩、私は思わず、口の端を吊り上げて笑っていたかもしれない。

  「瞳子は、祐巳さまともう、話したくありません」

  冷たく、拒絶した。

  半ば本気だった。

  それなのに、祐巳さまは

  「そんなこと言わないで…そうだ、一緒にお弁当食べようよ、瞳子ちゃん、お昼まだでしょう?」

  どこまで脳天気なのか!!

  お弁当だと!?

  そんなもの!!

  私の中で何かが外れた気がした。

  「あなたは残酷です!!」

  「瞳子ちゃん?」

  「そうやって誰にでも優しくして、気をもたせて、それでいて心の中には一人しかいないのを見せ付ける!いい加減な態度で!!

  気づかない振りで自分を守っているんです!!あなたは大体…」

  大声で、叫んでしまう、誰かが見てるかも知れないのに。

  「本当に妹が欲しいなんて思ってるんですか!!!」

  祐巳さまは、目を見開いて驚いている。固まっている。

  もっと、もっと傷つけてしまいたい、私のことを刻み込んでしまいたい。

  「祥子さまさえずっと居れば、それであなたは充分なんでしょう!あなたの妹になる人はかわいそうです!!

  あなたはきっと誰彼構わず優しいままで、妹だって祥子さまの代わりで、誰も心底には愛さないんだ!!

  偽善です、祐巳さまの優しさなんて、周りに好かれたいだけの偽善じゃないですか!!」

  本当は、そんなこと思ってなかった。ううん、少しは思ってたかも知れない。

  でも今は、ただ、祐巳さまを傷つけてしまいたかった。

  涙でも、流している姿を、見たかった。

  やっぱり、祐巳さまは悲しそうな顔をしていて。

  自分はそれが見たかったはずなのに。

  祐巳さまが涙を流しそうになると、逃げ出していた。

 

 

  何事かと、思った。

  瞳子が、祐巳さまを相手に怒っていた。

  瞳子の気持ちを少しはかれば、その言葉がどういう想いにもとづくか、すぐに分かった。

  分からないのは、祐巳さまぐらいだろう。

  呆然と立ち尽くす祐巳さまを、ほってはおけなかった。

  「…ごきげんよう」

  祐巳さまは泣きそうな顔を無理矢理笑顔に変えて、こっちを見た。

  「見てた?」

  「ええ、嫌でも見えます」

  「怒られちゃった」

  「でしょうね」

  「瞳子ちゃんに、嫌われちゃった」

  なんて答えればいいか、分からない質問だった。

  嫌われた、そうかも知れないし、何か違う気もする。

  「本当に妹が欲しいのかって、言われちゃった」

  「…ええ」

  「痛い、なあ」

  そう言ったきり、祐巳さまは黙って俯いてしまった。

  なにが出来るんだろう。

  何をすべきなんだろう。

  とても好きな人の為に。

  私は祐巳さまの手をとる。

  「行きましょう」

  「行く?」

  「ええ」

  私はそう言って、祐巳さまを引きずってどんどん歩く。

  マリア様の前で祐巳さまが言う。

  「可南子ちゃん、こっちは外だよ!」

  「そうです」

  私は校門を目指してどんどん歩く。

  「どこへ行く気なの!?可南子ちゃん」

  「海へ」

  「海!?」

  そうだ、海へ行こう。

  こんなにいい天気なんだし、きっと、海は青い。

  うん、やっぱり海だよ、海海。

  「まだ授業中だよ!」

  「知ってます」

  「冬なんだよ!」

  「分かってます」

  「どうして海なの!?」

  「知らないんですか祐巳さま?」

  床に転がるライムの海、ガラスを通る半透明の光。

  「天国ではみんな、海の話をするんです」

 

 

                                          2

 

 

  無茶苦茶なことをしている、とは思った。

  「可南子ちゃん、学校、さぼっちゃったよう」

  泣きそうな顔をして祐巳さまが言う。

  「そうですね」

  と私は答える。

  「駄目だよ、こんなの、マリア様がみてるんだよ」

  「この程度で怒るほどマリア様も気は短くないと思います」  

  「とにかく、いけないことだって!」

  「罪の穢れも知らずに、何を学ぶというんですか。青春なんですよ。バイクも盗んでないですし、窓ガラスだって割ってないんです」

  「滅茶苦茶だよ、可南子ちゃん」

  「そうですね、でも」

  私はコンビニへ入る。

  「面白いでしょう?」

  色紙とセロテープと氷を買う。

  ついでに地図を立ち読みした。電車で行かなきゃならない。

  「行きましょう」

  「うう」

  暫く歩いていく。

  電車に乗る前に、やっておきたいことがある。

  人通りの少ない道、この昼間の時間なら、あれが買える。

  道の途中にある自動販売機。

  「ちょっと買ってきます」

  「ちょ、ちょっとあれは!?」

  酒の自動販売機、前からちょっと興味があったのだ。

  財布から五百円玉を出し、細められた目みたいなスリットに入れ、氷結とか書かれたアルミ缶の下のボタンを押す。

  ゴトン

  落し物みたいな感じの音、同じ行為を繰り返す。

  ゴトンゴトンゴトン

  鞄に入れて祐巳さまのところまで戻る。

  「か、可南子ちゃん…」

  私は色紙を持っていた鋏で切り、缶に巻きつけセロテープで止めた。氷の袋を空け、中に缶を入れ、テープで口を塞ぐ。

  「はい、祐巳さま、これで少しは、歩きながらでも飲みやすいでしょう」

  「こ、これって」

  「嫌なことがあったときに、飲むものなんです」

  「で、でも」

  「少しは、興味あるでしょう?」

  なんだか、悪いことに誘うみたいだったけど、実は可南子も飲むのは初めてだった。

  飲んでみる、平気だ、ちょっと変な苦味があるけど、炭酸のジュースみたいなものだ。ぐびぐび。

  「ほら、祐巳さまも」

  「うーーーーーーーーーーーーん、ええい!そうだよね!!たまにはね!!青春だしね!!吹っ切るよ!!」

  そういってタブを開けると、プシュッという音。

  「ごめんなさい!お姉さま!!」

  全然吹っ切ってない。ぐびぐび。

  「あ、思ったより甘くて美味しい」

  ぐびぐび。

  ぐびぐび。

  やっぱり良いものだなあ。

  天気のいい日に、好きな人と二人で、歩きながら飲んでいて、何だか気分が良くなってきた。

  祐巳さまはほんのり赤くなってきて、一本目が空になって、まるで電柱みたいに町中にあるコンビニは、ゴミ箱があるからそこに捨てて。

  二本目が開けられた。

  ぐびぐび。

  ぐびぐび。

  ロックンロールだ!!

  社会への反抗なんだよーー!!

  「可南子ちゃん、私だってねえ、怖いんだよ、お姉さまがいなくなるのが、怖いんだって!」

  「でしょうね、だって祐巳さま、祥子さまばかり見てましたもんね!」

  ぐびぐび。

  ぐびぐび。

  妹とか、姉とか、嫌なこととか。

  今だけは、忘れていられた。

  それって、良いことだと思う。

  ぴーす。

 

 

                                                 3

 

 

 

  電車は降りた。

  電車の中でも、ずっと喋っていた。

  「もうほんと、お姉さまにどこかに行ってもらいたくないんだよ」

  と祐巳さまが泣きながら言った。

  そうだろうな、って分かってた。

  「妹って、どうやったら出来るのか、もう、私わかんないよ」

  と言って祐巳さまは泣いた。

  私達はリリアンの制服で海めがけて歩いて、色紙を巻きつけた怪しいアルミ缶を飲んでいて、やっぱり目立った。

  「あれ?君たち?学校は?」

  補導の人たち。

  ロックンロール。

  社会への反抗のなんという脆弱さ。

  だから私はこう言って逃げるのだ。

  「早退です!」

  「あ!ちょっと!!」

  祐巳さまの手を引いて、走る、走る。

  何だか気分も高揚していた。祐巳さまの手は暖かかった。

  走れ!走れ!

  「可南子ちゃん、息が、もう、私」

  「駄目です、捕まったらリリアンかわら版ですよ!」

  「いやーー!」

  2人で走る。潮の匂い。

  きっともうすぐ海なんだ。

  海では、天国の話をするのだろうか。

  足がもつれて、2人とも酔っ払ってて。

  補導されたら大変で。

  でも補導員なんか実はもう追いかけてきてなかった。

  それでも走った。

  馬鹿みたいに。

  楽しくて。

  そしたら、海についていた。

 

  2人だけの海岸線、もうすぐ、陽が落ちる。

  「ねえ、祐巳さま」

  祐巳さまは、黙って海を見ている。

  「酔いは、醒めました?」

  「可南子ちゃん、無茶苦茶だよ」

  それは今日、何回も言われた。

  「でも、楽しいでしょ」

  何回かそう言って、いま、初めて返答がもらえる。

  愛らしく微笑んで「少しだけ」って祐巳さま。

  「海、綺麗でしょ」

  「うん」

  「だからきっと、大丈夫なんです」

  「そうかな?」

  「そうです」

  これぐらいしか、私にはいえることがない。

  いや、まだ、あるかな。

  「私はずっと、祐巳さまの味方ですから」

  「ねえ、可南子ちゃん」

  祐巳さまはじっと海から目を離さない。

  「いっそ、可南子ちゃんが私の」

  「駄目です」

  夕日の光が海にきらきらと反射している、世界の全てはオレンジ色だ。オレンジ色で、潮臭いんだ。世界は。

  「それ以上言ったら、軽蔑します」

  「厳しいなあ」

  「好きですからね」

  照れたように祐巳さまは笑って、私を見た。

  「ねえ、もう一本頂戴」

  「ええ、そのために氷で冷やしてたんですから」

  私は新しい缶を渡して、自分のためにも一本取り出して、そしてゲストのための一本を取り出して砂の上に置いた。

  「私、少し散歩してきます」

  沈んでいく夕日の色。輝く海。潮風、砂の感触、波で消える足跡。

  振り返ると、いいタイミングで彼女は着ていた。縦ロールの彼女。呼んでおいて良かった。

  きっと、謝りたいだろうから。

  彼女は烈火のごとく怒るだろうな、何飲んでるんですか祐巳さま、って。

  そして私が砂浜に置いた缶は彼女に差し出され、きっと押し切られて彼女は飲んでしまうのだ。

  ほら、思ったとおり。

  並んで砂の上に座って海を見ている2人を背に思う。きっともう、大丈夫。

  これできっと、天国でも話が出来る。

  海の話。

  酔っ払って走った街中と、大好きな先輩と、沈んでいく夕日を眺めていた二人の姉妹。きっと、姉妹。

  私が戻るまで、いつまでもいつまでも2人は海を眺めていた。

  そんな、海の話。

 

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