マリア様の前で手を合わせる。
皆、そうしている。
祈ること。
果たしてそこにある宗教心というのは万人共通なのだろうか。
祈ること。
人生で祈ったことのない人間はいないと思う。人間の根本には祈りがあるのではないだろうか。
それは、全ての人間に宗教心が存在することを示唆しているのかも知れない。
私。
藤堂志摩子。
シスターに憧れている。
『藤堂志摩子の憧憬』
リリアン女学園はカトリックの学園だ。
ここは、マリア様のお庭。
彼女達はお喋りをしている。昨日のテレビについて、ファッションについて、流行の音楽について。
彼女達は、信仰心についてどう思っているのか話したりはしない。
そしてそれはたぶん、正しい。
私だけがどうしようもなく、信仰について考えることから離れられない。
寺で生まれて、でもキリスト教に惹かれた。
なぜなのか。
たぶん、寺の雑多で人間的で東洋的な雰囲気より(私は、教義を深く理解できるほど賢くない)、キリスト教の、
硬質で透明で美しい天上の世界の雰囲気の方が合っているのだ。
そこには、普遍性と、ほんの少しの数学性と非人間性がある。
美しき天上の世界、汚れた地上。
そういう美意識や自意識が、いかに誤っているか、分からないわけではない。
しかし…
彼女達は地上の話を続けている。
「シマコさん、一緒に帰ろう」
と乃梨子が言う。
彼女は仏像が好きだ。
仏像の柔和さ、親和性には、確かにキリスト教にはない魅力がある。
しかし私は西洋の宗教画に描かれる、完全な世界への渇望に惹かれる。
そこにいくら人間が描かれても、その視線は冷徹で、客体化されている。だから西洋は遠近法を作れたのかも
しれない。
私は人間の世界ではなく、永遠の世界に憧れているのだ。自分でも分かる。
だからキリスト教なのだと思う。家が仏教なのに。
いつかシスターになったら、全ての世俗を離れ、乃梨子も祐巳さんもお姉さまもお父様も、捨てなければならない。
そうやって裏切ることでしか、自分が望む自分になれない。
だから私は本当は、妹を作るべきではなかったのかも知れない。
身勝手で、偽善で、裏切り者。
そう思えば思うほど、より永遠の世界への憧れは強まる。
逃げなければ。
この汚れた地上から逃げなければ。
ごめんね、乃梨子。
「志摩子さん?」
「なにかしら?」
「考え事?」
「ええ、ごめんなさい」
乃梨子が、指にばんそうこうをしていたので、それを言い訳にする。
「どうして乃梨子が、指にばんそうこうをしているのかな、って思って」
適当に言った言葉だった。しかし乃梨子は、まるで傷口を触られたみたいにびくりと驚いたのだった。
「やっぱり、わかっちゃうのかな?」
そう言った乃梨子の表情は、さびそうで嬉しそうな、でも総じて言えば可愛い印象を与えるものだった。
何が、わかっちゃうのだろうか。
不吉な予感のようなものが、すこしだけ、まるで華の香りのようにかすかに漂った気がした。
「下駄箱で、ちょっと切っちゃったんだ」
「下駄箱で?」
「そう、なんかね」
「なにか?」
乃梨子は話しにくそうだった。
「何があったの?」
乃梨子はため息をついて、「下駄箱に剃刀が入っていたの」と答えた。
寺に帰ると、お父様が難しい顔で書面を読んでいた。珍しいこともあるものだ。
「どうなさいました?お父様」
お父様は私を見て、少し驚いたようだった。それも、珍しいことだ。
珍しいといえば、お父様は極めて真剣な表情で、まるで雪山に遭難して洞窟で一晩過ごす人間が、持っていた
薪を火にくべる時みたいな顔をしていた。
「なんでもない、早く寝なさい」
とだけお父様は言った。
その顔は未だに薪をくべつづけていた。
朝、登校する前に、お堂に人が集まってなにやら話していた。近隣の寺の住職さんが居る。
なにか、小さな声で話していた“あんたのとこにも来たか”“どうする”“あいつらを正当と認めることなど”
お父様もそれになにやら参加していた。
私はそれを横目に見ながら我が家をあとにした。
マリアさまの前で立ち止まる。
西洋では、科学者でも神を信じるという。
ただし彼らは、人格を持った神を信じない。
彼らが信じているのは、たとえるなら、数式のような神だ。
その数式が計算されると、世界が生まれ、ものごとが流れ出す。
そういう根源としての、人格を持たない世界の理そのもののというようなものを、神だと考えるらしい。
また、数学者の中には、この世界には数学的実体、とでもいうべきものがあって、その数学的実体が計算を
行うことによってこの世界がうまれ、運命を決めると考えているものもいる。
数学的実体、数学者の神。
なんて綺麗で、雑なもののない世界なのだろうか。
私は神様はよくわからないけれど、綺麗で透明で雑なもののない、普遍的で永遠のものに惹かれる。
地上に投げ落とされた天使のように。
「白薔薇さま」
と隣のクラスの子に廊下で呼び止められた。
最近、ずっと私を見ている子だった。
「なにかしら?」
「落とされましたよ」
と言って彼女が差し出したハンカチは、教室に置いていて数日前に紛失したものだった。
無理に微笑む。
色んなことが頭をよぎった。
乃梨子の怪我、昔の可南子さん、私への視線、紛失したハンカチ。
振り絞るように言う。
「ありがとう」
彼女の名前は、名島麻奈というらしい。
概して、良い話は聞かなかった。
彼女はいつも自分の殻に閉じこもり、他人の話には馬鹿にした態度をとる、らしい。
よくいる凡庸な狂気をもてあます思春期の少女だ。彼女は。
思春期故の自意識過剰、周囲への侮蔑からくる自分の特別視。
問題なのは、純粋さだ。
純粋さが人をどうしようもなく弱く醜くする。
純粋さが大衆を否定する。欲望を否定する。透明な美しさを目指す。
まるで、私じゃないか。
唯一違うのは、彼女がアニメや漫画やライトノベルやゲームの好きな、そういう子だということだけだ。
彼女が何度か、そういうマニアックな話をして周囲を引かせたのを見たことがある。
グレイさまがね、と彼女がキャラクターをさまづけして呼んでいたのを聞いた人間は多い。
彼女はいい加減、気づくべきなのかも知れない。
そういうものが、彼女の馬鹿にするバラエティー番組や、流行のドラマや、毎週上下するヒットチャートと変わらない
大衆の消費財に過ぎないことに。
そして更に、ヘタをすればそれらのものより、もっと低俗であることに。
でも彼女は気づかない。そんなこと誰も教えてくれない。
そして彼女は自分が特別だと信じている。
大人になれない。
彼女も私も。
ノリコは足を引きずっていた。
「ちょっと怪我して、なんでもないよ」
力瘤を作ってみせる乃梨子。
「心配ないからね」
と笑う。
ねえ、どうしてそんな風に笑うの?
いつか、私は貴女を裏切ってしまうのよ。
ただ自分の身勝手のためだけに。
「乃梨子は、いい子ね」
心からいとおしく想って微笑む。
どんなに裏切っても、偽っても、あなたを愛しく思う想いだけは本物だから。
その気持ちが届けばいいのだけれど。
家に帰ると、怒鳴り声が聞こえた。
物凄い怒号だった。身がすくむ。嫌だ、怖い。
怒鳴られているのは父だった。
父は相変わらず眉間に皺を刻み、地球温暖化を心配するみたいな顔をしている。
怒号がやみ、まともな声が聞こえる。
「署名していただきたい言うとるだけなんですわ。なんも難しい話ちゃうやろ。別に考えんと押したらええ。他のお寺さ
んは押しましたで」
お父様が鼻で笑う。
「お断りだな。帰ってくれ」
怒号。
「あんたの娘さん、美人やないですか」
「なんだと?」
「世間話ですわ。奥さんも綺麗やし、いいですな」
ただ単に娘と妻の美しさを褒めただけ、罪にはならない。
しかしそこに秘められた、どす黒いものを感じずにはいられなかった。
男たちは暫く怒鳴って帰った。
お父様は何か、電話をしたり忙しそうだった。
私は…しばらく震えていた。
夜、怒号で目が覚めた。誰かが玄関をバンバン叩いている。
お父様が出ると、誰もいない。
門に赤いペンキがぶちまけられている。
警告。
問題なのは、これらが、いつ終わるか分からないことだ。
次の日の朝、お父様は学校まで車で送ってくれた。
説明はしてくれなかったし、私も聞かなかった。
車内には重い沈黙が紙に載せられた文鎮みたいにのしかかっていた。
明るい話はなかった。何も。
名島さんは休みで、昨日、家に帰らなかったらしかった。
悪いニュースはいつも連続する。
不吉な予感のようなものが、私の周囲に漂いはじめていた。
不吉という名の香水をふりかけたみたいに、それは私から放たれていた。
私に近づく者は、そこに不吉を嗅ぎ取るだろう。
「どうしたの志摩子さん」
「何でもないの」
「でも」
「何でもないのよ、乃梨子」
何か、とてつもなく大きな不吉が降りかかろうとしているのだろう。きっと。
しかし私に何が出来るだろう。
出来ることは、巻き込まないことだけだ。
「何でもないのよ」
授業中、校庭で大声でお父様を罵る方々が現れた。
白薔薇さまのスキャンダルと新聞部は騒ぎ出し、クラスメイトは好奇の眼で私を見た。
かつての蟹名静さまの取り巻きはひそひそと噂話をし、学園の居心地は悪くなった。
これはマリアさまのお庭に集う子羊なのだわ。信仰心の篤い方々なんですよ。
薔薇の館のみんなは、本気で私を心配してくれる。
もちろん、乃梨子も。
でも…
やはり私は、この世界から逃げ出したくてたまらないのだ。
帰ると、お父様が玄関の掃除をしていた。
肥溜めの匂いがしていた。
「いつの間にか撒かれていてな。袈裟を一つクリーニングに出してしまった。まあ、あんなものは布に過ぎない。
本物の袈裟は、もらい物の布を縫い合わせる。我我は恵まれすぎているぐらいだ」
なんだかその言い方が自分に言い聞かせているみたいで、私はやりきれない気持ちになった。
「私は平気だが、志摩子にまで迷惑をかけるのは申し訳ないな」
「でも、大事なことなのでしょう?」
「そうだ。少なくても私にとっては」
「私はお父様を信じます」
「ありがとう」
私は自室に向って歩きながら思う。お父様を信じます?偽善だ。
私はただ、難しいことに関わりたくなかっただけだ。
怖いものの正体を知りたくなかっただけだ。
逃げたい。
どこかへ逃げたい。
醜い私も醜い世界も放り出して、まったく新しい自分に生まれ変わってしまいたい。
生きてるだけで死んでしまいそうだ。
嫌だ。
嫌だ。
なにもかもが嫌だ。
この世界は違う。私の世界じゃない。居場所がない。怖い。助けて。
違う。
違うんだ。
とにかく、違うんだ。
逃げたい。怖い。
出口のない思考。私は、どこへも行けない。
夜中の物音は激しかった。
たぶん、毎日続くのだ。
私も玄関に行くと、やはりそこには誰もいない。
お父様も、少し疲れた顔をしていた。
「すまんな、志摩子」
「いえ」
そのとき、不意に男たちが敷地内に入ってきた。
全く突然だった。
境内の木がざわざと音を立てている。理不尽で、突然に、不吉は形を持とうとしていた。
一瞬の出来事。
私は腕を掴まれる。
お父様が殴られる。
「あんたが頑ななのが悪いんだぜ」
何を言ってるの?
「怖い目にあってもらう」
お父様が数人の男たちに殴られる。
私は取り押さえられる。
私に手が伸びてくる。
近づいてくる。
私は。
いきなり男が頭から血を吹いて倒れた。
私の腕を持っていた男も頭から血を吹く。
お父様を囲んでいた男たちも血溜まりに沈んでいた。
月明かりの下、リリアンの制服を着た彼女が微笑んでいた。
「白薔薇さま」
名島麻奈。
手には銃が握られていた。
「私、グレイさまに会いました」
彼女は完全に満足した、まるで赤子のような表情で微笑んでいる。
「麻奈、さん」
「あなたは私と同じです。この汚れた地上を離れ、より高尚で美しい世界で生きるべき人なんです。この地上は穢れ
と間違いに満ちた腐敗した場所です。私と一緒にきてください。さあ」
「そんなこと…」
「あなたは神の御許へ行きたいのでしょう?そこには永遠と普遍があるんです。ここより美しい世界へ行きましょう」
「私は…」
「さあ」
そう言って彼女が手を伸ばす。そのとき、その背中から羽が生えてきた。本当に、鳥みたいに。
信じられない。まさか、そんな。
「神の世界は本当にあるのよ」
もし
もしそんなものがあるなら
私は…
羽を揺らしながら彼女が言った。
「私、天使になったの」
その笑顔は本当に幸福そうだった。
次の日、藤堂志摩子の姿はリリアンになかった。