桜の匂いがする。
桜の木の下に立って、私は自分の中にある、寂寥感について考える。
志摩子さんは、突然学校を休んだ。
昨日は、怪しい人達が校庭に来た。
今日は、その翌日。
志摩子さんはいない。
『藤堂志摩子の憧憬』
私は天に帰らなければいけない時が来たの。
そう言って消えてしまいそうな人だった。
本当に消えてしまった。
風の入らない校舎の中は冷気で満ち、廊下がたてる硬質の音は私を拒んでいるようだった。
廊下や教室のざわめきはゴシップで溢れ、本気の心配をするものもいれば……そうでないものもいる。
それはいい。
そんなことで傷つくほど、私は繊細ではない。
よくあることだ。傷つきはしない。
しかし確かに私は傷ついているのだ。打ちのめされている。弱っている。
志摩子さんは消えてしまったんだ。
不安にならない訳がない。
放課後は、薔薇の館には行かない。
小寓寺に行く。
小寓寺を訪ねると、住職はげっそりとやつれていた。
玄関にはかすかな異臭がした。
住職の疲れが建物に影響するかのように、寺はくたびれ、疲れていた。
前に来た時は、あんなに落ち着いて、美しく見えたのに。
今は、まるで長年打ち捨てられた廃寺のようだ。
その落差が悲しかった。
お堂へ通され、お茶を出される。
「乃梨子ちゃんは、H寺を知ってるかな」
「ええ、知っています。○○宗の総本山ですよね」
「あそこが今、もめていてなあ」
お茶を飲む。
言葉がなくなると、お堂はしんと静かになる。
それは私に、湖に小さな石を投げ込むことを想像させた。早朝の霞がかった静かで鏡のような湖面。
「もともとは、一人の詐欺師のような男が、教団に近づいたのが原因だった」
住職が喋ると、湖面には石が投げ込まれる。
波紋。
「あそこは世襲だからなあ、開祖の血を引く者でないと寺を継げない。だから揉める。
本来、血は関係がないのだがなあ。一族や檀家を無視して寺を経営し、手形を乱発し、
最終的には分裂した。なにぶん、片方には詐欺師のせいでヤクザが寄って来る。
大物が動く、寺の土地というのは広大で価値があるもんだ。いくつもが勝手に抵当に入り、売られた」
まるで寺の縁起を語るように、住職はことの成り行きを語る。
「幾つもの寺に署名が送られ、正当を認めろと脅しの手紙が来た。署名しなければ只ではすまさないと。
なんだかんだ言って、坊主も人の子だからなあ。皆、ヤクザが怖い。しかしね、詐欺師やヤクザが背景
についた方を正当とは認められんよ。もう一方のほうが言ってきたならともかく、ここで信仰を曲げること
はできなんだ」
住職がまた、茶を飲む。朝の湖面の静寂。
「しかし、志摩子は攫われた」
何気ない風に、しかし、今日も寒いなあ、と言う時のように住職は言った。
この人は本当に大人で、宗教家なのだと私は思った。
「まあ、いろいろと迷ったが、警察や…まあ寺というのは大きなものだから、そういう知り合いもいる。
檀家には色んな人やツテがあるからなあ。余り、好きではないんだが、ちゃんと大人のやり方で
手を回しているから、乃梨子ちゃんは心配しなくていい。そういう仕事をする人間がいる」
「そういう仕事?」
「ああいう仕事をなんと言うのか知らないが、話をつけてくれるそうだ。志摩子を取り戻す為に」
「お金がかかるのでしょう」
「安いものだ。志摩子に比べれば」
私は何も言わずにお茶を飲む。
何から考えるべきなのだろう。
私に出来ることは、たぶん、何もない。
何一つ、ないと思う。
「志摩子が帰ってきたら、支えになってやってくれ。あの子は、良くないものに惹かれる」
「良くないもの?」
「わしがこういう事を言うのは、問題があるのかも知れないが、あれでは物の怪に憑かれるのと同じだ。
志摩子の信仰心は、今のところ、まあ、わしが仏教だからかも知れないということを念頭において聞いて
ほしいんだが、間違っている」
「間違った信仰心?」
「志摩子の心には、人がいない。いるのに、離れようとしている。己の為に。ただ単に世俗が嫌で山に篭る
ような修行者は宗教家ではない、と私は思うんだがなあ。山に篭るのは己を見つめ直し、また世俗に帰って
くるための筈、とまあ、そういう話なんだがね」
「でも、私には、何も」
「出来ることはある」
お茶を飲む。
湖。
出来ることはある?
やはり、あるのだろうか?
ふと思う。
私は、志摩子さんから逃げようとしていた?
「志摩子は今回のことでより傷つき、より人を嫌うかもしれん。その時に支えられるのは、残念ながら、私では
ない」
「私だと?」
「そうだ。他にはいない」
またお茶を飲み、住職は強く、私の心に言った。
「志摩子の物の怪を払ってやってくれ」
家へ帰る道は、もううす暗くなっていた。
志摩子さん。
志摩子さんの心。
夕焼けが石段を赤く染める。
境内の森から鳥の声が届く。
私の影は長く階段の下へと伸びていく。
胸が締め付けられるような感覚は、私が不安に思っているからなのだろうか。
そして長く伸びた私の影の先から、突然人が現れたように、そこに人が立っていた。
長い長い階段の真ん中、私を見上げる、スーツ姿の女の子。
顔は影になって見えない。
「二条乃梨子さんだね」
風が強く吹いたときのような、微かで自然な音が耳に届く。
夕焼けの世界で、その小さな人は、やけに不気味に見えた。
私はその人のところまで階段を降りていく。
「藤堂志摩子さんを助ける協力をしてくれないか」
「志摩子さんを助ける?」
「彼女を物理的に取り戻す算段は、ある程度つけたけど、彼女はこのままでは、心を無くしてしまう」
「どういうことですか?」
「僕にも良くは分からない。でも彼女は、この世界を嫌悪している。これでは取り戻せない」
「あなたは、何者ですか」
「小寓寺の依頼を受けた、まあ、始末屋だね。藤堂志摩子奪還の依頼を受けている」
ようやく、私はこの人と並ぶ、私より背が低い。
「それで、藤堂志摩子の奪還を手伝ってくれないか?」
私が何か言おうとするのを、さえぎってこの人は喋り出す。
「これはとても危険なことだ。簡単に人が死ぬ。君を連れて行くことで、藤堂志摩子が奪還できるかどうかは
分からない。それなのに、君は死ぬかもしれない。最悪、君は死んだ上に藤堂志摩子を奪還できない場合
もありうるんだ。メリットは何もない。君がこの協力に金銭を求めるなら、いくばくか支払ってもいい。しかし、
君が生きて帰れる保証はないんだ。どうする?」
「そこまで言われて、協力する人は普通いません」
「僕もそう思う」
「でも、私は普通じゃありません」
そう言って笑う私を、何故かその人は目を細めて見ていた。まるで眩しいみたいに。
渡された名刺には、中松建設相談役 佐原砂狼と書かれている。
「中松建設?」
「建築会社はもめやすいから、特別な相談役がいるんだよ」
車は空いている道を泳ぐように走っている。
「僕は馬のたてがみ好きなんだよね。刺身なんだけど、生レバーも好きなんだ。生物の、そのままの味が
好きなんだろうね。日本食ってそういう意味では肌に合うんだろうな。ところで君、運転できる?」
そう言ってサワラさんはいちごムースのポッキーを出してくわえた。
「まあ、まっすぐだから、すぐ終わるから」
そう言ってサワラさんは運転席の窓を開け、天井のへりを持って、逆上がりの容量で天井へ上がった。
流れるような自然な動作だった。
私は助手席に取り残される。車は進んでいる。天井から気の抜けた、パン、という音が三回ぐらい聞こえた。
カーブにさしかかる。運転しなきゃ、と思ったときには、また鉄棒の要領でサワラさんが運転席に戻ってきた。
ハンドルを切りながら、くわえていたポッキーの持ち手の部分を窓へ吐き捨てる。ぷっ。
「讃岐うどん好きなんだよ。讃岐うどん知ってる?釜玉うどんとか」
いま、うどんの話をするのが正しい選択なのか判断に苦しむ。
でも仕方ない。他にどんな話題を私から返せばいいと言うんだ?
「知りません」
「讃岐では、うどんに醤油だけかけて食べるんだよ。生醤油うどん。あったかい奴に卵落として醤油かけたら
釜玉なんだよ。うまいんだこれが。讃岐だけ、他のところと小麦のブレンドが違うんだよね。結局、素材だ
けの美味しさっていうのが僕は一番好きだな。うどんをうどんとして食べる。醤油だけ。潔くて、シンプル
だ。あ、ちょっと行ってくる」
そう言ってまた天井にあがり、乾いた音を立てて、カーブに差し掛かる前に戻ってくる。
前と違うのは、ポッキーのイチゴムースがついている部分がまだ残っていることだ。
サワラさんはそれを手を使わずに器用にカリカリと食べて、ムースのない持ち手の部分だけになると、
それをぷっ、と窓から吐き捨てた。
そしてまた食べ物の話をする。
三回ぐらいそれを繰り返した。
いい加減、私も慣れてきて、まあ、こういう日常もあるのかな、と思うことになった。本当に慣れてしまうのだ。
天井で何してるのかとか、乾いた音は銃声かとか、運転しなければ事故ってしまうとか、そんなことは気になら
なくなってしまう。本当に気にならなくなるのだ。
後ろの方で何かが炎上しても、知ったことではない。
車は軽快に、H寺へ向かっていた。
「白薔薇さま、この世界は醜くて汚れているんです。いいですか、もしも私達が真に慈悲深いなら、私達がCDや
本やテレビゲームや高価な服を買うお金を募金すればいいんです。そうすれば貧困に苦しむ子供達の命は助
かるんです。私達がそういうものを買うことで、彼らを殺しているんです。だってそれは、本来必要ないものなん
ですから、私達は、確かに彼らを殺しているんです」
と彼女は言った。
でも名島さん、この世界は、どうしようもなくタフでハードなのよ。全てを投げうって他人の為にお金を使わなければ
汚れていると思うのは、あなたが繊細だからに過ぎないのよ。
などとは、私は言わない。
「皆、偽善なんです、本当の慈悲深さや、優しさなんてないんです。エゴなんです。全て」
何が優しくて、何が慈悲深さなのかを決めるのは、人間に過ぎないのよ。だから、本当の慈悲深さ、なんてあなた
一人の定義で決めるものではないわ。それに、エゴは悪いことではないの。
と、私は心の中でだけ言う。口は、別のことを言う。
「ねえ、あなたは、自分が本当の慈悲深さや、優しさを手に入れられないのが悲しいのね?」
「ええ、かつては、そうだったのかもしれません」
「かつて?」
「今の私は、天使ですから」
充足した表情。私は不気味に思う。この自信はどこから来るんだ。
さっきまでの未成熟な主張は、私にも経験があるし、理解できる。
でも、彼女のこの自信だけは、理解できない。
それが、恐ろしい。
私はいま、H寺の近くに建てられた奇妙な、研究施設のようなものの中にいる。
コンクリートの四角い建物で、レンガブロックのように見える。
地下二階と地上の三階建てで、地下には用途不明の機械がびっしりとある。
一階は比較的まともな応接室やトイレや、展示などがある。
地下一階は居住スペースではあるものの、機械のコードが辺り一面を這いまわっている。
私達は二人は、廊下の途中にある休憩スペースのようなところのソファに座り、自動販売機の光に
照らされながら話をしていた。金網みたいな床に置かれたソファ。金網の隙間から見えるのは、工場のような
巨大な機械。四角い金属のパイプやコードが連なる。黒く巨大な機械。地下一階は、こういう金網的な
廊下や壁が多い。だから地下二階の機械は丸見えだ。そこで、二人で話をする。
信仰心や、この世界の話。
そんな話が出来る知り合いは、今まで、一人もいなかった。
そんな話をしたら、引かれてしまうから。
乃梨子にも、したことがない。
引かれるのが怖かったから。
地上の話を離れ、天上の話をしている。
私は、ここを、居心地よく思っているのかも知れない。
名島さんは極端だけれど、口に出すことが出来ない、生の感情のようなものを、まるで…
私の代わりに言ってくれているみたいに感じた。
安定している、私。
「元気にやっているみてえだな」
赤い髪に青い目をした男の人が来た。
「グレイさま!」
名島さんはそう言って男に飛びつく。
「おいおい、やめねえか。なにすんだ」
「だって、グレイさまが好きなんだもの」
「うっとうし〜ったらないぜ」
こういうシーンを何度か見かけた。その度に、何か違和感を覚えた。
グレイという人の声は、アニメ声優みたいな声で、見た目も、なんだかアニメキャラみたいだった。
人間味がない。気がする。
「カバネのやろーが呼んでるぜ」
私達は立ち上がり、休憩場所を後にした。
車は寺の前の石段に止め、階段を上がっていく。
「僕から離れるな」
とサワラさんは言って、私をぴったりと寄り添わせた。
「行け!!」
サワラさんが声をかけた瞬間、どこに隠れていたのか、大量の武装した人たちが階段を駆け上がり始めた。
軍隊みたいな重々しい装備に、マグナムでも跳ね返しそうなジャケットを着ている。手には機関銃。
それが何十人も階段を上がっていくのだ。
バララララララ、となんだかドラムロールみたいな音が響く、次々と。
寺からも黒服の男たちが銃を抜いて現れていた。
「さて、僕達も行こう、離れてはいけないよ」
サワラさんは階段を私と一緒にあがっていく。
銃声、怒号、血を出しながら倒れた人が階段を転がり落ちていく。
登りきる頃には、辺りはすっかり異臭に包まれていた。
制圧しました、制圧しました、という声がサワラさんに向って叫ばれる。
「突入!」
寺の中へと、まるで軍隊のような人々が駆け込んでいく。
なんなんだろうか、この人たちは。
私の現実感は、どんどん失われていく。
一方で、ぞっとするほどの現実感が迫ってもくる。
それは、死の匂いだ。
私の目の前には、死体が転がっている。
見開かれた目。額にはまるで冗談のように穴が開いている。滑稽でさえある。
でもそこには、確かな死があった。これはさっきまで動いていた人なのに…
さっきまで動いていたんだ。
馬鹿みたいに、同じことを思う。
だって、さっきまで動いていた。
動いてたんだ。
生きていた。
でも、もう動かない。
カバネとその人は呼ばれていた。
左耳に補聴器をつけて、眼鏡をかけた、20代みたいに見える人だ。本当はもっと年をとっているらしい。
「藤堂さん、決心はついたかな」
決心…
「決心ですか」
「そうだ。天使になる、決心だよ」
「天使に…」
攫われた日に、天使にならないかと聞かれた。
天使になるというのがどういうことなのか、名島さんは私に必死に説明してくれた。
でも、私にはよく分からなかった。
本当に、分からない。
「天使になればね、雑事に煩わされることがなくなる。不安感が消える。なぜならね、普遍なものになるからだよ」
普遍。
このカバネというひとは、どことなく、神を信じる科学者を思わせた。
「この世界で価値があるのは、普遍的なものだけだ。つまり、科学とかだな。文学は下らない。真理や、普遍とは
ほど遠い。ニュートンは未だに概ねに置いて正しい、マクロのまっとうな世界では。文学はどうだ。最初から人そ
れぞれとしかいいようのない話しかしない。普遍性はない。ニュートンは千年経っても正しいだろう。文学は、最初
から正しくは無い。普遍性はない。科学だけが、真理だ」
カバネさんは、不愉快そうな顔をした。間違えてたくさんのわさびを口に含んだみたいに。
「少し、話がずれた。天使は、性欲や食欲や睡眠欲がない。そんな矮小な雑事に関わらない。年を取らない。
君はいま、不老不死の扉を開けようとしているんだ」
「わかりません」
「君は、この雑多で混沌とした地上を離れたいんじゃないのかな。天使に不安はない。人が富や名声を求める
のは、安心したいからだ。天使は、最大の幸福そのものなんだ」
名島さんの、満ち足りた表情。
しかし、私は思うのだ。今の名島さんの人間味のなさが、何から来ているのかを。
なくしていいのだろうか、そういう、葛藤や欲望を。
キリスト教は、欲を否定する。
私はまさしく、そういう人間味を否定したかったのだ。
しかし…
ドーム状の機械の一部が開く、人が入るスペースがある。
「入りたまえ、君は天使に生まれ変わる」
突入隊の上半身が空中を滑っていった。
表情のない男の、腕の一振り。
機関銃が男に降り注ぎ、網戸みたいに穴だらけになって倒れる。
そのコンクリートの建物に突入隊は殺到し、応接室を蹴破る。
シュウウウ、という音が穴だらけになった筈の男からしていた。
目の前で、手品のように、穴が塞がっていく。
そして腕がふられて、突入隊の上半身はソフトボールみたいに空中を滑っていくのだ。
「シリアルクリーチャー……」
驚いたようにサワラさんは呟き、スーツの上着を男になげつけた。上着のポケットに入っていた何かのピンを抜い
ていたのは見逃さなかった。
爆発が起きて、男が足だけになった。サワラさんは命令して、念のためにその足を蜂の巣にした。
吐き気がする。
さっきからずっとだ。
もう、嫌だ。
泣き出したい。
逃げたい。
でも志摩子さんのためだもの!!
「まずいな…」
黒いズボンに薄い黄色のワイシャツ、赤いネクタイに、銃を入れるためのホルダーが両肩にかかっている。
なるほど、スーツの下はそうなっていたのか。
サワラさんが銃を抜く。なぜか、銃はブウウウンという重低音を放ちながら、うっすらと青く光りはじめる。
コンクリートの壁がぶちやぶられて、男の人が着地するのとほぼ同時に、サワラさんは男の頭に狙いを
つけていた。
バギャン、という金属が捻じ曲がるような凄まじい音がして、銃から弾丸が射出された。発射された弾丸が
男の頭部をかんしゃく玉みたいに綺麗に破裂させる。反動でサワラさんの足は床に1センチぐらいめりこんだ。
「まだ来る!伏せろ!」
コンクリートの壁をやすやすと通過する弾丸が無数に通り過ぎていく、何人かの人たちが倒れた。
うっすらと見える、三つの人影。
バギャン、バギャン、バギャン。
パッパッパッと、現れた敵は破裂した。いい加減、頭が痛くなってくる。
「急ごう、まずいことになっている」
私達は地下へと降りていく。
地下は金網ばりで、下に大きな機械が見えた。そして、そこに志摩子さんがいた。
「志摩子さん!!」
聞こえていない。
「志摩子さん!!」
「どいて!」
サワラさんが思いっきり金網を蹴った、金網は大きく曲がってくの字にへこみ、間髪いれずに放たれたもう一回の
蹴りで剥がれ落ちた。
「捕まって!」
サワラさんが私を抱えて飛び降りる。背後で突入隊の人が、ご武運を祈ります、と言いながら銃撃戦を繰り広げる
のが見えた。
着地と同時にサワラさんは私を放り投げ、赤い髪の男の人の体当たりをもろに受けた。
ボーリングの玉みたいにサワラさんが床を転がっていく。
頭上では突入隊の人たちが戦闘を続けている。あの、化け物みたいな男たちと。
「二条さん……」
二条さん?なんでそんな他人行儀なの?
「志摩子さん!」
見たことのない人が私と志摩子さんの間に割って入った。
「邪魔しないで」
「邪魔?」
「志摩子さんは天使になるの、この醜い地上をようやく離れられるのよ」
「志摩子さん?」
何故か、志摩子さんは私に目をあわせずに俯いた。
「どういうこと?」
「ごめんなさい」
ごめんなさい?
何を言っているんだ?
ごめんなさい?
「なんで謝るの?」
「私は、うううん、言い訳しても仕方ないわ。私が悪いの」
私は、こういう状況になって、怖かったし、嫌だったし、不安になったし、悲しくもなった。
でも、怒りを感じたことはなかった。
いま、はじめて、はっきりとした怒りを感じた。
「志摩子さん、私が聞きたい言葉はそんな言葉じゃないんだよ。私は、志摩子さんが悪いとか
そんな話はどうでもいいんだよ、なんで、私達のところに帰ってこないの」
「ごめんなさ…」
「謝るな!!!」
思ったよりも、ずっと激しい口調になった。構うものか。
「謝罪が聞きたいように見えるの!?私が!?私がどういう想いでここまで来たのか分かる!?志摩子さん!
私は、人間の内臓が腹からこぼれるのまで見たわ!?それでも文句一つ言わなかった!誰のためだと
思う!?志摩子さんだよ、志摩子さんのためなんだよ!?ご め ん な さ い?謝るぐらいだったら、こっちへ
帰ってきてよ!!本当に悪いと思うなら、こっちへ帰ってきてよ!!」
かなり、久しぶりに本当に頭にきていた。見たことない女が口を挟む。
「自分が苦労したからといって、無理に志摩子さんの想いを曲げようとするなんて、どれだけ恥知らずな女なの
あなたは!!志摩子さんのことを本当に想うなら、志摩子さんの思うようにさせてあげるべきでしょう!」
「志摩子さんのことを本当に思っているから止めているのよ!姉妹の問題に口を出さないで!」
「あなたのやっていることはエゴの押し付けだわ!!」
バギャン。
バギャン?
振り向くと赤い髪の男が、腹に穴を開けていた。サワラさんはずっと戦っていたのだ。
「乃梨子ちゃんに賛成、賛成二票、動議採択」
バギャンバギャンバギャン
赤い髪の男の人が原形を無くした。
「グレイさま!」
女の姿が消えた。銃が床を転がっていく。サワラさんの左腕が大きくさけて、高々と血しぶきをあげた。
女の銃がサワラさんの右腕も打ち抜いた。
なおも追いすがる女の腹部に、サワラさんが渾身の蹴りを入れて吹き飛ばす。だが、女にダメージはないようだ。
「油断したな、サワラ、まあ、予想通りだが」
「カバネ・ヨウソだな」
「ご明察」
「お前のやっていることは我々の規約に大きく違反している、違反者には、とても厳しい罰が与えられる」
「両腕もつかえず、何を言うかと思えば…お前は女を使えば、勘も鈍る。一般人であれば、尚更。罠にかかった
気分はどうかな」
「帰って一杯飲みたい気分だ」
「残念ながら、それは無理だな」
「カバネ、この簡易のシリアルクリーチャー製造機なんかで、何か出来るとでも思っているのか」
「これは、人を天使にする機械だ。天使を率いるのは、神。私はここで、神になる」
「馬鹿が」
「名島さん、こいつを片付けてくれ。その間に、志摩子さんは天使になるから」
「分かりました!」
サワラさんが物凄い速さで逃げていく。名島さんが追っていった。
「志摩子さん、本気で、こんなわけの分からないものに縋ってしまう気なの」
「それは…」
「おいおい、君、失敬だな。これは、人をより進化した人類に生まれ変わらせるんだ。そこでは人は老いず、
死なず、自分を振り回す欲望も持たず悩まない。至福の千年王国が待っているんだよ。この世界は雑多
過ぎる。人々は欲望のままに生きて傷つけあい、エゴを押し付け合い、普遍にもなれずに死んでいく。
余りにも不完全で醜い。くだらなすぎるんだよ。人はもっと、高次の存在になるべきだ」
「志摩子さん、本気で、そんなことを思ってるの…」
声が震えた。志摩子さんは答えない。
「志摩子さん!!!!」
弱弱しく、志摩子さんは私を見る。
「私は、安心したいだけなの。私は自分の欲望の醜さが耐え難いし、このエゴに満ちた世界の不純さ
にも耐えられない。普遍的で美しい神の世界に憧れていたの、ずっと」
「そんなの間違ってる!!」
「でももう、耐えられないのよ」
「耐えられてる奴なんかいるか!!!」
絶叫した。
「みんな耐え切れないけどなんとかやってるんだ!欲望ももてずにエゴもないような奴に、この世界の何が
分かるっていうのよ!!死ぬこともできないような奴に、世界を語る資格なんかない!!志摩子さんが言う
ようなことだって、当たってる面はあると思う。でも人間はそこから逃げちゃ駄目なんだ。この醜くて雑多で
不純な世界が、私達の世界なんだよ!志摩子さんは、この世界の温かさに触れたはずでしょう?忘れて
しまったの?この世界が志摩子さんに与えてくれたものを。それとも、志摩子さんには、この世界は何も
与えてくれなかったっていうの?」
「それは…」
カバネという男が志摩子さんの手を引く。
「急ごう。いいか、そんなものは一瞬の気の迷いだ。こっちにあるのは、永遠だ。普遍の世界だ。どんな場合
でも、時間を超えて残ったものが正しい。永遠で、普遍的なものだけが正しいんだ」
「反対一票、動議不採択」
カバネの腕が宙を舞った。ボーイソプラノが絶叫する。
「人間の人生が普遍的でたまるか!!!!」
足で引き金を引いて見せたのだ。何て奴なのか。
「藤堂さん、人間の人生は一回しかないんだ。人間の根本は普遍性じゃない。一回性なんだ。人間は一度しかな
い自分の人生の一回性に全てをかけるしかないんだ!人の人生は普遍的ではない!!科学の普遍性や正当
性は人生観にはなりえないんだ!e=mc二乗を人生訓になんか出来はしないんだよ!文学は間違っている
かも知れないし不完全かも知れない。でもいつだって人間の人生は間違っているし不完全なんだ!論理性
や普遍性とは異なる正しさが確かに存在する。そういう不完全な正しさを、それでも選択して責任を負って
いくしかないんだよ!!!」
片足をひきずる女が、サワラの背後に現れる。
「白薔薇さま!!間違えないで!!」
サワラも負けじと叫ぶ。
「人間がいるべきなのは、こっちだ!!この雑多な世界だ!! 藤堂さん!!君がいるべき世界はこっちなんだ!!」
サワラと女が乱闘になる。
志摩子さんは迷っている。
カバネが残った手で志摩子さんを促そうとする。
「志摩子さん!!!」
何を言えばいい。
何をすればいい。
私、志摩子さんにこっちに残っていて欲しいよ。
天使になんかならないでよ。
ねえ、志摩子さん。
こっち向いてよ。
私は。
あらん限りの力で叫ぶ。
「ずっとずっと志摩子さんのこと愛してる!!!!」
手を伸ばす。
「だからこっちへ来て!!!志摩子さん!!!!!!!!!」
愛してる。愛してる。愛してる。
叫び続ける私。みっともなくたっていい。
そしてようやく、彼女は私の名を呼ぶのだ。
深く閉ざされた秘密の扉が開くように。
「乃梨子!!!」
志摩子さんがカバネを突き飛ばして走ってくる。
私達の世界に向って。
泣きじゃくりながら私の胸に飛び込んできた志摩子さんは、鼻水まで出てて、まさしく人間の顔をしていた。
カバネの腕が吹っ飛んだ。
「ようやく、腕があがるようになってきたよ」
とサワラさんは銃をカバネに向けながら言った。
「や、やめろ」
「お前も普遍の世界の仲間入りをさせてやる」
バギャン。
「ついでだ」
今まで抜かなかった、両肩に下がっていたうちの、もう片方のホルダーに入っていた銃を機械に向けて打った。
ドン、という爆発音。
ドーム状の機械が爆炎をあげながら吹き飛んだ。ハリウッド映画のラストみたいだ。
そしてそのまま、流れるように銃を彼女に向ける。
「え?」
バギャン。
名島さんの頭がなくなった。
「名島さん!!」
志摩子さんが悲鳴をあげる。
「彼女はもう、人間ではなかった。あれは、いてはいけないものだ」
志摩子さんがサワラさんの頬を思いっきり打った。
「彼女は、人間でした」
サワラさんは答えなかった。
名島さんの葬儀が終わると、全ては元通りになっていた。
私の悪い噂もなくなった。小寓寺の檀家は生徒にも多いのだ。
事情がわかってしまえば、噂は消える。
乃梨子とは、前よりも、もっと親密になれた気がする。
私は私の未熟な信仰心を語ると、乃梨子は、「志摩子さんのお父さんに言われたんだけど」
と言って「神の世界に近づくために修行するのは、いつか人の世界に降りて衆生を救うための筈だって」
と説明してくれた。
お父様は言わなかったけれど、私のことを見抜いていたのだわ。
「志摩子さんに憑いたものを、祓ってくれって」
「そうなの?」
「祓えたかな?」
「ふふふ」
乃梨子は私の不安を、綺麗に祓ってくれたわ。本当よ。あなたのお陰で、私は人の世界で生きていける。
言わないけれどね。
名島さんの遺品に、姉妹がいない筈の、彼女のロザリオがあった。
白薔薇さまへ。と書かれていた。
私が天使になったら、渡す気だったのだろうか?同学年なのに。
親族の人々は、それを私にくれた、断れる訳がなかった。
部屋でそれを見る。
この世界は、残酷で厳しい。
それが残酷に見えるうちは、特に。
私は私に従って、生きるしかない。
完全に誰かに受け入れられることや、完全な正義や、完全な何かを求めている間は、大人になれない。
私は世界に慣れていく。
だから私は。
そのロザリオの鎖を引きちぎり、かつての未熟な信仰心と共にごみ箱に捨てた。
胸に微かに痛みがよぎり、そして、消えた。
了