一年間続けた部活を辞めることは、死ぬことに似ている。
私はイタリアに行こうという確かな想いがあり、それは、成功するのか失敗するのか分からない危険を
孕んだ、無謀なことなのかも知れなかった。
私は、合唱部を辞める。イタリアに行くから。行こうと思っているから。
だから、それで、いい。
『退部届』
私の退部届を受け取って先生は言った。
「静さん、辞めなくても良いんじゃない?イタリアに行くにしても、ギリギリまで合唱部でいいじゃない」
「私は、辞めるつもりの場所にずるずる居るのは、潔くない、と思ったんです」
「潔い?私はそういうの、潔いとは思わないな。歌えばいいじゃない。ここで。私の指導は、全く受ける価値が
ない?」
「それは…」
「もう少し考えなさい」
私はそんな風にして退部届をつき返された。
きっと明日になれば、私が退部届を出したことは広まっているだろう。
お世話になった三年の先輩や、後輩達は、私をどう思うのだろう。
だが、先生だって仕事なんだ。私が退部することを、担任や生活指導や、色んな人間に言わなければ
ならないだろう。それが仕事だ。仕方のないことだ。
私が退部届を出して、それをつき返したことを秘密にする意味なんてない。
ただ単に、私が余りそれを周囲に知られたくない、それだけの我侭なのだ。
好奇の眼に耐えなくてはならない。
私が、裏切ったのだから。
次の日、担任は何も知らなかった。何も変わらなかった。
何故なのか。
生徒の挙動に変わったところがあれば報告する、それは仕事だ。それをしないのは正しい教師ではない。
それなのに、どうして誰も私が届けを出したことを知らないのか?
確かに、私がやはり退部をやめて、ぎりぎりまで部に残ります、と気が変わったとき、退部を出したことを
周囲が知っていれば、やはり私は生き難いと思う。でも、気が変わるとは限らないじゃないか。
思わず私は顧問に聞いていた。
「何故、誰も私の退部を知らないんですか」
彼女は答えた。
「言ってほしくなさそうだったから」
私は黙って、彼女の言葉の意味を考えた。分からなかった。
でも、私は深く深く頭を下げていた。
「ねえ、静さん、どうして、イタリアに行くからって、今、辞めようと思ったの?結局は?」
三年生からのプレッシャー、歌姫という重圧、空しさ、後輩の指導。
全てが面倒で、また、望まれたからには応えなければならなかった。
どうせイタリアに行くのに、そう思いもした。
それを、私は少しづつ言葉にする。
顧問は、ただ静かにそれを聞いていた。
「私は、間違っていますか?」
「いいえ」
「私は、技術が…人を惹きつける歌を歌い評価されるのが、全てだと思ってはいます。しかしその上で、先輩方
の期待に応え、なおかつ後輩を指導するのは、繊細ではつとまりません。私では、つとまらなかった」
「繊細じゃない人間なんて、どこも求めてはいないわ。人の痛みが分からない人間はいらない。人の痛みがわ
からない人間が、どうして綺麗な歌を歌える訳があるの?みんな、つとまらないと思うようなことをつとめてき
たのよ」
先生は、鞄の中から白い錠剤を出した。
「今まで、誰にも言ったことがないから、秘密にしてね。精神安定剤と、睡眠薬なの」
「そんな…胃薬とかじゃないんですか?」
「うううん、私は、弱い人間だから。人間は、みんな弱いわ。あなただけじゃない。でも、弱くて繊細な人間でな
ければ、意味がないのよ。他人をふみにじって平気な人間では、意味がないの。私の言っていること、わか
る?」
「はい…」
「必要なのはね、繊細さなのよ。それが一番、求められているの」
「私は、届けを出すことで、指導してくれた先輩に泥を塗り、伝統ある合唱部を裏切りました。それは私の弱さ
や、繊細さのせいだと、思うんです。自分が楽になるために、人に迷惑をかけています」
「あなたは、意志表示してくれたじゃない。届けも出さずに部に来なくなるより、ずっといい。泥を塗ったとか、
そんなことを思う必要はまったくないの。あなたが本気でした意志表示が、悪い訳ないじゃない。それは
あなたが本気である証なの。まったく、悪く思う必要はないわ。褒めてあげたいくらいよ」
私はもう、何も言うことはなかった。
手の甲に突如雫が落ちた。それは、私の涙だった。
私は彼女を見ながら思う。
ねえ、もしもあなたが私の退部を色んな人に報告したとしても、私は決してあなたを責めなかったと思う。
でも、あなたがそれを誰にも言わずに、秘密にしてくれたことを、私は一生忘れない。
それは、他の誰でも出来はしなかった。そんなことをするのは、あなたぐらいです。
それって、奇跡みたいなものだと思う。
私はきっと、あなたのことを一生忘れない。
結局、その後もイタリアに移るギリギリまで、私は合唱部に居た。
そして私はイタリアに行くために退部したとき、ああ、私は確かに死んだのだな、と思った。
私は退部届を出したときも、自分は死んだと思った、全てを裏切ったと思った。
その後の合唱部でも、私は自分が一度死んだ人間だと思っていた。
でも、いま、確かに本当に死んだのだ。ようやく。古い私が。
合唱部に残らずにイタリアに行くことで、私はあなたを悲しませたでしょうか。
イタリアで、私に何が出来るかは分からない。
でも、私の中には、確かな人のぬくもりが存在している。
それは、きっと、あなたがくれたもの。
私は、恩師というのが、どういうものを指すのか、初めて分かった気がしていた。
了