いろいろ 2006年7月20日



入院の荷物の中にキティさんがいる。

「エビフリャ、食べてみヤー」「また、きてちょ」など、このキティは名古屋弁を喋る。 これは、私が母が千葉に居る時に名古屋土産として買ったものだ。

年甲斐もないが、私は、ぬいぐるみが好き。私の取り巻きぬいぐるみがいる。
そして、キティにも心和む。

あちらこちらのサービスエリアには、ご当地キティさんがいる。
富山で私が買い求めたのは、薬売りの姿のだ。
子どもの頃には、玄関先を訪れて、薬箱の入れ替えそてい紙風船を置いて行ってくれたものだが、その紙風船も背負っている。

入院中は、イライラしない事。
治療に専念する事。
人工肛門のウンメイが如何にでも、それはそれなりに受け止める事。

こんなとこ・・・を頭に入れて、2回目の手術に行ってきます。


いろいろ 2006年7月19日



6月の14日から仕事を休んでいる私、そろそろ、家にいる方のリズムが強くなってきている。

今回の自宅から離れた所での入院は、最初から、顔を出してくれる人はいない覚悟ができているので、息子が来ないとか来るのが遅いとか気をもむ事はない。

そんな中で、携帯のメールは、言うまでもなく、力を発揮して、そのありがたみを改めて感じたわけ。
こちらは、暇なのでメールの文章も長くなる。
相手は、仕事をしているのにも関わらず、返事をくれる。
着信を伝える振動音があるとうれしくてたまらない。

休んでいても、昼休みの会話に参加できているくらいの勢いがあって、実際は、社会から遅れてしまっているのにも関わらず、その事を忘れてしまいそうな錯覚に陥る。

入院前には、80才の父にもメールを覚えてもらった。
意外に早く技を習得して、私が天気の話など送信すると、まるで、父が話をしているかのような、そのままの父の言葉で返ってくるようになった。

ここ数日、あまり体調が優れずに、今朝もストーマからの排便コントロールがうまくいかずにぐずぐずした気分でパソコンに向っていた。

そこに、一通のメールが届いた。
意外だったので、声が出た。

「社会復帰を待っています。頑張って」

手術のことも心配だけれど、それが成功したからといって、そこから先の仕事への復帰を気にしていた私には、心強いメールだった。

体調が悪く休みをいただいている時に、もし、復帰できなかった場合にと新しい事になど取り組むことができるわけがない。

まず自分の居た位置に戻ることだ。

来週の二回目の入院に対して、過剰な程心配している私。

それでも、何のために手術に臨んでいるのか、大分鈍くなって動かなくなってきている私のこの頭を、このメールは刺激した。

今、メールのある時代でなかったら、とっくに私は、参っているに違いない。


いろいろ 2006年7月17日



”待ち”の時間が、私にいろいろの事を想像させる。
よい事を想像出来ればよいが、そうはいかない。

大体、年齢相応の仕事が出来る様に、今回の再発の手術にも臨んでいるのに、それで休む事で仕事の方への復帰が不可能になってしまっては、何かおかしい。

臓器下垂に関する本に書かれていた様に、「寝たきりになれば、問題はなくなる。」のだから。

私は自分の疾患だから、それは真剣だけれど、ふと周囲の人はどう思うのだろうねと考えた、こんな疾患を。

私は、先日の手術の後すぐに、再再発した時のことを医師に尋ねた。 その時は、また治す事が可能なのですかと。
答えは、メッシュを使ったこの手術は、始まって時間が経過していないので、再発症例はみられていないそうだ。

こんな事を心配してもしきれるものではないのだけれど、私はこんな心配の種も抱えている。

それは、下血を引き起こしている、私の直腸からS状結腸までに起こっている腸炎は、萎縮性腸炎。
ストーマからの排泄によって、機能していない部分が残っていることによる。
私は、残存する腸の長さがどれほどあるのか、知りもしなかった。

それは、なんの意味もなく、それでなくとも狭いお腹の中に、どんな風にふらふらしているのか、今も想像もつかない。

萎縮を治すには使えばよい。
話としては、そうだ。
この次の手術では、ここをいったん使ってみる事になるはず。

直腸は、直腸重積になっているので、すぐにはつかうことができない。
次回の手術では重積を引き延ばし、固定し、使うのだそうだ。

腸の細胞が使っていない事で萎縮しているのなら、頭の方の排便に関する細胞も萎縮しているに違いない。

だから簡単に、ほら、肛門から排便してと言う事になっても、排便コントロールも、力の入れ具合も出来るはずがない。
それが私の心配の種だ。

だめだったら、また、ストーマに戻す事に当然なる。


いろいろ 2006年7月17日



先日の2週間の入院中、泌尿器科の医師は、毎朝毎晩病室を回診された。
三人揃って。

朝は、外来の開始前、夜は手術などが終わってからのことと想像するけれど、これに私は驚き、信頼感を増した。

どの病室にも数分間顔を出される事で、患者サイドとしては、どれ程安心する事だろう。

私など、遠い所での始めての医師であっても、2週間の間に顔を会わせる回数が増せば、それだけ、話をするタイミングなどもわかってくるようになるのだ。

この話、友人の何人かに私は「驚いた事にね・・」と話をした。
口を揃えて、「それは、素晴らしい」と言う。

来週の月曜日には、再び入院となる。いままで全く気にした事もない、富山の天気予報がきになるから不思議だ。


いろいろ 2006年7月14日



水族館のイルカのことを考えていた。
あの点の様な目に正直者さが感じられる。

実際、努力を積み重ねて、指導に従った芸を成せるまでになるのだから、正直者の努力家なのだろう。
それでもあの実直な様子をみていると、あまりの正直さに、知能はよいが頭がよいのかどうなのかわからなくなる。
ずる賢いという意味の頭のよいタイプのイルカはいるか・・・と考えてみたりもしていた。適当に芸を披露するタイプ。

イルカは芸の代償をして、魚をいただく。

昨日ブログに、病気休暇が長くなってしまっても、休職が最高3年まで可能だそうだから、時間はたっぷりあるし、万が一の時は、新しいスタートを切ればよいと言う様な事を書いた。

ところが、今日は、嫌な感じの周波数の刺激が襲ってきた。

単にこのところの体調の不調とは少し違い、ピリピリと嫌な所が刺激される感じ。
脳天の上を砂袋で小さく刺激され続けると、人間、気が狂ってしまうと言う話を聞いた事があるが、反復して伝わってくるピリピリに私は、確かに不快になった。

私は、実直属、心配性科、近視目に属する。

この種の特徴として、仕事では一般的イルカ同様に、受けた指示には最大限の努力をもって従う。 そして、もう一方の特徴として、適当さの欠如がある。

ずる賢いイルカの賢さの特徴はどうも持ち合わせていないようだ。

制度的には、病気理由の解雇は不可能だそうなので、こちらから辞めますと言い出す環境に追い込まれるのだろうという、当たり前の話は解っているが、この事が気になってピリピリとした刺激の反復が、暑さと共に不快感を増しているようだ。

イルカだって、芸によって得たご褒美でこそ、旨いと感じるのだろう。
体調悪いから、エサ食べてていいよ、エサは通常の量より多少減るよ、と言われてもエサは旨くないだろう。
旨くなくてもでも、エサも食べなければい生きていられないし。
芸の出来なくなったイルカがいたとしたら、どうするのだろう。
そんなイルカ・・いるかいるか・・・ドルフィン・・・ドルフィン・・・ドレビン警部補は、裸の銃を持つ男で笑わせてもらったっけ・・・暑い夜に考え事はどんどん続く。


いろいろ 2006年7月13日



昨日、避暑の為にとぼとぼしていた、大型スーパーの書店で目を引いたのは、「アリになったカメラマン」という本。

この本は、夏休みが始まろうとしている、こども達にむけて並べられた本の一角にありました。

ぱらぱらページを繰るうちに、ぐんぐん引き込まれ、はいっ、レジに進む。

今朝、この著者である、昆虫写真家「栗林慧」さんのページを覗かせていただくと、またまた、ため息、感激。
そして、いままで知らなかった無知さをもったいなく感じます。

私の好きな物をこれほど美しく撮っていらっしゃる。

こちらはギャラリー。特に”ギャラリー4”心にがんがん来た部分。

並ではない試行錯誤の結果があってこその作品ですが、私は完全に夢中。


いろいろ 2006年7月12日



昨年、調度今頃の時期に私の定点観測場となってきている、いつもの池で素晴らしいピンクの朝焼けを見ることができたことがあった。

それから、いつもそんな素晴らしい朝に期待しているのだけれど、あんなに素晴らしい朝はやってこなかった。
あれは、確か今頃の時期の事であった様にアルバムを振り返ってみたりしていた。
今年は特に黄砂の影響などあって、ぼやっとした朝ばかりだった様な気がするしね。

まだ、ここを定点観測地として2年と少し程だから、本当に一年に一回程の事なのか確かではないけれど。

雲、風、、温度、大気、太陽の昇る時間、大気中の埃などなど、それらの条件がすべて揃った時にしか、あの様な朝にはならないようだ。

手術が終わって7日目の朝、4時少し過ぎに目が覚めて、私の病室の窓は、東向きなので、顔を外に向けると、まだ暗い空には、これからピンクになる兆しが見られた。
IXYしか持っていないことが残念だが、たいそう急いで外に飛び出したのは言うまでもない。

太陽が昇ってくる前のわずか数分間の間しかあの色合いは、維持されない。
太陽が昇りかけてしまっては、オレンジの光線の方が強くなってしまって、ピンクは打ち消されてしまう。

一年ぶりのおよそ10分間程の空模様、ピンクの空をここでこの日に見るとはね。
手術の翌日で動くことができない日にこの空になっていたら、私きっと悔しい思いをした事だろう。


いろいろ 2006年7月1日



この記事は、時間がたっぷりあったことと、その他の理由もあって、幾度も繰り返し書き直ししました。

そして、お休みしていた、記事の始まりは、こんな風になりました。

最初に書いたのは、刺々しかったのですが、結局、まあるい形にできあがったと 私は思っています。

「語るなら、声低く語れ」

この様になることができた理由は、ベット上で傷の痛みを抱えつつ抱腹絶倒しながら読んだ、「虫屋の虫めがね」という本のお陰なのです。
この本が、術後の私の心の沈静化を計ってくれました。

6月2日の”いろいろ”に書いた様な段取りで、手術は開始されました。

私はHPで、人工肛門になった私の生活と、私が抱える骨盤内臓器下垂の問題と、それに関しての手術のことなどについて書いてきていたつもりでした。

ところが、車椅子で手術室に入室した時、まだ麻酔の中に入っていない私の頭の中は、ふわっと、真っ白気に。そして、しばらく真っ白でいた後、思考が回復してきて、今度は、今までしてきた手術とは、とは、とは、と、割り切れない気持ちが、麻酔より先に沸々と頭全体に広がってきました。

同年代の方で、同じ様な症状に悩む方からのアクセスや情報を期待してた時期もあり、私自身が、これがbestなのかという疑問は、胸の奥やら頭の隅っこに張り付いていました。
人工肛門となった事ではなく、臓器下垂に関しての思いです。

それでも、”直腸粘膜脱”が痔と間違えられなかった事をよしとし、”レクトシール”と診断していただいたことをよしとしと。
あの時点では、他に選択肢はなかったのだと、自分自信に納得させていたので、そんな思いが、一気に頭の方にすっ飛び出た状態だと分析します。

「”骨盤内臓器脱”に対しては、モグラたたきにならぬ様に一気に引き上げるのが妥当。」

これは、人工肛門となってから一年弱の頃に、次に起こりうるとされながら、何も対処していない膀胱の問題をなんとか回避したく思い、セカンドオピニオンとして、メールで相談にのって下さった医療機関の医師のアドバイスでした。

この言葉が、私の頭の中には、いつもありました。

頭は沸々していても、腰椎に針がさされ、次にマスクがかけられ、私は眠ってしまいました。
そして、またまた始めますの声を聞かずに、終わりましたよの声で目が覚めたと言うわけですが、目が覚めてもこの気持ちは続いていました。

「語るなら、声低く語れ」。。

独りぶつぶつ思うこの思いを、友人にメールしました。
すると、彼女からのアドバイス。
もし今回のオペで、ある程度納得のゆく結果が得られるとしたら、それは、過去の、無駄だったかもしれないというオペがあって、行き着いた結果とも言えるし、遠回りしている間に「医療技術・構想の発展があった」といえるかもよ。と。

実際私も、そうも感じないわけではないのです。

私が求めていた、”骨盤底再建外来”、随分遠回りをしましたが、やっとたどり着きました。開設されたばかりのここを受診させていただいたのですから、本当に友人の言う通りかもしれません。

月毎のいろいろ

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