近頃よくよく、空へ飛ぶ。
椿組の榛名さんも、桜組の美紀子さんも飛んだらしい。保健室の先生に聞いてみると、今年に入ってもう7件になるという。とにかく大変な年だ。
しかし榛名さんもふわふわ浮き始めた時分こそ、どうしましょうどうしましょうとうろたえていたものの、いざ自由に飛びまわれる段になると、これは何か新しく、素晴らしいことなんではないかと言う喜びが表へ出ていたと思う。
「最近、よく飛ぶよ」と保健医は言い、
「飛びますか」と私は尋ね、
どこか呑気に「飛ぶねえ」と保健医は返事をした。
中庭で校舎の三階くらいの高さをふわふわ飛ぶ子がいて、その子の姉がそれに必死に声をかけているのを見かけて、なんだか私は恥ずかしくなった。
飛んだりなんてして、どうかしてるわ。本人にとっては仕方ないことなのかも知れないけれど。
私は急ぎ足で薔薇の館に向かい、ビスケット扉を開けると紅茶を淹れ終えた祐巳がおり、彼女は音もたてず私に駆け寄った。
「お姉さま、大変なんです」
「どうしたの?祐巳?」
「私、飛び始めたんです」
そう言った祐巳の足は、床からふわふわと浮いていた。
『飛ぶ』
「飛び始めたなら、どうにもならないねえ」
と保険医はいい、言われた祐巳は泣きそうな顔で
「そんなあ」と嘆いた。
私はドキドキと鳴る心臓と、流れ落ちる冷や汗を押さえて、しかし耐え切れず責めるように言う。
「なんとかならないんですか?私にできることなら何でもしますから」
「そんなことを言われてもねえ、私はただの保健医だし、飛び始めて戻った例は知らないよ。でも案外、空の遥か向こうまで飛んでいった連中は、幸せに暮らしているかもしれないよ」
「ふざけないで!そんな地に足のつかないことで!」
この保健医ではあてにならない、小笠原のかかりつけの医者に見てもらおう、そう思って祐巳の手を引いて歩き出したら、思った以上に軽いのに驚く。
「祐巳、軽いわ」
私がそう言うと、祐巳は申し訳なさそうに縮こまった。
「はい…浮いてしまうくらいですから…」
「もう、そんなに気にしなくていいのよ、きっと治してあげるから」
私はふわふわと浮く祐巳を連れながら廊下を歩き、下校することにした。
靴箱で靴を履き替えるとき、祐巳が空中で上履きを簡単に脱ぎ、まるでそこに床があるみたいに空気の上にしゃがんで靴を履くのを眺めていた。
「あ、でも、浮いてたら靴の意味ないですね」
そう言って祐巳は照れたように微笑むものの、そこには避けようもない不安が滲んでいた。
「祐巳」
「なんでしょう」
「大丈夫よ」
安請け合いだった、根拠もなかった、でも、あなたはこのまま空の向こうに飛んでいっちゃうかもね、なんて言える訳がなかった。いったい、誰がそんなことを言える。誰にも言わせはしない。
「なんで、お姉さまには全部わかっちゃうんでしょう。そんなに不安そうでした?」
「あなたは分かりやすいのよ、それに、私はあなたの姉だもの」
2人で靴箱を出て、校門を目指して歩いた。マリア像の前でお祈りし、私は祐巳が飛んでいきませんようにと祈った。私が祈り終わっても、祐巳はまだ祈り続けており、横顔を見ると涙で濡れていた。
「祐巳、泣いてるの?」
「私、怖いんです、飛んでいきたくなんかないのに」
そう言って祐巳はわっと泣いて私の胸に飛び込んできた、私は祐巳を抱きしめ、いつまでもその背を撫でていた。
次の日、祐巳はずっと高く浮いていた。
もう、私の頭くらいの高さまで浮いている。そのうえ、かなり自由に上へ行ったり下へ行ったりできるようだった。
「お姉さま、これはけっこう楽しいですよ、すいすい泳いでるみたいで」
「やめなさい、はしたない。ちゃんと地に足がつかなきゃ駄目よ」
「はい、お姉さま」
素直に返事をした祐巳はふわふわと落ち着かない様子で、浮かびながら校内を歩き、薔薇の館に行った。
薔薇の館に行くと聖さまが珍しく来ており、祐巳を見るなり言う。
「祐巳ちゃん、噂通りに浮いちゃったんだね」
祐巳は恥ずかしそうに「そうなんです」と答えた。
「いいなあ、祐巳ちゃん、私も浮きたいよ」
「聖さま、浮きたいんですか???」
「だって、自由に空が飛べるなんて、凄いことだよ、人類の革新だね」
私はその聖さまの不謹慎な物言いにとても腹がたって、思わず睨みつけていた。
「白薔薇さまは空でもどこでも自由に行きたいでしょうが、祐巳を一緒にしないで下さい」
「えー、だって、祐巳ちゃん、空を飛ぶの気持ちいいでしょ?」
「え、え、それは…」
「祐巳、まともに答えなくていいのよ」
気まずい沈黙が薔薇の館を満たして、ただでさえ飛んでいる祐巳は風に揺られて所在なげに漂っていた。しまった、と私は思う。でも今更取り繕うことはプライドが許さなかった。
「紅茶、淹れますね」
そう言って祐巳は飛んで行く。
小笠原の医者は祐巳をしばらく見て音をあげた。
「飛び始めた人間が地上に降りた例は今のところないのです。しかし死ぬ訳ではないですし、いつかは地上まで降りてこれるかもしれません」
「どうすれば降りてこれるの?」
医者は首を振るばかりだった。
医者からの帰り道、頭上よりも上を飛ぶ祐巳は、無理して明るい声で言った。
「大丈夫です、これに慣れたら、降りれるように頑張りますから」
「そう、そうね」と私は力なく微笑む。
私達は夕日の赤い光を浴びながら、田んぼ道の上で家路を急ぐ。
こうして祐巳と夕日を見るのは何度目だろう、数え切れないほど見たような気もするし、たった一度だけのような気もした。私と祐巳はわかちがたく運命的に結びついていて、その強固な鎖は外れ方を忘れたようにつながり続けている筈だ。
夕暮れの風はなま温かく、眼にしみる光が私のまぶたに力を入れさせる、遠くで鳴くカラスの声、祐巳との永遠に続くかのようなたわいないお喋り、一瞬、眼を瞑って開いたら祐巳は地面に降りているかと思った。
しかしまぶたを閉じ、また開けても、祐巳は飛んだままだ。
「それでですね、お姉さま、水にありがとうって言うと美しい結晶が出来て、ばかやろう、とかだと結晶が出来ないそうなんです。人間の体の殆どは水で出来ていますから、言葉って本当に気をつけないといけないですよね」
「ねえ、祐巳、水は人間の言葉を理解したりしないわ」
「でもこれは科学的に証明もされているんですよ。小学校でも習ってるみたいなんです」
「祐巳、そんなことはありえないのよ。水が凍った時に結晶化するかどうかは、温度や湿度の環境で決まるわ。その気になれば馬鹿やろうという言葉をかけた水でも結晶を作ることは出来る。何が美しいか、何が正しいか、どうして水に分かるの?ありがとう、って言葉はそれだけで正しいものかしら?残酷で決定的に間違ったありがとうだってあるし、美しく正しい馬鹿野郎だってあるんじゃないかしら」
「お姉さま、夢がないです」
「心配なのよ」
「私は、凄く素敵だと思ったのに」
そう言った祐巳は、少し寂しそうだった。
次の日になると、祐巳はもう校舎を飛び越えそうなくらい飛んでいた。
自由に空を滑空し、登ったり降りたり、びゅんびゅんと風を切って飛び回っている。
私はその姿を見た瞬間、思わずかっとなって中庭に出た。
「祐巳!何をしてるの!」
「お姉さま!これは凄いんですよ!本当に快適なんです、こんなに気持ちがいいなんて!」
「何を言ってるの祐巳!いい加減になさい、二年生にもなって恥ずかしい」
「恥ずかしい?何が恥ずかしいんですか?私は飛んでるだけですよ」
「何って、あなたは…」
私は思わず言葉に詰まる。だってあなたは、飛びたくなんかないって、私に言ったじゃない。
それがどうなの、今は飛ぶことが嬉しいみたいに。
私は腹立たしいやら、恥ずかしいやら、裏切られた気持ちになって傷ついた。
「どうしたんです、お姉さま?」
祐巳は、ふわふわとなんとか私の頭上くらいまで降りてくる。
「もういいわ」
驚くほど弱弱しく、泣きそうな声になっている自分に驚いた。私は、こんなにもショックを受けていたのか。
そんな私を見て祐巳も激しくショックを受けたようだった。俯き、捨てられた犬のようにしゅんとなる。
「ごめんなさい、お姉さま」
私は祐巳に手を伸ばす、その手を掴み、自分に抱き寄せた。私まで少し浮きそうになるくらい、祐巳には浮力がついている。
祐巳は涙眼で私に謝って、その滑らかな頬が濡れて光を反射する。
私は祐巳の背中を撫でて言った。
「いいのよ」
私は涙をこらえる。
「いいのよ」
新しい医者は、あおざめて言った。
「もう時間がありません。手遅れです」
「どういうことかしら」
「もう、彼女はいつ飛んでいってもおかしくありません」
「なんとかしなさい」
「何もできません」
私達は部屋を出た。
どうしたらいいの、どうすればいいの、どうしたらどうしたらどうしたら…
「ねえ、おねえさま」
そう言った祐巳の顔は真剣で、夕日が作る長い影と茜色の世界で、切実な運命を予感させた。
「私、飛ぼうと思うんです」
祐巳は確かにそう言った。飛ぼうと思う、と。
私、飛ぼうと思うんです。
そういわれたとき、私の心は千千に乱れ、切り裂かれ、血を流して悲鳴をあげた。
「どうして!?私を裏切るの!?見捨てるっていうの!?」
祐巳は困ったような顔をしながら、しかし決心はゆるがせない、という決意を滲ませている。
私は、人生で初めて絶望を感じた。
「祥子さま、飛ぶことって、素晴らしいことなんです」
熱にうかされたように祐巳は言う。
「今までこんな風に思ったことがないんです。確かにこれは素晴らしくて、やる価値のあることなんだっていう確信とか、何者にも妨げられない自由な感じとか、初めてなんです。だから、私、飛んでみます」
「駄目よ、どうなるか分からないのよ!?かえってこれないかもしれない。宇宙へ行って死んでしまうかもしれないわ」
「でも、もう、止められないんです」
私はどうやったら祐巳を説得できるのか考えた。必死に考えた。夕日は今にも沈もうとしている、間違いのない茜色の空、どんどん高くなっていく祐巳、どういう言葉がこの世界を一新し、新しいより強固な鎖を生み出すだろうか、飛ぼうとしている祐巳に私の言葉は、どうやったら届くのだろう。
私の中に眠る思いつかない言葉、空回りする思考、一斉に鳴く蛙。長く長く影が伸びていく。祐巳の影はどんどん小さくなっていく。
そして祐巳は、今までにないほどの高さへと一歩飛び出した。
了