プロレスにはドラマがある

殴る、蹴るだけの喧嘩じゃない! 
そこには様々な人間模様があるのだ・・・

■三沢と川田

この2人ほど因縁の深いレスラーはいない。
足利工業大学付属高校レスリング部時代からの先輩と後輩だった。
三沢が全日本の門をたたいた一年後、後を追うように川田も全日本に入門した。
三沢の練習の相手はいつも川田だった。余計な一言が多い川田は
いつも三沢イライラさせ、時には階段から三沢が川田を突き落すというおちゃめ?なエピソードもある。

三沢がタイガーマスク2代目となり、川田は冬木とフットルースというタッグを結成した。
三沢はタイガーマスクとなりヒーローとなったのだがいまひとつ伸び悩んでいた。

「マスクをかぶっていては上へは上がれない」

三沢はマスクを脱ぐ決心をした。試合中にマスクを脱いだ。
その時、紐解いたのはパートナーの川田だった。
三沢、川田、小橋、菊池による超世代軍を結成し
鶴田、田上、渕、小川らと連日のように戦い、観客を沸かせ
プロレス黄金期と呼ばれるほどの人気となった。
しかし、鶴田が内臓疾患による戦線離脱で
鶴田の牙城を崩すべく必死に戦ってきた超世代軍の目標が無くなってしまう。

ここで川田利明が超世代軍を抜け、新しい戦いを求め田上との共闘を選択した。
いままで一緒に戦ってきた超世代軍のメンバーと試合をするのだが、三沢の怒りっぷりが凄まじかった。
なかでも強烈な記憶として残っているのが、三沢 秋山 vs 川田 渕の試合。
             
三沢、川田のエルボー合戦があるのだが
本気で怒り狂っているのだ。
動きがいつもの2倍速かった気がする。
そして三沢の川田へのフェイスロック!

こんなに顔面が曲がるフェイスロックは
今でも見たことがない・・・。
記憶が美化されちゃっているのだろうか?
当時、中学生だった自分はなぜ仲間だった者同士が
こんなに憎しみあっているのか分からず、切なかった。

常に三沢の背中を追い続けていたように見えていた。
三沢に三冠戦に幾度も挑戦してきたがいずれも負けている。
そして遂に1998年、東京ドームでの三冠戦で初勝利を果たす!
勝利の瞬間、川田は両腕を上げていた。1992年の初挑戦から6年、遂に三冠戦での三沢越えを果たしたのである。

感動の三沢越えというストーリーだったのに、次のシリーズの三冠戦で
小橋に負けたのは残念というより、なぜ?という気持ちだった。

そして2000年、川田、渕を除く全レスラーの大量離脱により
川田が常に追い続けていた三沢は、去っていった。
残された二人は、常に全力ファイト、痛みの伝わるプロレスを表現し、全日本プロレスという団体を支えていた。
時には川田の延髄蹴りで相手を病院送りにしてしまったこともあった。

そこまでしなければ団体の存続が危ういと思っていたのだろうか。

新日本プロレスとの対抗戦、天龍源一郎、武藤敬司の入団、苦しかったけどもなんとか持ちこたえてきた。
三沢たちも徐々に経営が上向きになりメジャー団体となっていった。
2005年、三沢たちの団体、ノアの東京ドーム大会のメインに三沢は川田とのシングルマッチを組んだ。
もう無いと思われた夢のカードの実現となったのだ。

これが最後の三沢 vs 川田。
ひとつひとつの技が、もう二度と交わらないと思うと感慨深かった。
今回もやはり川田は三沢に勝てなかった。

「三沢光晴はいつまでもオレの1つ上の先輩の力を持ち続けていてください」

川田が最後にこんなマイクアピールをした。
最後の最後まで三沢と川田は先輩と後輩の関係だった。
おそらく二人はもう同じリングに立つことはないだろう。
三沢、川田の生き様を1992年の三冠戦から見続けて14年。
自分の中での三沢 vs 川田はこれで終止符が打たれた。

いままで激しい試合でファンを楽しませてくれてありがとう!

 

 

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