第三回 文化の薫り高い出雲弁


 今回は「宮中で使われていた言葉」「仏教で使われている言葉」「日本や中国の故事にちなんだ言葉」「古典文学などに出てくる古い言葉」についてお話をします。

・ 宮中で使われていた言葉

 「すいくゎをはやす」とか「だいこちけをはやす」など、出雲弁では野菜などを切ることを「はやす」と言います。

 この「はやす」という言葉は鎌倉時代に書かれた保元物語に載っています。

約840年前、第75代天皇の崇徳院が宮中の政争に敗れ、「生きながら天狗の姿になり死後たたってやる」と言って「御爪をもはやさず、御髪をもそらせ給はで御姿をやつし」と書かれています。

「切る」というのは縁起の悪い言葉なので、宮中では反対の「生やす(はやす)」という言葉を使っていたそうです。

したがって「爪も切らず、髪もそらせないで御姿はやつれて」という意味になります。

 室町時代初期に宮中の女官たちが衣食住に関するものに接尾語「〜もじ」をつけた「もじ言葉」というのがあります。

「すし」と「もじ」を合わせて「すもじ」となります。

“散らし寿司”のことで出雲地方のほかに京都、大阪、奈良、四国地方などでも使われています。

「髪の毛」のような平田市十六島の「かもじのり」は小学館の日本方言大辞典
にも載っています。

・ 仏教で使われている言葉

 「こなの、いーこた、へんじょこんごで、あざわかーさん」。

「あいつの言うことは訳の分からない長話で内容がつかめない」という意味です。

  お遍路さんが四国八十八カ所の札所を巡わるときに「南無大師遍照金剛(なむだいしへんじょうこんごう)」と唱えるそうです。

奈良時代末期、空海が唐の国へ留学した時にインド密教の恵果和尚からもらった称号が「遍照金剛(へんじょうこんごう)」です。

空海は真言宗の開祖で没後弘法大師の称号ももらっており、「南無大師遍照金剛」は「あゝ弘法大師様」という意味になるそうですが、なぜ出雲弁の中に「訳が分からない長話」とか「言い訳」の意味として残っているのか定かでは有りません。


・ 日本や中国の故事にちなんだ言葉

 「おちんこ(うちの子)は、えしゃ(医者)に、ちぇて(連れて)いくと、おおはいごんして、えけんわ」などと、騒ぐことを「はいごん」、大騒ぎするのを「おおはいごん」と言います。

昔は「軍が負ける」ことを「敗軍(はいぐん)する」と言ったそうです。

語源についてはいくつかの説がありますが、きょうは平家物語のお話をします。

 「平氏にあらずんば人にあらず」と言われた平家を倒すために源頼朝を総大将に源氏が立ち上がります。

平家はそれを鎮めるために鎌倉を目指して進軍。

両軍は富士川(静岡県)を挟んで陣を敷きます。

明日は決戦という夜、富士川に群がる水鳥が一時にパッと飛び立ちます。

水面にこだまする羽音に驚いた平家軍は源氏軍の夜襲と勘違いし大騒ぎして我先に逃げます。

平家物語天草本には「トリノ ハヲトニ ヲドロイテ ハイグンシテ メンボクヲ ウシナイ」と書いてあります。

このほかに、太閤秀吉の朝鮮出兵で敗軍し大騒ぎして帰ったという説もあります。


 平清盛が亡くなると源氏の動きがますます活発になります。

平家は源頼朝の従兄弟木曾義仲を討つために再度出陣しますが、木曾義仲の“倶梨伽羅(くりから)落とし”に遭って、またも負けてしまいます。

みんなが逃げ散る中で平家の武者斉藤実盛は、ただ一騎、義仲軍に立ちはだかりますが手塚太郎光盛に討たれてしまいます。

勇猛果敢な斉藤実盛は能楽の世阿弥作「実盛」としても有名です。

 この実盛にちなんだと思われるのが、田んぼにいるウンカをいう「さねもんさん」。

平田市立檜山公民館発行の「ひ山の里」によると「さねもり送り」は虫送りの行事として明治初年まで行われ、わらで作った実盛人形を先頭に、鉦(かね)、太鼓、各人の鍬(すき)を叩き、松明(たいまつ)をかがし、「チンカラ、チンカラ、エッカンカン。」と川下の方へ練り歩いて流したと書かれています。

これは言い伝えなのですが、実盛は稲につまずいて討たれたので悔しくてウンカになったそうです。

このことから「さねもり送り」の行事が行われるようになったといわれています。

こうした行事は石見、四国の一部では今でも伝統行事として残っており、ウンカを「さねもんさん」「さねもりむし」と呼ぶのは出雲地方以外にもあります。


 出雲弁では「古くさいこと」を「あまこじだい」と言います。

お爺が「ババ、えまんごの、わけもん(若者)は、キリストさんの前で、祝言すーけん、こうじにんさんは、えらんてて、言っちょーが、どげ、思ーかや」と言うと、婆が「おまえさん。何、言っちょらっしゃら。そぎゃん“あまこじだい”みたいなこと、言ったてて、わけもんらちに、笑わいますじね。えまごら(今ごろは)、こうじにんさんなんか、たてらんもんが、多いげなじね」と言うように使います。

  尼子さんというのは、ご承知のように、戦国時代、能義郡広瀬町の月山富田城に本拠地を持っていた大名です。

尼子経久の代に出雲のほか隠岐・伯耆・因幡を合せて尼子氏は強大な勢力でしたが1566年義久の代に毛利氏に攻められ月山富田城が落城します。領主が尼子氏から毛利氏に移り秩序や習慣などが変わった出雲人は「古くさいこと」を「あまこじだい」と言うようになったと思われます。


 スモモのことを島根や鳥取の一部では「とうぼうさく」と言います。

中国は前漢の時代(2000年前)にとっぴな言動をして武帝から愛された東方朔(とうぼうさく)という人がいたそうです。

この人物には後の世に、中国に古くから信仰されていた女仙西王母の植えた不老長寿の桃の実を盗んで食べ、8000年の寿命を得たという逸話が残されています。

日本でも室町時代に不老長寿の桃を主題に「東方朔」という謡曲が書かれてます。

東方朔という中国古代の人物にちなんで、スモモが「とうぼうさく」と名付けられたかもしれません。


・ 古典文学などに出てくる古い言葉

 日蓮上人と女性信徒との問答集に法華題目抄があります。

この中に「火といえども手に取らなければやけどをしない。

水といえども飲まなければのどの渇きが止まらない。

ただ『南無妙法蓮華経』と題目ばかり唱えていても何にもならいじゃないか」という質問に、日蓮上人が「梅干しの名前ををきけば口に“つ”がたまるだろう。

世間の不思議是くの如し」と答えています。

今から800年前の鎌倉時代にも「つば」を「つ」と言っていたようです。

出雲弁では「よだれを垂れる」ことを「ーたれー」と言いますが、この「つ」が「ち」と変化したものと思われます。


 NHKの大河ドラマで北条時宗を演じた和泉元彌は泉流狂言の宗家です。

同じ泉流野村派の野村万之介、野村萬斎が演じる「泣尼(なきあま)」という狂言があります。

新米のお坊さんが法事の説法を頼まれますが自信がない。

そこで、涙もろい尼さんを雇って泣かせればありがたい説法のように聞こえると名案を思いつきます。

しかし、尼さんは泣くどころか居眠りをしてしまいます。

説法が終わり、目が覚めた尼さんは分け前を要求しますが、お坊さんは「ほえるときに、ほえないで、酒のときに、ほえたといっても」と言って怒ります。

出雲弁でも「奈緒美が、おんおん、いって、ほえちょーが(泣いているが)、どげぞしたかや」「おまえは、あんちゃんだらがや(お兄さんだろう)。

奈緒美を、あげん、ほやかすだねが」と泣くことを「ほえる」と言います。


 このように宮中で、仏教で使われている言葉、日本や中国の故事にちなんだ言葉、古典文学にも出てくる言葉が出雲弁にはたくさん残っています。

私たちの使っている出雲弁は文化の薫り高いすばらしい方言です。

誇りを持って使いたいものです。

2003年8月23日に宍道・出雲弁保存会園遊会で講演した内容を
山陰中央新報生活応援情報誌「りびえ〜る」の協力を得て
要約したものです(奥野栄)

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