いつか遠く離れてしまうことについて考えるのは、少しだけ死ぬことなのかも知れない。
離れ離れになってしまうことを、私は考えることができません。
苦しいです。
お姉さま。
『メリーゴーランドに乗って』
ミルクホールには誰もいなかった。
寂しげで寒く、もうすぐ、秋になろうとしていた。
缶入り汁粉の季節が近づいている。
そして幾つかの冷たい飲み物は自販機から消え、代わりにコーンポタージュや缶入り汁粉がやってくる。
時は奪う、容赦なく。
私から、お姉さまも奪ってしまうのだろうか?
どうしたらいいか分からない。
誰にも。
「ねえ、知ってる?」
と桂さんが誰かに言ってるのを聞いた。
何を?と聞かざるをえない聞き方だった。
「あそこに、大きな塔があって、いま、立ち入り禁止になっているでしょう?」
それは、この街に建築され廃棄された、電波の中継施設のことだった。
「あそこ、土地になんか幽霊みたいなのがいて、それで廃棄されたらしいのよ」
よくある幽霊話。
「で、その幽霊、願いごとをかなえてくれるんだって」
「うそー」
「だって、藤組の…」
よくあるゴシップ。だれそれが細くなったのは願いをかなえてもらったからだと言ってたとか、そういうの。
もしも願いがかなうなら、私は。
お姉さまとずっと一緒にいたい。
でもそれは、夢に過ぎない。
時は奪う、容赦なく。
薔薇の館では、お姉さまが憤慨していた。
「まったく、リリアンの生徒ともあろうものが、立ち入り禁止の鉄塔に入ろうとするなんて」
「あ〜、噂が広まってるからね〜」
とレイさまは軽く応じる。
「馬鹿馬鹿しい、幽霊が願いごとをかなえるだなんて。それに、願いなら自分の力でかなえたらいいのよ」
とお姉さまは言う。
でも。
私の力で、お姉さまとずっと一緒にいることなんてできない。
人には、自分の力ではできない望みもあるんですよ、お姉さま。
「でも、幽霊に会えたら素敵ですね」
とシマコさんが微笑みながら言う。
「ええ〜?怖いよう、そんなの」
「大丈夫!ユミさんは私が守ってあげる!」
と何故かヨシノさんが自信満々に言った。
「ど、どうやって?」
「こう見えても剣道部なんだから!」
あんまり関係ないような気がしたが、あえて何も言わないことにした。
「でも、願いがかなうなら、何を願いますか?」
とノリコちゃんが言った。
もしも、願いが、かなうなら。
本当に、かなうならいいのに。
本当に。
桂さんがいなくなったのはその日の晩だった。
翌日、私は桂さんが登校していないことから、そのことを知った。
家にも帰らず、桂さんはどこへ行ったのだろう。
願いを叶える鉄塔。
まさか。
事態を上手く飲み込めないまま、時間は過ぎた。
桂さんは、願いが叶うと信じて鉄塔に行った。
正確には、確かめに行って、そして…
あり得ないとは言えない。
桂さんのことを考えていたら、授業は終わっていた。
時間ばかりが、過ぎていく。
放課後に道を歩きながら、桂さんのことを考えた。
桂さんは、どんな願いを叶えたかったんだろう。
桂さんは、やっぱり、あそこに。
バス停まで歩いていく。
不意に途中で呼び止められた。
「あなたは、この辺、詳しいですか?」
背の高い、金色の髪をした、外国の人だった。
スーツをして、何故か手袋をしていた。
緑色の眼をしていて、それがとても不思議だな、と思ったけど、そんなことは聞けない。
どうしてあなたは緑色の眼をしてるんですか?
そんなことを聞かれても困るだろうし、もしかしたら、とても失礼なことかもしれないから。
「そんなには、詳しくないです」
「電波塔って、知らないですか」
と完全な日本語でその人は言った。
電波塔というのは、いま、願いがかなうといわれている場所に立つ鉄塔の通称だった。
場所は、知っている。
私の夢が、現実的には、叶う望みがないなら。
本当に願いがかなうなら。
そう思うと、場所を調べずにはいられなかった。
「知っています」
と私は答えていた。
歩きながらしばらくその人と談笑した。
案内してくれと言われて、何故か、私は案内する気になっていた。
緑色の眼のせいかもしれない。
「日本語、お上手ですね」
「ええ、色んな国に行きますからね。日本語もまた、必要になることがあります」
「何をされているんですか?」
「貿易、ですね。君は、ハイスクールなんですね。懐かしいとしかいい様がない」
「ハイスクールに通っていた頃がですか?」
「そう、もう、ジュラ紀かそれぐらいの頃の話です」
そういってこの人がにこりと笑うと、なんだか周囲がはなやいで見えるのだ。
相当に格好良かったし、明るい雰囲気があった。
「ハイスクールの周りではブロントサウルスが歩いてましたよ」
「知ってる人に、恐竜好きな人がいますから、見た話をしたら、きっと喜びますね」
「女の子で?」
「いえ、先輩の想い人です」
「女の子で?」
そう言って微笑んだが、リリアンではなんだか洒落になってない気もする。
「いえ、男の人です」
「なあんだ」
そして私は、ふと、気づいてしまう。
この人が手袋をしている理由に。
指が欠損しているのだ。この人は。
左手の薬指。
複雑な感情が、一瞬、おきて、おさまった。
それについては、考えないようにしよう。
そういうものだ。
電波塔は、花が落ちそうになっている向日葵に似ている。
不気味な位置のパラボラアンテナ。
鉄板のつぎはぎ。
飛び出ている鉄棒。
意図不明なデザインになっている。
周囲は剥き出しの地面で囲まれ、有刺鉄線で誰も塔の周辺には入れなくなっていた。
「ここです」
「おや?」
その人の視線の向こうに、女の子がいた。
桂さんだった。
塔の入り口を開けて、中へ入っていく。
「誰だろう、あの子は」
キリー(そう名乗った)さんは鉄条網をぐるりと周り、鍵のかかった鉄の扉の前に立った。
「入ろうか」
「え?」
キリーさんが左手で押すと、扉は開いた。
電波塔の敷地に入る。
なにかが切り替わるような、不思議な感覚がした。
剥き出しの土地の上を塔まで歩く。
いつの間にかキリーさんはいなかった。
私だけが塔の前に立っていた。
荒涼とした大地のただ中で。
塔と二人きりで。
中に入ってからは、全てが、ずれていった。
ここは、不吉な場所だと、私でもわかった。
桂さんを連れ戻さなければ、と何度も自分に言い聞かせないと、目的を忘れてしまいそうだった。
螺旋階段を私は上っている。
どこまでもどこまでも。
螺旋階段?
何で螺旋階段なんかがあるんだ?
何かがおかしい。
どうして、鉄塔にこんなに大きな螺旋階段が。
だいいち、いつの間に私は螺旋階段を上り始めたのだろうか。
私は扉を開ける。
扉?
ともかく扉を開けた。
そこは無数のコードが無造作に地面を這いまわり、スチール棚にバッテリーが並んでいた。
漏電しているのか、パチパチと音が聞こえる。
そしてその奥には桂さんが倒れていた。
私は足を踏み出す。
パチッ
「あら、あなた、タイが曲がっていてよ」
お姉さまがタイを直してくれる。
これは、一番最初に、お姉さまが私のタイを直してくれた時だ。
「あの、お姉さま」
「ふふふ、お姉さま?」
「ええ、祥子さまは、私のお姉さまです」
「祐巳、こっちへいらっしゃい」
祥子さまが抱きしめてくれる。暖かい。好きです。お姉さま。
「祐巳、どうして泣いてるの?」
「いつか、お姉さまと離れ離れになるからです」
「困った子ね」
お姉さまが頭を撫でてくれる。
パチッ
私は意識を取り戻す。
寝ていた?
立ったまま?
今のは?
奥では、桂さんが倒れている。
助けなければ。
助けなければ。
一歩、前へ出る。
パチッ
お姉さまが困った顔でハンバーガーを食べている。
なんだか可愛くて、嬉しくなってしまう。
「祐巳、何を笑っているの」
「いえ」
「世間知らずだと思っているのでしょう」
「あたりです」
「祐巳ったら!」
二人で笑いあう。
本当に、大好きです。
「ずっと一緒にいる方法があるわよ」
「え?」
パチッ
まただ、意識を失っている?
どっちが夢?
ここは、どこ。
桂さんが見える。
行かなきゃ。
せめて。
意識が。
足を踏み出す。
パチッ
祥子さまの部屋。
レースのカーテンが揺れている。
「祐巳、ずっとここにいて、そうすれば、ずっと二人でいられるわ」
「ここに?」
「そう」
祥子さまが抱きしめてくれる。祥子さまの香り。
私は、本当に、この人がいないと生きていけないんだ、と思った。
「人間は、時間を増殖することによってではなく、時間を際限なく分割することで永遠たりえる」
「祥子さま?」
「ねえ、祐巳、ここにずっといるって、誓って」
祥子さまが私のタイを外した。
「誓います」
誓わない理由なんてなかった。
まったく、なかった。
私は祥子さまが大好きで永遠に一緒にいたいんだ。
それ以外は何も望みはしない。
「でも、ここは偽者の世界だ。君の記憶を素材に再構成される世界に過ぎないんだよ」
と突然誰かが言った。キリーさんだった。
「ここの変な機能が残ってるから、僕はここを破壊しに来たんだ。君はもう、取り込まれてしまうよ」
「でも、じゃあ、本物の世界ってなんですか。そんなのあるんですか」
「君の言うようなことは、現実逃避なんじゃないかな。これは現実じゃない。明らかだ。
言葉遊びにすぎないだろう。君の言ってることは」
「でも私は、 祥子さまとずっと一緒にいたいんです」
「……も…君は…きっ……」
キリーさんの姿はとても遠くなっていた。
声も聞こえない。
どんどん遠くなる。
私と、祥子さまだけが残された。
この世界に。
二人だけの世界に。
美しいまま時は止まる。
毎日が楽しかった。
全ては思うとおりに過ぎた。
ここでは、時は何も奪わない。
同じ場所を回り続けるメリーゴーランド。
「祐巳、好きよ」
祥子さまが額にキスしてくれる。
「大好きです」
私は胸に顔をうずめる。
でも、もう気づいてしまっている。
この世界の全てが偽者であることに。
しかし、どうすることが出来るだろう。
私は満足なのだ。
こうして祥子さまと暮らしていく。
少しの寂しさを抱えて。
ずっとずっと、祥子さまと一緒だった。
時は流れた。主観的な意味では。
楽しい日々。
終わりの足音は、突然に響いた。
私達の部屋に、キリーさんが居た。
「苦労した」
とだけキリーさんは言った。
「君の意識に再接続したけど、少し手間がかかった。君がどうしても帰らないというなら、仕方ないとは思う」
キリーさんは左手の手袋を外した。
そこに、やはり薬指はなかった。
「僕が薬指をなくした時、恋人は自殺した。森の奥で首を吊ってね。全ては二度と戻ってこなかった。
それでも、僕はこの施設のこういう機能で彼女を蘇らせようとは全く思わない。何でか分かるかい?」
私は首を振る。
「それでは、どこにも辿りつけないんだ。それで、言わせてもらうけど、君がここにいることで、現実の君の大好きな
祥子さまは、とてもとても傷つくことになるんじゃないのか?君はまだ、何も失ってはいないじゃないか。ここでこんな
ことをしていていいのか?」
何も、言い返せなかった。
「君は君自身を守ったり癒したりするために、こんなところに閉じこもって誰かを傷つけるべきではない」
キリーさんは左手でレースのカーテンを外し、窓を開けた。
「来なさい」
「待ってください」
私は祥子さまを振り返る。
「祥子さまを置いていけません」
「でも彼女は…」
「私が、あの祥子さまを生み出してしまいました。それには、私に責任があります。
たとえ何といわれても、これをうやむやにすることは出来ません。それでは、どこかに辿りついても意味がないんです」
キリーさんは少し考えているようだった。
不意に部屋の扉が開き、私が入ってきた。
「あれは君の記憶だ。あれを置いていけば、現実で君は記憶を失う」
祥子さまと私は、楽しそうに話をしている。
「二人は、幸せになれますか?」
キリーさんは、存在しない薬指をじっと見た。
「分からない。二人次第だと思うよ」
「これで、良かったんでしょうか」
また、キリーさんは薬指をじっと見た。
「分からない。出来るのは、信じることだけだ」
出来るのは、信じることだけ。
信じること。
「もしも君が記憶を取り戻せるとしたら、それは君自身を見つけることの出来る人だけだ。いいのかい?」
「わかりません。でも、これ以外のやり方が思いつきません」
「仕方ないね」
といってから、キリーさんは私をしげしげと見て言った。
「いつか君の目の前に、君自身を見つけ出してつれて来てくれる人が現れたなら…二人はきっと君の中に戻って、本来の
姿を取り戻す。その時、馬はメリーゴーランドから解き放たれて平原に帰り、君はもっと強く美しい魂で歩き出すだろう」
私は窓をくぐった。
振り返らなかった。
全く、振り返らなかった
窓をくぐっていく私を見ながら、私は祥子さまと抱き合う。
「良かったの?祐巳」
「いいんです」
「そう」
私は部屋の電気を茶色にして、祥子さまと目を閉じた。
遠くで鳥の声が響いて、やがて消えていった。
もうすぐ、冬になろうとしていた。
了