中高年の茶錬事魂 茶家の歴史観

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   岐阜市米屋町24番地  tel.058-262-4313
   定休日/毎週月曜日 営業時間/am11:00~pm6:00

   揮毫:加藤唐九郎

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31 茶家の歴史観

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武者小路千家の家元・千 宗守氏の講話を聴く機会に恵まれました。
終始にこやかで、スピード感溢れる中に、千家の当主ならではのエピソードが詰まっていたのでなんちゃって茶人は興味津々の一時でした。
さて、千家の始まりは当然千利休です。
当時、日本の最先端貿易都市 堺の商人であり、鉄砲まで扱っていたことはボクたちも学校で習いました。
でも、鉄砲が当時どんな兵器だったのか、堺の経済力がどの程度だったのかは実感を得ていませんでした。
家元の言うとおり、現代ならば核兵器並みの最先端兵器だったんですよね。
織田信長の軍備はヨーロッパや朝鮮・明にも勝っていたくらいですから、堺にとって織田信長は重要なクライアントでありパートナーだったのです。
また、先進的な信長は自分の理念を理解させるため、配下の武将たちのコミュニティとして茶之湯を活用し、その指導者が田中宗易(千宗易)、これが茶之湯御政道のシステムだった。
その信長が本能寺で斃(たお)れ、豊臣秀吉が政治システムを引き継いだのです。
日本の天下統一までは利休(堺衆)と秀吉は蜜月が続いたのですが、信長の野望の継承者秀吉は海外進出に向かい始め、世界情勢を知る堺商人は乗り気にはなれなかった。
しかも、秀吉本人が歳をとり、堺商人たちは、次期政権は徳川家康だと察知していた。
現代ならマスコミが政権予想を放送するからシラケちゃいますけど、当時は堺の政商しかこんなこと考えなかったんでしょうね。
「太閤様、いつ辞めるんでか?」なんて訊けませんよ。
で、秀吉に忠実な石田光成は、堺衆の不穏さに気付き、その代表の利休と摩擦が激化したんです。
早くから家康と敵対していた光成は、利休に家康の毒殺を仕向けたが、利休はそれをしなかった。
覚悟していた家康を救ったんですね、権威に逆らって…。
結果、光成は堺衆全体と家康一派への恫喝(どうかつ)の意味で、太閤の名のもと、利休を自刃へと追い込んだ。
本来なら、ここで利休の家は断絶ですが、後に家康は再興させ、昔の恩を返した。
それは政治的配慮でもあり、家康の気配りだった。
秀吉の失敗を学んだ家康は、
茶之湯と政治を切り離し、セレモニー化して、千家以外にも大名茶を推進していったと言うことなんです。
 ところが、利休の孫、千宗旦は江戸へ行かず京都に残って侘び茶を続けた。
将軍家茶道指南役になれるのに…。
でもそれがまた三百年後、明治維新の波を潜り抜ける叡智になったんだそうです。
 NHKの「その時歴史は変わった」みたいでしょ。
歴史と言うのは普通、後から他者が、一定の視点で編集するものなので、今回の千家の主観的な歴史観は新鮮だったのです。
「利休百会記」や古文書が伝わる家元ならではの歴史考察を、さらっと笑いを交えて語られる武者小路千家当主。
表千家、裏千家の家元もきっと同じなんでしょうね。
歴史が他人事しゃない立場に生まれなくて良かったと思いつつも、武者小路千家茶道の末席に加わっていて良かったと思っています。