森は広大に私たちを待ち構えていた。

香りたてる深い森の赤土を踏みながら私とお母さんは暗渠のような長い道を歩く。土は湿って黒く、木陰はどこまでも陰気で暗黒の塊のように見える、遠くから聞こえる野鳥の鳴き声も生物の本能的恐怖に呼びかけるようで、森は暗黒の異界だった。

「可南子、貴方にもここの血が流れているんだからね」

と唐突に母は私が傍観者である事をゆるさぬように強く言うと、黒い落ち葉を踏みつけえぐりながら進み、私たちは威圧的な森の侵食に身を任せる一つの集落にたどりついた。

くぼ地の中でひっそりと静まり返る集落は欠落感によってすっぽりと包まれている。民家の屋根屋根は古ぼけ、輪郭の曖昧な塀が申し訳程度に並んでいる。

「ここが、お母さんの故郷?」

私がそうたずねると、母は小さくうなずいた。

 

     ………

 

仕事にかまけて忙しそうだった母が、故郷に帰省すると言い出したのは何故だったか。それは単純に私や、私のお父さんや次子を巡るゴタゴタに私が父と会う事で、母なりに決着がついたという意志表示だったのかも知れないし、あるいは全く関係ないかもしれない。

それとも、母はもうこの時点で声を聞いたのだろうか。

「可南子ちゃん、私と一旦帰省しましょう」

という母と共に山深い田舎へ行った時、私たちがその集落について森林監視員から聞いたのは驚くべき報告だった。

「そこには、もう誰一人住んでいません」

と言う。

母は何故そんなことになったのか森林監視員に執拗に尋ね、彼の語るところによれば、ある日、一斉に人々は移動し始め、自分たちの村のすべてを置き去りにして出奔したそうだ。

「連中が出て行った事にもっともらしい理由は何一つない。生活に窮して夜逃げしたのではないし、借金に苦しんでいたという話もない。集団的発狂ではないかという奴もいるが、彼らは気違いのようにではなく、じつに静かにおちついて出発したんだ。まるで沈む船から逃げる獣みたいに」

一夜にして、集団が急に出奔する。

そんな事があるんだろうか?

そしていま、目の前には捨てられた集落が広がっている。

畑の野菜は盛大に腐乱し、埃は堆積し、家々はまるで深夜のように静まりかえっている。いかなる人の声も、生活の音もしないで、森のただ中で孤立して存在する集落には不気味な印象だけがあった。

母が自分の生家らしき家に近づき、鍵がかかっていたのを開けると、テレビも置き去りにされたままの民家の居間が現れた。そこはもう、一年以上の時の風化に耐え、生活臭が抜けてまるでミニチュアのジオラマみたいに見えた。

「何も残してないのね」

と母は言い、私の手を引いた。

「母さん?」

「来なさい」

と強く命令する母は、やがて村の中心であったろう広場にたどり着くと、何かを探すように周囲を見回した。

やがて何の変哲もない地面の上に立つと、母は生家がもぬけの空だった事より、それが一番のショックであったかのように青ざめ、唇を震わせて言った。

「井戸を……埋めてしまっている……」

「井戸?」

「帰りましょう」

そう言った母の顔は、恐ろしいほど険しかった。

 

 

    ………

 

 

それから母は、仕事を休んで何かをしていた。

既に母は私の理解を超えていたけれど、ある日ついに私にこう言ったのだ。

「避難先を見つけた」

と。

私には、ただただそれが恐ろしかった。

 

 

  ………

 

母の故郷の人たちは関西の工場に集団就職していた。

彼らが何を目的にそんな大移動をしたのかは、私にはよく分からない。

母は村長と話し、何かを納得したようだった。

村長は言う。

「もうすぐ来るからじゃ、準備しとけ」

と母は言われ、険しい顔で俯いていた。

「何が来るんです?」

私がそう質問すると村長は不機嫌そうに眉をしかめ、強い訛りのある言葉を私に喋った。

それを私が解読すると、大体以下のような意味になる。

「とんでもねえ大きさの深くて暗いものが訪れる、それを避けるには場所を移すしかない。場所を移すだけでなく、物事にはしかるべき処置というものがある。それを行うための大移動であり、集団生活なのだ」

私には何か彼らが迷信に囚われているようにしか思えなかったが、反論できるような空気でもなかった。

母は工場から帰る途中に私に言った。

「可南子ちゃんは、この工場宿舎で暮らすつもりはある?」

私は目の前が真っ暗になった。

 

 

  ………

 

 

父と可南子さんはいま、武蔵野の近くに住んでいるらしい。

何がどうなってそうなったかは知らないが、今している仕事の関係という事だった。

母は私に、彼らとの集団生活をするかどうか尋ね、私は断った。

「ねえ、可南子ちゃん」

母は私に忠告するように言った。

「もしも何かあったら、すぐに連絡してね」

私は頷く。

母も、私が工場暮らしをするとは思っていないし、それを説得するのが不可能なことはわかってくれている。

母はどうしても、自分の生まれ育った集団に帰るつもりのようで、私にはどうしようもなかった。

「可南子ちゃん……」

出て行く時に母は言った。

「もし……」

私にはその言葉を上手く聞き取れない。

私には、声を聞き取る事が出来ない。

 

 

  ………

 

急激な環境の変化のせいだろうか。

父と夕子さんと次子と住み始めて、私は何だか体調を崩した。

そしてまた、男の人を恐ろしいと思うようになっていた。

私はリリアンの二年生で、夏だ。

解決した筈の問題がぶり返すように、私は欝になり、ふさぎこみ、何もかもが上手くいかなくなる。

私は図書室で話した事のないクラスメイトと出会う。

 

そして彼女は私に言う。

「大丈夫」

と。

 

口癖みたいに「大丈夫、きっと大丈夫」と。

 

それが、春日部詩織との出会いだった。

 

そして、その先に恐るべき事件が待っているとは、私は想像もしていなかったのだ。

山百合会のメンバーすべてがアパートに住む事になる、あれが。

 

私はただ、そのときは何も知らず、詩織さんに癒されて回復していった。

本当に、何も知らずに。

 

 

 

back